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第4章 動かない少年と増殖する謎


早起きが得意になったところで、

朝早く起きる理由にはならない。



気持ちよく寝たい。

それだけだ。他に何かを望んでいるわけじゃない。

たったそれだけの願いさえ叶わぬほど、世知辛い世の中だっただろうか。

高校生が自身の夏休みの間に願うこと自体が不憫でならない、とても普遍な、かわいい、あえかな願い事じゃないか。

「むぅー……」

この上なく不機嫌な上に、次から次へと苛立ちが募るようなことが舞い降りてくるのだから、七海が聖人君子でない以上、ため息をつき、舌を鳴らし、ふて腐れるしかない。それぐらい許してもらわなければ、高校生なんてやってられない。

とはいえ怒りの矛先はこんな面倒な事件を起こした犯人へ、というよりかは、事件を未然に防ぐこともできなければ、起きた事件も解決できない無能な警察に対してだった。

相も変わらず、香織の料理が手抜きであることも、何となく、寂しいというか、腹立たしいというか。

「何だってんだ、このやろう!」

せわしく、けたたましく、みんみんと鳴き散らす蝉に対して七海は声を張り上げた。

寝汗を拭いながら、眼鏡を取り、ベッド脇にある時計を見た。AMが目に飛び込んできた時点で数字を読み取ることは諦め、代わりに舌を鳴らす。

「くっそ……」短く息を吐き、パジャマを脱ぎ捨てた。

夏なんか大っ嫌いだ。

朝食にアイスでも食べようと、リビングに降りていく途中の玄関先で、見慣れない靴が目に入った。女性もの。高級ブランドのものだ。香織のものではない。

嫌な感じだ。すごくめんどくさいことになるような、そんな感じが漂う。

その赤い靴を見て、ため息が出る。

来客者のものであるが、七海は寝ていた。つまり、香織が独断で家に上げたということになる。そうなると、ある程度誰だか見えてくる。

自分を起こした耳障りな蝉と、寝苦しく暑苦しい太陽に、これほど嫌悪したことはない。その馬鹿な両者に空気を読めと言う方が無理なのか。

今さら二度寝できるとも思えないが、だけどそれでも……。

逡巡しているうちに、リビングから香織が顔を覗かせた。

「おう、おはよ。今起こしに行こうと思ってたところよ」

「結局かよ」障害は太陽や蝉だけではなかったようだ。

「ん?」

リビングに移動すると、ソファにスーツを着た遊井川千代が綺麗な姿勢で座っていた。

嫌な予感ほどよく当たるのは気のせいだろうか。少なくとも嫌な予感が当たることの方が強く印象に残ることはたしかだ。

どうでもいい思考は捨てて、七海は遊井川の向かいのソファに腰を下ろした。

「こんにちは」遊井川が微笑む。

「回覧板か、何かですか?」

「いいえ。回覧板は逆回りよ。残念だけど、今日は事件のことで伺ったの」

「悪いことをした覚えはないですけど」七海は首を傾げる。

「別に七海ちゃんを逮捕しに来たわけじゃないわよ。笹岡美智子が殺害されたことについて話を聞かせてもらえるかしら?」

「困ったことになってるみたいなのよ」香織がコーヒーを飲みながら、目線でテレビを示した。

七海はテレビを見る。大型の液晶ディスプレイには何も映し出されていないが、右隅に外部出力とだけ表示されていた。

「ビデオ?」

「そう」遊井川は頷いてリモコンを操作する。「香織ちゃんには見せたところなんだけどね」

画面に映像が映し出される。どこかの入り口みたいだ。ガラスの自動ドア。位置的に防犯カメラか何かだろうか。画面下に表示されている数字は撮影時刻だろう、秒単位まである。日付は、事件のあった日だ。

「事件当日の、笹岡美智子が住むマンションの防犯カメラの映像よ。被害者である笹岡美智子は午前九時ごろに外出しているの」遊井川はリモコンを使って一時停止させた。「これ、誰だかわかる?」

画面に映し出されたのは、白いシャツに黒の細いパンツを着た女性だった。少し深めに帽子を被っていて、口元には大きなほくろがある。

話の流れを考えれば、この人物が笹岡美智子なのだろう。笹岡美智子を知らなくてもそれくらいのことはわかる。だが、それでは意味がない。

「七海ちゃん?」遊井川は七海を見る。

七海は肩を竦めて、首を振った。

中学時代の笹岡も満足に思い出せない。あれから数年経っていれば知っている人間かどうかも判別のしようがない。特に、この時期の女性はまるで変わる。

それに、七海が見たのは死体だ。あれと比較したところで、今画面に映っている人物とは重ならない。

「これが笹岡美智子。帽子を深く被っているけど、関係者の服装の証言からもこの人物が笹岡美智子であることは断定できるわ。このあと、彼女は直前の合同リハーサルに参加している。この映像はそのときの行きね」

再び遊井川がリモコンで早送りをする。画面下の数字が昼ごろに近づくと、人の出入りが激しくなった。買い出しや昼ごはんでも食べに行ったり、また、その帰りだろう。

しばらく出入りが緩やかになったころ、一時停止をした。笹岡美智子が帰ってきた。画面上の数字では、午後三時半。今度は大きなケースを持っている。かなり大きなものだ。笹岡が極端に小さくない限り、ギターではないだろう。

「コントラバス。笹岡美智子の担当の楽器ね。七海ちゃん、聞いてない?」

「さあ、どうだっけ?」

「聞いてたとしても、あんたの記憶力じゃ忘れてるでしょうね」呆れながら香織が毒づいた。

「このあとすぐに、再び出かけるのよ」そう言って、遊井川はテープ進める。

三十分後の午後四時、笹岡がマンションを出て行った。服装は先ほどと何も変わらない。大きな楽器も持っていた。

その後は単調な映像が繰り返し流れるだけで、人の出入りも時間に連れて少なくなってきている。

少し眠くなってきた。もともと、無理矢理起こされた格好だ。睡眠としては不充分であるし、つまらない映像も、拍車を掛けている。睡魔もちらほら強襲の構えを見せてきた。

「ちょっと、起きなさいよ」香織に肘で突かれる。

しかし、テープの映像にはほとんど変化が見られない。やがて七海達がマンション内に入っていった。その前後の人の出入りは穏やかなものだった。そして警官が到着、そこで遊井川はビデオを止めた。

ん、あれ?

遊井川が七海を見据え、静かに、冷静に言う。

「そう、見ての通りよ。笹岡美智子は、外出したまま帰っていないの。正確には帰宅時の映像がないのよ」

「着替えたりとかは……」

「口元のほくろ」遊井川は自分の口元を指差した。「服が違ってもほくろで確認ができるから、着替えて中に入ったという可能性もない。それに住民への聞き込みの際に、このテープに映っていた衣服の確認も部下にさせてあるの」

「他の出入り口は?」

「裏口が一つだけ。だけどそれは錆びていて、長年使われていなかったそうよ。鑑識課も最近使われた痕跡はないと言ってるわ」

笹岡美智子は午後四時に外出をした以降、帰ってきていない?

だけど、彼女は部屋で……。

「本当に裏口は使われてなかったんですか?」香織が尋ねる。

「ええ。それに裏口も常に施錠されているみたいだから無理でしょうね」

「ロープで登ったとかは?」

「その可能性もない。犯人ならまだしも、笹岡美智子は鍵を持っているわけだから素直に正面から入ればいいでしょう?」

「ああ、なるほど。被害者本人が帰ってきてないわけだから、たとえ透明人間が犯人でも無理になるのか」香織は納得したように頷いた。

「笹岡が透明人間だったら矛盾はなくなる」言って、自分のくだらなさに苦笑した。

「でも、じゃあ、どうやって……?」

「わからないわ。だから、あなた達の意見が聞きたくてね」

七海は欠伸をした。ソファにもたれながら、神域の強さを誇示し続ける睡魔と戦う。

「七海ちゃんは何か意見ある?」

「……ふぇ?」

「よだれ、よだれ」

香織から渡されたティッシュを受け取り、垂れかけていたよだれを拭く。

いけない、いけない。もう少しで寝るところだった。あれ? どうして眠気を我慢する必要があるんだ? ここは七海の家である。七海の意思で寝てもいいはずではあるが……。

「七海ちゃんの意見は?」遊井川がじっと七海を見つめる。

「うーん、やっぱり、カステラの下のざらめはいらないですよ?」

「なーにを寝ぼけてんだ、この馬鹿」

香織に頬をつねられる。

「にゃあ」

「あ、つまりね、この笹岡美智子の帰宅時の映像がないということは矛盾しているのよ。彼女がマンションの自宅で亡くなっていたのを見つけたのは七海ちゃんでしょう?」

「ん、ええ、まあ」

「本来ならばこんなことはありえない。その点について、何か意見があれば教えてくれないかしら」

「意見はないです」七海は首を振る。

「じゃあ、何かアイディアは?」

「……いくつか」

「言ってみて」

「テープの映像が偽物。笹岡美智子には一卵性多生児がいる。笹岡美智子はクレイジークライマーだった。はしご車を所有している。たまたまキリンがマンション近くを通りかかった。挙げ出したらキリがないですね」

「…………」

二人からの視線が痛い。どう考えても尊敬の眼差しとは違うものだろう。軽蔑とか、そっちのベクトルのものだ。

「なるほど。内容はどうであれ、その瞬発力はさすがね」

遊井川は微笑みながら頷いた。

「まず、映像は本物よ。それに笹岡美智子には姉妹はいないわ。マンションの裏は芝生帯になっていて、はしご車などが走ったりすれば跡が残るはずだけど、そんなものもなく、またそういった目撃情報もないわね。同じような理由でキリンも消せる。さらに、笹岡美智子にマンションを登るほどの筋力はなかった」

「でしょうね」

七海は口を曲げ、重い目元を押さえた。

「死亡推定時刻は午後三時半から四時半までの一時間で、三十分程度の誤差はあるかもしれない。誤差を含めると午後三時から五時までになるのだけど、カメラの映像から、午後四時から五時までに絞れるわね。死因は青酸化合物によるショック死。なお、コップ、ジュースの容器の両方からそれらが検出されている」

眠くなってきた七海に追い討ちを掛けるように、遊井川が事件についてわかっていることを詳細に話してくれる。公務員の守秘義務はどこにいったのか、という言葉もどこへその。そのあとも現在知り得ているすべての情報を遊井川は事細かに話してくれた。

どうしてそんな詳細なことまで話すのだろう?

事件に協力的で、そのくせ警察を小馬鹿にしたような態度を取り、引っ張るだけ引っ張っておいて、なぜか関係者を全員集めた前で勝手な推論を話すような、そんな名探偵がこの場所にいるのならまだしも、くだらないこの現実世界を生きるイマドキの若者を捕まえて捜査状況を話したところで、果たして事件解決に身を乗り出すような勇者がいるのかどうかは疑問だし、少なくともそんなことをする暇があるのなら税金分は働け、となぜかいつも上から目線の一般市民になり代わって欠伸を噛み締める七海。

どうでもいい。

笹岡美智子が外出したまま、帰宅時の映像がないのにもかかわらず、実際には自宅で殺害されていたという、いわゆる謎だと叫ばれているものも、なぜたい焼きは鯛なのだろうかという謎と等価値だし、普通の高校生である七海にとってはどうでもいいものだ。

「ちょっと、聞いてるの? あんた、同級生が殺されたんでしょ?」香織が呆れた様子で七海を見つめる。「ったく」

「いい迷惑だよな」七海は口の端を上げ、肩を竦める。

「被害者は、交友関係はそれほど広いものでもなかったそうよ。怨まれるような子でもなかった。評判は上々で、特に性格が良かったと証言する人間は同級生なども含め、少なくない。彼女を殺して得をする人間がいるとは思えない、といのが警察の見解ね。ただ、薬殺であることから、衝動的な殺人ではないということを説明できる」

遊井川が静かに話す。これまでに得た情報内で彼女がまとめた推論なのだろう。

「では、自殺はどうか。これも、現場の状況からおそらくありえないでしょう。全裸、トランプのカード、そういった状況が自殺ではおかしい。これらは明らかに犯人が演出したものだと思うの。犯人が意図的に、ね」

「捜査を混乱させることが目的なのかしら」香織が頬杖をした状態で小さく言った。

「どうかしらね。素直に考えるならば、混乱が目的なのでしょうけど。ただ、混乱させることが目的だとした場合、証拠を残すリスクを冒している。リスクとリターンが見合わないようなところが気にはなっているの」

「何か他の目的があると?」

「わからない」香織が尋ねると遊井川は首を振った。

どうして自分の周りにはまじめな人間ばかりが集まるんだろうか。石部金吉とはよく言ったものだ。実際のところ、七海だってまじめな女の子の方が好きだ。しかし、だからといって、誰が好き好んで殺人事件に首を突っ込むのだろうか。

「指紋とかは検出されなかったんですか?」

「特にはないわね」

「ということは、犯人は予め手袋か何かをしていた可能性があると?」

「ええ、何らかの形で指紋が残らないようにしていたと思うわ。それもこれが計画的な犯行である可能性を示唆しているファクターの一つね」

このとんでもなく暑い時期に手袋を? 頭がどうかしている。

部屋の端で気持ちよさそうに眠っているリップが羨ましい。犬になりたい。

「犯人はともかく、被害者が帰宅していないわけだから矛盾していますね。どうすれば防犯カメラに映らずに中に入れるのか」香織がコーヒーカップを口につけて首を傾げた。

「裏口は使われてなかった。正面の防犯カメラには映っていなかった。だけど出入り口はこの二つだけ。となれば、ロープでよじ登るぐらいしか無理だけど……」

遊井川はテープの映像を繰り返し見ながらため息をつく。

「被害者を外で殺害したあと、何らかの理由でカメラに映りたくなかったため、予め吊るしておいたロープでマンション内に侵入する。それから被害者の服を脱がせ、トランプのカードを握らせて、ロープなどの証拠も回収してから、玄関から堂々と出て行った。もし、こうならば犯人はマンションの住民になる」

「でも、その仮説もおかしいですよ。ロープを用意できるのなら、中に入れるってことでしょう。中に入れるのに、わざわざロープを使う理由なんてあるかしら。そこまでしてカメラに映りたくない理由があるのなら、何もわざわざマンションに運ぶ必要もないように思えるけど……。それに、人を背負った状態で、ロープを使ってよじ登るだなんて不可能ですよ。しかも白昼堂々となんて」

香織の意見に、遊井川も頷く。

しばらく沈黙が続き、断片的に意識が飛び始めたとき、遊井川が静かに口を開き、そしてテープを再度回した。

「もう一つあるの」

「もう一つ……?」香織が首を傾げる。

遊井川はリモコンを操り、今度は違う場面で停止させた。見たことのない人物が映っている。

女、だろうか?

非常に酷い容姿だ。眉毛はないし、髪はぼさぼさ、服装は汚い紺のスウェット。浮浪者の方がまだ身なりに気を使っているだろう。家での格好ならば譲歩のしようもあるが、この姿で外に出歩ける神経を考えると、この人間の価値が知れる。

「彼女は福田康子。二人目の被害者よ」

「……二人目」

連続殺人か。まあ、そうだろうな。

「福田康子の場合、事件当日の午後三時半以降、映っていないみたいなのよ」

「映っていないって……」

「午前五時二十分に仕事場から帰宅。そして六時ごろに派手な服から部屋着に着替えて外出。午後三時半に帰宅して以降、映ってないわ」

遊井川はリモコンでテープを進めながら、午後三時三十四分のところで止めた。福田康子の後ろ姿が映っている。どこからか帰ってきたのだろう。しかし、それ以降は遊井川が言ったように同じ人物は映らなかった。

「家にいるんじゃないですか?」香織が言う。「さっきは外出のときでしたけど、この場合は……」

「部下が調べたけど、マンション内にはいなかったわ。部屋ももぬけの殻で、どこにも福田は見当たらなかったの」

「逆、か」香織は画面に映っている福田康子を見ながら、脚を組み直した。「二人目の被害者ということですけど」

「発見者は私の部下で、現場はマンション近くのプレハブの中よ」

そのあと、死因や発見当時の状況などを捜査資料らしきものを添えて、こと細かく説明してくれた。笹岡同様、全裸にトランプのジョーカーという状況だったそうだ。違うのは死因で、福田康子の場合は後頭部への殴打の痕が見られる。

「発見時、プレハブの倉庫には鍵が掛けられていたの。これよ」

遊井川が二枚目の写真を指差したので、そちらに目をやる。

壊れた南京錠が写っていた。石か何かで叩きつけたのだろうか。壊れている以外には、どこにでもある南京錠のように見えた。

「見ての通り、普通の南京錠。ただ、倉庫の持ち主が以前から倉庫の戸には鍵を掛けてあったと証言したことから、犯人は犯行前に鍵を開け、そして犯行後に鍵を掛けたということになるわ」

「それが何か?」七海は欠伸を噛む。

「おかしいとは思わない? 以前から南京錠が掛けられていたのだとしたら、犯人はどうやってそれを開けたのかしら」遊井川は七海を見る。

「鍵を使ったんでしょ」

「しかし、それでは倉庫の持ち主が犯人になるわ」

「じゃ、倉庫の持ち主が犯人でしょ。持ち主が犯人ではないという明確な証拠でも?」

「い、いえ、そういうわけではないけれど……」遊井川は困惑した表情を浮かべる。「でも、もしも倉庫の持ち主が犯人なら鍵は掛けないでしょう。鍵を掛けることで自分の首を絞めることになるのだから。普通は、疑われないように……」

「この事件の犯人がどうして普通だと?」

「あ、えっと、いえ……」

「こら、七海」香織が七海の頬をつねる。そして遊井川に向き直って頭を下げた。「すみません、千代さん。ちょっと、こいつ寝ぼけているようで」

「ううん、七海ちゃんの言う通り。ありがとう、参考になったわ。いろんな可能性も考慮しないといけないわね」遊井川はにっこりと微笑む。「あなたに話してよかったわ」

「ほうふぇふか」

「でも、どうして警察は事件の詳細を?」

香織の問いに、遊井川は微笑を返す。

「私の知り合いに、警察に協力してくれるような名探偵はいないけど」

そこで七海を見て微笑む。

「無気力で無関心な、でも、それでも圧倒的過ぎる、絶対的な能力を持った天才を知っているから。その天才がその気になれば……、と思ってね」

「……俺は息子ですよ」

七海は欠伸を噛んでソファにもたれた。



遊井川千代が仕事に駆り出されて帰っていった後、入れ替わるようにしてバニラが家へとやってきた。七海の家に平然といる香織に対して、多少気を遣ってきたのか、甘い匂いを漂わせる小さな白い箱を持参していた。

「珍しいな、お前が手みやげなんて」玄関先で、バニラからケーキを受け取る。

「美しい早苗さんと香織先生の分だ。お前のはない」

「残念。早苗ちゃんはお留守なんだよ」白桃のタルトを確認して、舌を出す。

「ちぇ、なんだ」

「つーか、人の母親狙うな」

「未だに信じられねえけどな、あんな美人が母親だなんて。最初、姉弟だと思ってたくらいだからなぁ」バニラはため息をつき、肩を落とした。

「あっそ。それはいいけど、何しに来たんだよ?」

「警察から話は聞いたか?」

「ちょうど今な。ほんの数分前に」

「俺も遊井川から話を聞いたんだけど、どうにも変な話だったからさ。美しい早苗さんの笑顔が見れたらいいなぁ、と思いつつ、お前にも意見が聞きたくて」

「何で俺の意見を聞きたくなるんだよ。ケーキは歓迎だけど、厄介は勘弁だ」

「もうすぐ遊井川も来るけど、携帯に連絡行ってないか?」

「……知らん」

「何のための携帯だよ」バニラは呆れた表情を見せる。

「じゃあ言うけどな、アポも取れてないのに突撃訪問してくるってどうよ?」

「だからケーキ買ってきたんだよ」

「むぅ……。優等生だな」

「よく言われる」バニラは微笑んだ。

仕方なく、バニラをリビングへ通して、七海はコーヒーを淹れる準備をした。

優等生、か。

七海はシニカルに口の端を上げ、まったくそのままの優等生ぶりに、感心とともに辟易してしまう。

確かに優秀だ。バニラのことではない。遊井川刑事のその手腕だ。自分の娘が巻き込まれた事件とは言え、使える駒は何でも使う、か。まったく、マジで。

紗季の性格を考えれば、友人が被害にあった事件だ、じっとしているわけがない。本来ならば、そんな娘を案じて無闇に情報は与えないものだが……。

「いい迷惑だ、ったく」遊井川刑事の言葉を思い出して、苦笑する。

コーヒーができるころには紗季も到着し、狙い澄ましたかのように、事件についてあれこれと考察することになった。

今さらあれだが、心底、早苗についていけばよかったと思う七海だった。

「謎が多過ぎるわね」

「裸だったこと、ジョーカーを握っていたこと、防犯カメラに映ってなかったこと」バニラが香織を追って静かに言う。

「トランプのカードのジョーカーを残す意味はあるのかしら。可能性は低いけど、そのトランプの買った店を割り出されて手掛かりになることだって考えられなくもない。残すより、残さない方が犯人にとって有利であることは誰の目にも明らかなことなのに」

「毒殺も考えてみると怪しいですよね。毒殺にしたことで、犯人は被害者と親しい間柄ということが容易に推測することができるし。たしかに毒物を使えば、被害者ともみ合いになる可能性は低いし、争ったときに証拠となるようなものを現場に残すという恐れもなくなるけど……」

「そうね、たとえば金品を盗むなどをすれば、物盗りの犯行と見せかけることができるかもしれない。ただの毒殺では親しい者の犯行だと、警察に容疑者を絞り込ませる手助けをしているようなものだもの」

「もしかして、逆でしょうか」紗季が思いついたように言う。

「そう思い込ませることが目的ということ?」

「はい。例えばトランプのカードは犯人に仕立て上げたい人物の持ち物で、その人物の犯行だと見せるために、カードを残したり、毒殺という方法を取ったのだとしたら」

「それならば一応の説明はつくけれど。……ううん、笹岡美智子の場合はそれでいいかもしれないけど、もう一人の被害者である福田康子は後頭部への殴打が死因でしょ」

「ああ、そうか」

「それに、そうした心理的説明がついても犯行方法がわからなければ意味がない」

「犯行方法……。どうやって笹岡は防犯カメラに映らずに中に入り、福田は外に出たんだろう?」バニラは口元に手をやって、悩む。

「現代の技術で、光学迷彩は可能かしら? カメラに映らないためにはどんな技術が必要だろう。うーん、やっぱ不可能だよなぁ」香織も唸る。

「…………」

寝るに寝れない。最悪の目覚め、最悪の寝起き、今夜は寝付きも悪そうだ。

「光は普通、物体に当たって反射したり散乱したりするから、人間は物体を見ることができる。てことは、反射を起こさなければ物体は透明に見えるわけだから、そうした物質で構成されたものを身に纏えば、姿は見えなくなるはず。問題はそうした物質があるのかどうかね。光を流すような、そんな微小体物質で構成されたものがあれば……。近い性質を持つフィルターか何かをレンズに……」

香織は真剣な表情で唸っている。

香織の指摘するようなものを使っての犯行ならば、多少興味はある。だが実際問題、その分野はまだ研究途中だし、何より用途に含まれる問題がロマンでは片付けられないほど大きい。ゆえに重要性が他に比べて低く(ある意味ではとてつもなく高いが)、その手の研究をしている学者は少ない。イギリスにいたような気がするが、今回の事件には関係ないだろう。

「全方位から強い光を当てたらどうだろう? 理論上は見えなくなるはずだけど、あ、でもそんな装置があったら防犯カメラに映るか。外部の空気と内部の空気の温度差を利用して、熱の対流現象で、光の屈折を……」

難しい表情を浮かべて香織が唸る。腕を組み、ぶつぶつと呟きながら考えている。

「全反射を空気中で起こすためには温度と湿度の問題もあるし、やっぱり無理かな。素直に裏口を使う方が……。錆か。酸化速度を上げるためには、いや、ダメだな、時間が掛かり過ぎる上にそこまでする必要性がわからない。となると、やっぱり、犯人は……」

「マンション一階の住民ですか?」バニラが言った。

「ま、そうなるわね」香織はソファへ座り直し、バニラをじっと見つめて苦笑した。

「でもその場合、すぐにわかりますよね?」

「そこね、問題は。どうしようも手詰まりになれば、警察だってマンションの住民を疑うでしょうし、そんなわざわざ容疑が掛かる真似をするかしら? 犯人は馬鹿なのか、それともそうじゃないのか」

マンションの一階のベランダを経由すれば、防犯カメラに映っていないということも説明がつく。しかし、そこまでしなければならない理由があるとは考えにくく、防犯カメラに映りたくなければマンションで犯行に及ばなければ済むことだ。

さらに香織が指摘するように、最終的には警察に疑われるポジションに自身を置く真似を犯人がするだろうか。

「トランプのカード、ジョーカーの意味はなんだろう……」

「犯人が警察に対して残したものですかね?」バニラは香織を見る。

「たぶん」

「被害者が残したダイイング・メッセージということは?」

紗季が七海には聞き慣れない単語を言い出した。

ダイニング・メッセージ? ケーキは冷蔵庫の中です、みたいな? 何のことを言ってるんだろう?

「まずないでしょうね。ダイイング・メッセージならば、近くに別のカードも落ちているはずだし。そんなことをするぐらいならメモか何かに書き込めばすぐに済むわ」

「ですよね」

「んー、でもなぁ、意味は何なんだろう。ジョーカーかぁ……」

「切り札、とか」

「切り札ねぇ……。ババ、ジョーカー、切り札」

「一番強いですよね、大抵のゲームでは」

「……代替品」

「え、代替品ですか?」

「ジョーカーって、ゲームにもよるけど、どのカードの代わりにもなるでしょ? ポーカーとか、大富豪とかさ」

「ああ、それで代替品」紗季は頷く。しかし、すぐに首を傾げた。「でも、それでも意味はわかりませんよね?」

「うーん。……ななはどう思う?」

「…………」

「ほら、寝たふりしてないで」香織に体を揺すられる。

「……なんだよ」

「だから、ジョーカーの意味よ」

「……知らないよ。そんなに深い意味はないんじゃないの? 同一犯に見せかけるためのただのアイテムだろ」

「同一犯に見せかけるメリットがないじゃない」

「メリットなんかいらないよ。逃げるための混乱、とは限らないんだし」

香織が眉を顰める。

「……捕まりたいわけ?」

「さあね。考え方によってヒントにもトラップにもなる。ただわかっているのは、犯人はジョーカーを残したという事実。あとは警察の受け取り方だけだ」

「あんたはどう思ってるの?」

「何も。寝たい、それだけだ」



とても当たり前で、とても普遍的な欲求さえも満たすことができない世知辛い世の中に、いい加減、耐え難い嫌気が差し、頑愚で直情径行の軽躁にでも巻き込まれれば、温雅な聖人も気疎くなるというものだろう。

「あー、信じられねえ!」

七海は今朝と同じく鬱陶しい蝉に対して思いの丈をぶつけた。

舌を鳴らし、ため息をつく。

どこに行っても、どいつもこいつも、事件のことばかり。いい加減、うんざりだった。

ここまで来ると、本当に犯人や警察に対して、我慢ならない苛立ちを覚えてくる。

どこぞの馬鹿が殺したりしなければ、そしてその馬鹿の対処を迅速に済ませてくれるのなら、自分の貴重な夏休みが潰されることもなく、普通に、ただただ普通に年に一度の長期休暇を満喫することだってできたのだ。

勝手に事件について考えるのは、それは個人の自由だ、何も言わない。だけど、どうしてそれに巻き込まれるんだ。別にどうだっていい。誰が笹岡を殺したのか、本当にどうでもいい。

犯人は七海自身にとって無害だが、周りの人間は有害である。

早苗について行けばよかった。

相変わらず毎晩のラヴコールをしてくれるのなら。そんなに愛しているのなら、一緒に連れて行ってくれればよかったのに。

七海は早苗を愛しく想った。

それと同時に怒りの矛先も、早苗へ向けられる。

そもそもあいつが連れて行ってくれればいいものを。

効果など微塵も期待はしていないが手をかざして太陽を遮りながら、もう一方の手で汗を拭う。そして、舌を打った。

時刻は午後二時。一番、暑い時間帯だ。

考察という拘束から解放され、香織の冷やし中華(そうめんよりは愛を感じる)を食べてようやく、ひと息つけると思ったのも束の間、七海は紗季に言われるがままに笹岡の実家へ向かうことになってしまったのである。

「どうしてこうなるんだよ、ったく」

七海が不平不満を口にしたところで、事件解決に対する意力が横溢している紗季が止まるはずもなく、のんびりと午後を過ごす楽しみも、抵抗する気力とともに泡沫と消えた。

「おばさん警戒してるのか、警察もまだ話を聞けてないんだって。だけど、私も美羽も顔見知りだから、話聞けるかなって」

紗季の話では、笹岡の母親は警察の聴取にも応じていないらしい。そこで、仲村美羽とともに話を聞きに行こうということらしいのだが……。

「なんで、笹岡の親が警戒するんだよ? 通常の神経じゃないだろ、それ」

七海ですら素直に応じたというのに。

「わからない。だから、話を聞きに行くんじゃない」

「どうして俺がそれに付き合うんだよ」

「暇でしょ」

一蹴だった。

仲村と待ち合わせをしているコンビニに着いたが、まだ彼女の姿は見えない。猛暑の中を外で待てるわけもなく、空調の整った店内で雑誌を立ち読みしながら待つことにする。ついでにペットボトルのジュースを買った。

五分ほどすると、白いワンピースを来た仲村が現れた。

顔はやつれている。夏バテ、ということではないだろう。

「ごめんね、遅れて」

「ううん。それはいいけど、美羽、大丈夫?」

「うん、平気」

そうは言う仲村だったが、元気なさそうに俯き加減で無理に見せる笑顔が痛々しかった。

相当堪えているようだ。憔悴し切っているのがわかる。

今までの日常が、平和過ぎた日常が、ただの幻想に過ぎなかったことが今回のことでわかったのだ。平和なんてそんなもの、簡単にぶち壊れる。身近な人間が死ぬだけで、殺されるだけで、そんなことで壊れるような、とても脆い、危うい均衡を保っていただけに過ぎない。どんな日常でも、非日常的なことは起こる。わからないわけじゃないし、わからなかったわけでもない。なのに、それなのに、なぜだろう。どうして人は傷つくんだ? 欠陥品だから? 不完全な存在だから?

…………。

なんでもいい、どうでもいい。普通に日常を過ごしたいだけだ。今まで通りの日常を、今まで通りに。それができないなら、それが過度の願い事になるのなら。

「じゃあ、行こうか」

紗季と仲村のあとをゆっくりと歩いてついていく。

笹岡美智子の実家は郊外の住宅街にあるらしい。そこまでは歩いて十五分以上も掛かる。話を聞くだけなら電話というとても素晴らしい文明機器があるのに。これでは、IT社会もお手上げだ。手を上げるのも億劫だった。代わりに七海は項垂れた。

「ねえ、なな」紗季が振り返る。

「何?」自然と声が不機嫌になる。

「防犯カメラの映像なんだけど」

カメラの映像に笹岡は帰宅時が、もう一人の被害者は外出時の映像がなかったことが問題になってるみたいだ。

マンション内に入るためには裏口か正面玄関を通るしかないわけだが、裏口は使用された痕跡はなく、つまり正面玄関が唯一の出入り口となる。しかもその正面玄関には防犯カメラが設置されているために人の出入りはチェックすることができる。

そうした状況下での犯行。

防犯カメラの映像では笹岡は外出をしたままで、帰宅時の映像が存在しない。しかし、実際にはマンション内の自宅で殺害されていた。

逆にその一方でもう一人の方は帰宅したままで、外出時の映像が存在しない。にもかかわらず、マンション近辺のプレハブで死体として見つかっている。

昼まで、七海を除く人間がそのことを含めた事件考察を繰り広げていた。

その辺の不可解なことについても仲村に説明したあと、紗季は七海に続けた。

「私ね、ずっと考えていて思いついたことがあるんだけどさ」

「?」

「午後三時半ごろに美智子は楽器のケースを持って一度帰宅している。でももし、このとき映っている人物が、美智子だと思っていた人物が犯人だったら、外で殺されて運ばれた可能性が高いと思うの」

「…………」

なんとなく、紗季の言いたいことがわかった。しかし……。

「どういうこと?」仲村が聞き返す。

「事件当日、美智子がリハーサルに参加していたことはわかっていて、さらに死亡推定時刻が午後三時から五時までだから、午後三時以降に殺されたことになる」

「うん」仲村は頷き、そこまでは理解していることを示す。

「犯人はどこかで美智子を殺したあと、彼女の服を着て、美智子に成り済ます。そして死体を楽器のケースに入れて、マンションの玄関から堂々と入った。あとは部屋で美智子の死体を出して、また同じように正面から堂々と出て行った。これなら、美智子が外出したままで帰宅時の映像がないことも、全裸だったことも説明できるわ」

「おお!」声を上げたのは仲村だった。

「コントラバスのケースなら、女の子ぐらい楽々入ることができるでしょう?」

暑さも相まって眩暈がしてきた。優等生の陳腐な発想に辟易する。

「馬鹿か、お前は」

「なんでよ、どうして? 何か間違ってる?」

「ほとんどすべて」

「だったら説明してよ。どこが具体的に間違ってるのよ?」

こんな道端で論うのは嫌気がする。じりじりと照りつける憎たらしい太陽もがんがんだというのに。……ため息も出やしない。

しかし、紗季は不満そうに口を曲げている。仲村も何が間違っているのかわかっていないのか、不思議そうに眉を寄せて七海の言葉を待っている。

「……まず、運ぶ必要がない」

「運ぶ、必要?」

「そうだよ。どうしてマンションの部屋まで死体を運ぶ必要があるんだよ。殺した場所に放置しておけばいいだろ?」

「それはそうかもしれないけど……。でも、そういう犯人の演出かもしれないでしょ? ジョーカーとかだって、置く必要はないんだし……」食い下がる紗季。

「体重は? お前は死ぬと軽くなるとでも思ってんのか?」

「あ」

「笹岡の体重があの楽器と同じように十キロ程度なら、可能性はあるけどな」

「そっか……。そうよね」沈んだ声で紗季は頷いた。

「それにまだある。死体の鬱血だ。死後に運ばれたとしたら、そういう痕跡が残る。笹岡はほぼ間違いなく、あの部屋で殺されたと考えるべきだ」

「そっか。ああ、それに、美智子にはほくろがあったし、違うか。帰宅時は顔が正面から映る機会は少ないからまだしも、美智子の最後の映像は外出時で正面から口元のほくろが映っていた……。あー、そっか。うーん、いい考えだと思ったんだけどなぁ」

紗季は自分で間違いに気づくと、ぶつぶつと呟きながら、少し残念そうに項垂れていた。

項垂れたいのはこちらだ。

だけど、かなり大それた間違いではあったが、それでも笹岡が防犯カメラに映っていなかったことや全裸だった理由を上手く取り入れていたことは評価できる。それに、もう一人の被害者の外出時の映像がなかったことも、帰りのケースの中に同様の手口で行えば、一応は成立する。まあ、間違っていることには違いないが。

殺害現場は笹岡美智子の部屋で間違いはないだろう。たしかに外で殺害したあと、部屋にコップなどを置いて偽装することもできるわけだが、そうなるとどうしてマンション内で犯行したように見せかけなければならないのかが問題となる。

どの仮説を組み立てたところで苦しいことには変わりない。

考えてみれば、犯人は不思議なことをしている気がする。無駄が多い。

まったく事件について考えていない七海ですら、そう受け取ることができる。犯人が馬鹿なら仕方がないが、少なくとも自分ならもっと簡単に、効率よくことを進める。

効率よく殺す?

自分で、自分の思考に笑ってしまう。七海の場合、どんなに殺したい相手がいたとしても、殺すこと自体面倒だと感じて殺さないだろう。

幸せな性格である、七海も。そういう意味では、連続殺人を犯す人間というのは、まじめな人間なのかもしれない。律儀、と言ってもいい。計画殺人ならなおのことだ。

七海には無理だ。日和見主義者だから、きっと、いや、絶対に無理だろう。同じ理由で早苗も無理だ。自分で言うのもなんだけど、幸せな親子だ。

「そういえば、仲村、お前ら二年生とコーチにだけアリバイがないらしいな」

「あ、うん……」

「コーチ、イケメンなんだろ?」

「え? ああ、そうだね、かっこいいかな?」ちょっぴり照れた表情を浮かべる仲村。「でも、性格は三枚目っていうのかな。くだらない冗談ばかり言うんだ。小学生でも言わないような。まあ、そこがお茶目でかわいいって、言う人もいるんだけどね」

「モテそうな人だったもんね」紗季もなぜかちょっとだけはしゃいだ。

歩き過ぎで、嫌な汗がじっとりと体を這ってきたころ、ようやく目的地である笹岡家が見えてきた。平凡な民家に見える。周りと比べてみても大きな違いはない。表札の名前ぐらいだ。それがなければどの家が笹岡家かわからなかった。それは当たり前か。

家は八十坪くらいの庭付きの一戸建てで、やはり周りの民家と比べてみてもそこまでの違いは見当たらない。ごくごく普通の、平均的な家だ。

ただ、閑静な住宅街にしてみても、やけに静かだった。

自然と周りの空気に追いやられ、いつの間にか七海達も会話が途切れていた。

辺りを見渡す。何もない。細い路地に並ぶ電柱がわずかにあるだけ。人も見当たらない。それぞれの家の玄関やガレージが道に面しているだけだ。

……警察もいない?

注意深く観察してみるが、やはりどこにも人の気配すらなかった。暑いから冷房の効いた部屋にでも引きこもっているのだろうか。

七海が辺りをきょろきょろとしているうちに、紗季と仲村は玄関先のインターフォンを押していた。

二度、三度。しかし、一向に人が出てくる気配はない。互いに顔を見合わせる。

「残念でした。留守なんだよ、帰ろうよ」

「壊れてるのかな、呼び鈴」仲村が首を傾げる。

「すみませーん、誰か、いませんかー?」紗季が声を張り上げた。

どうしてこの二人には留守だという可能性を認識するだけの常識というものが備わっていないのだろう。返事がない、それだけでわかるだろう、普通は。

「おい、留守なのはわかっただろ? 帰ろうってば」

七海の言葉には耳も貸さず、門を開けて玄関の扉に手を掛ける二人。

七海は舌を打ち、ため息をついた。

どうして最近の奴はこうも行動力があるかな。

玄関先のインターフォンも何度か押したみたいだったが、やはり何の反応もなかったようで、玄関も施錠されていたみたいなので大人しく戻ってきた。と思った次の瞬間には裏手へ回ろうと中庭の方へ歩いていく二人。

「あー、もう」

七海のイライラもピークを通り越そうとしている。

付き合い切れず、先に帰ろうと歩き出したときだった。

「……いやあああああ!」

二人の悲鳴。

七海は慌てて二人が向かった中庭へ走った。

「どうしたっ?」

紗季も仲村も、中庭に腰を下ろしていた。

いや、腰を抜かしているのか?

視線は二人とも家の窓を指していた。

七海はそちらを向く。

「----っ」

何だ? 何だ、これは?

廊下のガラス戸に、人がもたれかかっている。

辺り一面、血。

血、血、血。血があちこちに飛んでいる。ガラスもその透明性を失うほど、血で汚れている。そのために部屋の様子を窺うことができないほど。

和室、だろうか。畳だと気づけないほどに、血で汚れている。

汚れている? 違う。大量の血が、部屋を真っ赤に、どす黒く、染め上げていた。

血の強い臭いに、吐き気を堪えるのがやっとだ。暑さも相まって、倒れそうだった。

だが不思議と目が離れない。『それ』から、張り付いたように、魅入られたように、動かない。

誰だ?

生きているか死んでいるか、もはやそんな状態ではない。生きているわけがない。生きている、この惨状を目の当たりにしてもそんな一縷の望みを持とうなんて思う馬鹿はこの世のどこを探してもいない。

まるで異なる。異様過ぎる。殺意が滲み出ている。狂気に満ちた惨状。

同一犯か?

にしても……。

全裸ではない。服は着ている。

ジョーカーは? 

見当たらない。違うのか? これは先の事件とは違うのか?

「うっ」

思わず視界の端にそれが入った。

カード。もう一度、確認するために、七海は重い脚を引きずるようにして、近づく。

「……ジョーカー……」

ジョーカーは、あった。

ただ、手で握られているわけではない。

左目に、左目に刺さるようにして……。

七海は心の中でシニカルに笑った。

笹岡のときはどうでもなかったのに。血のせいか? 血飛沫というわかりやすい情報が鈍い七海の脳にまで過敏に反応するようになってるのだろうか?

それにしても。何ていう運の悪さだ。こんな連荘、嫌になる。

七海は後ろで泣いている二人を見る。

……偶然か?

笹岡のときもこの組み合わせだった。

これがもしも意図的なものならば……。そのときは紗季か仲村のどちらかが犯人、もしくはそれに近い人間ということになる。だけど、七海を巻き込む理由は何か。そう考えるとやはりこれは偶然なものと判断できる。ただの凶運が招いた悲劇、にしてもいささか酷過ぎる気がしないわけでもないが……。

とにかく警察に連絡しないといけない。

二人の様子も気にかかる。無理もない。こんなものを見たんだ、ショックを受けない方がどうかしてる。救急車も呼んだ方がいいだろうか。

蝉がうるさい、日差しがきつい、嫌な臭いが鼻を突く。

七海は携帯を取り出して、メモリから遊井川刑事を探し、コールした。

犯人の心理状態はどうなのだろう。七海は横目で惨劇を見る。

明らかに違う。

違い過ぎる。殺意が滲み出ている。例えば、拷問だとしても、こうはならない。

あくまでも七海の主観的な思考に基づくわけだが、これは拷問のそれとは違う気がする。本当に、心底、憎んでいなければ……。

「もしもし?」

電話がつながり、七海は思考を止めた。

「どうも、七海ですけど」

「どうかしたの?」

「ええ、まあ」

「……。良い知らせ? それとも悪い知らせかしら?」

「受け取り次第ですかね」

「そう。で、どうしたの?」

「たぶん、笹岡の母親かな。ええ、まあ、笹岡の実家で殺されてるんですよ」

「え?」遊井川の声色が変わる。「ちょっと、それ本当なの、七海ちゃん?」

「嘘か夢ならいいですよね、ほんと。ああ、夏休みなのに……」



数分後、そう、たった数分なのだが、これほど長く感じる数分も珍しいだろう。数台の警察車両と、大量の捜査官が笹岡宅へと到着した。

大勢の人間がいる中で、唯一、スーツを着た女性が周りの人間に指示を与えながら、七海達の目の前に歩いてくる。遊井川刑事のその表情は、訝しがるそれや、娘を想う母親のそれ、敏腕刑事として新たな被害を出してしまったことに対する悔いなどのそれ、そのほかいろいろの感情が混ざっているような、複雑な表情に見えた。

憔悴しきっている紗季と仲村の二人を車に乗せ、彼女は俺に向き直った。

「悪夢ね」一言だけ、小さく遊井川は呟くように言った。

「悪夢でも、夢ですよ」

「……そうね」

「結局、誰なんですか?」

「笹岡みちよ、笹岡美智子の母親ね。家の中にあった写真と比較したの。状況的にもまず間違いないでしょうね」

ちょうど、無惨に殺された遺体が運び出されていった。シートか何かで覆われているというのに、目の前を通った瞬間は血の強い臭いが鼻を突いた。相当量の出血だったのだろう、運び出す際にもぽたぽたと地面を汚していった。

「やり口は拷問に近いわね。全身を刃物で切られたり、刺されていたようで、そのためか、ほとんど、体内には血液が残っていないみたい」

「犯行時刻は?」

「わからない。この暑さだから、凝結反応も誤差が多いでしょうし。検死待ちね」

「目撃証言も期待できないでしょうね」

「そうね、いくらなんでも犯人だって気をつけているでしょうから。それに被害者の口にはハンカチが詰められていて、それで悲鳴なども上げられなかったのではないかという見解もあるわ」

「悲鳴を上げさせないためのハンカチ、か」

「何か気になることでも?」

「いや、舌を噛ませないように、という目的だったんじゃないかなって」

他と比べてみても、明らかに殺意が違い過ぎているし、拷問の手口に近いことも、相当の恨みを肌で感じ取ることができる。

「……なるほど。本当の目的が笹岡みちよだったと?」

「さあ、それはわからないですけど。うん、でも可能性は高いと思いますよ。少なくとも笹岡と、えっと、何だっけ、もう一人の女性のあれよりかは、今回の殺人の方が犯人にとって重要だったと、そう思いますね」

「そうね。でも、少しあからさま過ぎるところが気にかかるわね」

あからさま過ぎる、か。

遊井川の言葉を反芻しながら、七海は横目で惨状のあった家を見る。同時に笹岡の死の形相も思い出された。たしかに、これ見よがしの犯行と受け取ることもできるが。あからさま、と言われれば、あからさまか。

七海が初めて受けた印象はもっと別のところにあったのだが。まあ、高校生の受けた印象など、積分しても大した数値を出さないだろう。それほどの微小体要素に過ぎない。

気のせい、と言われればそれまでのこと。別にどうでもいい。

「七海ちゃん、あなた達が遺体を発見したときの状況のことだけど……」

「電話で話した通りですよ」

好奇心旺盛で、かわいい男の子に気を使わないばかりか迷惑を掛ける女の子に振り回された挙句の果てに、だ。

「玄関は施錠されていたのね?」

「みたいですね。僕が確認したわけじゃないですけど」

遊井川は眉間にしわを寄せ、腕組みをしながら笹岡宅を見上げた。口元に手をやり、小さくため息を漏らす。逡巡したあと、七海に向き直った。

「実は、家の出入口はすべて施錠がされていたの」

「すべて?」七海は首を傾げる。

「小さな窓も含め、すべて鍵が掛けられていたのよ」

「どういうことですか?」七海には遊井川が言おうとしていることがわからない。

「密室だったってことよ……」

遊井川の言葉が静かに響いた。

「だから?」

「あら、食いつきが悪いわね。もう少しくらい、反応してくれると思ったけど」

「密室殺人? えっと、それのどこが問題なんですか?」

「ううん、ごめんなさい。ただの冗談よ」遊井川は苦笑した。

「冗談ねぇ」

「ミステリー小説に出てくるような密室じゃないわね。この場合はこの家の鍵を使えば済むだけの話だし、それを裏付けるかのようにまだ家の中からこの家の鍵が見つかっていないの。順当に考えると、一番怪しいのは笹岡聡ね」

七海が聞き慣れない名前にわずかに首を傾げていたのを受け、遊井川が丁寧に補足してくれた。

笹岡聡というのは、やはり笹岡美智子の父親であり、市内の会社に勤めているらしい。

しかし、あまり仕事熱心な方ではなく、よく外回りの時間を利用してパチンコへ通ったり、無断欠勤なども多く、社内での評判は悪いみたいだ。加えて酒やギャンブルに大金を注ぎ込む、典型的なダメ人間だそうで、近所での評判も悪いそうだ。

そして現在、笹岡聡の行方は掴めていないらしい。

「警察は、笹岡の親はマークしてなかったんですか?」

「んー、厳しいとこをついてくるわねぇ、七海ちゃん」遊井川は苦い表情を見せる。

笹岡美智子の死体が見つかってすぐに、新たな死体が見つかったこともあって、しかも両者に同じマンションの住民という以外の共通点がないから、その分、笹岡の両親のマークが遅れたのかもしれない。

「話は聞こうと、刑事を回したことがあるんだけどね、門前払い。全然、相手にしてくれなかったのよ」

「あ、でも、仲が悪かったとか、そんなようなことをどこかで聞いたような……」

「そうね、不仲という話は聞き込みをしていても多くの人間から聞けたわ。それに笹岡聡という人間を考えると、娘への愛情は皆無だったでしょうし、また真面目な人間だった笹岡美智子からしたら、尊敬のできる父親ではなかったでしょうから」

「母親の方は?」

「笹岡聡と同じように、いい評判は聞いてないわ」

「ふうん、なるほど」

頷きながら自分の母親を思い返した。あれはどうなんだろうなぁー……。めちゃくちゃ気ままに生きているけど。かわいい母親に、思わずため息が漏れた。

「それとね、福田康子との共通点が出てきたのよ」

「ふくだやすこ?」

「マンション近辺のプレハブで見つかった被害者」

「ああ、キャバクラ嬢か何かの」

「そのキャバクラの店の常連に、笹岡聡がいたそうなの」

「あらま」

「笹岡聡を最重要人物として追ってるところよ」



いろいろな聴取を受けたあと、ようやく家路につけたと思えば、すでに蝉も静かになり始めた夕暮れ時だった。また今日も貴重な一日を潰してしまった。

後悔のため息をつきながら家の玄関のドアを引き、中に入る。

リビングには誰もいなかったので、奥のダイニングへと移動する。

「あ、帰ってきた」香織が俺を見て言った。

テーブルを見る限りは冷しゃぶとそうめんだ。今日もまた簡単な、そしてヘルシーなものだ。むぅ。

「あんた、呪われてるんじゃない?」

「早速それかよ」しかし、自分でも笑ってしまった。「まあ、俺もそう思う」

食事中の会話としてはいささか不適切ではあったが、七海は詳しい状況や今日知り得た情報を話した。発見当時の状況、笹岡家の不仲説、両親の悪い噂、笹岡聡が最重要人物として警察に追われていること、など。

「警察も大変ねぇ」他人事のように香織は呟くだけだった。

食事を終え、後片付けも済ませると、リビングのソファでコーヒーを飲みながらくつろいだ。テレビをつける。くだらないバラエティの放送が終わり、ローカルニュースに切り替わったところだった。東海三県の天気予報や、愛知県内で起こった事件などが報道されている。一連の殺人事件についてはまだ流れていない。報道規制か何かがあるのだろうか。

隣の市で引ったくりが三件、あったらしい。犯人は同市内の県立高校生だったという。制服姿で喫煙をしていたところ、私服警官に捕まって、同時に犯行もバレたという。なんでも欲しかったブランド物の財布だったためそのままにしていたらしく、財布の中身の免許証などを見られ、即御用だとか。馬鹿にもほどがある。

昔、近くの市内で起きた殺人事件の時効が明日の午後五時ごろに成立するみたいだ。犯人は、ある会社の金を横領するために、その事務員を殺害したとされている。犯人は複数犯の可能性があり、一人はすでに自殺しているのだという。当時の情報を流して、情報提供を呼び掛けている。

人気のアイドルタレントが一日消防署長か何かを務め、火の元の注意を呼び掛けるイベントの様子も伝えられた。顔がいいだけで署長になれるのだからキャリア組も真っ青である。しかも笑顔で手を振るだけという、破格的な仕事内容だ。羨ましい。アイドルになってみようか。容姿ならば、七海の方が抜群ではある。

天気予報に替わり、明日も真夏日になるという。まったく、嫌になる。

五分程度のローカルニュースも終わり、ドラマが始まった。家族の絆が奇跡を呼ぶ、みたいなキャッチコピーのたるい内容だ。刹那、チャンネルを替えた香織が愛しく見えた。

そのとき電話が鳴ったので、七海は立ち上がって、受話器を耳に当てた。

「もしもし三咲ですけど」

「あ、ななー?」

「母さん? どうしたんだよ」

「愛してるよぉー、おやすみ、ちゅ」

切れた。残るのはつーつーという電子音だけ。

スタイリッシュなラヴコールに苦笑しながら、ため息をついた。

「何がしたいんだ、あいつは」

「誰からだったの?」香織が気だるそうに顔をこちらに向ける。

「母さんだよ」

「早苗、何だって?」

「俺のことを愛してるんだとさ」

「何を今さら」

「気楽なもんだ、あいつも」

「あんたの母親だからねー。ま、幸せなことじゃない」

幸せ、か。

幸せを幸せだと感じることのない幸せが、最高の幸せなんだろう。

そういう意味では、七海は間違いなく幸せだった。ただ、そんな幸せに何の意味があるというのか。もちろん、幸せなことに越したことはないけれど……。

七海はたしかに幸せだが、それは七海の本質とは何ら関係のない話だ。

幸せだけど、幸せだからと言う理由で、すべてを受け入れ、すべてを愛せるわけじゃない。七海にとって、重要なのはそんなことではない。

幸せかどうかが、それが何か七海を変える重要なファクターになることは決してない。

恐らく普遍的な人間ならば、幸せを手にすることで、充足を感じ、そしてそれに包まれ、そのまま死んでいくことだろう。

何のために生きているのか。

幸せになるためか?

とことん還元するならば、その通りだろう。

人は、幸せになるために、幸せを目指して、生きているのだ。

だが、七海は違う。

七海が生きる理由。それは昔から、今でも、そして恐らくこれからもずっと。

たった一つだ。

明確な目的がある。その目的は絶対だ。そして、そのためだけに、生きている。逆に言うならば、それ以外のことについてはどうでもいい。心底、どうでもいいことだ。

七海は幸せだ。それは間違いない、揺るがない事実だ。だが、それは七海を構成する要因の欠片にもならないことだ。七海は幸せだが、それは七海には関係のない話だ。

厭人癖がある。厭世癖もある。それだけこの世は嫌厭するだけのもので溢れている。

それは、七海が幸せであることと何ら関係なく、溢れている。

不幸ではない。だが、七海は誰よりも深く絶望している。

それは、恐らく香織もそうだろう。だからこそ、香織は唯一他人でありながら、七海を理解できる存在なのだ。しかしそれでも、やはり、香織のそれとは比ではない。

友達が少ない理由も、そういうところからなのだろうけど。

知り合いが殺されても、平然としている。それを非難されても、どうしようもない。

七海にとってはどうでもいい、些細なことでしかない。

可哀想だから犯人を憎み、捕まえる? それは何にもならない。何にも、だ。それはただの自己満足だ。趣味と何ら変わらない。

この世には様々な人間が存在する。そしてその数だけ様々な考えが存在するし、支持されるものもあれば、淘汰されるものある。

この他愛もない世界に絶望しているのは、誰だって同じだ。

それなのに、それなのに……。


「----だからこそ、腹が立つ----」


「え? 何か言った?」

「……いや」七海は微笑んだ。

このときは気づかなかった。

気づいたことに気づかなかった。

気づいていたことに、気づかなかった----。

第5章 届かない想いが終わるとき


誰も何も理解してはいない。

理解できぬ者に資格はない。

----だから死ね。



今日は少なからず機嫌がいい。ああ、こういう日が続けば人はやさしくなれるのだろうという、深い思案もなんとなく、どこからともなく出てくる今日このごろ。上機嫌なので、学校にもちゃんと来た。

七海は鼻歌を唄いながら、コンピュータルームのあるフロアをスキップする。まったく実用性のない歩行技術ではあるが、上機嫌の際だけ、日の目を見るとはなかなかに愉快なものである。

コンピュータルームに入ると、またしてもバニラが何やら作業をしていた。

「おお、遅かったな、サボり魔」ディスプレイから顔を上げ、バニラが片手を上げた。「昨日のドラマ見たか? ほら、家族の絆が奇跡を呼ぶってやつ」

「見てない」

「酷いもんだよ。現代医学にケンカを売ってるとしか思えない内容だったよ。延命治療の効果じゃなくて、家族の絆の効果にされちまうんだぜ? 驚いたよ」

「そうか、お前、医学部志望してたな」

七海はキャスターつきのイスに座って、端末の電源を入れた。

「あ、そうそう。昨日もだけど、最近、香織先生とずっと一緒みたいだな。そろそろやばいんじゃないの?」バニラはキーボードを叩きながら言う。顔はにやけている。

「何が、どう、やばいんだよ?」七海は前髪の一部をヘアピンで留めて、お気に入りの赤い眼鏡を指で押し上げた。

「だって、いくらなんでも恋人同士でもまずくないか、それ。まあ、教師と生徒が付き合ってるっていうのも、そもそもかなりやばいけどさ」

「誰と誰が付き合ってるって?」七海は眉を吊り上げる。

「だから、お前と香織ちゃんだよ。違うの?」

「どうやったら、そんな間違い方をすんだよ」

「いや、てっきり。でも、周知の事実だぞ?」

「虚偽だ、虚偽」

「でも、あんな美人はそうはいねーよ。お前が羨ましいよ」

「言ってろ」

コンピュータが立ち上がったので、ソフトを使って作業を始める。めんどくさいが、機嫌がいいのでよしとしよう。

「なんか、今日のお前、機嫌いいな」

「そう?」

「ああ、見ていてわかる。何かいいことあったのか?」

「年に一度のアイスの特売日なんだよ。うふふ」

「幸せな奴だな。あーあ、何でお前が男なんだろうな。神様も残酷なことをしやがる。その赤いフレームの眼鏡も、ヘアピンで留めてる姿も、その他のどこを取っても、テレビに出ているアイドルタレントよりも抜群の容姿だしよ」

なんなんだ、こいつ。前々からおかしいとは思っていたけど。

「お前、そっちの気があるんじゃないだろうな?」ゲイじゃないのか、という意味だ。

「まさか」バニラは鼻を鳴らして、肩を竦める。

「そうか。ならいいけど」

七海は少し安堵して、胸を撫で下ろした。

「ま、お前ならアリかなとは思うけど」

さぁーっと血の気が引いていくのがわかる。

気づけば鳥肌が立っていた。

冷房が効き過ぎているわけではない。

「な、何が、……あ、アリなんだ?」

「水着審査」

「…………」

「ぜってーイケるって!」

「お、俺は男だぞ! 男だからな!」

「わかってるよ、そんなこと」

「わかってないだろ、絶対」

「ビキニもいいけど、スク水も捨てがたいんだが、お前はどっちがいい? 競泳水着っていう手もあるけど。あ、胸はないからセパレートを」

「知るか!」

「じゃ、旧スク水で」

「ふざけんな!」

「賞品、ドーナツ百個だぞ?」

「ふざけんな!」

「たい焼きもつけるぞ?」

「ふざ……、な、何個?」

「聞くのかよ」



作成した資料を持って、職員室へ向かうことにした。

できれば冷房の効いた部屋にずっといたいところだが、職員室も効いているだろうということで、渋々ながら、じっとりと暑い廊下を歩き進める。

「また警察から話を聞かれたよ」バニラが作成したばかりの資料を団扇代わりにパタパタしながら言った。「事件があったんだってな。しかも、お前が見つけたんだって?」

「ああ」自分でも嫌になる。

「警察に疑われてんのかね、俺達って」

「疑われて何か困ることでもあるのか?」

「精神的に嫌だろうが、んなもん。痛くもない腹を探られるのは気分が悪いだろ」

「そういうもんか」

「そういうもんだ」

七海自身、疑われるのは好きではない。しかし、直接干渉してこなければいくら疑われても関係ないことだ。聴取されるというのであれば問題だが。

「てかさ、誰なんだろうな、犯人」

「さあな」

「容疑者って、やっぱり吹奏楽部の連中なのかな?」

「容疑者の定義にもよるけど……、でもまあ、そうなんじゃないのか? 親しい間柄や被害者に近い人間はすべて疑われてるだろうしな」

暑い。作成したばかりの資料を団扇代わりにするのもどうかとは思うが、それでも我慢できるほどの気温ではない。もともと夏は苦手の七海である。

そういえば、少し前に馬鹿な体育科の教師が団扇で扇ぐ行為は運動だから、扇げば扇ぐだけ暑くなるから我慢しろ、と言っていたことを思い出す。体ばかりを鍛えて、頭の方はなおざりにしてしまったのだろう。かわいそうに。

「実はよ、事件のことについて俺なりに考えててさ」

「もの好きだな」どいつもこいつも。

「あるアイディアを思いついたんだよ」

「ふうん? どんな?」

尋ねると、バニラは難しい表情を見せ、横目で七海を見ながら言った。

「自殺説」

「自殺か……」

「笑わないのか?」バニラは意外そうに目を丸くした。「いつもなら馬鹿にしたように鼻で笑うじゃねえか」

「俺ってそういうイメージ持たれてんだ。よーくわかった」

「まあ、それはさておき。自分でも馬鹿げた発想だとは思うんだけどな」

「いや。そんなことはない。おもしろい発想だと思うよ。それに、この事件が笹岡美智子の自殺なら、これ以上誰も悲しまずに、これで綺麗に終わる。そういう意味では、自殺説が一番、うん、美しいよ」

「……ああ」

バニラが職員室の戸をノックして入ると、ひんやりと冷えた空気が出迎えてくれる。しかし、肝心の香織が見当たらない。七海達は応接用のソファに座ることにした。

「防犯カメラに映ってなかった件のことを考慮したとき、ありえないけど、自殺の可能性に気づいたんだ」バニラが静かに先ほどの続きを話す。「それだけじゃない、自殺なら、すべての辻褄が合うんだ」

「自作自演、だろ?」

普通に考えるなら、自殺などありえない。一般的な自殺の場合、遺書があったり、身を投げる際には靴を揃えておくとか、そうした固定観念が強くある。

しかし、今回の事件では自殺を連想させるファクターは限りなくゼロに近い。

そして、だからこそ、だ。

バニラのアイディアのように、殺人事件に見せかけた自殺ならばほぼ辻褄が合う。いわゆる保険金詐欺だ。自殺の場合、保険にもよるが自殺してから一年間は保険金が下りない。だからこそ、他殺に見せかける必要があった、と考えることもできる。

笹岡が何らかの理由で早急に大金を必要としていたとする。笹岡は高校生だ。大金を得ようには、若過ぎる。体を売っても、遊ぶ程度の金額しか望めない。

もちろん、他殺に見せかけた自殺をして保険金を、ということならば、笹岡自身に金が必要なのではなく、保険金の受取人が早急に大金を必要としている状況となる。まあ、そんな理由は星の数ほど考えられるから無視しても構わない。

「普通、自殺を考える場合、トランプのカードや、全裸だったことが不自然になる。自殺する者、特に女性の場合、死後の姿を意識して死ぬ者が多い。それなのにわざわざ服を着ないでなんて」

「そう、普通では考えられない」バニラは頷く。

「だけど、この事件が普通だという保証はどこにもない」

自殺では保険金は支払われないから、他殺という不慮の事故に見せかけなければならない。つまり、簡単に自殺だと看破されるようなことではだめだ。

他殺の線を浮き出させるために、全裸、カード、さらなる不自然さをアピールするために、防犯カメラに映らずにマンション内に入り、自殺であることを隠し通すつもりだった。他殺に見せかけた自作自演だったために、不自然なことが目立ち、自殺という可能性は捜査線上から消える。遺書がないのも、コンサートの当日に自殺したのも、すべてはカモフラージュだった……。

バニラが考えているのはこんなところだろう。

「だけど、笹岡だけじゃない」

「……ああ」

「笹岡の母親、それから同じマンションの住民も殺されてる」七海はソファに深くもたれる。「それぞれの死亡時刻は知らないけど、自殺説を考えるなら、自殺のために自分の母親とマンションの住民を殺したことになる」

「そこがネックなんだよな……」

「心情的に理解できなくても、理論的に説明がつけば問題はないが。死亡時刻に矛盾がないか。あとは保険金が高額なものだったか。動機はさほど問題じゃない」

「お前はどう思う?」

七海は先日のことを思い出す。笹岡よりも前に、あの母親が殺されていたとは考えにくい。マンションのキャバ嬢は実際に見たわけではないからわからないが、笹岡とキャバ嬢が同時期、もしくはキャバ嬢の方が先だろう。

「自殺の可能性はないな」

「やっぱり。新たな被害が出たって聞いて、そうだろうとは思ってたけどよ。それに、あいつが人を殺したりするはずがねえもんなぁ」バニラは軽く項垂れた。

「どんな理屈だよ」七海は笑った。

話も一段落したころ、香織が戻ってきた。

七海達は作成したばかりの資料を渡した。

「んー、まあ、いいんじゃない? んじゃ、材料は注文しとくから」

「帰っていい?」

「あんた、よくもそう、次から次へと口を開くたびに帰っていいか尋ねられるわね?」

「アイスの特売日なんだよぉ」

「知ってるわよ。珍しく早起きするぐらいだからね」

「え、こいつが早起きぃ?」バニラが声を上げる。

「違う。興奮して眠れなかっただけだ」

「それもどうかと思うけどね」

そんなこんなで、時間も時間なので文化祭の準備を切り上げて、香織のミニで目的の店へアイスを買いに行くことにする。バニラもついてくることになった。

「場所はどこなんだ?」後部座席のバニラが尋ねた。

「ほら、あそこだよ、個人で経営してるスーパーの……」

「ねえ、そこ、今日やってる?」今度はハンドルを切りながら香織が聞いてくる。

「え、なんで?」

「だって、昨日事件があったでしょう? あんたが見つけたっていう」

「そうだけど、それが何か関係するのか?」

「わかんないけど、でも、近くでしょ? もしかしたら休みっていう可能性も……」

「や、やめろよ! ふき、不吉なことを言うな!」

「可能性としてはあるでしょ?」

「なんだよ、それ。店だぞ、商売だぞ。殺人事件なんかで店を閉められてたまるか。大丈夫だよ、そう、大丈夫だ。この夏唯一の楽しみなんだから。そんなことで……」

「あ……」

香織が小さく声を上げた。

「え?」

香織の視線の先には目的である店があった。今日、アイスの特売をする店。毎年、夏のこの時期に赤字覚悟で提供してくれる店。

「そ、そんな……」

無情にもシャッターは下ろされていた。

七海の夏は、終わった。



遊井川紗季はベッドの上で目を閉じながら考えていた。

今日は学校には行っていない。事件について、いろいろと思考を繰り返していた。

たしかに、ショッキングな出来事ではあった。仲の良かった友達と、その母親の無惨な姿を発見したのだ。特に、笹岡みちよの方は酷いとしか言いようがない。

思い出したくはない。思い出すだけで、体中が震える。頭がおかしくなりそうだ。

親友である七海がそばにいてくれたのは、心強かった。彼がいなければ、何もできなかっただろう。

しかし。

どうして、ななは、平気だったんだろう……?

紗季は頭を振る。

今考えないといけないのは、事件のこと。私なんか、まるで問題ではない。殺された美智子に比べれば、まるで何も問題はない。

紗季は再び目を閉じて、思考を展開させる。

事件の詳細な情報はすべて、刑事である母親から聞いているので、警察が知り得ている情報と同じ内容を把握していることになる。

笹岡美智子。福田康子。笹岡みちよ。

以上の三人が現在殺されているのを発見されている。ただこれはあくまでも発見された順番で、殺された順番とは限らない。

福田康子の場合は遺体の損傷具合もあって、死亡推定時刻にも幅がある。

笹岡美智子と福田康子は同じマンションの住民で、笹岡みちよは同じ市内の一戸建てに住んでいた。

笹岡美智子の場合、事件当日の午前八時五十七分に外出していることがマンション玄関の防犯カメラで確認されている。そして午後三時二十一分に楽器のケースを持って帰宅。また同じ服装同じ楽器のケースを持って午後四時三分にマンションを出た以降、帰宅はしていない。にもかかわらず、マンションの自室で殺されていた。死因はシアン化合物によるもので、発見当時は全裸でトランプのカードを握っていた。

福田康子の場合、事件当日の午前五時十九分に帰宅。このときの格好は派手なものであり、仕事場から帰ってきたところだとされている。そして午前六時十一分に上下スウェットにサンダルという部屋着でマンション内を出ていった。やや時間が開き、午後三時三十四分に同じ服装で帰ってきた。以降の外出記録はないが、こちらもなぜかいるはずのマンション内ではなく、マンション近くのプレハブ小屋で殺されているのを発見された。

発見したのは遊井川千代の部下である星川という刑事。死因は後頭部への殴打による撲殺。こちらも全裸でトランプのカードを握っていた。

また福田康子殺害の件に関してはさらに問題があり、犯行現場であるプレハブの倉庫には以前から南京錠で鍵が掛けられており、発見したとき刑事は鍵を壊して中に入ったのだという。つまり、密室殺人だ。

笹岡みちよの場合は、自宅の和室で全身を刃物でめった刺しにされて殺されていたのをまたしても紗季達が発見する。おびただしい量の血で部屋が染まっていた。拷問のやり口に近く、ある程度痛めつけられたあと、殺されたという見解だ。

ただ、前二件とは異なり、服は着ており、問題のジョーカーは左目に刺さっていた。さらにこちらも現場である家の窓などにはすべて施錠がなされていたという。密室になる。

トランプのジョーカーが現場に残されているという共通点こそあるものの、殺害方法などは統一性が取れていない。さらに、明らかに笹岡みちよに対しての殺意が他の二名と違い過ぎている点も気に掛かる。

容疑者は、吹奏楽部の山村玲子、岩下多香子、杵島栞、仲村美羽の四人とその関係者である神代由紀、そして笹岡美智子の父親である笹岡聡の計六人。三つの事件の犯行推定時刻のアリバイがないのがこの六人らしい。

警察の情報によれば、以上のことがわかっている。

誰が、美智子を? ジョーカーの意味は? 防犯カメラに映ってなかった理由は? 全裸だった理由は? 密室は? 倉庫の鍵は? どうしてこんな不可解なことを?

「いったい、いったい誰がこんなことを……?」

完全に思考は行き詰まってしまった。学校の成績がいくら良くても、いざというときの自分の無力さが、非常に腹立たしい。歯痒い、ではなく、憎い。

自分の思考に諦め、気分転換に、テレビをつけた。

街角で素人のファッションをチェックしているものだった。取り上げられる女性は皆、個性的なものばかり着ていた。スタジオに戻り、ファッションにうるさいタレントが流行の傾向などについて話し始めた。どうやら最近は眼鏡が流行っているらしい。おしゃれとして、眼鏡を掛ける若者が増えているのだという。視力が悪くなくても、伊達眼鏡をファッションに取り入れる例を紹介していた。

「伊達眼鏡……」

何かが引っ掛かる。なんだろう。何かがすっきりしない。

おしゃれ。伊達眼鏡。

レンズが入っていない。おしゃれが目的。伊達眼鏡。

視力がよくても、掛ける。おしゃれとして。

笹岡美智子と福田康子は発見時、服を着ていなかったが、笹岡みちよは服を着ていた。

ジョーカーがあったことから、この三つの事件は同一犯による一連のものだと考えることができる。服を着ていなかった二人、服を着ていた一人。

殺害方法による死因の違いを除けば、服を着ていたかどうかは一番大きな違いだ。

何かあるとすれば、ここだろうか。

なぜ服を着ていなかったのか、それとも、なぜ服を着ていたのか。

服を脱がす必要があった? 脱がす必要はなかった?

毒殺。撲殺。刺殺。

別々の手口。

二件は全裸。一件はそのまま。

ここだ。

アリアドネの糸はこれか?

どうして脱がせた? 

どうして脱がせなかった? 

脱がす必要があった? 

脱がす必要がなかった?

倉庫の鍵。どこにでもある南京錠。犯行前には鍵が掛かっていたはず。犯人は鍵を開け、犯行後にまた閉めたことになる。鍵を持ってなければ、開錠はできない。でも鍵は管理人が持っている。

笹岡美智子。口元のほくろ。ほくろがあるから本人以外ではありえない。

伊達眼鏡。

おしゃれとして。

あ。

あれ、そうなると……。

えっと、南京錠は警察の人が壊したから……。

「……あのとき、たしか、あの子は……」

そうか、だから、わざわざ。

それじゃあ、犯人は……。

今までたどり着かなかった答えに、ついに思考が捉えた。

「……そうか、そういうことか……」

小さく呟き、下唇を噛んだ。

自然と、涙がこぼれ落ちた。

そしてすぐに思考を切り替え、紗季は携帯を取り出した。



紗季は遊井川千代に案内された部屋で、自分の仮説を話すことになった。

「今、笹岡聡の行方が掴めなくてね」遊井川千代はソファに座り直す。「次に狙われるのは彼ということだけど?」

「うん」紗季は頷いた。

「どうしてそう思うの? 犯人も犯行方法もわかったということだけれど」

「まず、福田康子が最初に殺されたと思う。……美智子を殺すために」

「説明して」

「防犯カメラの映像では、福田康子は午前五時二十分ごろに仕事から帰ってきてる。そして六時十分に今度は外出をしている。このとき服装は部屋着だった」

「そうね」千代は頷く。

「コンビニかどこかへ朝食を買いに行ったのだと思ったけど、帰ってきたのは午後三時半。夜の仕事で眠いはずなのに、この時間まで帰ってこなかったのは少し不自然」

「たしかに、そうね」千代は顎に手をやりながら頷く。

「それ以降は防犯カメラに映っていないのにもかかわらず、いるはずの部屋にはその姿はなく、近辺のプレハブで殺されていた。だからこそ、午後三時半の帰宅時の映像は福田康子本人ではなく、あれは犯人だったと思うの。犯人が福田を殺し、福田の服を着ていたんだと思う」

「たしかに、そう考えれば全裸だった理由も説明できるけど。笹岡美智子の場合は? 彼女の場合は」

「美智子のときも同様。午前九時ごろの外出と午後三時半ごろの帰宅は本人だと思うけど、四時ごろの外出の映像は犯人によるものだと考えるべき」

「私もその可能性には早くから視野に入れていたけど、でも、ほくろは? 笹岡美智子のほくろが、その可能性を否定してるのよ」

「気づいてしまえばどうということはないけど、伊達眼鏡のように、目は悪くないのにおしゃれとして眼鏡をかける人がいるでしょ。それと同じでほくろも……」

「シール! 付けぼくろね?」

「これで何も問題はなくなる」

「そうか、ああ、なんてこと。迂闊だったわ」千代は舌を鳴らした。

「防犯カメラの映像を見る限りでは、美智子は午後四時ごろに外出をした以降、映っていない。でも、彼女はマンションの自宅で殺されていた。カメラに映らずに中へ入る経路としては、裏口以外にない。しかしその裏口が使えないとなると、自然に、変装して中に入ったという可能性しか残らない。簡単な論理。変装が不可能だと思い込んでいたのは、美智子にほくろがあったから。でもよく考えれば、映像では美智子は帽子を深く被っていて顔ははっきりと映っていない。福田康子の場合も、帰宅時だから自然とカメラには顔は映らない。つまり、ほくろだけが、不可能に見せていた。ならばそこをついていけば自ずと答えは出てくる。簡単なことだった、ただのシールだったのよ」

紗季が付け足すように説明して、千代を見た。

「そう……」

千代がため息をついたとき、ドアがノックされたかと思うと、若い刑事が部屋に飛び込んできた。

その刑事は紗季を確認すると、足早に千代に近づき耳打ちをする。千代が何か指示を出すと、刑事は頭を下げて部屋を出て行った。

「何があったの?」紗季が尋ねる。

「笹岡聡が見つかったんだけど」そこで千代は舌を鳴らした。「逃げられた」

「逃げた?」紗季は首を傾げる。「え、どうして?」

「さあ、わからない。何か後ろめたいことがあるのかしらね」

「どこにいたの?」

「銀行よ。そこでお金を下ろしていたみたいね。今、その下ろした大金を抱えて逃げているそうよ」

「大金って、いくらぐらいなの?」

「具体的な金額まではちょっとね」

「あと、プレハブ小屋の南京錠のことだけど」

発見時、プレハブ小屋には南京錠が掛けられていた。そしてそれを千代の部下が壊して中に入り、福田の死体を発見することになった。

プレハブの所有者であるマンションの管理人は、前から南京錠は掛けてあったと証言している。つまり、犯人は南京錠を開けて、犯行後また掛け直したことになるのだが……。

「ああ、あれね。あれは大丈夫よ」千代は微笑む。「前から掛けられていた南京錠と発見時に壊された南京錠は別物、でしょ?」

「うん。恐らく、刑事さんが壊して中に入ることも犯人は予測していたのかも。あとで検証ができないように」

「そうね。となると、犯人は笹岡美智子の方が先に発見されると考えていたわけか」

「福田は美智子を殺すために殺されたと考えると、美智子はおばさんを殺すために殺されたと考えられる。実家の鍵を手に入れるために」

千代は頷き、感心するように、またはどこか呆れるように、肩を竦めて、頷いた。

「そうか……、あなたに出し抜かれたわね」そこで千代は息を吐くと、表情を切り替えて向き直る。「それで、犯人のことなんだけれど……」

「犯人は……」

そのとき、高い電子音が部屋に鳴り響いた。千代の携帯電話らしい。千代はソファから立ち上がり、窓際まで離れてから電話に出た。

紗季は聞き耳こそ立てなかったが、それでも様子は窺っていた。会話の内容はわからないが、千代の表情が変わったのははっきりとわかった。何かあったのは一目瞭然だ。

「何があったの?」

電話を終えた千代に紗季が尋ねる。

「笹岡聡が見つかったわ」

しかし、表情は曇ったまま、ますます険しくなる一方だった。

「まさか……」

紗季は胸騒ぎを覚える。

しかし千代は首を振った。

「え? 無事なの?」

「ええ、大丈夫、まだ殺されてはいないわ。……まだ、ね」



「元気出しなさいよ、ドーナツ買ってあげたでしょう?」

「そうだよ。俺だってたい焼きおごってやっただろう?」

「…………」

七海は泣きながらドーナツとたい焼きを頬張る。

違う。おいしいけど違う。俺は、俺はアイスが食べたかったのに。特売日なのに。いっぱい買うはずだったのに。

七海にとって、それはあまりにも凄惨な光景だった。下ろされていたシャッターには申し訳なさそうに、店から臨時休業の知らせが張られていた。直接的ではなかったが、やはり香織が言っていたように、付近で起こっている一連の事件が原因ではありそうだった。

恐ろしく悲しい。夏が、終わりを告げた瞬間だった。

「ったく、高校生にもなってこんなことで落ち込まないでよね。小学生じゃないんだからさ。少しは成長しなさいよ」

「だって、だって」

「いや、そんな顔されてもさ、ないものはないの」

信じられない。

これが善良な高校生に対する仕打ちだろうか?

いくら泣いたところでアイスの特売がなくなった事実は消えない。ドーナツやたい焼き、定価のアイスでは心を癒すことはできない。

今日はふて寝することに決め、七海は自分の部屋へ上がった。

ふと、部屋の端に目がとまった。

ステンレス製の収納ラックのところに卒業アルバムや文集などがあった。何気なく、七海は中学のアルバムを手に取った。クラスごとに個人写真が貼られている。順番にページをめくっていき、笹岡美智子を探す。女子は七十人くらいなのですぐに見つかった。

「…………」

そこに写っている彼女は笑顔だった。にっこりと微笑んでいる。普通の女の子だ。どこにでもいる、そんな、普通の女子学生だ。

これが、現実か? 

このアルバムの中で微笑んでいる少女は、もういない。死んだのだ。自殺にしろ、他殺にしろ、どちらにせよ、もうこの世にはいない。

七海はアルバムを閉じた。

そして同時に忘れていた記憶も甦る。

一回だけ、遊んだことがあった。紗季も一緒だった。

どんなことをしたんだっけ? ただ話しただけか? ある音楽を薦められた気がする。そう、クラシックか何かの。CDを貸してもらって……。

『今度感想を聞かせてね』

どこか、どこかに。

オーディオ・プレイヤーのラックを順に見ていく。七海はロックしか聞かない。たまにスカを聞く程度だ。すぐに見慣れないジャケットが目に入った。

「これか……」

笹岡から借りたCD。忘れていた。ずっと借りたままだった。

返す人間がもういないというのに……。

七海は笑った。

これは、ダメだよなぁ。借りたまま、だもんな。

しかし、もう返せない。

仕方がない。忘れていた自分が悪い。

「偶然か? いや、奇遇だな。ちょうど、個人的な恨みもできた」

いいだろう。やってやる。

お前のために動いてやる。

何をしてほしいか、……今じゃ、それも聞けないか。

「贖罪もできないか。……だから嫌なんだよ、干渉ってのは」

CDを忘れないようテーブルに置いた。

ソファで何かちかちかと光っている。携帯だ。七海はそれを拾い上げ、いくつかボタンを押した。紗季から着信がいくつかあった。七海は彼女を呼び出すが、一向に出ない。電波が届かないか、電源が入っていないことを告げるアナウンスがずっと流れている。仕方なく、遊井川千代の方へ電話を掛ける。しかし、こちらも紗季同様に出ない。

「…………」

笹岡美智子。全裸。シアン化カリウム。

福田康子。全裸。撲殺。倉庫。

防犯カメラ。

笹岡みちよ。刺殺。拷問。

次は……、笹岡の父親、か。

七海は目を閉じる。

思い出せ。

すべてを。

すべてだ。

気づけ。

気づいていることに。

思い出せ。

気づいたことを。

ジョーカー。

笹岡美智子。

福田康子。

笹岡みちよ。

共通点。

笹岡の父親。

無駄が多い。

稚拙だ。

しかし用意は緻密。

矛盾。

いや、違う。

遊んでいるわけじゃない。

だとしたら。

わかってる!

落ち着け。

黙ってろ!

「くそ!」

犯行は無駄が多い。

しかし、計画は緻密。

これほどの力量があるのなら……。

今は午後四時三十分。

時間は、あるのかないのか。

いや、猶予はない。

だがやることは変わらない。

邪魔するなら殺す、それだけだ。

七海は部屋を出た。



紗季達は車を降りて、細い路地へと進んだ。

静かな場所。住宅が立ち並んでいる。

進んでいくと、空き地が見えてきた。

住宅街の一角にある空き地。そこだけが、空き地だった。

その空き地の真ん中に、男が膝をついて震えていた。

男の足元には、札束。

男の眉間には、拳銃。

その正面には、少女。

少女が拳銃を突きつけている。

その数十メートル手前で、制服警官が二名、スーツ姿の刑事が二名。スーツの二人は県警の刑事で、遊井川千代の部下になる。星川と氷野。

異様に、空気が張り詰めている。少しの衝撃で裂けそうなほどの、そんな異様さ。

そんな中で星川が説得を試みているが、効果はなさそうだった。遠くから気休め程度に、警官が銃を構えている。

「どういうこと?」千代が近くの氷野に現状を尋ねた。

「笹岡を追ってここまで来たら、あの状況です。初めは何かを話していたのですが、あの少女が何かを叫けぶと、拳銃を取り出して笹岡に向けたのです」

「わかった。本部に連絡を、機動隊も忘れずに」

「了解」

紗季はゆっくりと犯人と思われる少女に近づく。

「紗季、待ちなさい」

「危険です。下がってください」

星川が声を荒げる。

千代や星川の制止も聞かずに、紗季は拳を握り締めながら少女に近づいた。

少女は拳銃を握ったまま、男を見下ろしている。

少女がこちらを向き、軽く微笑んだ----気がした。

「た、助けてくれぇ! 勘弁っ、勘弁してくれっ!」

男が泣きながら叫ぶ。

足元の金をかき集めながら、それを少女に差し出す。

「こ、ここ、こ、これでっ、たたす、助け、て」

男はぼたぼたと汗を落としながら、必死に懇願し続ける。

だけど少女は笑う。冷ややかに。

そしてその視線は紗季に向けられた。

「紗季、か」

少女は言って、笑う。

しかし、拳銃はまだ男を捉えたまま。

紗季が一歩、前に出た。

「あなたが、犯人ね?」

異様な空気。

住宅街の閑静な一角。三十メートル四方の空き地。

草はあまり伸びていない。土が悪いのかもしれない。

火事と違って、野次馬もいない。怖いほどの静寂。嵐の前のような静けさ。

おしゃれな家が建ち並んでいる住宅街で、ここだけが空き地。取り壊したわけでもない。少なくとも、ここ数年は何も建っていない様子に見えた。地面の土は、最近掘り起こされた跡がある。子供の遊び場なのだろうか。

夏なのに、少し肌寒い。太陽も西に傾いている。それともここの空気のせいだろうか。

警察もかなりの数が集まってきている。重装備の機動隊もいる。それでも、何も手出しはできずにいた。

近くには公園らしきものが見える。その公園に大きな時計が立っていて、今でも時を刻んでいる。ただ、時間ばかりが過ぎている。午後四時四十五分。

紗季のすぐ後ろには遊井川千代が立っている。

少女と紗季達の距離は十メートルもない。

銃を突きつけられている笹岡聡は、目を閉じて震えているだけだった。

少女は横目で時計を見上げ、少し微笑んだ。

その間も銃は笹岡を捕らえたまま。

「ふふふ、やはり警察だけでは無理だったのかしらね?」少女は微笑みながら首を傾げる。「予測するのは難しいなぁ」

「どうしてこんなことを?」

千代が静かに、冷静に尋ねた。

しかし少女は笑うのを止めるだけで、何も答えない。

「あなたの目的は美智子の両親を殺すことね?」

紗季が聞いた。

「ええ」

少女は頷く。

「福田康子を殺したのは美智子を殺すため。美智子はおばさんを殺すため。だから、目的だったおばさんには残虐な殺し方をした」

「ええ、そう。数回刺したら、舌を噛んで自殺しようとしたから、口の中に布を押し込んでね。もちろん、この男にも同等の苦しみを味わってもらうけど」

「ひぃっ……!」

笹岡聡は頭を抱えて、地面にひれ伏した。

それを、少女は冷ややかに見下ろす。

「あなたは、まず福田康子という女性を殺害した。おそらく、ライブのリハーサル前の朝、福田がマンションから出てきたところで声を掛けるなりして人目につかないよう、倉庫まで移動したんでしょう。そこで、何か硬いもので後頭部を襲った。殺害後、服を脱がし、カードを握らせて、倉庫内に遺体を隠して、施錠した」

ゆっくりと少女は頷き、それが正しいことを認めた。銃を持っていなければ、どこにでもいるような普通の子。それが逆に、紗季には怖かった。それ以上に、悲しかった。

少女は銃を持っていない方の手を広げ、先を促す。

「そのあと、福田の服を着て、自分が着ていた服は処分した」

「そう」少女は微笑みながら頷く。そして刑事に向き直る。「石を包むようにして海に捨てました。探せば見つかると思います」

このとき、紗季はある違和感を覚えた。目の前の少女は堂々としている。それが不思議に思えた。ドラマみたいに、焦燥感が犯人に見られない。現実だからだろうか。それにしても、余裕がある。警察に囲まれているのに。

諦めたのだろうか。

それとも、逃げ切る自信があるのか。

普通じゃない。

捕まることを恐れていない。

まるで、今から死んでもいいというような。

「それであなたは福田のフリをして、マンション内に入った」

「ええ、そう。結局、警察ではここまで辿り着けなかった」

「これで、福田の外出した映像がなかったことが説明できる。帰宅時の映像は、杵島栞、あなただったのね?」



七海はリビングへ向かう。

「バニラ。杵島と親しいやつは?」

「え、杵島? えっと、吹奏楽部の連中じゃねえかな。山村は仲良かったと思うけど」

「なな? どうしたのよ、何かあったの?」

香織が聞いてくる。それを無視して、七海はバニラから携帯を借り、山村にコールする。しばらくして相手が出た。

「もしもし?」

「山村か?」

「え、あれ? これってバニラの」

「今日、杵島と会ったか? 杵島が今どこにいるのか、お前は知らないか?」

七海は遮るようにして尋ねた。

「栞? 栞なら会ってないけど……」

「そうか」

「てか、栞は今日、親の命日だからさ、前々から練習も休みを取っていたし」

「その親はいつ死んだ?」

「かなり前だって聞いたことがあるだけで、詳しいことは……。でも、幼稚園か、それよりも前、かな……?」

「杵島の実家はどこにある?」

「実家? あ、いや、親戚に引き取られたって……。苗字も前は違ったらしいし……」

「場所はわからないのか?」

「あ、いや、実家ってあれだろ? 本当の両親と住んでいたとこだろ? えっと……、あ、そうそう、つばさ公園の近くだって言ってたような気がする」

「つばさ公園だな」

「ていうか、なんでこんなことを聞くのさ?」

「悪い、時間がないから」

「え、あ、おい!」

電話を切り、七海はバニラに携帯を返した。

「おい、説明しろよ、なな」

香織の表情も同じことを言っている。

七海は目を閉じて、ゆっくりと、しかし確実に、思考を開始する。

少し逡巡。しかし贅沢が許されるほど時間は残っていない。仕方がない。

「香織、ミニを出して。説明は走りながらする」



紗季達の目の前で銃を突きつけている少女、杵島栞はにっこりと微笑んだ。それはとても自然な笑みで、強がっている様子は微塵もなかった。

「あなたはライブ当日の昼食後、福田に変装してマンションの玄関から堂々と中に入った。そして美智子の部屋で、彼女に毒を飲ませて殺害した。あとは、同じようにカードを置き、服を脱がせて、それに着替えた」

紗季はそこで言葉を切り、杵島をじっと見つめた。

その場にいる者全員が彼女に注目をする。

しばしの沈黙。誰かの息を飲む音。震えるため息。

「まさか福田が下着を着けてないとは思わなかったわ。おかげで美智子も脱がさないといけなかったし」

「あとは、美智子に変装して、堂々とマンションの玄関から出ていった。これで、福田の外出時、美智子の帰宅時の映像がなかったことが説明できる」

紗季は下唇を噛み、杵島栞を見つめる。

杵島栞はわずかに首を傾けて微笑んでいた。

「そして、美智子を殺して手に入れた鍵で実家に押し入った」

「ええ」杵島栞は頷いた。「あとはこいつだけ」

杵島栞は視線を笹岡聡に戻すと、冷ややかに見下ろし、小さくため息をついた。冷酷なほど目が据わっている。殺すことに躊躇いを持っていない、そんな目だった。

「こ、こっこの金で、ゆゆ、許してくれぇ! な、なんでも、何でもするからぁ、頼む! たす、た、助けてくれぇ」

空き地に、笹岡聡の悲痛の叫びが響く。

「本当に何でもするの?」

少女は笹岡聡を蹴って、銃口を額に突きつけた。

「あ、あああ、な、何でもする! 本当だ! だ、だからぁ、頼む、……殺さないで、こ、殺さないでくれ!」

「何でもするのなら、----死ねよ」

少女の声に、その場にいた者は背筋を凍らす。少女の声とは思えなかった。

紗季も、思わず後ずさる。

「……なっ、そ、そんな」

笹岡聡は泣きながら首を振る。

そんな笹岡聡を、杵島は銃で殴った。

血飛沫。

紗季は顔を背けた。

「や、やめろ!」

星川が叫ぶ。

その声に、杵島は顔を向けた。

目が据わっている。普通の人間の目ではなかった。

少女は足元に落ちている札束を持ち上げ、ぐっと握り締める。

「こんなものが、こんなものがあるから!」

杵島はその札束を笹岡聡に投げつけた。

札束はほどけ、バラバラになって宙を舞う。

落ちている札束を踏みつけながら、杵島は叫んだ。

「こんな、こんな紙切れのために! お前は、お前達はっ!」

拳銃のトリガーに掛かっていた指に力が入ったことは遠目からでもはっきりとわかった。

「銃を下ろせっ!」銃を構えていた警官が叫ぶ。「銃を下ろせ! 抵抗するなら撃つ」

「待って!」千代が叫ぶ。

「動くなぁ! まったく、状況も把握できない馬鹿の集まりなの? 来たら、こいつを殺すわ!」

杵島栞は感情をむき出しにして叫ぶ。

「やれるならやってみろ」男の強気な声。

だが、その刹那。

空気が裂かれる。

小さな爆発音が鳴った。

紗季がゆっくりと目を開けると、笹岡聡の足から血が流れていた。近くにいたためか、耳鳴りがして、周りの音が良く聞こえなかった。少しして、火薬の臭いが鼻をつく。

「やめろぉ! 脅しが効く相手じゃない、それ以上動くな!」星川が警官達に向かって怒鳴った。

警官は唇を噛み、移動するのを諦める。

紗季は震える。非常に怖かった。目の前で、人が殺されようとしている。しかし誰も何もできないでいる。このまま時間が過ぎていけば、笹岡聡も死は免れない。

「どうして、その男を殺したいの?」

千代が一歩、前に出た。

杵島はゆっくりと顔を上げ、千代を睨みつけるようにして、口の端を上げた。

「この男はね、私からすべてを奪ったのよ」吐き捨てるようにして言うと、少女は足元に落ちている札束を蹴った。「こんなくだらない紙切れのために、私達は!」

再び銃が笹岡の額に押し付けられる。

「もうやめてぇ!」紗季が叫ぶ。「もう……、もう、こんなことはやめてよ……。お願い、お願いだからこれ以上は罪を重ねないで! 栞ぃ!」

「紗季……。ごめんね、あなたを巻き込むつもりなんてなかったけど」

「だったら!」

「もう止められないのよ。この男を殺さなければ、終わるものも終わらない」

杵島栞は腕時計をちらりと見た。

銃はまだ笹岡に突きつけられたまま。手に持っている銃が異質なのか、それとも、持っている人間が少女という状況が異質なのか。不釣り合いなのは明白だった。

笹岡は震えながら、足を押さえていた。血が流れている。致命傷ではない。だが、いずれは危険な状態になる。

それでも、この場にいる人間には何もできなかった。

杵島が笹岡に対して殺意をむき出しにしているのは、誰にでも理解できている。少しでもこちらが動けば、迷わず、今度は頭を撃ち抜くだろう。強盗が人質を取っているのとは、わけが違うのだ。逃げたいために、人質を取っているのではない。本気で殺すつもりなのだ、杵島栞は。それがわかっているからこそ、誰も、何もできないでいた。

杵島栞はまた時計を見た。

「……一つ、聞いていい?」紗季が恐る恐る尋ねる。

「何?」杵島はやさしく微笑んだ。

「楽器店よ」紗季は言う。「午後四時以降に美智子と楽器店を見に行ったと言ったわよね。けれど、行けるはずがない。もしもそれが本当なら、美智子は防犯カメラに映らずに部屋へ戻ったことになる。そんなこと、できるわけがない」

「そうね」あっさりと頷くと、杵島栞は微笑んだ。

「だからこそ、あなたの証言は嘘ということになり、あなたが犯人だとわかったわけだけど……。どうして、こんなことを? あなたは最初から捕まるつもりだったの?」

「なるほど」

杵島が小さく呟く。

「え?」

杵島の視線は千代を捉え、静かに頷いた。

「私がすべてをやりました。彼女の言う通りです。間違っているところはありません」

「ジョーカーの意味は?」

千代が質問をした。

「同一人物による犯行に見せるため」

「…………」

千代は鋭く見つめ、杵島と笹岡を交互に見つめた。

「銃を、離してもらえないかしら? これ以上、罪を犯す必要はないでしょう。ゆっくりと事件について話してもらいたい。私には、まだ理解できないところがある」

「いいえ、これ以上、お話しすることはないわ。疑問に感じることは誰にでもできる。そう、紗季は非常に頭が良い。この場にいる、誰よりも。昔から首席だったものね。だけど、残念ながら、天才ではなかった。やはり、天才を止める人間は、天才でないといけなかったのね」

杵島栞は声を上げて笑う。

「どういうことだ?」と星川。

「やっぱり、罠か」千代が小さく呟いた。

「栞!」紗季が叫ぶ。

空き地に響き渡る笑い声。

高い笑い声。

異質な笑い声。

本当に、心底おかしそうに。

そして、銃を笹岡聡の胸に向ける。

「杵島!」星川が叫ぶ。

「やめて!」

紗季の悲鳴。

杵島栞の笑い声。

「そう、もう、誰にも、私を止めることなんてできない!」



香織のミニで住宅街まで走る。

「杵島が犯人なのか?」バニラは信じられないという表情だ。

「ああ」

「それに紗季が気づいたわけ?」香織がハンドルを切りながらちらっと七海を見る。

「たぶん」七海は頷く。「犯行方法がわかれば杵島の証言の矛盾は自ずと見えてくる。それに、あいつは逃げようとしていない」

「逃げようとしていない?」

「ああ。それより、香織、頼むぞ」

「確証はあるの?」

「俺がそう思う。充分だろ」

住宅街に入り、路地が細くなる。

赤灯が数台見えた。それに伴って大勢の警官がいる。

七海は車を降りて、そちらに向かう。

空き地。真ん中に少女。杵島栞。

警官が邪魔でよく見えない。何人かが振り返った。そして、こちらに向かってくる。

「君、危ないから……」

左脚を強く踏み出し、相手の右足につける。

自分の右足を左足に引きつけ、シフトする。

相手の首を掴み、腰を捻ると同時に、地面に叩きつけた。

「邪魔するな」

「なんだ、お前は?」

数人の警官が、七海を囲み、襲い掛かる。

左にいる警官の左腕を、右手で掴んで引っ張る。

できたスペースを通り抜け、迷わずに真ん中へと走る。

紗季。

遊井川刑事。

そして杵島栞。

持っているのは拳銃。

口径は大きくはない。

それは男に向けられている。

笹岡の父親か。足を撃たれている。

地面には掘り返された跡。

アーモンドの臭い。

五十一分。

杵島と視線が合う。

驚きの表情。

三人がこちらに振り返る。

「なな!」

「三咲くん……」

七海は杵島へ歩み寄る。

「動かないで!」

「…………」

「それ以上こっちへ来たら、こいつを殺すわ!」

銃は笹岡の父親に向けられている。

七海は笑う。何を勘違いしている、こいつは。

七海は止まらない。最短距離を、まっすぐに。

「やめろぉ! そいつは本気だ、下手な挑発はするなぁ!」

誰かが何かを叫んでいる。

まったく、どいつもこいつも。

「動かないで! 三咲くん!」

杵島が叫ぶ。

銃声。

「ぎゃあああ!」

男が脚を押さえて叫ぶ。

七海は呆れ、苦笑した。

「そいつを止めろ!」

周りにいた警官が七海を取り押さえようと向かってくる。四人。

「邪魔するな」七海は睨む。「殺すぞ」

「----っ」

警官達は動きを止めた。

七海は振り返り、迷惑な命令を出した人間を探す。

声から男。命令を下せる人物。県警の刑事。

「おい、今度俺の邪魔をしてみろ。お前から殺すからな」

念のため、遊井川も見て釘を刺しておく。

「三咲くん……」

「さて、と」

「あなたはいったい……?」

「ただの機嫌の悪い高校生だよ」

言って、七海は再び距離を詰める。

ゆっくりと、確実に、最短距離を。

「?」

七海の目的である杵島の前に、血塗れになりながら足を押え、嗚咽を繰り返している男がいた。七海は嘆息を一つ。

「邪魔だ」

七海は瀕死の男を横へ蹴り飛ばした。

「----っ!」

全員が呆気に取られる。

男は悲鳴を上げる代わりに大量の血を吐いた。白目を剥きながら、痙攣を繰り返す。

「----なっ、な、何をしてるの、あなたは……?」

杵島も、目の前で何が起こっているのかまるで理解できていない様子だった。

しかし、首を傾げたのは七海だった。

「なんだ? お前が殺そうとしてたのに、今じゃ心配なのか?」

七海は鼻を鳴らす。

「どうして俺が、見ず知らずの男を助けなくちゃいけない?」

「……それは」

「殺人犯が俺に倫理を振りかざすのか? 悪い冗談だな」

「…………」

「俺の目的はお前だ。そしてその邪魔をするのなら、誰だって容赦はしない」

誰も何も言えない。状況が飲み込めていない。唯一わかっていることは、少なくとも、緋色の髪の少年は正義の味方でも何でもないということだ。

そしてこの状況。

ある意味では最悪の状況だった。

最悪の状況に陥って初めて、人は自身の愚かさに気づき、後悔の念に駆られるのだろう。

この場にいる三咲七海という存在の意味を、わずかでも理解できる人物がいるのだとするのならば、自身の愚かさ、浅ましさ、それらを恨まなくてはならない。

絶対に触れてはならない禁忌に、触れたのだ。

その絶対的な事実を理解できている人間は、この場には多くても二人しか存在しない。

一人は、朝比奈香織。早苗や七海との付き合いが長い彼女には、間違いなく他の誰よりもこの事態を理解していることだろう。

そしてその香織に及ばずながらも、わずかでも理解できる、という意味において他の一般人とは一線を画す人物なのが、遊井川千代だ。そしてこの現状を、誰よりも後悔していたのは、他でもない千代だった。彼女の認識が甘かったのは言うまでもなく。

そしてそれを誰よりも自身が理解している、痛感しているからこそ、彼女は精一杯、自身の持つ最大の権力を行使して、七海の邪魔をさせないよう、部下に言い聞かせていた。

幸か不幸か、男は瀕死の状態からさらに追い打ちを掛けられる形とはなったものの、位置的に警察の近くへ倒れたことにより、保護することができる。

少なくとも、七海が介入したことにより、拮抗していた事態は急変した。

もちろん、七海にとってそんなことはどうでもいいことだった。

歩み寄り、距離を詰める。

「わかるか? 俺は不機嫌なんだよ」

「…………」

「ま、お前のせいだけどな」

「……私が美智子を殺したから? それで、怒っているの? 私を殺しに来たの?」

「さすがに馬鹿だな。なるほど、助けが必要なわけだ」

「----っ!」

杵島はぶるぶると震えだす。

顔は蒼ざめ、銃口を七海に向けた。

「あなたは! あなたはいったい何なのよぉ!」

「言ったろ」七海は肩を竦める。「それとも、俺が何だったら気が済むんだ?」

「邪魔をするなら、あなたから殺す」

杵島は歯を食いしばり、七海を睨みつける。

「……邪魔は、邪魔はさせない!」

「本っ当に、馬鹿だな、お前は」

七海は笑う。


「邪魔しに来たんだよ、俺は」


「くっ!」

「俺の夏休みを潰した代償、きっちり払うまで逃がさねえぞ。それから死ね」

「ああぁぁぁっ!」

杵島は引き鉄を引く。

七海はそれと同時に踏み込む。

右手で銃を持っている手を弾く。

そのまま手首を掴み、左手をそえて、右腕を引き、相手の腕を折った。

「うぐっ」

跪いた杵島の左腕へ間髪入れずに右足を振り抜く。骨の折れる音が鈍く響いた。

「ぐあぁっ! ……つぅ、うぅ、っがあ……」

痛みに悶え倒れた杵島にゆっくりと近づく。

「終わりだ、杵島」

「……く、な、なぜ? うぅ、なぜ、邪魔をするのよ……」

「理由が必要か? 気に喰わないからだよ」

「ふ、ふふふ、気持ち、いいくらい、す、ストレートね……」

杵島は笑う。涙を流しながら、微笑んだ。

「お前らの背景に何があるのか、まるで興味ないからな」

「そうね……」

杵島は荒い呼吸を繰り返しながら頷いた。

「……綺麗ね、あなたも。美智子とは違う綺麗さがある」

「綺麗?」

「美智子だって、あの男を憎んでいた」杵島は睨む。「だから、私は、私はっ!」

「笹岡も協力させようとしたのか?」

「……だけど彼女は首を縦には振らなかった。辛い思いをしてきたのに、あの腐った男に虐待をされてきたのに! すべてを話した……。だけど、理解してくれなかった。……ううん、理解はしてくれた。それでも、彼女は私を説得しようと、やめさせようと……」

「…………」

「私は、彼女が、許せなかった。どこまでもやさしくて、綺麗な美智子が、憎かった。わからなくなった。あの子は私の大切な友達だけど、私の両親を奪った屑どもの子だ! あの子の微笑みの向こうに、自分の親の悲痛の顔が浮かんだ! でも殺したくなかった。だから、話した。でも彼女は、最後まで首を振らなかった。最後まで……。だから、だから、だから私はぁ!」

「屑はお前も同じだろ」

七海は杵島を睨む。

「ぐ、あなたに、あなたに私の何がわかるっていうのよぉ!」

「何も。多少、目に余るかわいい母親と二人暮らしだが、何も不自由なく暮らしているからな。同情を誘うための悲劇のヒロインなら、文化祭か何かでやれ。目障りだ」

「……くっ、うぅ……」

「このくだらない世界に生きてれば、誰だってそれなりに辛いことがある。だがそれを理解もせず、ただただ自分だけの悲劇を他人に押しつけんな」

杵島は涙を流し、そして自嘲的に微笑んだ。

「……説教ならたくさんよ。もう、遅いわ。何もかも、ね」

杵島は自身の腕時計を見て、含みのある笑みを七海に向けた。

「もう誰にも止められないわ。私の、勝ちよ」

「殺してやろうか?」

「え……?」

杵島は目を大きく見開き、七海を見つめる。眉を寄せ、怪訝な表情を浮かべる。七海の言葉の真意を探っているようだった。

しかし七海は、微笑むだけ。

「かわいい高校生のささやかな楽しみを潰したんだ。たとえ神様がお前を許したとしても、俺は絶対に許さない。笹岡を殺した罪はあの世でもどこでも償えばいいが、俺の夏休みを潰した罪はそうはいかない。きっちりと払って貰う」

「……あなたは何を……」

「わからないか?」

「…………」

「殺してやるよ」七海は笑う。「誰が死なせるか」

「----っ!」

杵島は慌てて銃を拾おうとするが、折れた腕を見て、顔を蒼くした。そして七海と時計に素早く視線を動かした。

すべてを悟った瞬間だった。

杵島の思考がようやく理解に追いつき、彼女は最後の手段に移行する。

だが----。

それが叶うはずもなく。

七海の蹴りが彼女の顎を捉え、わずかな慈悲もなく、貫いた。


10


七海は空き地の裏手にある公園内に設置された時計を見る。

午後四時五十七分。

だが今の正確な時刻は五時を回っていた。現に、杵島栞の腕時計ではそれを示している。

倒れたまま動かない杵島を確認し、拳銃を拾い上げた。

「なな……」

少し離れたところに立っていた紗季が心配そうに駆け寄ってきた。

「よう、無事か?」

「え、うん。私は。それより、栞は?」

「ああ」倒れている杵島栞には一瞥もくれないまま、七海はその場を離れる。「大丈夫なんじゃない? よくわかんないけど」

「そんな無責任な……」

「俺に何の責任があるんだよ?」

「七海ちゃん」

遊井川千代刑事が厳しい表情のまま近づいてくる。後ろの方には香織とバニラの姿も確認できた。

「間に合ったみたいですね」

「ええ。指摘どおり、簡素な作りだったわ」

「え、何? どういうこと?」紗季が説明を求めるように、七海と遊井川を交互に見る。

「ここの足下に、爆発物が仕掛けられているのよ」

「え」

「これから処理班を呼んで撤去作業に入るんだけど」

「だ、大丈夫なのっ?」

「ひとまずはね。公園の時計のチャイムと連動して爆発するように作られていたから、とりあえずは大丈夫だと思う」言って、遊井川は時計を見上げる。

時計の針は五十七分を指したまま止まっている。

「とはいえ、息がつけるほどの状況でもないけどね」

遊井川は表情を引き締めると、部下に指示を出した。警官が杵島栞に二人、走っていく。全員がせわしなく動き回る。笹岡聡は警官に付き添われて、空き地の外で待機していた救急車で病院に搬送されていったようだ。

七海は拳銃を遊井川へ渡した。

「お礼を言うべきね、七海ちゃん。ありがとう、おかげで助かったわ」

「ええ、まあ。感謝されるのは心地悪いものではないので、それはいいんですけどね。僕としては、そんな目に見えないものよりも甘いものが貰えれば幸せです」

「用意しておくわ」遊井川は腰に手を当て苦笑する。「とびっきりの」

少しはマシになったかな、と七海は思う。とはいえ、最悪の範疇の抜け出たわけではない。それほどまでに、今年の夏は悪すぎた。

担架に乗せられ、杵島栞も救急車で搬送されていった。

それを見送り、七海は欠伸を一つ。そしてすぐに思考を展開させた。

仕方がないとはいえ、いろいろと予定が狂ってしまった。大した影響を与えるとは思えないが、それでも……。反省でも後悔でもない。ただ、留意すべきことはいくつかある。少なくとも、夏休みはもっと怠惰に過ごすべきだ。

「帰るか」

そして七海はまるで何事もなかったように、いつもの調子で歩き出した。

周りの警官から尋常ではない視線を集めていたが、そんなことに気を回すほど、暇ではなかった。どうでもいいことだった。

七海はピンチに駆けつける正義の味方でも、事件を鮮やかに解き明かす名探偵でも何でもない。ただの高校生である。今までの夏休みの中でも、ワーストランキング上位に入ってくるようなものだったが、それでも少しすればほとんど形を残さないほど忘れることだろう。七海にとって、今回の事件などそれだけのことでしかない。香織の手抜き料理の方が、彼にしてみれば問題だった。

七海のしたことは、独善でも偽善でもなく、ましてや事件解決などでもない。ただの子供染みた八つ当たりだ。それゆえに、ある程度の怒りを発散してしまえば、どうでもよくなってしまうのは当然のことと言えた。

警察としてはそれで済まされないだろうが、それも七海にしてみれば関係のないことだった。遊井川が何とかしてくれるだろう。そうでなければ、矛先を変えるだけだ。

ため息をつき、早苗のことを想った。

まったく。どんな気分で旅行を楽しんでいるのやら。こんな目に遭うのだと知っていれば、何が何でもついて行ったのに。愛も変わらないラヴコールは今夜も掛かってくるだろう。文句の一つでも言ってやろうと、七海は思った。

第6章 終わらない夢を見ぬために


いかに綺麗に死のうとも、

醜くも生きる方が美しい。



遊井川千代は困惑していた。部下である星川真琴は到底納得できないという表情を微塵も隠そうとせず、遊井川へと向ける。

問題は言うまでもなく、三咲七海の介入についてだった。

星川の気持ちは痛いほど理解できる。その反面、彼を納得させるだけの材料を遊井川は持ち合わせていないために、あれこれと言葉を繕ってやる必要があった。しかし、どうにも充分な理解を得られるとは思えなかった。

「あれは何なんですか?」

「ああ……」どうしたものか、言葉に詰まる。「えっとね」

「警官や瀕死の状態だった笹岡聡、それに杵島栞まで。あんな凶行、あれを見過ごすなんて。あのまま帰していいわけがない。どうするんですか?」

「どうもしないわ」

「……本気ですか? 今まで様々な凶悪な人間を見てきましたが、あれほど、あれほど冷酷な目は見たことがない。連続殺人犯である杵島よりも、あれは危険な存在です」

「うーん。でも彼のおかげで助かったのも事実よ」

「それは」

「彼が何の気まぐれであんなことをしたのかわからないけれど、少なくとも、事件の真相に気づいたのは彼以外にいない。今、こうしてあなたと私が話しているのも、彼がいたからよ」

「彼は、何者なんですか?」

「ただの高校生よ」

何か言いたげな星川を、遊井川は片手を広げて遮った。

「あなたはとても優秀な刑事だから納得はできないでしょうけど、彼には関わらない方がいい」

「……それは、上司としての命令でしょうか?」

「あなたより少し長く生きている先輩としての、忠告よ」

「…………」

「優秀な部下を失いたくないというのが上司としての素直な気持ちよ。酌んでくれないかしら、優秀な部下なら」

「……納得は、できません」

遊井川は肩を竦め、ため息混じりに苦笑を見せた。

仕方がない。それが普通の反応だ。何も聞かずに理解しろというのが無茶な話なのだ。とはいえ説明するわけにもいかない。正直なところ、遊井川自身も三咲七海について詳しく知っているわけではない。だから説明したくてもできないのである。

娘の同級生、あるいは三咲早苗の息子であるということしか、知らないに等しい。それでも、彼の機嫌を損ねるのは好ましくないということだけは、嫌というほど理解している。

彼は何よりも干渉を嫌う。するのも、されるのも、とにかく異常に嫌悪する。執拗に干渉し続ければ、間違いなく、今回の事件とは比較にならないほどの悪夢を見ることになる。

三咲七海が何者か。それを問われたところで、ただの高校生としか言えない。そんな凡庸な答えしか持ち合わせていない。

ただの高校生なのだ、本当に。

……今は、まだ……。

星川は渋い顔を見せながらも、仕事に戻っていった。不満は残っているようだったが、今日のところは引き下がってくれた。もともと飲み込みの早い男ではある。

もっとも、現在いるこの場所が病院のロビーということも少なからず影響している。署内ならば、ここまで大人しく引き下がってはくれなかっただろう。

遊井川は短く息を吐き、杵島栞の病室へと向かった。

五階廊下の突き当たり、杵島の病室の前では制服を着た警官が二人、綺麗な姿勢で立っていた。遊井川に気づくと二人はさらに姿勢を伸ばし、敬礼を見せる。片手で応え、中へ入った。病室では杵島栞と遊井川紗季の二人が話をしているようだった。

「意識は戻ったようね」なるべく、柔らかい口調を努めるようにしながら、遊井川は娘の隣の椅子に綺麗に足を揃えて腰を下ろした。

杵島栞は両腕をギプスで固定され、顔にも顎の辺りを包帯で巻かれている。

「……全員、助かったんですね」遠くを見つめるように、杵島はそう言った。

「ええ」

そこで杵島は小さなため息を漏らした。

しばし沈黙が続いたあと、息を漏らすように軽く笑った。

「三咲七海……。彼は何者なんですか?」

「さあ」遊井川は苦笑し、素直に答えた。

「彼は残酷……」

「残酷?」紗季が聞き返した。

「残酷すら生温いかもしれない。彼は私に死を選ばせてくれなかった。私のすべてを殺しておきながら、死だけは許さなかった。もう、生きていても意味がないのに……」

「栞……。そんなこと言わないで。生きていても意味がないなんて、そんな悲しいこと言わないでよ」

紗季が涙を浮かべながら言う。

「私は、私はずっと、あの男を殺すために、そのためだけに……。そのために、友達も手に掛けた。……何のために、何のために私は、私はっ……」

残酷、か。この事件の加害者であり、三咲七海の被害者である彼女のその感想は、正鵠を射ている。殺人は、相手のすべてを奪う。だが三咲七海の場合は、そうではない。すべてを奪った上で、生かし、苦痛を与える。それは、たしかに残酷だ。殺人よりも恐ろしい。

「どうかしら? 今回の事件について、詳しく話してくれるとありがたいのだけど」

「……笹岡聡は?」

「一命は取り留めたみたい。あなたにしてみれば、残念な話でしょうけど」

杵島は逡巡したあと、少しずつではあるが、今回の事件について話し始めた。

今から十五年前の夏、ある会社で横領とそれに絡んだ殺人事件が発生した。会社の金を横領するために事務員を殺したとして、ある男が疑われた。しかしその疑われた男は妻とともに自殺を図り、消えた大金の行方と事件の真相は掴めないままとなった。それが杵島の両親だった。杵島はまだ二歳だった。

その事件については、遊井川も朧気ながら覚えている。捜査が進んでいくうちに、犯行は一人では不可能ということがわかり、複数犯による犯行の可能性が高いと警察は睨んだのだが、事件は結局そのまま解決には至らなかった。

「濡れ衣だった。私の父親は横領とは何ら関わっていなかった。むしろ、横領の証拠を掴み、犯人が誰か突き止めていた。……だから、口封じのために自殺に見せかけられ、殺されたのよ」

「その犯人が、笹岡夫妻だと?」

「ええ、そう」杵島は悔しそうに顔を歪め、視線を落とした。

「どうしてそれに気づいたの?」

「……数年前に両親の遺品を整理していた際に、その横領の証拠が出てきて、それを笹岡に問い詰めても、嫌らしい笑みを向けるだけだった。あいつ何て言ったと思う? 『今ごろ、何だ』とそう言ったのよ、あの屑は。だから、殺すしかないと思った」

彼女の話をすべて聞いても、事件の全容がわかったわけではなかった。事件を起こす切っ掛け、背景を知ることはできたが、肝心なことは隠しているように、遊井川は感じた。理解はできたが、納得は行かない。無論、この事件を恐ろしく強引な方法で終わらせた三咲七海にはすべてがわかっているのだろうが、彼がそのことについて話してくれるとは到底思えなかった。

「今回の事件はあなたが計画を?」

「ええ」

「…………」

遊井川にはそうは思えなかった。彼女が犯人で間違いはないだろうが、それでもすんなりと納得がいくというわけでもない。とはいえ、仮に遊井川の勘が正しかったとしても、彼女がそれを認め、またそれについて話したりはしないだろう。これ以上の聴取は徒労に終わる。それは部下に任せ、自分は別方向からアプローチを思惟しなければならない。

横目で自分の娘を見た。親しい友人になら真相を漏らす……、なんていうのはいくらなんでも都合が良すぎるか。

……どうせ助かった命だ。運良く拾ったようなもの。もっと強気に行こう。

遊井川は病室をあとにすると、高級洋菓子店へと向かうことにした。



「むぅ……」

非常に情けない声を、三咲七海は朝比奈香織の膝の上で上げた。

美人に膝枕をして貰っておきながら上げるような声ではないが、どうやら体調が悪いみたいだった。偏頭痛が治まらない。今に始まったことではないが、最低の夏休みである。

「むぅ」

「だから、病院に行きなさいよ」

「……やだ」七海は呟くように言って、香織に膝に顔を埋める。

「んなこと言ったって。病院行って、あんたの好きな女医や看護師に看てもらえば?」

「近くの市民病院の看護婦はだめなんだよ。制服がワンピースじゃなくてジャケットなんだ。あんなの、看護婦として失格だ。俺が求めてるのは医療従事者じゃないんだよ」

そんなセリフを何の迷いもなく言い切る辺り、高校生とは思えないくらい完成された変態具合である。

「知らないわよ」そんな変態に呆れて、というよりは諦めて、香織は肩を竦めた。「それから、看護婦じゃなくて看護士よ。今のご時世、セクハラになるのよ?」

「何がセクハラだ。何でもかんでもセクハラ、セクハラと。まったく、冗談じゃない。俺が本当のセクハラを教えてやろうか」

「誰によ?」

「なんで、こんな目に。俺が何かしたか?」

「思い当たらないのが凄いわね。どんな認識力よ」

「……もう嫌だぁー! 頭が痛いー!」七海は香織に抱きついて泣きすがる。

「だから病院行けって言ってるでしょ!」

まったくもって最悪である。同じ頭痛なら、大好きなアイスを目一杯食べて起こしたいものだ。特売が潰れた今、せめて頭痛だけでも、と慈悲深い神様の贈り物なのかも知れない。かわいい女神になら足蹴にされてもいいが、ただの頭痛に色気はなかった。

「うぅ、痛い……」

「あっそ」素っ気ない返事とは裏腹に、香織の頬は緩んでいる。「私は、男の子が痛がってるの見るの好きだけどね」

「…………」

七海が香織を睨んでいると、家のインターフォンが鳴った。この時点ですでに居留守を決め込んでいる七海であったが、残念ながら膝枕が立ち上がってしまった。

頭痛がさらに酷くなる。まだ終わらないのか、この夏は。

香織によってリビングに通されたのは、遊井川千代刑事だった。

「こんにちは、七海ちゃん」遊井川は微笑みを向ける。

「どうも」七海はソファから起き上がり、怪訝な顔をした。

「約束してたでしょう? お礼はするって」遊井川は笑顔で、七海の目の前に黒い箱を置いた。

七海だけでなく、香織の目の色も変わった。

「千代さん、これ」

「ヴァローナのザッハトルテ。気に入ってくれると嬉しいけれど」

七海は頭の痛みも忘れ、夢中で箱に飛びついた。

世界一有名なチョコレートケーキの王様。ザッハトルテ。それも、最高級品。

「ああ、あなたはなんて素敵な人妻なんだ!」

恍惚の表情で七海はケーキを見つめ、最高の笑顔を見せる。この夏一番の笑顔だった。言うまでもなく、変態である。

「どんな褒め言葉よ、それ」香織が嘆息して言う。

「黙ってろ、嫁き遅れ」

「ああ?」

七海と香織が睨み合っていると、遊井川が間に割って入ってきた。ただ、それは二人の仲を取り持つように、仲裁に入ってきたわけではなかった。

「あ、えっとね、七海ちゃん?」

「?」

「そのね、ケーキは全面的に謝意を表したものなんだけど、あの、よければね、事件について少しだけでも話が聞けたらなって……」

遊井川が言い終わる前には、七海の渋面が飛び込んでいた。それは決して、香織の細くしなやかな指が七海の頬を思いっきり抓っているからだけではなかった。

「ほら、警察に協力しなさい」

「俺は善良な市民じゃない」七海は舌を鳴らす。「杵島は? あいつが犯人なんだから、あの馬鹿に聞くのが普通でしょ」

「そうなんだけどね。ただ、どうにも何かを隠しているような気がしてね」

「あのやろう……」

「もちろん、これとは別に謝礼を用意させて貰います」

「千代さん、こいつにそこまでのことする必要なんてないですよ」

「あの場にいた無能の正義の集団、有象無象の税金泥棒達を助けた、命の恩人だぞ? そんな天使さえも抱かれたいと思うようなかわいい高校生に、そのくだらなく、まるで価値のない人生を捧げることを誓ってもおかしくはないだろ」

「なら、そんなごみみたいな人間達を助けたぐらいで胸を張ることもないでしょ」

「むぅ。たしかに、一理あるな」

「…………」

二人の辛辣な物言いに、遊井川はすっかり言葉を失った様子だった。

七海は面倒そうに欠伸をしてから、ゆっくりと遊井川へ向き直る。そして一つの妥協案を提示した。

「今回の事件に動員された捜査員の数、それだけのザッハトルテで手を打ちましょう」

「え……」遊井川の表情がわずかに強張った。

ヴァローナのザッハトルテは、決して安くはない。今日、彼女が手みやげとして持ってきたものでも、一万円を超える代物だ。今回動員された人数は百から二百人ぐらいだろうか。金額にすれば数百万円になる。もちろん、それらをわかっている上での条件だ。

「何か不満でも?」

「え、いや、それは……」

「たしかに、ザッハトルテの価値に比べれば、事件も満足に解決できない警察など、惨めなものですものね。そんな屑でも、ザッハトルテが買えるだけの給料は貰ってるはずでしょ? 別に遊井川さんに買えなんて言ってないですよ。貰いましたしね。ただ、他の人間はどうなんだ、ってこと----にゃ?」

香織の白く綺麗な指が、先ほどよりも深く強く、七海の頬を抓み、引っ張り、そしてそのままリビングの外へ引き摺っていく。

「ちょっと来い、馬鹿やろう」

「にゃ、にゃああああ!」

頬に走る激痛に顔はもとより声まで曲げながらも、抵抗できずに七海は引き摺られていった。このとき頭の中ではなぜかドナドナが流れ、そして有名なプロレスラーがインタビューで最も痛い技は何かと聞かれ、「抓りですね」と即答していたことを思い出した。

「…………」

そんな二人を、遊井川は静かに見送っていた。



事件が一応の収束を見せて数日。気がつけば夏休みも最終日。山積みになっている課題に追われることもないまま(紙片回収に出したため)、最後だからと言ってはしゃぐわけでもなく、七海はアイスを食べながら、だらだらと、とことん、だれていた。

「……だるい」

七海はため息をついた。アイスがおいしくない。夏なのに、おいしくない。

暑さも緩んできた夕方。

紗季の迎えで、七海は家を出た。

「数珠、ちゃんと持った?」歩きながら、紗季が振り返る。

「ああ。持ってなかったから、香織から借りた」

今夜は笹岡美智子の通夜がある。場所は近くの葬儀場で、歩いても数分程度のところなので、近所の紗季と一緒に行くことにし、バニラとは向こうで会う約束になっていた。

距離としてはすぐそこなのに、どうにも足取りが重い。紗季に合わせて歩いているので、なおさらだった。友人が死んだだけではない。殺されたのだ。その上、殺した人間も友人だった。高校生が受けるショックとしては、これ以上考えられないものがある。

葬儀会館が近づくと、喪服を着た人間がちらほらと見えてくる。駐車場はすでに溢れており、建物の前はかなり混雑していた。

バニラと合流し、列に並んだ。当然ながら、バニラの表情も暗く、険しかった。

初めてだった七海だが、見様見真似の焼香で何とか誤魔化し終えて、外に出た。

建物の外では山村達が泣いていたので、思わず足を止めることになった。男勝りな山村も、今は見る影もなく子供のように泣いていた。大粒の涙が彼女の頬と服を濡らしている。その隣には岩下も見える。眉間にしわを寄せ、下を向いていた。泣いてはいない。だがそれでも、気丈に振舞ってはいても、どこか寂しそうな風に感じ取れた。

「本当に、死んだんだな……」

隣でバニラがぼそっと呟いた。

「…………」

「実感したわけじゃねえけどよ、それでも、な」バニラは無表情で呟くように、そっと続ける。「まさか同級生が死ぬなんて……。改めて思うよ、つくづく嫌だな、人の死ってのは。ただ死んだだけならまだしも、さ」

皆が皆、思うところがあるのだろう。親族だけになっても、同級生、特に吹奏楽部の面々は最後まで残っていた。紗季達も、涙を流しながら笹岡のことを話していた。

七海はただ、それを端で眺めているだけだった。帰っても、寝付きは悪いだろうし、無理に寝たところで、つまらない学校が始まるだけだ。

飲み物が欲しくなったので、外にある自動販売機で缶コーヒーを買うことにした。小銭を財布から取り出そうとしているとき、駐車場に敷き詰められた石が鳴った。足音の方を見ると、若い男がこちらに歩いてきた。

男は七海の隣で立ち止まり、煙草を取り出して火をつけた。目を閉じ、静かに天を仰ぐ。

「残念だった」

男の流れるような長髪が、わずかな風に吹かれて揺れた。じっと、目を見据えられる。

「この結末はどちらだろうね。……最良なのか、それとも最悪なのか」

「どちらでも、何かが変わるわけじゃない」

男は肩を竦めると、七海を見ながら微笑んだ。

「ああ、君はとても素晴らしい」

犯人は計画通りにことを進めただろう。だけど、不運は重なるものだ。

流れるような長髪。美しいと感じるその身のこなし。わずかに青みがかった瞳。

そして。

「杵島栞の、最大の失敗は、君を巻き込んでしまったことだろうね」

男は綺麗な発音で、そう言った。

七海をじっと見据え、やさしく微笑む。

「杵島栞の、失敗、か」

七海は鼻を鳴らした。

月明かりが良く、周りも明るく照らされている。

「まさか阻まれるとは思いもしなかっただろう、彼女も」

男は前に回り、微笑む。そして七海を見つめる。

周りには誰もいない。月明かりに照らされた七海と男の二人だけ。

七海はため息をつき、そして言う。


「ジョーカーは、あんただな?」


男は口の端を上げる。

満足そうに微笑みながら、七海を見ている。

「警察や遊井川紗季さんでは無理だった。彼女達はあくまでも杵島栞が起こした事件について理解しただけ。だけど、君は違うようだ。君はすべて理解している」

「……山村達が口を揃えて、あんたのことを冗談好きなイケメンだと言ってたよ」

「なるほど、冗談が過ぎたようだ」

ジョーカーは、ジョークという動詞にRをつけたもの。つまり、冗談を言う人という意味になる。冗談好きの人間を指す言葉だ。そして、あるいは、道化師。

今回の事件の鍵は、ジョーカーにある。すべての現場に置かれたジョーカーのカード。それが持つ意味を正しく理解してやれば、全容は自ずと見えてくる。

男、神代由紀は嬉しそうに微笑みながら、七海を見ている。

演奏の際、この男は指揮者をしていた。冗談好き。

今回の事件の犯行計画を描いたのは、杵島ではなく、この男。

「今回の事件は、実行犯である杵島は逃げようとしていなかった。むしろ逆。警察にある程度マークされるように自ら仕向けていた節がある」

「そう。しかし、捕まることが目的でもない」

「福田は笹岡を殺すため、笹岡は母親を殺すため、そういう風に考えていくと最後に行き着くのは、警察になる」

「無能な警察が悪い。彼女の両親は、笹岡夫妻によって殺されたが、だが真実を暴けなかった、警察にも落ち度はある。殺される理由としては充分だ」

「……そして、あいつの本当の目的は、すべてを終わらせての自殺。笹岡聡も警察も、そして自分も消そうとした」

「そう……。誰も、ここまではたどり着けなかった」

「爆発は午後五時に起こるはずだった。少なくとも、杵島自身はそう思っていた」

実際には午後五時になると鳴る時計の鐘が起爆のスイッチとなっていた。一見、その差はほとんどないように思えるが、実はこの差は大きい。時間を止めることは不可能だが、時計の針を止めることはできる。

「誰かに止めて貰いたかった。だから、ジョーカーを残した」

神代は静かに頷いた。

ジョーカー。

笹岡が殺されたため、激励会のプログラムは変更になった。仲村の話では、本来、最後の二曲は最初のものだった。あの日演奏された曲順に、タイトルの頭文字をつなげると、JOKERになる。それだけだが、吹奏楽部の人間を疑うには充分過ぎるほどの材料だ。

殺害方法なども、笹岡みちよも衣服を脱がすなどしておけば、防犯カメラの映像の謎もあれほど簡単に看破できなかったかもしれない。

この事件には無駄が多い。もっと確実に、もっと効率良く、被害を最小限に抑えることができる。でもだからこそ、杵島が逃げようとしていないこと、そして今回の計画を立てた人間は、彼女を止めて欲しかったことがわかる。

「だが、彼女の意志を無視し、無理矢理止めることは、彼女を殺すのと変わりない。それでは意味がない。彼女の気持ちは痛いほど理解できる。だけど、僕は彼女がこれ以上苦しむ姿を見たくない。葛藤したよ、長い時間を掛けて」

「それでこんな風に?」

「ああ。彼女の計画を止めてもらいたいという想いから、ヒントである、ジョーカーを残させた。もしも事件を止める者が現れたときのために、爆弾も簡単に処理できる構造のものにした」

あの時点で爆弾の存在に気づける者こそ、杵島を止められる者だ。複雑な構造にしてしまえば、処理に手間取って止められないこともあり得る。

「矛盾しているようだが、至極単純だ。彼女を想うからこそ、手伝ってもやりたいし、止めてやりたいんだ。もっとも、誰にでも止められるわけじゃない。今回の、ジョーカーの意図に気がつける人間が干渉した場合、どう転んでも歯が立たない」

杵島は恐らく、ジョーカーの真意に気づかず、残したのだろう。犯行をしやすくするために。神代の助言通りに。

「この結果はなるべくしてなった」神代は言う。「杵島栞もそれは理解している」

今回の犯行には無駄が多い。しかし、準備など、一つ一つは手際が良過ぎる。杵島栞一人の犯行ではない。高校生がシアン化合物や拳銃などをすんなりと手に入れられるわけがないとは言わないが、すんなりと手に入れるほどの器量があれば、もっと無駄のない犯行になったはず。

大筋の犯行計画は恐らく杵島栞が描いたものだろう。そして必要最低限の添削をしたのが神代由紀だ。犯行に必要な下準備も神代だろう。

わざと、杵島は警察にマークをされようとした。だけど、あるときまでは捕まってはならない。つまり、捕まるのはまずいが、まったくのノーマークでも意味がなかった。

笹岡聡の場合、被害者三人と共通点がある唯一の人物だ。娘と妻、そして常連の店のキャバ嬢。警察はマークするだろう。これは、たぶん笹岡に逃げられないためや、最後の犯行をやりやすくするためだ。

「君に聞きたいことがある」

「聞きたいこと?」七海は首を傾げる。

「君ほどの頭脳を持った者ならば、その気になればこの事件は一瞬で看破できるはずだ。なのに、君が介入したのは最後の最後だけ。つまり、君は事件に興味を持っていなかっただろう?」

「ええ」

「同級生が殺された事件に興味を持たないほどの君が、この事件に介入することになったきっかけは何なのか、興味があってね」

「……アイスだよ」

「アイス?」

きょとんとした顔で首を捻る神代。さっぱり理解できていない様子だった。まるで予想していなかった言葉に混乱しているようにも見える。

「あんた達のせいで、アイスの特売が潰れたんだよ」

「それだけ?」神代は首を傾げる。

「充分だろ?」七海は頷いて、言った。

「ふ、アイスか。たったそれだけのことで、彼女の計画は潰されたのか」神代は笑った。「おもしろいね、君は」

笑い事ではない。おかげで最悪の夏休みだ。

「代わりに、いいことを教えてあげよう」

「?」

「笹岡聡と取り巻きの警官は殺したよ」

神代は笑う。何も恐れていない、そんな笑みを七海に向ける。

神代が笑うのをやめると、鋭い、刃物みたいな視線で七海を見た。

「当然だろう? あいつは死ななきゃならない。彼女の計画が頓挫したのなら、それを引き継ぐのが僕の役目でもある」

「…………」

「さて、話はおしまいだ」

神代はスーツから拳銃を取り出した。それは七海の眉間に向けられる。

「君には感謝している。だから、せめてもの気持ちに、苦しまずに殺してあげるよ」

「感謝の意味、知ってんのか? 感謝している人間に向けるものじゃねえだろ」

「くく、まったく、君は。この状況でも減らず口が叩けるとはね」

七海は舌を鳴らす。

葬儀場で死んでみろ、あとで何を言われるかわかったものじゃない。それに、どうせなら綺麗なお姉さんの美脚に踏まれながら死にたい。

……こんな状況でも、自分自身には呆れるしかなかった。

「君は知り過ぎた」

七海は息を吐く。

ここで死ぬなら、殺されるなら、俺の人生もここまでだ。

七海は笑う。

「さあ、最後に言うことは?」

神代は銃を七海に突きつける。

七海は生きることに投げやりだ。

真剣に生きたことなんて、ただの一度もない。

自身の命だって、それほど大切にしているわけでもない。

だけど、死ねない理由が七海にはある。

運命を信じるロマンティストではないけれど。

偶然と淡泊な言葉で済ませるようなリアリストでもない。

ただただ流れるように適当に生きているオポチュニストに見られがちではあるが、そうだとも言い切れない。

過去を縛られて。

現在を蔑ろにし。

未来を囚われて。

それでもなお。

七海はたったの一度も真剣に生きたことなどない。

惰性で生きているわけでもない。

七海は何かに本気で真剣になったことはない。

ある、たった一つのことを除いては。

逆に言えば、それだけが、七海の存在価値のすべてと言える。

そのことのためだけに。

過去も。

現在も。

未来も。

すべてを。

捧げている。

だから。

だからこそ、他人の干渉が許せない。どんな理由が存在しようとも、理解できない人間が気軽に立ち入ってくるのが我慢ならない。

同じ世界、同じ時間、同じ場所に存在してはいるが、同じ存在ではあり得ないのだ。

銃を突きつけられた状態にもかかわらず、七海は笑みを浮かべた。


俺は死んでいる。

すでに殺されている。

だから、

生き返るためには、

殺し返すしかない。

そして、

俺は、

あいつ以外には殺されるつもりなどない。


「ほら、最後のセリフだ」

七海は笑う。

「お前らの生い立ちなんか、まるで興味ねえんだよ。このくだらない箱庭で飼われているだけの屑が悲劇を気取ったところで、同情してくれるのは同じ家畜だけだ」

「…………」

「寂しいなら寂しいって泣き叫べよ。そうすれば、世話を焼きたがる善人面したやつらが構ってくれるかもよ?」

「…………」

「そこまでの度胸はないのか? くだらないプライドを抱え込んでるようなら、同情はしてくれないが、構ってくれる大人達を紹介してやろうか?」

「----くっ」

神代の視線が一瞬、横へ逸れる。

それを確認し、七海は踏み込んだ。

右手で相手の拳銃を弾く。

そして、それが契機。

「確保ぉー!」

神代の驚いた表情。

警官が押し寄せる。

叫び声。もみ合い。何かを叩きつける音。周りをライトで照らされる。

「確保しましたぁ!」

その声とともに、警官達の密度がやわらかくなる。落ち着いてきて、周りを囲んでいた警官達がどくと、数人の警官が身を低くして男を押さえていた。

「痛っ」

犯人を確保するためとは言え、大量の警官に押される形となった七海は舌を鳴らし、何人かの警官へどさくさに紛れて蹴りを入れた。

目の前で、神代が取り押さえられている。右腕を背中で捻られ、拘束されていた。

「神代由紀、殺人およびその幇助の疑いで逮捕する」刑事が神代に手錠を掛けた。

「ははは、さすがだ! 本当に素晴らしい! 君はここまで計算していたのか?」

「おい、しゃべるな」刑事が神代の右腕に力を入れる。

「何も素晴らしくねえよ。貴重な夏休みを献上してんだ。そう簡単に死ねるか」

「気に入ったよ。今回は僕の負けだ。そうだ、約束しよう。今度、一緒にお食事でもしましょう」制服の警官二人に連れられ、神代が振り向きながら言った。

「男と食事する趣味はないよ。綺麗な脚の美女を連れて来たら考えてやる」

「ああ、本当に、君という人は」

「ほら、さっさと乗れ」

「ふふふ。それじゃあね、頭の悪い天才くん」

神代は苦笑しながら、パトカーの後部座席に、制服の警官に挟まれるようにして乗せられる。もう一人の制服警官が運転席に乗り込み、車は走り出した。

「頭の悪い、だとぉ?」

七海は舌を鳴らし、ため息をついた。

一気に疲れが押し寄せる。終わったという、実感なのかもしれない。

もう嫌だ。夏休みの最終日に何をしてる? 泣きたい。美人の膝枕を涙で濡らしたい。

「大丈夫? 七海ちゃん」遊井川刑事が七海の隣に立つ。

「明日、学校なんですよね、僕……」

「ああ……。それは、その、気の毒ねぇ」

遊井川は苦笑する。

七海は笑えなかった。



暑い。眠い。遊びたい。早苗について行けばよかったと、本気で思う。

「お疲れ様。おかげで助かったわ」

遊井川に労いの言葉をかけてもらっても、時間が戻るわけではない。しかし、わずかだが、本当にわずかだが、疲れが和らいだ。

七海は香織の説教という名の鉄拳制裁を喰らい、渋々、ザッハトルテ数個で警察に事件の真相を話すことになった。本来ならばそれですべてが終わる話だったのだが、恐ろしく無能な警察のその手際の悪さで、七海が忠告をしたころには、すでに神代の行方がわからなくなっていた。そこで、七海は毎月高級洋菓子を受け取るという契約で、警察に協力をすることになった。だからこそ、先ほどのようなスムーズな逮捕ができたわけだ。

ここにいる警官は、そのほとんどが喪服姿だった。隠れ蓑としては最適ではあるが、まさかこんな人の集まるところに神代がのこのこやってくるとも思わなかった。

「七海ちゃんは何がいい?」駐車場の自動販売機に向かいながら遊井川が振り返った。

「じゃあ、コーラを」今はもう、コーヒーの気分ではなかった。「ゆい達は?」

「先に部下達に遅らせたわ」

「そうですか」

「なぜ、神代が怪しいと?」

「警察だって疑ってるはずでしょ」七海はコーラを受け取る。

「それはアリバイがなかったからね。でも、確証は何も」

神代が怪しいと思ったのは、吹奏楽部の連中が口を揃えて、冗談好きのコーチ、と言っていたの覚えていたからで、実際には確証は持ってなかった。トランプのジョーカーを、冗談屋とは普通は結び付けない。

七海にしてみれば確信はあったが、確証などなかった。ただの勘だと言ってしまえばそれだけのことだし、高校生である自分にとって確証など必要とさえしていない。

「神代が怪しいというより、神代であることが都合が良かった」

「都合……」

「可能性としては、神代以外、つまり僕の知らない人物が裏で糸を引いていたことも考えられる。だけど、知らない人間を疑うほど僕はこの事件に執心してない」

「なるほど。あなたらしいわ」言って、遊井川は羨ましそうに微笑む。「まあ、天才のあなたが導き出した答えを、間違っていると考えるだけ無駄な行為か」

「おだてても何も出ませんよ」七海はコーラを一口飲んだ。「それはそうと、笹岡聡が殺されたっていうのは本当なんですか?」

「ええ……。病院でね、警護などで付いていた警官も三人殺されたわ」

そこで、ある違和感を覚えた。

『いいことを教えてあげよう』

『頭の悪い天才くん』

いいこと?

「どうしたの? 七海ちゃん?」

「……その、笹岡聡が殺された状況ですけど、服を脱がされていませんでしたか?」

「え、ええ、だけど、どうしてそれを?」

「まったく」七海は苦笑した。

じゃあ、あのときすでに。……すべて見抜かれていた。

「ここにいる警官の名前、言えますか?」

「え、それはどういう……?」

神代は七海に言った。

『いいことを教えてあげよう』

内容は、笹岡聡と警護についていた警官を殺したということだった。

『頭の悪い天才くん』

最後、パトカーに乗り込む際に笑いながら、そう言った。

「神代を連行していった警官、あれは本物ですか?」

「……神代の仲間、だと?」遊井川が声を絞るようにして言った。

いいことを教えてあげよう、か。ヒントをもらっておきながらそれに気づいてないのだから、なるほど、頭が悪くて当然だ。フェイル・セーフか。

杵島栞の犯行で衣服を脱がせるという行為を含んでいるならば、たとえ警官が衣服を脱がされて殺されていても、違和感は薄くなる。現に、警察の人間はその可能性を考えていなかった。

七海は笑ってしまう。酷く、自分が滑稽に思えたからだ。

俺が天才だと? 最高にくだらないジョークだ。

「ああ、なんてこと……」遊井川はため息を一つ吐き、項垂れた。

「ね、僕は天才じゃないんですよ。おだてる相手を間違えましたね」

「犯罪者をおだててどうすんのよ」遊井川は頭を抱える。「とんだ大失態だわ」

「ははは、最悪ですね」

「笑い事じゃないってば、あー、もうっ」

最悪の夏休みはようやく、上等とは言えないが、それでも一応の終わりを向かえた。


エピローグ


愛する人を天にまかせた。

そう、気まぐれな神様に。



最悪の夏休みが終わり、新学期。めくるめく秋。その風物詩。文化祭。

三咲七海はその窓辺でため息を重ねていた。もの思いに耽る。

七海達のクラスは喫茶店。机を並べて、その上に白いシーツを被せたりして、雰囲気は出ている。客足もまあまあで、順調な売り上げを見せていた。それを横目に、七海は店のアップルパイと洋ナシのタルトをつまみながら端っこでサボっていた。

おもしろくない。見ていて、うん、華がない。高校生が制服着て接客して何がおもしろいんだ? たしかに制服は素晴らしいものだが、そんなものは日常の風景だ。

よし、やっぱりここはバニー喫茶にしよう。

「おい、そっちはどうよ?」

網タイツか。いや、ここはパンストで。……いっそ二ついくか?

「聞いてんのか?」

しかし、バニーちゃんだけじゃ小一時間で飽きるな。色気も何もないやつがバニーになったところで、終日は無理だろう。ナース服で接客はどうだろう? いや、時間帯によってコスチュームを変えて……。そうだ、どうせならブルマやスクール水着なんかも。

「人の話を聞けよ。おい、ななってば」

「だぁ、うるせーな、このやろう!」

「な、何怒ってんだよ。つーか、何も仕事してないくせに逆ギレかよ!」

「なんだよ、バニラか」

「なんだよ、じゃねーよ。サボってないで、これに着替えて接客しろ」バニラは七海に紙袋を渡す。

七海は受け取った紙袋を開けて、中身を確認する。

メイド服。

「お帰りなさいませ、ご主人様って、ほら」

バニラを見ると、ものすごい何かを期待した笑みだった。

この男は馬鹿じゃないのか?

「俺は男だ!」

「知ってるよ」

「なっ……?」

「ほら、着替えてこい。みんな期待してんだから」バニラは顎で店内を示す。

七海も周りを見渡してみる。クラス中の男子が親指を立てて笑顔を向けていた。

こ、こいつら。

「ほら、何してる? ご主人様命令だぞ?」

七海はバニラを殴った。

「ぐぉっ? おま、ちょ、ご主人様に、なに」

「黙れ、この変態がっ!」

「な、なんだよ? 今は女装男子が流行の兆しを見せて……」

懲りない変態に蹴りを一発入れた。

だんだん腹が立ってきたので、顔も踏みつける。

「おま、おいっ、お前と違って踏まれる趣味はねえ!」

「黙ってろ、変態が! 窓から突き落とされてえのか?」

「機嫌悪いみたいね、どうしたの?」遊井川紗季が近づいてくる。

「どうしたの、じゃないよ。こいつが俺にメイド服を着せたがるんだよ」

「悪ぃかよ、かわいい奴に着てもらう方がメイド服だって喜」

「お前は口を開くな」七海はバニラの口元を踏む。

「ミス桜川の断トツの優勝候補に着せたい気持ちもわからないわけじゃないしなぁ」

紗季までわけのわからないことを言い出す。大体、七海は男である。見た目はあれだが。七海の男としてのプライドは保てそうもない。

「あ、ねえ、紗季」一人の女子が険しい表情で近づいてきた。

「どうしたの?」

「ケーキが足りないみたいなんだけど……」

まずい。

ぴくっと、紗季の表情が引きつる。

「いくつ足りないの?」

「十個近く……。だから勘違いじゃないと思うんだけど」

定時報告までまだ時間があると思ってたのに、さすがは優等生か。早く逃げないと。

「どこへ行くの? なな?」紗季に腕を掴まれる。

「え、えっと、め、メイド服に着替えてこようかな、と……」

「そうこなくっちゃ」バニラがはしゃぐ。

「……そうね、なながメイド服を着て接客をしてくれれば売り上げも伸びて、ケーキ十個もすぐにチャラになるわよね」紗季に睨まれる。

「あ、ああ……」

七海は笑おうとして、顔を引きつらせた。

ふ、不覚。



「だぁー、くそ!」

やってられるか、ちくしょう。ちょっとケーキをつまんだだけじゃないか。それに、メイドの格好をしただけで目に見えるように売り上げが伸びたことにも腹が立つ。

脚が寒かった。まさかあこがれのニーソを自分で履くとは思わなかった。違う、こうではなかった。七海が求めていたのは違う。自分で履いてどうする。こういうのは美少女に履いてもらわなければ。そしてその脚で踏んでもらわなければだめだというのに。

……自分が変態にしか思えなかった。男がメイドの格好をしている時点でかなり危ういわけだが。あるいは、すでに一線を越えてしまったかもしれない。

七海は自己嫌悪しながら、教室を出て活気に溢れている廊下を歩く。

桜川の学生だけでないのが問題だ。桜川の文化祭はオープンで、一般市民や他校の生徒達も多く集まる。全国的にも高い偏差値を誇る桜川であるから、当然、この地域では抜群である。そんな桜川の学生と近づく絶好のチャンスと考えている輩も多く、自然と校内はごった返すことになる。

こんな人数に七海は恥辱を受けているとも取れる。まさに視姦。泣きたくなった。

「な、なんて格好をしてんのよ、あんた」

声に顔を上げると、目を見開いた朝比奈香織が立っていた。表情は驚いているようにも、笑いを堪えているようにも見える。

「……見るなよ」

「あらー、照れちゃって、もう」香織は笑顔で頬をすり寄せてくる。「かわいいわね、ほんと。早苗が喜びそうだけど。何? 趣味?」

「趣味なわけあるか」

「写真取ろうぜ」言いながらデジカメを取り出す香織。

「なんで持ってんだよ、てか、腕を回すな、おい」

香織は腕を回して七海に顔を寄せると、自分撮りの要領でシャッターを押した。

「きゃー、かーわーいーい!」撮った画像を確認してはしゃぐ香織。

「おい、消せよ!」

「嫌よ、こんなおもしろいもの。大丈夫、みんなに回してあげるから」

笑顔でそう答えると、香織はスキップをしながら行ってしまった。

「おい!」

七海はため息をつく。

「あぁ……、最悪だ」

これならまだあの夏休みの方がマシだ。

コーヒーでも飲もう。

昇降口を出たところに自販機がある。そこで缶コーヒーでも買うことにした。

階段を下り、昇降口を通って、外に出た。

風が冷たく、吐息が具現化する。もう、秋も終えると冬になるのか。落ち葉を見る。散るために生まれてきたのか、咲くために生まれてきたのか。悲しくなる。

空を見上げると、青い空は高く、雲もゆっくりと流れていた。

生徒棟の方に目をやると、わいわいとにぎやかだった。露店というのか、出店というのか、屋台もいくつか外に出ている。どうしてこんなことで騒ぐのだろうか。

これが平和、か。ま、これも、ありかな。

それにしても、この格好は寒かった。

缶コーヒーを買い、それを両手の中で転がす。

寒さのためか、中に比べるとやはり外は人気が少ない。この格好で中に戻ることを考えれば、外で寒さを我慢しながら落ち着くのを待つのもありか。

猫舌の七海にも缶コーヒーはすぐに飲めた。

一口飲んで、暖を取っていると、声をかけられた。

「こんにちは」

心臓が止まる。

鼓動が大きくなり、再び動き始める。

七海は、声の主をゆっくりと見上げた。

「ああ……」無意識に小さく舌打ちをし、周りを見渡す。

まったく。神経を研ぐ。

落ち着け。コーヒーを飲んだ。

「ふふ、約束したでしょう? また逢いましょうって」

「ええ。断ったはずですけどね、僕は」

神代由紀。

七海の目の前には、先の事件で指名手配されている神代由紀が立っていた。

「どうして、ここに?」

「いえ、君にもう一度、逢いたかっただけです。この間の非は、謝ります。この通り、どうか許してください」

「やっぱり、殺すつもりなんかなかったわけですか」七海は鼻を鳴らす。

「もちろん」神代は笑みを漏らす。「僕には君を殺す理由がない」

「理由はなくても人は殺せる」

「ふふ、まったく君は」

風が吹いた。髪がなびく。

目の前の、天才は微笑んだ。

「本当はすぐにでも謝りに来たかったんだけどね、僕にもいろいろとあって。すっかり秋になってしまった」

「……なぜ、あのとき危険を冒してまで会いに?」

「君と話がしたかった。彼女を止めることのできた人物に興味を持つのは自然なことだよ。お礼はまだだったかな。彼女を止めてくれてありがとう」

「だったら事件なんか起こすなよ」

「まあその通りだけどね。そういうわけにもいかない」

「あっそ」

「……ジョーカーは、誰かが彼女を止めてくれればいいかな、程度のことだ。彼女の意思を無視することは、ある意味では彼女を殺すのと大差はないのだからね。だから、僕は天にまかせた。そう、気まぐれな神様に」

「気まぐれな神様ね」

「そこへ現れたのが君だ。これを運命と呼ばずに何と?」

「偶然だよ、偶然」七海は即答し、肩を竦めた。「それを言うために?」

わざわざ七海のことを詳しく調べてまで学校へ来る理由になるだろうか。

殺しに来たのか?

「別に殺しに来たわけじゃないので、安心を」

……読まれてるな、つくづく。

神代は微笑むと、先ほどから持っていたクーラーボックスを七海に差し出した。

「時期は過ぎてしまったけれど。潰してしまった特売のお詫びです」

溢れんばかりに、様々なアイスが詰め込まれていた。高級なものから、地域限定のもの、さらには海外のものまで入っている。胸がときめいた。きゅんきゅんする。

「あ、あなたは最高だ!」

「喜んでもらえて何よりです。それと、僕は犯罪者ですけどね」

「何もくれない聖人君子より、アイスをくれる犯罪者ですよ!」

「ああ……、なんと怖いもの知らずな、いえ、素直な人ですね」

「人類の至宝であるアイスはいくらあっても困らないですよね」

寒い時期に食べるアイスもまた、醍醐味の一つだ。

今年一番の笑顔を七海は浮かべながら、艶麗な美女との逢瀬を喜ぶような、そんな目の輝きを見せた。変態である。

「不思議な人だね、君は」

「へ?」

「普通、少しくらいは疑うでしょう? 犯罪者からの差し入れなんて、小学生でも毒が入ってるんじゃないかと疑うよ」

「……入ってるんですか?」

「ああ、そんな顔をしないで。入ってませんよ。ほんと、おもしろいね、君は」

まあ、好きなもの食べて死ねるのなら何も問題はないか。

「それじゃあ、僕はこれぐらいにしておくよ。遊井川刑事も来てると面倒だしね」

「そうだ、最後に聞きたいことがあるんですけど」

「何かな?」

「どうして杵島に協力を? 杵島との関係は?」

神代は微笑む。

「秘密です。君も、天才なら考えてみたら?」

「誰も自分のことを天才だなんて思っちゃいない。それに天才だとしても、僕は頭の悪い天才なんでしょ?」

「ああ、この間のことは謝るよ。君は紛れもない天才だ」

「天才、ねぇ。それでアイスとか安く買えるなら嬉しいんだけど。少なくとも、今まで俺が他人よりも特別に何か得をしたことなんて思い浮かばないけどなぁ」

「いずれ、来るさ」

「天才だけデザートが半額になるのなら、嬉しいけど。そうじゃないなら、興味ない」

「なるほど。君らしいね」

神代は微笑んだ。

「僕も君に聞いていいかな?」

「なんです?」

「僕は犯罪者だ。なのに、どうして君は通報する素振りを見せない?」

「理由がない」あっさりと、七海は言う。

「本当に不思議な人だね。普通、理由なんか必要ないでしょう?」

「なら、普通じゃないんでしょうね。普通であることに、意味なんかない」

「君が、干渉を嫌う理由もそこに?」

「……さあ。警察からは捜査協力で甘いものをもらっている。そしてあなたからももらった。なら、これ以上干渉する理由は存在しない」

「僕が犯罪者で、指名手配中でも?」

「必要があるなら、俺は神でも殺す。必要がなければ、悪魔でも見逃す」

七海は微笑む。

神代も微笑んだ。

「なるほど。君という人間が少しだけ理解できた気がするよ。話ができた良かった」

「そうですか」

「願わくば、お互いに干渉のない世界が来ることを」

「願うまでもない」七海は言う。「二度と干渉すんな」

「まったく、君は」神代は笑った。



神代を見送ったあと、七海は校舎に戻った。

今回の件で、人の生死に直に触れることになった。

人はなぜ生きるのだろう。死にたくないのは生きたいからじゃない。死ぬ理由がないから、ただの惰性で生きるのだ。生まれてきた惰性だけで生きているに過ぎない。

だから世間は自ら死を選ぶ者を罵倒する。

脆く、危うく、奇妙な均衡が崩れるのを恐れて。

そんなものは、生きているとは言わない。飼われているだけだ。わかっているふりをして、一生懸命のふりをして、他人だけでなく、自身までをも騙し続けている。

何が正しくて、何が間違いなのか。それを知る術はない。神様だけがそれを知っている。だけど、忘れてはいけないのは、神様が正しいとは限らない、ということだ。

七海は苦笑しながら、廊下を歩く。

教室に戻ると、店内がなにやら騒がしかった。客が溢れているようでもない。

バニラが大声で叫んでいるようだ。

「写真撮影料は一人千円! 千円で撮り放題! ツーショット希望は五千円から! 先着五十名まで! メイドななちゃんと写真なんて、今日を逃したら二度とないよー!」

「バニラ! てめえ、何してんだ!」

「お、主役のご到着ですよ、みなさん! シャッターチャンス!」

そんなとき、タイミング良いのか悪いのか校内放送が流れる。

『えー、今年度のミス桜川の栄冠に輝いたのはぁ、なな、なぁーんとぉ、ぶっち切りの得票差でぇ、二年A組の三咲七海ちゃんに決定だぜぇ! やーっぱり、俺達のアイドルは強かったぁ! くうぅ、どーして神様は俺達のななちゃんを男に産んだんだぁー! ちっくしょー!』

「おぉー!」

「何が、おぉー、だ。この変態やろうども! 全員、ぶっ飛ばすぞ!」

「当店のメイドは、ツンデレメイドでございます」

「おぉー!」

「バニラぁ! ふざ、ふざけんなぁー!」


店内には心地良いクラシックがかかっている。七海が持ってきたCDのものだ。それは笹岡美智子から借りていたものだった。笹岡美智子、そして、杵島栞が最も愛していた曲。笹岡達のブラスバンドの十八番。

『結局最後は、“愛してる”』


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