第八話『漢中争奪戦のこと 弐』
城下の騒乱が全ての階層に伝わっていた頃。
内外より聞こえる戟の音と叫び声に、しかし張遼と風の二人は素知らぬ顔だ。
当たり前である。あの無法な振る舞いに、漢中の飢餓の民。
こうなるのは明らかに、時間の問題だったのだ。
「なあ、あんたはどっちが勝つと思う?」
張遼は、数刻にも満たない歓談の時間であったが、この少女を高く評価していた。
問えば明朗な答えが返ってくる。意図を見抜き、心情を吐露し、その上で改善策を繰り出す。
詩を例えに出すこともあれば、一言で談じることもある。
打って響く頭脳と言えばいいのか。会話だけで、武の塊である張遼に好感を持たせる者は少ない。
そして今回の疑問にも、風が若干寝ぼけながら応えた。
「孫子曰く、戦では五事が肝要と言うのですよ。一に曰わく道、二に曰わく天、三に曰わく地、四に曰わく将、五に曰わく法なり」
基本的なことだ。だが張遼は黙って頷いた。
「今、あの肥えた豚……おおう、張遼さんは一応使者でしたね、失礼したのです。ともかく領主にはそれがありませんね。民の恭順なく、城に兵無く、悪行を諌める将もなく、ましてや軍法など皆無。二の天だけは今回は関係ありませんが――」
一度、目を瞑り、うとうと。
しかし、即座に、おおう、と瞼を見開き。
「いえ、違いますね。今、この機会での襲撃は利に叶っているのです。正式に太守就任前の襲撃。晩餐会。それを言うならば、この反乱は天の利を得ているといえるのですよー」
「うちもそう思う」
張遼はしたり顔で頷いた。
仮にも張脩の幕下の兵数は、道教の主にしては大したものだ。
しかし、逆に言えば、それしかない。
きちんと兵法を学んだ人間も、理を解く軍師も、今は正式な官位すらもないのだ。
「まあ、少し急いているような気もせんでもないけどな。なんちゅうか――甘さを感じる戦や」
よっしゃ、っと張遼は立ち上がった。
そして手に持つ武具が、空を切って振り下ろされる。
威を得た偃月刀はその目的である風を拘束する縄を、裁断した。
自由を得た風は、手をにぎにぎしながら、その胡乱な瞳を張遼に向ける。
「他国からの使者の振る舞いにしては、外交問題ものですよ?」
「構わん構わん!大体最初からあの張脩とかいう男は気に入らんかったんや。なあ、程立。西涼に来ん?あんたの頭脳を、うちは高く買うた。大将も可愛い子やし、呂布ちんもええ子や。まあ、軍師の賈駆っちと脳筋華雄がちょっと五月蝿いけどな。あんたならうちと良い相棒になれると思う」
言葉に、風は思案する顔を見せた。
張遼の勧誘。即ち西涼の最大勢力、董卓に仕えないかということだ。
今、彼女が気軽に名を挙げた武将たちは、天下に名のある猛将、軍師達である。
異民族撃退と優れた治世は民の信頼も厚い、西涼の長、董卓。
一騎当万の飛将。その武は天下無双、呂布。
百還百式。優れた計略で董卓の勝利を不動のものとする軍師、賈駆。
その突破力は有象無象を踏破する猛将、華雄。
そして千を超える黄巾党を一夜にして壊滅させた鬼将軍、張遼。
彼らと轡を並べ、天下に号令する。
自身の智謀を振舞う。懸想するその光景は確かに、1人の智者として満足のいくものであろう。
――でも、駄目なのですよ。
「張遼さん。その申し出、とても嬉しいのです。でも――」
ぺこり。と頭を下げた。
張遼は苦笑を浮かべる。
「そか――残念やけどしゃーないな。因みにその理由、聞いてもええか?」
はい、っと一呼吸を起き。
「まだ今の風よりもっと、もっと小さかった頃に夢を見たのです。それは太陽を支える夢。とても暖かくて、誇らしかった。だから私は、その時に決めたのです。程立、と名乗ってまで」
それはばかげたことかもしれない。
しかし、天才と言われた彼女が。身に余る智恵を持つ彼女が唯一、自分の感情で決めた身の振り方。
「いつか、自分の力で太陽と思う人物を見つけ、支えようと。それが私の、たった一つの我侭です」
◇
闇夜の中、一つの疾走する音がある。
少女だった。
黒髪を後ろで一本に結い、その目は切れ長で鋭い。
幼さを残す横顔は、しかしその頬を汗で濡らしていた。
着ているのは裾の長い黒衣だ。全身を脚まで覆うその下からは、布で出来た簡単な、少し肌色の多い通気性の優れた軽服を身に着けている。
少女、師愉は他のゴッドヴェイドウの信者から離れている。
単独行動の目的は今回の祝宴の出席者の確保だ。
誰が張脩に組しているのか、その確認は後の治世に大きな影響をもたらすだろう。
勿論。張脩がそこにいるから、という理由もある。
星より先に先導していた彼女は、しかし今はその目的から大きく離れた場所にいた。
突如、闇夜にいくつかの光点が生まれた。
横目で確認した師愉は、咄嗟に前に体を跳躍させる。
転がる彼女の傍、地面を幾つかの刺突音が響いた。
鍼だ。
数え切れない鍼が、先ほどまで師愉が走っていた場所に刺さっていた。
「はん。あんた等があたしの相手かい?」
闇に向かって声を掛ける師愉。
先ほどまで誰もいなかったそこに、鬼火のように四人の人影が浮かび上がる。
藁帽子を深く被った、口元に『米』と書かれた黄色の布を巻いた者達だ。
異様に細く、長い身の男。
その膝までの、小人のような男。
腹部を肥大化させた男。
そして唯一、三人ほどの異常性のない普通の男。
「楊昂、楊松、楊任、楊柏――張脩も粋なことをするじゃないさ」
唯一何の変哲もない男。楊柏が口を動かした。
「降伏を。張魯様」
その言葉に師愉は顔を顰めた。
「……あんだって?」
「我ら、四将。張魯様より頂いた訓夫、忘れた訳ではありませぬ」
細身の男、楊昂が続き、
「張脩様が蛮行、確かに目に余るものがありましょう。しかしこれも、ゴッドヴェイドウが力。世に示す為に必要な犠牲」
小人、楊松が繋ぎ、
「我らが大海の力。何故、隠匿されねばなりませぬ」
腹部を肥大化させた男、楊任が締めた。
「大陸を破壊と混乱が覆う今こそ、我らが救世の力、使う時。黄巾党を滅ぼし、後に漢を打ち倒し、そこに我らが国を建国する」
押し黙る師愉。
それを悩んでいる、と取った楊柏は口火を切る。
「確かに張脩様の治世は褒められたものではありませぬ。しかし、これも中央の官位を得る金銭が為。正当な官職があれば、漢中を荒らす賊共も黙りましょう。治めきれなかった無能な前太守を追い出すために盟を結んだ黄巾党共も、力をつければ、用済みでございます」
「つまり、あんた等はこう言いたい訳だ?もう一度、私に力を貸せ、っと。この国を救う為に、と」
そう言って、対して頷く4人に対して、師愉は笑顔を浮かべ告げる。
「この大馬鹿共がッ!!」
大声は辺りの樹木を揺らし、大気が蠢く。
息を吸い、喉を震わせると、師愉は4人に諭す口調で言う。
「あんた等はもうゴッドヴェイドウなんかじゃなない。もっとおぞましい何かさ。国を救う?救世の力?一体、今まで何を学んできたんだね」
だが、
「確かに今の国は腐敗しているさ。あたしだって、漢という病魔を癒したい。それで、天険の要所、漢中が欲しいのも分かる」
「で、あれば」
食い下がった楊柏は、師愉の眼光に雷を打たれたように身を縮めた。
「国を癒すだけなら、どこに官職なんてもんが必要になるんだい?」
それは師愉にとって一番の間違いの指摘だった。
勘違いをしている元同胞達に、諭す形で言葉を繋ぐ。
「それも重税を課して民を苦しめるだけであきたらず、権威が為に子供を捕殺して。その汚れた手で、あんた等は何を救うんだい。自分の身近な者すら守れないあんた等が、一体何を癒そうと言うんだい!」
言われた言葉は雷光そのものだった。
並みの人間なら声量だけで竦んでしまう、それを。
しかし対する4人は身を構えた。
「――ッ!貴方様も分かる筈だ!救った者達が賊に襲われ、無能な国の政策によって命を落としていく。手に取った救ったはずの命が零れていく。悪いのはこの国です!根幹から腐っているこの国を治療するには力がいるのですよ!」
肩を震わしながら楊柏が言う。
――この感じは懐かしいな、っと師愉は思う。
昔の自分が通った道だ。だから、
「零れたなら、また掬えば良いさ」
「な――!それでは何の解決にもならないではありませんか!」
「解決?ならあんた等の言う解決って何だい。漢を倒して、全ての害悪を滅ぼして、民を危険から排除して。安全ですよーって全部管理して。それがあんた等の言う解決なのかい」
感情が声に乗った。
「それとも人が命を無くした原因は全部力不足な自分にあるとでも思っているのかい。甘ったれるんじゃないさ――命ってのは簡単に無くなる。だから大切なんじゃないか。そう、教えたはずだがね」
その言われた意図が、彼らの全身を穿った。
一瞬、躊躇するように顔を顰め、目を潜めて。
そして四人はその表情を消し去った。
「――残念です。貴方様は我らの憧れでした。張魯様」
「はっ。やりあうってのかい。元弟子である、あんた等が師匠の私にかい?」
「弟子はいずれ師匠を超えるものです――それが師に返す最大級の恩義かと」
「そうかいそうかい」
笑顔で師愉は頷き、そして構えた。
手に持つ大小の鍼。合計10本。
両手を交差させ、月の下で両手を広げた。
まるで迎え入れるように。
「じゃあ、師匠らしく、教えを守らない弟子には体罰でもしようかね。なーに、文句を言ってくる親はいないんだ――やりやすくって良いじゃないか!」
そして月光の下。
五つの影が交差した。
次で漢中争奪戦、最後になります。
毎回長い文章ですいません。
PV一万突破しました。
この文章を読んでくださっている皆様に、この場を借りて改めて感謝を申し上げます




