第五話『程昱。捕まるのこと』
北郷一刀の変遷。
新たな士が現れる。
それは本来ならここにいる筈のない、小さな軍師
一刀と星が活動を始めて数ヶ月。
兵を500。槍に戟、刀に旗。
それぞれ金銀に装飾を凝らした軍勢が漢中城下を進む。
その中心。白馬2頭に綱を引かせ、悠然と馬車を進ませるは漢中を治める男、張脩である。
髭を高々と蓄え、肥え太った体を窮屈そうに席に仕舞っている。
ただその愚鈍な体とは裏腹に首の上の瞳は、まるで観察するように世話しなく領民に向けられていた。
平伏する民の中に一刀、星の二人がいた。城下の査察ということで偵察にきたのだ。
二人が視線を上げる。そこにある旗には以下の意味の言葉が書かれてる。
『偉大なる王、張脩万歳』
「王とは。随分驕っておりますな」
星が明らかな侮蔑を込め、小さく呟いた。
その一方で、一刀は配下の兵達を観察していた。
身のこなしは凡兵のそれではない。明らかに鍛錬を受け、思っていた以上に規律が取れている。
勿論、ゴッドヴェイドウを崇拝していた者も混じっているのだろうが――
「星。これは少々、急がないといけないかもしれないな」
「何故です?主殿」
「兵達の規律が良い。そして、思っていた以上に漢中の収入は良いらしい――もしかすると、もう、中央に賄賂でも送っているかもしれない――いや、しているだろう」
「と、なれば」
「ああ。逃げ帰った太守の代わりに、金で地位を取得し兼ねない。そうすると、あいつを討つのは難しくなる」
正式な官位を得た者を討つということは漢に弓を引くということだ。
それを行ったのは張脩だが、しかし師愉に聞くところによると、隣接する益州牧、劉璋にも多額の金銭を流しているということが分かった。
中央より信頼があり名家である劉璋が前太守の悪評を口ぞえすれば、どうなるか。
漢は黄巾党征伐で忙しい。その中で、多くの金銭を送れる人間ならば。
――腐った十常寺共なら認定しかねないだろうな。
「今はまだ、漢に弓を引く所ではないからな。正式な官職に就く前に、黄巾党を誘致した証拠共々、倒さないと」
しかし事は良く進んでいる。
一刀が偶然倒した波才の死体より、多額の金銭と引き換えに張脩の協力の旨の書簡が見つかっていた。
それは一枚を半分に割られたもので、もう半分と合致させれば書状になる。
恐らく本人が持っているであろう、それを。制圧の際に押収すればいいのだ。
城は波才の死によって警備が厚いが、それこそ決起すれば良い。
「ぎゃ!」
思案している北郷の耳を小さな悲鳴が着いた。
見れば腹部から血を流し倒れる子供と、血に染まった槍を持つ張脩の警護兵だった。
「不敬な!張脩様の顔を見上げて笑いおって!」
声に、すぐさま他の兵が詰め寄って来る。
子供を助けに来たのか――いや、違う。
気づき、北郷が立ち上がろうとする。だが、遅い。
鮮血が舞った。
まだ息をしていた小さな体を、無数の銀槍が刺し貫く。何度も何度も。
息を吐く音と、嗚咽。それは何を言葉にしたものだったか。
小さな体を囲み、兵達が一心不乱に刺し貫いていくその姿は。
――まるで、死肉に群がるカラスのよう。
突き刺し、抜き、突き刺し、抜き。
広い城下でその音だけが響いていく。
家族である、母親は。
愛する息子が刺されている姿を、平伏したままで聞いていた。
知らない振りをしているのではない――力無い肩が震え、嗚咽が聞こえる。
逆らったら家族全体がこうなると、わかっていた。
「よおい。やあめよ」
甲高い声がした。張脩である。
馬車を進め、母親の目の前まで進め、手に持つ扇を広げる。
「かおをあげえよ。きさまあはこのこのはほおやか?」
喉の贅肉が声帯を阻害して、それでも無理やり声をひねり出しているかのような声。
母親は震えながら、顔を上げた。
その表情に、一刀は絶句する。
笑っていたのだ。
両目を涙で濡らし、下唇を血が溢れるほどに歯で噛みながらも。
師愉に聞いた。ゴッドヴェイドウの教えは、笑みこそ力だと。
そして曲解した張脩は、自分と謁見する者全てに笑みを強制している、と。
「このこどもはあ、よをぶじょくしたあ。だが、ははであるおまえは。よのばっしたことにえみをもってかえした。ゆるすぞお。このこを」
「は、はい。ありがたき幸せでございます」
すぐさま感謝するように平伏する。
感謝――?馬鹿な。一刀ははき捨てる。
これは表情を見られないためだ。壊れかねない心を、濡らしているだけだ。
「あとでごとのこめをしろにとどけるようになあ。いけえ」
「はっ」
最後に兵が子供の死体を蹴り上げ、馬車を先導する。
蹴り上げた先は軍隊の進む場所だ。
多くの兵、馬車に、まるで晒し者のように踏み潰される小さな体。
視界を真っ赤に染めながら一刀は自答する。
落ち着け。今は違う。ここではない。
心を揺さぶる激情を抑えながら、ふと星が静かなことに気づき、視線を右方に向かわせ。
そこには、表情を消した武人がいた。
眉も動かさず、爛々とした青の瞳がただ静かに光景を見ていた。
まるで能面のような表情は、一切他の無駄な機能を排しているかのよう。
否――星の脳裏は思うほどに冷めていた。
ただ、淡々と。
どうすれば目の前の外道共の首を落とせるかを、演算しているのである。
「主殿。お約束して下され」
それは普段のからかう音色は込められていない。
陶器のような白い肌に、熱を込めながら、
「あの外道の首。私めに取らせて下さい」
「ああ――必ず、命じよう」
二人はそう決意する。
それで終われば良かったのだ――
だが、知らなかった。
張脩が何故、目を凝らしていたのかを。
そして、彼の性癖の異質さを。
◇
「とめよお」
不意に、馬上より声がした。
兵を指揮する部隊長が片手を上げる、軍の列が行進を止める。
張脩が小声で近くにいる兵に耳打ちをした。すると、兵は即座に応え、平伏する群集の輪に入っていく。
いぶかしむ民の中、間も無くして、兵が一人の少女を引っ張り連れて来た。
一刀が息を呑んだ。
「何で、ここに。いるんだ?」
その少女、年齢は十代前半だろうか。
低身痩躯。豊かな栗色の紙を脚まで伸ばし、まるで一国のお姫様のようなふわふわしたドレスのような衣服を身に着けている。整った顔立ちを含め人形のようだが、唯一、目をウトウトさせているのがズレていた。しかし、その頭に飾った彫像は紛れもない。
かつては、おにーさんと慕ってくれた。魏の軍師、程昱。真名は――
「風……」
呟いた声に、「主殿?」っと星は疑問の声を挙げ、張脩の行いを、そして視線を浴びる風を見た。
「あの少女はお知り合いなのですか……?もし、先ほどのことが起こるなら、私はいきますよ」
待て。疑問がもう一つ浮かぶ。
あの少女と言ったか?一刀が声を張り上げたかった。
「待て。星。見えないか?風だよ。一緒に旅をしていたんじゃないのか?」
しかし、それを不思議そうに星は小首を傾げる。
「主殿。何をおっしゃいますか。私は確かに主を探す旅をしておりました。ですが、私は一人旅ですよ?」
な――
違う。ここで、明らかな変遷を一刀は感じた。
一刀の知っている世界では、何度行っても、星と風。そしてもう一人。三人で旅をしていた期間があったのだ。なのに、三人は会っていない。名前も知らない?
そして何でこんな離れた場所に風がいるんだ?もっと中央を旅している筈じゃ――
疑問はしかし、風の小さな声でかき消された。
「寝言は寝て言えですよー」
ぽけぽけした声で、しかし何事か声を掛けた張脩にはっきりと告げていた。
◇
「な、小娘!貴様なんという口を!」
兵の威圧にも風は表情を一切変えない。
「民の前で室として仕えないか、なんてありえませんね。いやいや、びっくりなのですよ。貴方には一国を治める器量など欠片もありません。思慮に欠けた行為、民への意味無き虐殺。貴方に仕えるくらいなら、風は猫を主とするのです。ぉお、それも良いかもしれませんねえ」
一気に口火を切る風。こんなに連続して口を開いた彼女は一刀は見たことがない。
腹に据えかねるものがあったのだろう。
彼女はそういう子なのだ。冷めている訳ではない――表に出さないだけ。
しかして賢人の言葉は愚者には届かず。
兵は恐る恐る、張脩を仰ぐ。
どんな罰を下すのか、その裁を仰ぐためだ。
しかし、張脩は腹部を大きく揺らして笑った。
「いきがよいではないかあ。よい、ゆるす。へいよ。こやつをつれていけえ」
「子供を罰した規則すら捻じ曲げますか。それに風は断った筈ですが?」
「きさまのいしはかんけいいあない。よのきょうみは」
つつっと、馬車の上から手が伸び、風の腹部を撫でた。
嫌悪をむき出しに、引き下がる風だが、兵がその体を両面より押さえ動けない。
「きさまのここだあ」
「あなたは地獄に落ちるのですよ。いえ、落ちてください」
「ふうん、のせえろ。すぐにしろにもどり、こいつをあらえい。ふっふっふふ」
兵達が有無を言わさず馬車に乗せた。
風はこれでもかと顔をしかめながら、沿ってくる張脩の指に体を強張らせ耐えていた。
そして――
それを見た。一刀は――
◇
「星」
「はっ」
「師愉達に伝えろ。予定を早めろ、と。今夜仕掛ける」
「はっ。しかし。それでは漢中蜂起の準備に散っているゴッドヴェイドウの信者達が集まりきりませんが。宜しいのですか?」
「構わん。だから、もう我慢しなくていいぞ。星」
一息を入れて、宣言した。
「俺も、我慢はしない」
ゾッと星の背筋が凍った。
その声が、冷たい瞳が連れ去られていく少女を見据えて動かない。
この、不思議な主を。いつも飄々とした彼をここまで激情に浸らす、あの風とかいう少女。
自分もその対象になっているとは知らず、星は少しだけ羨望を覚えていた。
という訳で語都合主義ながら風登場。
次回は内乱編となります