第二十四話『拠点フェイズ 星編 2』
自由奔放な彼女だったが――
「一縷の武に望みを託すその姿の何とも美しいことよ。されど趙雲殿。我ら従うわけにはいかぬ」
漢中郡が豪族の長はそう述べた。彼は遠く長江を下る河川、漢水を寄る辺に周辺に広大な基盤を持つ者である。自由奔放に生きてきた彼らにとって、抑制されるということは最も唾棄すべきものであり、それが地を治める君主が変わっても歪むことはない。
天幕の中、数名の部下と共にその言葉を聞く星は、閉じていた目を開いた。
「以前、張遼が軍、侵攻してきた際には協力して頂いたと記憶しておりますが」
「漢中の地を荒らす者は誰であっても許しはせぬ。今回は侵攻する側が彼らで、守る側がお主等であった。ただそれだけのこと。言うことを聞け、というのであれば話は変わってこよう」
禿頭の影が揺れ、屈強な目線が星を観察するように見細める。老齢なれど鍛え上げられたその体は大地に根付くものである。単純に力だけではない。年季と実力、それらを両方治めている証拠だ。
星としても思案するものがある。元来彼女は自由人である。抑制を好まず在るがままに生きて、生を全うすることを、理解しない訳ではない。
しかし、ここにいる彼女は使者なのだ。彼女が主と呼ぶ男が、適役として全権を与えて寄越した。
――それに答えられず、何が常山の趙子竜よ。
思う彼女の、その瞳が気炎を上げる。
「この漢中が争乱のとき、協力して事に当たろうという気概はございませぬか」
「返すようだがその混乱、生み出したのは北郷一刀ではないか」
切り返す長の瞳は険しく鋭い。
「漢中を手に入れた後の立ち回りに失敗し、漢王朝が逆臣となった。それも彼の不徳とするところ。違うか、趙雲殿」
「不徳だと?ふふ、笑わせるな」
ここで彼女は、使者としての仮面を捨てた。激情に身を任せている訳ではない。この老人には、上辺の対応よりも心の底からの感情の方が効果が出ると踏んだのだ。
その豹変ぶりに長を含め、彼の配下達が顔を顰めた。そも、この天幕は豪族の長が陣地だ。彼が左手を上げて合図を出せば天幕の外にいる屈強な男達が武具を持って乱入してくる手はずである。指を少し震わせながら、長は首をかしげてみる。
「それは、どういう意味ですかな」
「張脩の暴虐に一切の行動を起こさず、同胞の女達を美妃用に差出したことは知っている。いま、その女達を連れた使者として私を派遣し、協力を申し出た主を不徳という。であれば、行動を起こさなかったお主等はどうなのだ?不徳以下の臆病者ではないか」
「貴様あ!黙って聞いておれば長に何と言う口を!」
立ち上がるのは一人の若い男だ。置かれていた槍を手に持ち、非礼を発した女を刺し殺さん、と息を吐く。しかしその動きは対応した者によって止められた。星の左隣に鎮座していた兵だ。それは黒の短髪に鍛え上げられた肢体を持つ少女。薄手の黒服を身に纏う彼女は、生気の無い瞳で短刀を男の首元に突きつけていた。
――早い。
己を渦巻く熱気が冷め上がっていく男へ、少女は囁くように言った。
「我が名は閻圃と申します。新参者ですがはじめま死ね」
「閻圃。下がれ」
星の言葉に閻圃と呼ばれた少女は頷きで返すと、舌打ち一つ。静かに短刀を下ろし、席に戻った。どっと音を立て尻餅をつく男を一見し、星は長に首を下げた。
「申し訳ありませぬ。血気盛んな部下ばかりで」
「よい。我が同胞が先に動いた。しかし卑怯者とは耳が痛いな趙雲殿。我らは仲間を守る為にあの男より耐えていたのだぞ」
「耐える。その行動は褒められるものでしょう。しかし、人が我慢を覚えるときは、その苦痛の先に安寧とした希望を抱くときではござらんか。でなければただ現実より目を反らす愚者だ」
「我らが覚悟を、選んだ犠牲を愚かというか小娘!」
長と言えども人間だ。返ってくる辛らつな言葉に頬に赤みが差してくる。自分達の行動が表面より非難されているのだ。しかし星は、その言葉に然り!っと立ち上がった。
「仲間を差し出す覚悟はあっても、頭を垂れる勇気はないのかと聞いておるのだ!」
言が場にいるすべてを奮わせた。
「今は漢中が分離し、好き勝手に行動する時ではない。一つの御旗の元で協力し、全ての事柄にあたるとき。長よ――貴様はどちらだ。流されるだけの雲か。それとも天命を知る風か」
乱暴な意見だ、っとは星も思う。しかし、時節はそれを許さない。もう漢中は時代の流れに乗り、そのすべてを北郷一刀は力にしなければ、この先を生き残れない。
長はその言葉に瞳を閉じた。悩むようにだ。「長……」周囲の男達が近寄る。彼らの表情にも迷いがった。どうすればいいか、判断に困っている表情だ。
暫くして、長は口を開いた。
「分かった、従おう」
「な!」「長!?」
その想定外の言葉に天幕がざわめく。それらを制するように長が声を上げた。
「北郷一刀が行動による恩恵。我らも感謝している。同胞達よ、もう助けを寄越さぬ天に請うだけの時機は終わったのだ。いまこそ我ら、天を目指す者を大地より押し上げるときではないか」
その静かな声は反論に立った男達を諫めるものだ。振り上げた拳は、力なく開かれていく。その様子、無念を感じながら、星は腰を下ろすと、頭を再び下げた。
「同じ風に生きる者として、その無念お察しする。決して悪いようにはしないことを漢中群が将、趙子竜がお約束しよう」
「宜しくお頼み申す、趙雲殿。我らが民、これより北郷殿のお言葉に従おう。そして一つ聞いて頂きたいことがある」
「聞きましょう」
言った時だ。長が右手を振った。それに呼応するように天幕に女が入ってくる。目を見張る程の美女だ。風は彼女は解放した張脩の美妃の一人だということを知っていた。
「あの子は我が一人娘だ」
言われた言葉に、星は若干目を伏せた。
「目にいれても痛くないほど可愛がっていた。しかし、送った後、張脩から受けた行為で声を発せ無くなっておる」
娘が小さく会釈する。その首筋には掻き毟るような痕がある。一刀ならばそれが、耐えられないほどの心的外傷を受けた者が自己の心を補完する為に行う自傷行為だと見抜いたはずだ。
長は涙を溜めながら、その様子を見て、深く体ごと頭を降ろした。
「お頼み申す。あの不憫な娘が再び声を上げられるような、そんな漢中を、世の中を作ってくだされ。どうか……どうか……」
先ほどまでの大きな男は、気づけば一人の父親としてそこにいた。星は、その肩を浅く叩いた。
「約束しましょう。我が主ならば必ず、必ず良い国を作ります」
◇
「趙雲様はお優しいですねたかが豪族の長一人や二人締め上げればすぐに従うでしょうにあーあ私の仕事ほとんどなかったじゃないですかー」
帰り道。馬上で息一ついれずにいつもの様子で言うのは閻圃だ。
「お主は少し人の心の機微を感じ取れ。今回、私や閻圃を使者として選んだのは主だぞ。その意図を察するのも部下の勤めだ」
「へ?一刀様が楽したかったからじゃないんですか?」
「お前は合理的な考え方が過ぎるな。頭は良いのに勿体無いものだ……」
ため息一つ。星は今日の長の話を思い出していた。
自分の愛しい娘を、仲間を守る為に差し出し、同胞を救った長。その心境は察するに余りあるものがあった。決して勇気がなかったわけではない。ただ最も安全で少数な犠牲を選んだだけだ。
それもまた仲間を率いる者の定めだろう、しかし。
「長よ。それでは駄目だ。風は妥協せず、ただ己の意思で事を運ぶ。それが出来なくなったとき、貴方はもう自由人ではなくなっていたんだ」
呟いたときだ。まだ城門より二里もあるというのに、視線の先に一団が見えた。それは動かず、何かを待っているように待機していた。
その先頭より一騎だけ掛けてくる見知った人影。慌てて後方の兵団がそれを追いかけていく、その様子に星は苦笑した。
「全く、主は心配性ですな」
笑い、そして彼女は帰った。その日、一刀は深夜まで星の酒に付き合ったということだ。
主人公……?出てこなかった、だと。
次は天和、地和、人和のお話です。