第十六話『陽平関攻防戦』
一刀の最初の戦が始まります。
陽平関。その壁の上。
陽が真上に上がった蒸し暑い昼下がり。
数人の兵に囲まれ、壁より戦地を見渡す一刀がいた。
軽めに作られた白の鎧に身を包み配下の報告を聞いている。
「敵将、呂布、張遼が二将。付近の山中に陣を構築したようです。竈の煙から察するに、そう遠くない時間に再び攻めてくると思われます」
「ありがとう。下がってくれ」
「はっ」
別の箇所に走っていく兵士と交代するように風が現れた。
関の上。大気の流れに目を細く狭めながらだ。
「私達が来る前は断続的な戦闘だったみたいですー」
「ああ。報告は聞いてるよ。この数日はまるで、反応を試すような攻め方だった、と」
「お兄さんはどう思われますー?」
「待ってたんだろ、俺達を」
漢中城より陽平関まで掛かった数日。
しかし、その時間、関は持ちこたえた。
兵士の士気が思いのほか高かったことと、二将軍が戦場に今だ姿を現していなかったことが幸いした。
「張遼さん達もそんな乗り気じゃないみたいですねー」
「ああ。でも情けを掛けてくれるような性格じゃないさ」
「と、言いますと」
「あの陣地を見ろ。まるで聞こえてくるようだよ。どうせやるなら、全力で楽しまんとな……そう陽気に笑う張遼の姿がね」
懐かしむように、しかしどこか嬉しそうな一刀に風は頬を膨らませた。
「武人の感ってやつですか――。風には分からないのです。一度刀を並べただけでそこまで通じ合えるものですか?」
「さあね。都合の良い妄想かもしれないな」
肩を竦めて、一刀は身を翻した。
右手を上げ、各所の部隊長を招集するように呼びかけながら。
「皆を呼んでくれ。俺達の国を守る戦を始めよう」
◇
「きたきたきたあ!待っとったでえ!北郷!」
一方、董卓軍陣営。
関より数里離れた山中。その張られた陣地より張遼が喜声を上げていた。
人の姿までは視認出来ない距離だ。
故に、近くに座っていた人影が首を傾げて尋ねた。
「見える……?」
触覚のような赤毛をツンと跳ねさせた少女だ。
目は胡乱としており、その表情は読み取りにくい。
深紅の布を首元に巻いており、その華奢な肩には刺青が施されている。
「ああ。姿までは見えんがな!くー。楽しみやなあ!なあ、呂布っちもそう思うやろ!」
「さあ……」
呂布は興味なさそうに呟いた。
対照的な二人である。
「こんなつまらんことになってしもうて、北郷には気の毒やけど。でもどうせやるなら、全力で楽しまんとな!待っとり、北郷!打ち負かしてぴーぴー泣かせたる」
そう言って拳を深く握る張遼はどこまでもやかましかった。
――と。
そんな二人の幕を上げて、無遠慮に空間に入ってきた人物がいる。
白い布を大きく頭の上より被り、金銀で華美に施された官服を身に纏った男だ。
目は細く、布から篭れ見える顔は耽美だ。頬には紅く朱の化粧が施されており、これ以上と言わないほどに戦地に似合わぬ人物だった
「ほっほっほ。田舎者は五月蝿くて敵わんなあ」
そう二人に向けて言い放つ。
その人物に対して、張遼は一転、不快そうに目を狭めた。
「趙忠殿。あんたはただのお目付け役やろ。何の用や」
趙忠。
皇帝に我が母、とまで言わせた宦官の大物である。
張譲達12名の宦官で構成された十常侍に所属する有力者であり。
同時に宮廷の改築費用を横領した、気に入らない者を讒言して殺した。等の張譲以上に黒い噂の絶えない男である。
本来彼はこんな場所に出張る人物ではない。しかし、
「北郷一刀の件は陛下も心を痛めておるのでなあ。わたくし自らの目で死体を確かめよ、とのことである。なにせ」
そして目配せするように薄笑いを浮かべた。
「董卓殿も宮中では良い評判ではないのでなあ。万が一があっては敵わぬ。ほっほっほ」
笑い声に張遼は歯を軋ませる。
「うちらは黄巾党も順調に倒して、任された土地もきちんと治めとる。それで都に送る税も破ったことないで。そんな臣に対する、これが宮中の対応かい」
「人の心は悪鬼羅刹ですからなあ。まあ、これも普段の心遣い、宮中への配慮が足らぬからでしょうな。そう思われるなら精進されるがいい」
心遣いは心付け。
宮中への配慮は十常侍に対する賄賂のことだ。
その隠語に気づきながらも、張遼は無言で袴を翻し、背を向けた。
「もう時間やから失礼させてもらうわ。呂布っち、出るで」
こくり、っと呂布が頷き、その後に続く。
自分の言葉を無視され、趙忠はその顔を不快そうにしかめて後ろ姿に言い放った。
「ふん。主も主なら、部下も部下だわ――礼儀の知らん愚か者ばかりよ」
言葉に断裁音が響いた。
趙忠は何が起こったかわからない。
ただ、自分の鼻先を巨大な何かが通過して、その何かは足元の地面を大きく抉ったということだ。
唖然とする趙忠は、震える目線を前に向かう。
それは呂布の振り下ろした彼女の身には不釣合いな、得物。
槍のような刃の両側に横刃が付けられており、それは一般に比べて、遥かに大きく、無骨であった。
何より恐ろしいのは数歩は離れていた距離を、彼女はこちらの目線で一切視認出来ない速度で、成し遂げたことだ。
――これが、飛将軍か。
ぺたりと腰を抜かした趙忠に張遼が暢気に声を掛ける。
「おー。危なかったなあ。いま足元に蛇おったで」
「……そう」
こくりと頷く呂布。
武具を上げれば、確かにそこには潰された――しかし原型も止めていない血の塊があった。
「陣中じゃ何が起こるかわからんからな。どうかご自愛するよーに。じゃあ失礼するわ」
そう言って二人は今度こそ去っていく。
二将軍が去っていった後も、趙忠は座ったままだ。
汗が垂れ、そして、手の震えが止まらない。
そんな彼の視界が、ぱらりと開かれた。
無言で見れば。先ほどまで被っていた布が縦一直線に、寸分無く裂かれている。
下賎な者に顔を見せたたくがないために被ってきたそれを断たれ、趙忠は拳を握った。
「小娘共が調子に乗りおって。北郷一刀を殺せば、その次は貴様等が逆臣だ」
大物である趙忠がわざわざ行軍に参列したのは理由がある。
十常侍にとって董卓は目の上の瘤であった。
御するには大きく、しかし全く屈しようとしない。
そこで一計を案じた。
この戦いぶりを、陣地の羽振りを『正確』に報告すればいい。
隙のない董卓陣営だ。他の者では真偽が疑われる。
しかし、皇帝から信頼の厚い自分がこの目で見たと言えば?
「少しは分かる奴であれば、結果は変わったのにのお、ほっほっほ。後から後悔すればいいわ」
そう呟き、暗い瞳を浮かべながら趙忠が笑った。
◇
「全く、こっちが無理して調子上げとるのに下がりきったわ」
「殺す……?」
馬に乗りながら張遼と呂布。
彼女達の後ろには無数の兵達が続いていた。
正規の軍である。西の荒れた大地で鍛え上げられた精強な男達だ。
「いやいや。それはまずい。まあ、賈駆っちや陳宮が何とかする言うてたし。うちらは出来ることしようか――ん?」
土煙を上げ、そして張遼は右手を上げる。
全軍がぴたりと止まった。
眼前には巨大な関。その上には、幾重も並んだ牙門旗が揺らめいていた。
――そして張遼の目が釘付けになった。
驚くことに関の門前には、1人の少女がいた。
槍を携え、その艶やかな容姿を切れ込みのある衣服に包んだその姿。
更に天険の関の上には今までいた筈の兵の姿は無く、守るべき門が大きく開け放たれている。
「常山の趙子竜――」
星は構え、2万の兵に対して。
「我が槍の紗枝、見たい者から掛かって来い」
たった一人でその切っ先を向けたのだった。