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夏の桜は赤い空蝉

作者: 柿原 凛

 夏に見る桜の木も、また違った美しさがある。そう教えてくれた彼がこの街を去って早四ヶ月。その彼が今日、久しぶりに帰ってくる。

 去年のちょうど今頃、私に初めての彼氏ができた。制服の似あう凛とした青年かと思えば、野球帽がやけに似合う少年のような彼。彼と一緒にいると、不思議と微笑ましくってフワフワした気持ちになって、まるで桜吹雪になって温かい空を舞うような、そんな気分になる。

 春の日の午後、久しぶりに野球部の練習が無いと知って急いでお弁当を作って二人でピクニックしに行ったっけ。彼は野球部で毎日練習練習だったし私も私で地元の国立大学を目指して勉強していたからデートなんてする時間がなかった。お互いそんな感じだったから、初デートがこんなに輝いたものだって気付いてやけに幸せだったような気がする。高校の裏山の小さな丘に立つがっしりした桜の木。そこが私たちの最初で最後のデートスポットだった。

 三者懇談の真っ最中だったからかもしれないが、その日は生徒の数がまばらだった。私はまさに三者懇談をしに来ていたからそんなに浮いた感じではなかったのだが、彼はそうではなかった。顧問の先生が担任を持っていることを知らず、練習があると勘違いして一人だけグラウンド整備していたのだ。私が駆け寄ってそっと教えてあげた時のあの青ざめた表情、今でもクスっと笑えてくる。

 私はその時、咄嗟の判断でこれからデートしようと提案してみた。今から考えてみるとそれはかなりウブな感じで、我ながらよく言えたなぁというほど恥ずかしいものだった。グラウンドの果てに蜃気楼ができているような暑さのど真ん中で赤面しながら話す、私と彼。親が後ろで待っていると気づいたときには汗が本当に吹き出してきて恥ずかしくなった。日に焼けた彼の笑顔と大きな手の平に見送られて三者懇談に向かったのは今でも鮮明に思い出せる。

 比較的家も近かったし、二人共その時は財布を持っていなかったから、私が家で簡単に弁当を作って持っていくことにした。彼はこの悔しさを素振りで解消するとか何とか言ってたし、お腹を空かして待ってくれていることだろう。それだけで胸の中の気泡がポコポコと出て来そうになる。

 昨日の晩の残りと、簡単な冷凍食品。そしてパン。レイアウトを考えて可愛く見せるようなそういう弁当ではないけれど、多分きっと満足してもらえるだろう。野球部員にも満足してもらえるだけの量はある。完成と同時にいくつもの弁当箱をカバンに詰めて、自転車の荷台に乗せて急いでペダルを漕いだ。


 蝉しぐれのトンネルを通りぬけ、汗を拭きながら坂を登る。坂を登った先のグラウンドに彼が待っていると思ったら、少々の疲れなんてどうでもよくなる。ただ、中の弁当は崩れてないかとか、汗だくのセーラー服で嫌われないかとか、そういうことばっかり気になってしまう。でも結局は、裏山の桜の木が見えただけで嬉しくなってまた頑張れる。滑りこむように校門を通りぬけ、グラウンドの手前で自転車を止め、慌てて彼の元へと急ぐ。やっぱりまだ彼はバックネット裏で木製のバットを振り続けていた。

「おう」

 彼はバットを肩に乗せ、別れ際のあの笑顔をもう一度見せてくれた。つられて私も微笑んだ。乱れた髪の毛を後ろで結い直しながら。

「ごめん、遅くなっちゃった」

「いいよいいよ。ちょうど腹減ったし。弁当待っててよかったわぁ。あの桜の木の下で食べるんじゃろ?」

「そうそう。いいかなぁって思って」

 さっき私は、裏山の桜の木の下で一緒にお弁当を食べませんかって、告白するように誘った。漫画かドラマの見すぎだって言われるかと思ったら優しく笑って許してくれたから、ついついこのベタつく暑さにも負けないくらい体じゅうが火照っていた。

「じゃ、行こっか」

 ユニフォームに着替えず、夏服のまま素振りをしていた彼は、野球帽をちょこんと頭の上に乗せて、重そうな野球カバンを肩にかけ、自転車を押す私の横をゆっくりと付いてきてくれた。身長で言うとちょうど私の目線に彼の顎がある。ちょこっとだけ見上げれば彼と目が合う。この角度がたまらなく好きだった。弁当に配慮しつつ、彼の顔もチラチラとチャックしながら、桜の木を目指した。


 小高い丘にそびえ立つ桜の木は、夏でも青々と茂って堂々としている。大きく枝を広げているおかげで日陰の部分が多く、心地よい。私と彼はほぼ同時に座り込み、私は弁当を開いた。見た目は美しくもなんとも無いけど、空腹な彼はためらいもなく右手にパンを左手に箸を持ってつまみはじめてくれた。彼が左利きだったのをはじめてそこで知って、左側に座ったのをちょっとだけ後悔した。

 たらふく食べた彼は、満足したと同時に眠ってしまった。ちょこんと乗せた野球帽が桜の花びらのようにひらひらと転がって地面に落ちていった。樹の幹を枕に寝ているのに嫉妬しつつ弁当を片付ける。とはいえひとつも残さず平らげてくれたのがやけに嬉しくて、じりじりする暑さを忘れてしまうほどだ。時間が入道雲みたいにゆっくりと流れていく。

 最後の弁当箱を片付けて袋を持ち上げた時、小さな瓶がどこからかポトリと落ちてきた。細長い赤い小瓶。間違いない、私のマニキュアだ。弁当袋の中に誤って入っていたのだろうか。場違いな感じが拭えない。その時私は思わずいたずら心が働いた。そっと彼に忍び寄る。そしてそっと、彼の左手の小指に刷毛を当て、すべらせた。彼の小指の爪が真っ赤に染まっていく。笑いをこらえきれずとうとうクスっとしてしまってとき、彼が眠りから覚めてしまった。

「くすぐったいぃ」

 彼は左手で目をこすりながら体を起こしている。まだ乾ききっていないマニキュアが彼の鼻の頭に付着し、またクスっとしてしまう。彼はまだ気付かないようで、「何?」を繰り返している。

「左手の小指、見てみ」

 私がそっとささやいてみると、彼は恐る恐る自分の左手の小指まで目線を移した。そのあとは説明するまでもない。彼は何がなんだかわからなくて、ただただ薄く笑うばかりだった。

 そんな彼は急に立ち上がって、樹の幹をじっとみつめはじめた。何かを探してるのだろうかと思ったが、私が声をかける前に、彼は私の目の前に何かを差し出してきた。茶色いその何かにピントを合わせようと私はちょっと頭を後ろに下げた。ピントがあった途端、私は飛び上がるほどびっくりしてしまった。


 蝉の抜け殻だった。


 虫が特別嫌いで苦手ってわけではないけど、得意なわけがない。彼は先程のマニキュアのお返しとばかりに私の方に蝉の抜け殻を向け、近づけてきた。私は片目をつぶって彼、いや蝉の抜け殻から逃げ回った。眠りから覚めた彼はエネルギーが有り余っている。さすが野球部の元気である。すぐに私は追いつかれて降参した。どちらからともなく笑い合って、また樹の幹を背にぐたっと座り込んだ。

 しばらくして、「そうだ、空蝉にマニキュア塗ってみよう」と言ったのは彼の方だった。何を言い出すかと思ったが、マニキュアと蝉の抜け殻が手元にあるのは確かだし、彼となら何をしたって楽しいのはわかっている。私はポケットにしまっていたマニキュアの小瓶を取り出し、彼に渡した。渡したはいいが、不器用な彼は今にも蝉の抜け殻、いや空蝉を今にも潰してしまいそうだったので私が代わりに塗ることにした。

「まさか”空蝉”なんて言葉、知ってるとはねぇ」

「そのくらい俺でも知ってるよ」

 クスっと笑った私がその後、彼から進路の話を聞くとは夢にも思っていなかった。地元の国立を目指していた私は、大学に行っても彼とこうしていたいって思っていたのに、彼は野球で推薦をもらっていて他県の大学に行ってしまうらしい。そう思うと、急にあと半年の高校生活が短く思えてきた。さっきまであんなに時間がゆっくりと流れていたのに、急にそうでもなくなってきて、辺りがだんだんざわめきだってきたような気がする。「そろそろ帰ろっか」なんて彼が言うのもやけに寂しく思えて、今日だけはずっと袖をつまみ続けた。それから半年後、私たちは卒業し、彼とも離れ離れになってしまった。真っ赤になった空蝉は、今でも大事に勉強机の奥に置いてある。真っ黒に日焼けした笑顔の写真と一緒に。

 そんな彼が今日、この街に帰ってくる。今度は彼の方から一年ぶりにあの桜の木に行こうと誘ってくれた。私はやはりあの日と同じように、多めの弁当とマニキュアの小瓶と真っ赤な空蝉を持って駅で待っている。彼が乗っているはずの電車がプラットフォームに到着し、ひとつ大きく息を吐いた。そして彼が改札口からゆっくりと歩いてきた。大学の野球部のものと思われる真新しい野球帽を頭にちょこんと乗せて日焼けした顔で笑いかけてくる。左手の小指だけ真っ赤に塗って見せてくる彼。マジックで塗ったのだろうか。私も負けじとあの日の真っ赤な空蝉を彼に差し向ける。私はクスっと笑って、彼もいつものように笑ってみせた。

「おかえり」

「ただいま」

 彼が野球帽を私の頭にかぶせてきた。私も彼の頭の上に、赤い空蝉をちょこんと乗せた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 恋愛ものってやっぱり良いですよね! すごく楽しめました。 [気になる点] 改行などが無くて少し読みづらかったです…f^_^; 自分が気になるだけなので良いのですが! 気にしないでください…
[一言] 久しぶりです。也屋です。 相変わらずの文章で圧巻しつつ、残念だという気持ちがありました。 あまりにも多すぎる。たんぺんで読み終わるものだと思っていたのが思ったよりも長かった…。  もうち…
[一言] とても素敵なストーリーとシチュエーションだし、二人のキャラや心情の変化もお見事でした。 しかし残念ながら地の文が多すぎる。 まるで説明書を読んでいる気分でした。 なのでせっかくの素敵な小説も…
2012/01/05 20:44 退会済み
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