雨の前、雨の後(前)
『息子が彼氏を連れてきた!』シリーズの新作になります。文字数の関係で前・後編に分けることになりました。前にもお断りしましたが、意図的に君・さん付けの区別はしておりません。名字呼びか名前呼びかも特に決まりはなく、正直筆者の気分で決めています。
交際も5年以上になった広瀬暁人・明石実央の同性カップル。家族にも受け入れられ友人・知人の応援もあって幸せに過ごしていた。が、何やら不穏な雰囲気が漂い始め…?
秋の長雨
10月のある水曜日、前日からの雨が続いてその日もすっきりしなかった。前日からというより、今週はこんな天気が多い。ここは都内某区にある大室精密(株)本社ビルの第2会議室、定時を少し過ぎて広報部の打ち合わせが終わったところだった。
「じゃあサーフィスさん、この方針で進めて下さい」
広報部長の鍵山がCMを委託したデザイン事務所サーフィスの社員3人に声を掛けた。
「承知しました、よろしくお願いします。詳細が決まりましたらご連絡を差し上げます」
サーフィスの社員がそう答えて頭を下げた。挨拶後会議室のドアを開けて彼らが廊下に出る時、入れ違いに入ろうとする人影があった。出て行く3人はその人影にも会釈し、帰って行った。
入って来たのも3人、副社長の大室康光と秘書二人だった。秘書のうち一人は40代後半の女性、もう一人は背の高い20代の男性だった。男性秘書は会議室にいる一人に目を留めると、軽く手を上げて微笑む。だが女性の方は視線を下に落として、不安そうな面持ちだった。
「これは…大室副社長、広報部に何か御用でしょうか?」
意外な人物の来訪に、鍵山部長が頭を下げて尋ねる。
「ああ…」
大室副社長は会議室を見渡した。歳は60代、恰幅が良く、強面だ。
「広瀬暁人という社員はいるかね?」
突然の指名に広報部社員が何事かと顔を見合わせる。
「広瀬は私ですが」
若い男性社員が前に出た。先程の男性秘書同様、長身で整った顔立ちをしていた。副社長は値踏みでもするような目つきで、暁人をじろりと一瞥する。
「なるほどね…」
副社長は口元に笑みを浮かべて呟いた。
(え…なによこのオジサン、広瀬さんに気があるの?)
そんな事を考えているのは、同じ広報部の女子社員・城下紗弓だった。心の声とはいえ、仮にも副社長を「オジサン」呼ばわりはいかがなものだろう。副社長は暁人に向き直ると、いきなり
「広瀬君、君にいい縁談があってね、も…」
と、言い出した。そこにいた全員が「エッ」という顔をして驚いたが、間髪入れず
「お断りします」
暁人は副社長をまっすぐ見て即答した。副社長も暁人のこの反応には少々面食らったらしい。彼の隣にいた男性秘書・岩城諒も意外な成り行きに目を見開いている。岩城は暁人と同期入社で最初の約2年は共に営業部で働いた仲だ。お互いを親友と認め、信頼し合っている。もっとも岩城の方には「親友」という言葉には収まらない、複雑な思いもあるようなのだが—
「…人の話は最後まで聞くものだよ、広瀬君」
副社長は余裕のある態度を崩さずそう言った。
「それは失礼しました。しかし私個人への縁談ということでしたら、ここでお断りします。お受けするつもりは毛頭ありません」
曖昧な言い方はしない、はっきりとした拒否だった。
「…お相手は最上重工業の社長令嬢だ、美しい女性だよ、とにかく会ってみるだけでも…」
副社長も簡単には引かなかった。
「受ける気がないのにお会いするのは先方にも失礼でしょう。これ以上のお話は無用かと」
暁人も譲らない。「無用」と言われて、さすがに副社長も表情を変えた。周りの人たちは固唾を飲んで見守っている。
「君の将来にとってもいい話だろう。早急に結論を出さなくとも…」
「私にはすでに決まったパートナーがおります」
暁人は副社長の話を遮った。失礼な態度をとっている自覚はある。
「すでに生活も共にしています。他の人が入る余地はありません」
(広瀬さん…なんてステキ…)
紗弓は思った。但しこの「ステキ」は広瀬自身に憧れての感想ではない。うっとりする紗弓を現実に引き戻すように、副社長が言った。
「聞いているよ、相手は男性だそうだね」
暁人に同性の恋人がいる事はすでに本社中に周知されていた。だから副社長がそれを知っていたとしても、不思議ではない。暁人は採用面接の時にその事実を明かしていて、入社後のトラブルでそのことが社内に広まってしまったのだ。ただ暁人はそれに臆することなく、噂をされようとからかわれようと平然としていた。社内全体で言えば、むしろ好意的にとらえる人間の方が多かった。
「性別は関係ありません。日本の法律上認められていないだけで、彼とは結婚しているつもりでいます。既婚者に縁談話を持って来るのはおかしいでしょう」
暁人は左手薬指に嵌められた指輪を、右手でしっかりと確かめる。
「結婚は異性とするものだ」
副社長の言葉に岩城の方がむっとして何か言いそうになったが、暁人が目でそれを制した。
「君は同性愛者という事ではないそうだな、それなら可能性がゼロという事ではないだろう」
「ゼロです」
暁人は断言した。
「大室副社長、今日のところはもう…」
女性秘書が初めて口を開いた。彼女の名は金沢冴子、秘書課で係長を務めるベテラン社員だ。彼女の言葉に副社長は広報部社員約10名がこの一部始終を見ていた事を、認識したようだ。
「まあ今日のところはこれでいい、また話そう広瀬君」
「縁談のお話なら、何度なされても結果は同じです」
「君も頑固だな」
「常識的な対応をしたつもりです」
副社長はもう何も言わず、明らかに不愉快だという顔をして会議室を後にした。秘書2人もそれに付いて行くしかなかったが、
〔広瀬、後でラ〇ンする〕
岩城が小声で暁人に告げ、部屋を出て行った。
ドアが閉まってしばらく、全員放心状態のようになっていた。その沈黙を破ったのは紗弓だ。
「ちょっと…なんですか、あれ!!パートナーがいる人に縁談て…頭おかしいんじゃないの!?」
「お、おい、城下君、言葉を慎みなさい」
鍵山部長が、ぎょっとして制止する。だが紗弓はやめない。
「ありえない、非常識とかいうレベルじゃないわ」
「みなさん、すみません。俺のせいでおかしな空気にして…」
暁人が苦笑して同僚たちに謝った。
「広瀬さんが謝ることじゃないです!」
「と、とにかくみんな、今の事は外で話さないようにね」
部長はとりあえず広報部の社員たちに注意をして、その日はみんな退社となった。
霧雨の中
その日の夕方雨の勢いは弱まったが、まだ細かい霧雨が降り続いていた。あるマンションの一室で、インターホンが鳴る。
(暁人さんが帰ってきた)
笑顔で玄関に向かうその青年は明石実央、暁人より二つ年下の彼の恋人だ。
「暁人さん、お帰りなさい、お疲れ様でした。あれ、濡れてますね、傘は?忘れちゃったんですか?それなら迎えに…」
言いかけて実央は、暁人の様子がいつもと違う事に気が付いた。どちらが先に帰宅していたとしても二人は「お帰りなさい・ただいま」を合図に必ずハグをする。ハグで済まない事も、間々ある。しかしその日暁人は玄関で黙って立ったままだった。実央は玄関にある戸棚からタオルを1枚取り出すと、
「風邪ひいちゃいますよ、お風呂沸かし直しますね」
そう言って、暁人の頭を拭き始める。すると暁人はタオルを持つ実央の手首をぐっと掴んだ。
「暁人さ…」
暁人は靴を脱ぐと実央の手首を引っ張ったまま、自分の部屋に向かって行った。部屋に入るとジャケットも脱がず、首元のネクタイだけを緩めて実央をベッドに押し倒した。
「暁人さん、なに…」
実央も暁人のただならぬ様子に、恐ろしさを感じてしまう。
「実央!」
暁人は帰宅して初めて口を開いた。直後に何度も激しいキスを実央に浴びせる。実央はわけが分からず
「暁人さん、やめ…」
もう暁人の勢いは止まらなかった。最初は恐怖を感じて拒もうとしていた実央だったが、途中から暁人のなすがままに任せていた。暁人が実央を強引に抱こうとすること自体は、まあ珍しい事ではない(※…)。強引と言っても、いつもは甘い雰囲気の中での行為だった。だが今夜は違った。付き合い始めて5年以上、実央がこんな暁人を見るのは初めてだった。
(会社で何かあったんだ)
実央は抵抗せずに、暁人の気が済むようにしようと身を委ねていた。
(どんな時でも暁人さんを受け止められるのは僕だけ…)
実央は嵐のようなひと時が過ぎるのを、ただ待つだけだった。
暁人と実央が知り合ったのは大学時代、暁人が3年生・実央が1年生の時だ。サークル勧誘で出会い、温泉研究会で一緒の時間を過ごすうちに惹かれ合い、愛を育んでいった。楽しいだけの5年間ではなかったが、周囲の理解を得て二人は着実に歩みを進めてきたのである。
実央の就職を機に二人は実家を出て、都内のマンションで同居を始めた。時にはケンカもしたが、二人だけの時間と空間を共有し、充実した日々を送っていたのであるが―
1時間ほど過ぎただろうか。暁人はベッドに腰かけて悄然としていた。ワイシャツは着たままだった。実央はベッドで横になっている。暫くして起き上がろうとしたが、
(痛っ…)
体のあちこちに痛みが走った。実央が起きる気配に、暁人が振り向く。
「実央…」
暁人と目が合い実央は笑おうとしたが、唇の端が少し切れていてうまく笑えない。
「実央…ごめん、俺…」
暁人は自分がしたことの酷さに、自分が打ちのめされていた。
(こんなの愛情じゃない、ただの暴力じゃないか)
暁人の泣きそうな表情を見て、実央は彼に近付いた。そして膝立ちになって包むように暁人の上半身を優しく抱きしめた。
「僕なら大丈夫ですよ、暁人さん」
実央の言葉に暁人は母親に縋る子供のように顔を埋めた。
「何か…あったんですよね?」
正直暁人は今日副社長から持ち掛けられた縁談の事など、実央に話す必要はないと思っていた。何度言われたって自分が断ればいいだけの話だ。会社に居づらくなったら、辞めればいい。
「教えて下さい暁人さん、何があったんですか?」
(実央にこんな酷い事をしておいて、「なんでもない」では済まないよな…)
少し間をおいて暁人は口を開いた。
「今日副社長が俺に縁談を持って来た」
「縁談、誰との」
「最上重工業の社長令嬢とか言ってたな」
実央が意外と冷静に聞いてきたことに、暁人は少し驚いた。
「そうでしたか…」
「もちろんその場ですぐに断った。俺には大切なパートナーがいるからって」
そう、断った。それで済むはずだったのに…。副社長と話している時暁人は冷静でいるよう努めていた。だが内心は怒りで震えていたのだ。(なんでこんなに話が通じない)と。
以前、二人の仲を反対する暁人の母親にも見合いを仕組まれた事があった。暁人はあの時も腹が立ったが、相手にしなければいいだけだと思った。いくら仲違いをしても親子の話だし、自分がしっかりしていれば済む話だと考えた。それに母親も少しずつ二人を受け入れてくれるようになって、8月には両家と知人で食事会も行われ、以来二人の周辺は温かい空気に包まれていた。そこに来てこれである。
なぜ平社員の自分がいきなり社長令嬢との縁談に引っ張り出されるのか、そして明らかに副社長は実央の存在を知っていた―暁人の心中には怒りとともに言いようのない不安が拡がった。断っただけで簡単に済む話なのか、断り続けて周囲に迷惑が及ばないのか―暁人は色々な事を考えてしまったのだ。何か大きな圧力に押し潰されそうな恐怖—それが実央に対する行動に出てしまった。実央には何の落ち度も責任もないのに、実央と繋がっていなければその恐怖に負けそうで、あんな乱暴な行為に出てしまった。
(俺は弱い、最低だ)
実央の胸に顔を伏せながら、暁人は自分の不甲斐なさに腹が立った。
「お風呂に入りましょうか」
唐突に実央がそう言った。顔を上げると実央の優しい笑顔が見えた。
「一緒に…入っちゃいますか?今夜はね、今朝暁人さんがリクエストしたカレーです。良い匂いしてるでしょ?ジャガイモ被りだけどポテサラも作りましたよ」
「うん…」
その時スーツのポケットから滑り落ちたスマホが目に入った。
(そういえば岩城が…)
会議室を出る時後でラ〇ンをすると言っていたが、まだ確認していなかった。
―今日の事は何も聞かされていなかった。明日の昼、社食で話そう―
岩城から短いメッセージが届いていた。
五里霧中
翌日暁人はいつも通り出社した。本社のエントランスに入ると、出社してきた社員が大勢目に入る。ただ何やらいつもと雰囲気が違っていた。
(なんか俺見られてる?)
暁人が女性社員から視線を送られるのは珍しい事ではなかったが、その日は明らかに様子が異なっていた。
「お早うございます」
暁人が広報部に入ると、すぐに
「広瀬さん、大変です!」
いきなり紗弓の声が飛んできた。すでに出社していた同僚も一斉に暁人の方を見る。
「城下さん、大変て…」
「昨日の話が、もう社内中に広まっているんですよ!」
「え…」
昨日の話は、あの場にいた広報部の社員に副社長と秘書の金沢・岩城両名しか知らないはずだ。部長は口外しないようにと注意していたが、人の口に戸は立てられない。誰かが漏らしたとも考えられるが、それにしたっていきなり社内中に広まることはないだろう。周囲の視線はこのせいか、と暁人は思った。
「腐…私の友達が色々な部署にいるんですけれど、もうみんな知っていて…出所はわからないけれど、あっという間に噂が広まったみたいです」
紗弓がそう付け加えた。
「ちょっとおかしいよな、昨日の定時頃の話が翌朝こんなに広まっているなんて…」
同じ広報部の林が疑問を口にする。
「あ、俺、誓って喋ってないよ、広瀬」
「わかってます」
暁人は笑顔で答えた。
(誰かが意図的に…昨日のうちに、もう…)
12時になって、暁人は社食に向かった。岩城と話す約束をしている。社食に入ると予想はしていたが、周囲の視線を感じた。暁人がオーダーしたトレイを持つとそこに岩城が立っていた。
「今日は実央君の弁当じゃねえの?天ざるかあ」
「実央は学校の用事で朝早かったんだよ」
「学校の先生も大変だな」
実央は現在私立三輪春学園という男子校で、教員を務めている。そこへ一人男性社員が近づいてきた。
「兄貴…」
暁人の弟篤紀である。篤紀は今年の春から兄と同じ大室精密に入社し、現在経理部に所属している(※『広瀬家の諸事情』参照)。暁人とは3つ違い、暁人にはもう一人、やはり3つ年上の姉・綾乃がいるが別の会社に勤務している。
「兄貴、あの話って…」
心配そうに篤紀が声を掛けた。「あの話」とはもちろん昨日の縁談の事だろう。暁人が何か言いかけたその時だった。
「おやー、イケメン君、相変わらず注目の的だねえ」
とんかつ定食のトレイを手に持って、皮肉たっぷりに話しかけてきた男がいた。サポート課の矢森である。この男は暁人が営業部にいた時から、恋人の事でからかったり嫌味を言ったりと絡んでくる事が多かった。暁人は全く相手にせず適当に受け流していたし、怒るのはいつも岩城の方だった。
「美人で有名な社長令嬢とご結婚だって?羨ましいなあ。そりゃあ乗り換えちゃうよねえ、可愛そうに彼氏君、捨てられちゃうんだー」
矢森はわざと周りにも聞こえるような大きな声で、暁人の顔を覗き込みながら近づいてくる。
「おい、お前、いい加減に…」
いつものように岩城が矢森を止めに入ろうとしたが、
「もう一度言ってみろ」
暁人の低い声が矢森に向けられた。ニヤニヤしながら暁人に寄って行った矢森は、暁人の怒りの表情にぎょっとする。
「誰が誰に乗り換えるって!?誰が捨てられるだと!?」
その凄まじさに、矢森は思わず後退った。昼時の社食、人は多い。近くにいた社員たちは思わず動きを止めて、成り行きを注視している。岩城も篤紀も驚いた。岩城は暁人と知り合って4年目になるが、親友のこんな顔を見たのは初めてだった。
篤紀は以前、暁人が実央に嫌味を言った母親を思わず殴ろうとして実央に止められた時の事を思い出した(※『息子が彼氏を連れてきた!Short stories』参照)。あの時と同じくらい、いや、あの時以上に凄まじい兄の表情だった。
1歩2歩…暁人の迫力に押されて矢森がさらに下がる。
「悲しいですねえ、あんた逆立ちしたって重役から結婚話なんてもらえないもんなあ、男の僻みはみっともないっての」
ダメ押しのように岩城がそう言うと、周りからクスクスと失笑が漏れ聞こえた。矢森は明らかに自分が笑われているのだと気付くと、いたたまれなくなったらしい。
「お、お前ら…先輩に向かって…」
顔を真っ赤にしてそう言ったものの、持っていたとんかつ定食を近くにいた男性社員に押し付け、そそくさと社食を出て行った。押し付けられた男性社員はまだ若く新人のようだったが、困り果てている。
「もらっとけば」
岩城は彼にそれだけ言うとぐいっと片手で広瀬の肩を抱いて、社食のテーブルの方に向き直った。
(あー、混んでんな、ゆっくり話したいから円いテーブルがいいんだけれど…)
社食は広く、長いテーブルと5人くらいが座れる円テーブルがある。円テーブルは数が少ないからすぐに埋まってしまう。その時
「篤紀君」
と呼ぶ声があった。声を掛けたのは篤紀と同じ経理部の湯浅真理だった。
「ここ、お兄さん達と使って、私たち移動するから」
そう言って真理は手招きする。海外営業部の松本レイナと広報部の紗弓も一緒だった。篤紀はなぜか真理やその友人たちと昼食をとることが多かったのだ。
「あざす、兄貴、岩城さん、お言葉に甘えましょう」
篤紀は振り向いて二人に声を掛けた。席を入れ替わる時
「すみません」
と暁人が真理たちに礼を言い、岩城も
「お気遣い頂いてどうも」
と頭を下げた。すると紗弓が
「いえいえ(ちゃっかり肩なんか抱いちゃってー)」
と意味ありげに岩城に微笑んで、席を離れた。
「兄貴、あの話ほんとかよ、も…なんだっけ、もぐさ?重工業の…」
「『最上』だよ」
岩城がおかしそうに篤紀の間違いを訂正する。
「そうそう、そんな大企業の社長令嬢との結婚話なんてどうなってんだよ」
篤紀の問いかけに
「俺の方が聞きたいよ」
暁人は苦虫を噛み潰したように答える。
「昨日は悪かった広瀬、俺はあんな用件だなんて知らされていなかったんだ。金沢さんは知っていたみたいだけれど…」
「邪魔していいか」
岩城の話の途中で、男性社員が二人暁人たちのテーブルに入ってきた。暁人・岩城の営業部時代の先輩・大野と山下だった。
「どうぞ」
「なんか大変な事になってんな、あ、俺らはもうメシ食い終わったからそっちは食べながらでいいぞ」
大野が3人を促した。大野が暁人、山下が岩城の教育係だったこともあって、二人が部署異動した後も何かと親しくしていたのだ。
「大室副社長の声掛だって?」
大野はなぜか「お声掛」と丁寧語にしなかった。
「俺は一平社員ですよ、なんでそんな話が持ち込まれるのか…」
暁人は怪訝な面持ちで話す。
「あー、まあ確かにそうなんだけど、お前はさあ、ほら、背も高くてイケメンだし学歴も高いし仕事もできるし…」
嫌味でなく、山下が言う。
「そんな…学歴でいうならうちには国立出だってたくさんいるじゃないですか」
「いや、だから総合的なスペックの高さ?」
「だったら岩城さんだっていいじゃん、S大出身で兄貴と同じくらいカッコイイじゃないっすか」
篤紀が口を挟んだ。
「あー、確かにそうなんだけど、こいつはさあ…ちょっとチャラめっていうか」
「悪かったですね、チャラくて」
「話を戻すぞ」
大野が真面目な顔つきになる。
「気を付けろ広瀬、断って簡単に済む話でもないかもしれない。副社長に利用されようとしているのかもしれないぞ」
「利用?」
「岩城、お前今副社長付きなのか?」
「ああ、まあ一応…(仮)ってやつですけどね、ちょっと訳ありで…」
そこへ女性社員が一人近づいてきた。金沢だった。
「広瀬君」
申し訳なさそうな表情で声を掛ける。
「お食事中にごめんなさい、昼休みの後副社長室に来てもらえるかしら。広報部長にはもう伝えてあるから」
「昨日の今日で、またですか。金沢さん、昨日副社長が広瀬に会いに行った目的、知ってましたよね」
暁人が返事をする前に、岩城が責めるような口調で金沢を問い詰めた。
「ええ、知ってたわ。ごめんなさい」
「金沢さんは実央君の事知ってるじゃないですか、8月の食事会だって出席してるのになんで…」
「岩城」
なお言い募る岩城を暁人が止めた。
「言い訳になるけれど、私副社長をお止めしたのよ。『広瀬さんにはもう決まったお相手がいます』って…でも…」
金沢はそれ以上は言いにくそうだった。
「わかりました、この後伺います」
暁人がそう返事をすると、金沢は軽く頭を下げて離れて行った。
「金沢さん、『でも』の後、なんだったんだろうな」
岩城がぼそりといった。
「男同士だから軽く見られたんだろう。俺はそういうのが一番嫌なんだ。しかも同性愛者じゃないと、気まぐれみたいに扱われる。ゲイだったらよかったっていうのか?」
暁人は怒りを滲ませてそう吐き捨てたが、言った直後にはっとして大野の方を見た。
「大野さん、すみません。ゲイがいいとか悪いとかっていう意味じゃなくて…」
暁人が謝ったのには訳がある。大野の兄がゲイだったからだ。8月の食事会はその大野兄がオーナーを務めるレストランで行われたのである。もちろん大野・山下も岩城も出席していた。
「わかってるよ広瀬、気にしてない。それにしても…くそ、昼休みじゃ時間が足りねえな、広瀬、今夜時間が取れるか?居酒屋かどこかで…」
大野がじれったそうにそう言うと
「取れます。よかったらうちに来て下さい。俺個人の事で心配して頂いて…」
「いきなり行って実央君大丈夫か?ていうか、今回の事実央君に話したのか?」
「話しました」
「えっ、実央君なんて…」
篤紀が思わず身を乗り出す。
「『そうでしたか』って…」
暁人以外の全員がその意味を図りかねている。昨夜の状況がわかっていないから、どういう流れでの「そうでしたか」なのか理解できないのだ。
「食う物は山下と適当に持ってくわ。気を遣うなよ。それじゃあ俺ら戻るな」
「ありがとうございます」
「今夜俺も行く、広瀬、負けんじゃねえぞ」
そう言って席を立とうとした岩城の腕を、暁人が掴んだ。
「岩城、この後副社長室でお前が同席しても口を出すなよ。下手な事を言ってお前が叱責されるようなことになったら、俺が辛いんだからな」
暁人のその言葉に思わず岩城は「きゅん」としてしまった。なぜ「きゅん」なのかは、そのうちわかるだろう。
「俺も行く」
元気な声で言う篤紀を
「お前は来なくていい、ていうか来るな」
暁人はあっさりと退け、不満げな篤紀を残してその場を離れた。
二の矢
「失礼します」
ノックした後暁人は副社長室のドアを開けた。正面の大きな机に肘をつき、両手を軽く組んだ副社長が待ち構えている。その左右に、少し離れて金沢と岩城が立っていた。暁人は岩城と目を合わせる。
「お呼びという事ですが、どういったご用件でしょうか」
暁人はわざと昨日の事はもう済んだような聞き方をした。
「昨日の最上重工業の社長令嬢との結婚話だがね、考えが変わったかと思って」
副社長は「縁談」ではなく「結婚話」とより具体的な表現に変えてきた。
「それならすでに昨日お断りしました」
暁人はまっすぐ副社長の顔を見て答える。
「よく考えてみたまえ、君も男だろう?やりたい事があってここに入社したんじゃないのかい?」
副社長は余裕の笑みを崩さない。
「君はまだ若いが、先々の事を考えれば後ろ盾とか『そういうもの』は必要になってくるよ?世の中きれい事では済まない話が色々とある」
「そのようですね」
暁人は軽く副社長を睨んだ。
「でも私は出世とかそういう物には興味がありませんので。確かにやりたいことがあってこの会社を選びましたが、ここでなければ出来ないという話でもありません」
別に会社を辞めても構わないという決意表明だった。副社長は話の方向を少し変えてきた。
「男同士なんて不毛な関係に拘って何になる?長い人生で考えたら瑣末な事だ。昨日も確認したが、君は同性愛者ってわけではないそうじゃないか」
横にいた岩城がこの言葉に明らかに反応した。暁人が「動くな」と目で意思表示する。
「不毛かどうかは他人が決める事ではありません。自分で決める事です。それになぜこんな話が平社員の私の所に持ち込まれるのか、不思議でなりませんが」
「君の父上は三友商事の重役だそうじゃないか。十分に立派な家柄だと…」
「父の肩書と私は何の関係もありません」
「お相手の最上家はこの話に大層乗り気でいらっしゃるんだよ。昨日も話したがお相手はたいそう美しい女性で」
「私は『顔面至上主義』ではありませんので」
「…君がそれを言っても説得力がないな」
「私の容姿の事を言っていらっしゃるのですか?それは両親から受け継いだ遺伝子の結果で、私の手柄ではありません」
即答を続ける暁人に、副社長の方が少し言葉に詰まった。
「先ほど副社長は私が同性愛者ではないとおっしゃいましたが、その通りです。性別は何も関係ありません。私は明石実央という人間に出会って彼に惹かれ、彼を選びました。彼を愛しています。明石実央だけが私の唯一無二で、外見やステータスの素晴らしい方がどれだけ目の前に現れても、私にとってはジャガイモと同じです」
暁人の言葉に岩城が思わず「ぷっ」と笑いを漏らしてしまった。副社長がピクリと反応する。暁人はなぜ「ジャガイモ」と表現してしまったのか、自分でもわからなかった。昨夜の食事がカレーやポテサラで、「ジャガイモ被り」と実央が言っていたのが頭に残っていたのだろうか(※ジャガイモに失礼かも)。
それはともかく、暁人は今はっきりと「明石実央」という名前を口にした。父・明の事を言われて、すでにある程度こちらの事は調査済みなのだろうと予想がついたからだ。
「…まあ、ここは私の顔を立てて先方に会ってみるだけでも。会えば君の気も変わるかも…」
(しつこいオヤジだな)
と、この時暁人・岩城・金沢の3人が同時に同じことを思った。金沢はなにか感極まったような表情をしている。
「お会いして、すぐその場でお断りをしろという事ですか」
暁人はもう腹を括っていた。最悪会社を辞めればいい話だ。暁人にとって実央との生活以上に守るべきものはなかった。ただ理不尽に屈して簡単に逃げるのは、暁人も不本意だった。
(最上家がこの話に乗り気?)
腹が立ちながらも、暁人は副社長のその一言が妙に引っ掛かった。
その日の晩、暁人と実央の住むマンションに岩城・大野・山下の3人がやって来た。
「実央君、急に遅くに押しかけてすまないな、俺らの事は気にしなくていいから。買って来た物適当に食うし。あ、グラスだけ貸してもらえるとありがたい」
リビングのテーブルにレジ袋を置いた大野が、実央に言った。
「みなさん、ありがとうございます。暁人さんのために来て頂いて」
実央は人数分のグラスを取り出して、何も用意しなくていいとは言われたが、一応自分が作ったおかずも2,3一緒にテーブルの上に置いた。その中にポテトサラダがあるのを見て、思わず岩城が笑った。昼間の暁人の「ジャガイモ」発言を思い出したのだ。
「岩城、なに笑ってんだ」
山下が訝しんだ。
「後でわかります」
岩城はそう答えただけだったが、実央の顔を見て
「実央君、口元ケガしたのか?」
と、尋ねた。暁人は決まり悪そうに横を向く。
「あ…ちょっと固いお煎餅を食べ損ねちゃって…暁人さん、僕部屋に行っていた方がいいですか?」
「実央は何か仕事があるのか?」
「今日はないですけど…」
「ならいてもらえよ、広瀬の武勇伝が聞けるぞ実央君」
岩城がニヤニヤしてそう言った。そして暁人と岩城は今日副社長室であったことを、大野と山下に説明した。
「やっぱりただの縁談話でもなさそうだな」
大野が言うと、
「大野さんと山下さんはこの件で何か引っかかることがあるんですか?」
岩城が聞いてきた。大野と山下は顔を見合わせる。
「お前たちもわかってると思うけれど、営業やってると取引先とか行く先々でいろんな話が耳に入るだろ?」
大野の言葉に、暁人と岩城は頷く。
「最近副社長ネタできな臭い話が多いんだよな。『きな臭い』って思ってるのは俺だけかもしれないけれど」
「俺も感じてるよ、大野程カンはよくないけどさ」
現在大室精密は会長が不在、大室社長は体調不良で静養中、浅見専務は対外交渉を任されて長期海外出張中だ。木内常務は関西支社テコ入れのため、単身赴任みたいな形になっている。つまり創業者一族である大室康光副社長が本社、いや大室精密全体を牛耳れる条件が揃っている。もちろん好き勝手していいという事ではなくて、重要事項は社長にお伺いを立てなくてはならない。ただ社長の従弟という事もあって、かなり幅を利かせているのは事実だった。
「うちと関係のある大手を中心に積極的に個人的な関係を築こうとしているフシがある。最上重工業もそのひとつだ。あそこもうちと同じで社長の体調がよくないらしい。30代の息子が代理の形で仕切っているが、若いのになかなかの切れ者だって噂だ」
「俺不思議なんですよ、なんで俺なのかって。高学歴で優秀な社員なら他にいくらでもいるし、実家が太い人だっているでしょう。父の事を持ち出されたけれど、ピンとこなくて」
暁人はどうにも納得がいかない様子だ。
「三友商事の専務だっけ。すげえな親父さん、叩き上げでそこまで行くの。商社だと色々な事を手広くやっているから、うちとも最上とも何かしら接点はあるかもだけれど、主要取引先って程じゃないよな。そっちのセンは薄いかー」
そう言って、山下が実央の作った麦茶をグイッと飲む。酔うと話にならないから、今日はアルコールは禁止だ。
「広瀬、お前またあちこちで愛想よくお人好しな事してねえか?どこかで社長令嬢とやらに見初められちゃったんじゃねえの?」
岩城が暁人に話を振ると
「からかうな、岩城。そんな人との接点、俺にあるわけないだろうが」
暁人はあきれ顔で反論した。
「それにしても実央君、動じてないね」
岩城はずっと黙って4人の話を聞いていた実央の方を見た。
「え…もちろん心配してますよ。暁人さんがストレスで体調崩さないかとか…でも、会社の中で僕ができる事はないですし」
(いや、そういう事じゃなくてさ…)
岩城はその時ふと思い出したことがあった。
暗中模索
広瀬・明石両家の食事会の後、いつ頃だったか岩城はヘンな夢を見た。しっかり抱き合う暁人と実央—実央は勝ち誇ったように岩城の顔を見つめて微笑んでいた。(手を出してもムダだよ)とでも言っているような…その時の実央の表情は小悪魔のような感じで、思わず「魔性の男」という言葉が浮かんでしまうほどだった。数日間悪寒が残るような嫌な夢だった。
岩城がなぜこんな夢を見てしまうのかというと、ぶっちゃけ暁人に惚れているからである。岩城は女グセが悪くてタラシでヤリ〇ンなのに、どういうわけか暁人に恋をしてしまったのである。実央とは恋のライバル…といいたいところだが、暁人は実央しか眼中にないので端からライバルですらない。
(あの夢の実央君の表情…色気というか狡さというか…)
改めて今目の前にいる実央の顔を見てみるといつも通り、「カワイイ天使の実央君」である。岩城の視線に、実央はきょとんとしている。
「岩城、なに実央の顔を見つめてんだよ」
隣の暁人が明らかに「不快」という面持ちで岩城を睨んだ。暁人は実央周辺の自分以外の男の行動に、過剰反応する習性を持っている。
「え、あ、いや…ええと…なんかカレーの匂いがするな」
岩城はすっとぼけて全然違うことを口にした。
「あ、わかります?昨夜作ったんですけれど少し残ってて…冷蔵庫に入れてあったのをさっき温め直したから…召し上がります?」
「食いたい、俺、カレー大好物!」
実央の言葉に岩城は即答した。
「岩城…お前…」
暁人の顔は、実央が作ったカレーの残りをお前が食うのかと言っていた。カレーの匂いは食欲を刺激する。岩城の前に置かれた一人前のカレーを3人がじっと見つめる。
「すみません、一人分しかなくて…」
実央が申し訳なさそうに言う。
「うまっ、ちょうどいい辛さ!市販のルウだよな」
「はい、隠し味にはコーヒーとか使ってますけど。あと気長に炒めたペースト状の玉ねぎを入れたりとか」
「え、これキノコ?美味しいんだけど」
「ああ、エリンギですね。僕が好きなのでカレーには必ず入れてます。もっと色々野菜を入れる時もあるんですけど、今回はわりとシンプルな方で」
二人の会話に大野が割って入った。
「岩城、お前いい根性してるよな、一人だけカレー食うとか」
「早い者勝ちですよ、悪く思わないで下さい」
岩城は食べる手を止めない。譲る気はないらしい。
「また皆さんでいらして下さい、次はたくさん作っておきます」
困ったように実央がそう言った。
岩城がカレーを平らげて話が本筋に戻った。
「3年前に左遷された馬場な、あいつ当時は副社長の腰巾着だった」
大野が急に昔の話をする。暁人と岩城が一緒のグループで大室精密の採用面接を受けた時4人の面接官がいたが、その中に金沢と当時の広報部長馬場がいた。馬場という男は社長の縁故入社だったが、度々コンプラ違反を繰り返す問題児だった。それでも社長の縁故という事があり口頭注意で済まされ、さらには自分の取り巻きを作って、自身は副社長にすり寄っていた。
問題視する声も強まったが、副社長の傘に隠れてお目こぼしされていたのだ。そんな時暁人の同性の恋人の噂が社内に広まったのである。暁人は面接の時話の流れで恋人のことを話していた。当然守秘義務があってそれは口外されなかったが、暁人たちが入社した年の夏、馬場が酒の席で口を滑らせたのだ。しかも反省もせず吹聴して噂を広めた(※『同僚の恋の話』参照)。
それだけではない。暁人の事で岩城に絡み、怒った岩城が馬場とやり合うという騒動まで起きた。もともと浅見専務から厳しい処分が下りそうな所にこの騒動だったので、馬場は地方に左遷となった。なおも馬場を庇おうとした副社長に厳しい意見を出したのが、浅見専務である。さすがに庇い切れないと考えたのか、社長も専務の考えを指示したというわけだ。
「つまりな、浅見専務は副社長にとっては目の上のたん瘤なんだよ。自分と違って叩き上げで人望も厚い。次期社長に推す声もあるくらいだ。社長の椅子を狙う大室康光にとって専務も常務も長期不在の今、社内を牛耳って色々と布石を打つ絶好のチャンスってわけだ」
「それが何で俺の縁談に…」
暁人は大野の状況分析は理解できたが、そこに自分が引っ張り出されたことには納得できない。
「お前に白羽の矢が立った経緯はまだ不明だけれど…最上重工業はうちの主要取引先だ。付き合いも長い。場合によってはライバルにもなりうるが、お互い切り離せない間柄ではある。副社長に子供はいないから、代わりにされたのかもな」
山下はそう言ったが、
「勘弁して下さいよ、なんで俺なんです」
「だからイケメンで…」
「それはもういいですって」
「とにかく早まって辞表書いたりするな。今のご時世向こうだってあまり強引な手段はとれないだろう。俺たちも情報集めてみるから、副社長に何言われてもうまく躱しておけよ」
「わかりました、よろしくお願いします」
そう言いながら暁人が実央の手を握りしめているのを、岩城は見逃さなかった。
「それより岩城、昼間副社長付きは(仮)とか言ってたけれど」
山下が確認してきた。
「あー、実はちょっと前まで女性の専任秘書がいたんですけどね。彼女音を上げちゃって」
「なんだよ、セクハラとかか?」
「セクハラはなかったみたいですけれど、『怖い』って言いだして」
「怖い?副社長が?厳しいってことか?」
「んー、とにかく怖くて気が休まらないって。甘えた事を言っているのはわかっているから、退職でもいいとまで言ったんですよ。半泣きでね。金沢さんが何とか思い留まらせたんですけれど、秘書課も手が足りてないし誰も副社長付きになりたがらない。それで仕方なく金沢さんと俺で分業している感じですかね」
「お前は本来浅見専務付きだったよな」
「そうです。専任は綿貫さんで俺はサブ的な立場でしたけれど」
「浅見専務の海外出張に付いて行かなかったのか?」
「ええ、まあ、そんな話も出たんですけどね…」
実は岩城は希望すれば専務に同行することも可能だった。仕事とはいえ会社の経費で世界中回れるのだから、けっこう美味しい話ではある。海外美女とのお楽しみも期待できた(※クズです)。ただそうなると長期にわたって暁人と離れ離れになってしまう。岩城にとっては辛い話だった。迷った挙句岩城は暁人の近くにいる方を選んだ。上司には「最近父の体調が思わしくなく、心配なので」と説明して辞退したが、もちろん大ウソだ。
「諸事情で、今回はお断りしました」
岩城がそう言うと、
「もったいなかったなあ、お前ならきっと活躍できたのに」
と、暁人が笑う。
(お前といるためなんだよ)
とは言えないのが、岩城の辛いところだった。
真打登場
「たのもうーっ」
大野たちが家に来た翌日の晩、いきなり暁人の姉綾乃と篤紀が訪ねてきた。
「姉さん…何だよ『たのもう』って…道場破りかよ。ていうか来るときは事前に連絡をくれと…」
言っても無駄な事はわかっていたが、暁人は一応文句を付けた。
「それどころじゃないでしょーがっ!!」
暁人は篤紀の方を見た。
「またお前か…いや、今回は俺も口止めはしなかったな」
暁人が「また」と言ったのは、篤紀に前科があるからだ(※『広瀬家と明石家の長い一日』参照)。さすがの暁人も実家の家族への口止めまで、気が回らなかった。
「ごめんねー、実央君、突然来ちゃって。デパ地下惣菜たくさん買ってきたから。あら、食事中だった?そのサラスパおいしそうねえ」
綾乃は無遠慮に食卓を覗き込む。
「どうぞ座って下さい、ええとお酒がいいですか?」
「いや、今日はやめとく。炭酸水持って来たわ。話は食事の後にしましょう。あれ?実央君、可愛いお口に傷作ってどうしたの?」
綾乃はいきなり本題には入らなかった。
「あー、これはお煎餅で…」
実央は昨日と同じ言い訳をする。
「ふうん…」
綾乃はそれ以上追及しなかった。
「それよりあんた毎日こんな料理食べてんの?贅沢ねえ」
綾乃は買ってきた惣菜よりも、実央の料理に手を出してくる。
「毎日じゃないですよ。スーパーのお弁当の日もあるし、レトルトの日もあるし」
実央が恥ずかしそうに話す。
「姉さん…これ、俺の皿だから。俺のムニエル」
「ケチケチしないでよ、セコい子ね」
賑やかな夕食の後に、自然と家族会議になった。
暁人は一昨日からの経緯を綾乃に説明した。昨日大野・山下・岩城の3人がうちに来て相談したことも付け加えた。
「とんでもない副社長がいたもんね、暁人を利用して会社を乗っ取るつもりなのね」
「乗っ取る?いや、そういう話じゃ…社長の従弟でもともと後継者候補ではあるし…ただ会社を利用して自分の利権を拡大しようとしている節があるんじゃないかと、大野さんたちが言ってた」
8月の食事会で綾乃は大野たち3人にも会っている。
「頼りになる先輩がいてよかったわね。それにしてもやっかいな奴に目を付けられたもんねえ。暁人の周辺は探りを入れられてるみたいだし」
「え、俺の事も調べられてるの?」
篤紀が不安そうに聞いてきた。
「…あんたは大丈夫じゃない?」
「なんで?」
「暁人の弱みにはならないから」
「?」
「わからなくてもいいわよ、それより暁人、『会ってみるだけでも』とか言われて先方にホイホイ出向くんじゃないわよ」
「出向かないよ、はっきり断ってるし」
「あんたの事だから埒が明かないと、会って直接断ろうとか考えそうじゃない?」
「それは…」
自分でもやりそうだと、暁人は思ってしまった。
「一服盛られて大変な事になるわよ」
「一服って…毒!?」
「媚薬に決まってるじゃない」
「び、媚薬!?」
「お茶かなんかに入れられて、強制的に『その気』にさせられて、社長令嬢との既成事実作らされて、何なら『妊娠しました、責任とって下さい』とか脅されるのよ(BLに媚薬は必須アイテムだものね、女性相手じゃ萌えないけど)」(※必須か?)
「いや…いくらなんでも…そんな事…」
姉の想像力の逞しさに、暁人は開いた口が塞がらない。
「媚薬かあー、ナルホド(BL読んでるとよく出てくるけど、あれってホントにあるのかな?)」
篤紀も相槌を打つ。この姉弟、実は腐女子・腐男子である。ただお互いがそうであるとは、認識していない。
「あとね、これ、持ってなさい二人とも」
そう言って綾乃は暁人と実央に小さな箱をひとつずつ置いた。
「これ、ボイスレコーダーですか」
「そう、この先敵が接触してきたら必ずこれを使って、データを保存しておくこと。スマホでも録音はできるけれどとっさに使えない場合もあるでしょ」
「そうか…水・木の副社長との会話も撮っておけばよかったな」
「そうね、でも過ぎた事は仕方がないわ。大事なのはこれからよ。録音するって事は自分の声も入るわけだから、くれぐれも発言には注意する事。相手を誹謗中傷したり、カッとなって乱暴な言葉を吐いたりしない事、いいわね」
「なんか姉貴、張り切ってるね」
篤紀が頼もし気に仁王立ちの姉を見上げた。綾乃と実央の母・実和子は、二人の交際発覚当初から頼もしい「応援団」だった。彼女たちの間には「腐女子」という共通ワードが存在していたのである。
「当り前よ、これから悪の組織と戦わなくちゃならないのよ」
綾乃は断言する。
「悪の組織って…戦隊ヒーローものかよ」
篤紀は笑ったが、
「『悪の組織』か…」
実央は独り言を言っていた。
「ところで姉さんが来たっていう事は、父さんと母さんも知っているのか?」
暁人が綾乃と篤紀に尋ねた。
「俺は姉貴にしか言ってないけど…」
「篤紀にしてはいい判断だったわね。今の段階じゃ相手がどう出てくるかもわからないし、下手に騒いで心配かけない方がいいわ。少なくともお父さんの会社絡みとは思えないし(下手にお母さんに知られたら社長令嬢の嫁の方がいいとか言い出しかねないし)」
「へへ、珍しく姉貴にホメられちゃったー、っていうか、実央君静かだね。平気なの?」
「平気?…ではないですよ…昨日もそんな事言われましたけど。でも僕にできる事はないし、やれるとしたら暁人さんの体調管理とか…」
「そうじゃなくてさー、兄貴が社長令嬢に盗られちゃうかもしれないんだよ?」
「篤紀、お前何言って…」
暁人が篤紀の発言にむっとしたが、実央はおかしそうに笑った。
「ええ?そんな事あるわけないですよ。そうだな、僕が怖いとしたら暁人さんが夢を諦めて大室精密を辞めてしまう事かな。暁人さんは学びたいことがあってK大の理工学部を選んで、自分の理想のために大室精密に入社したんです。だから暁人さんの夢だけは守ってほしくて」
篤紀は耳が痛かった。自分は兄が行ったからと同じ私立高校を選んで(補欠入学)、大学も何となく兄と同じK大を選んだのだった(理工学部は偏差値的に無理だった)。大室精密も何社も受けた結果、内定が出た会社で一番大手だったから選んだのである。
篤紀のコンプレックスをよそに、暁人は実央の言葉に感激していた。「そんな事あるわけない」—俺は実央の絶対的信頼を勝ち取っている―今すぐ実央を抱きしめたい衝動に襲われた。
「ダメよ、暁人。自重して」
そんな弟の心中を見透かすように、綾乃が言った。
「ゴメンねえ、実央君。当分暁人が無茶振りするかもしれないけれど、我慢してやってくれる?」
「姉さん!(怒)」
「え?はい…(無茶振りって…難しい料理をリクエストされるとか?ネットや料理本で勉強しておこうかな)」
「ちなみに今日泊まってもいいかしら、明日土曜日だし」
綾乃はしれっと実央に頼む。
「いきなり来て泊まるとか…朝飯の材料ないぞ!」
暁人が横から口を出した。
「いいわよ、近所のコンビニにでも買い出しに行くから、ね、篤紀」
綾乃の顔は「あんたが買いに行くのよ」という圧を篤紀にかけていた。
「ハイ…」
篤紀は仕方なく返事をする。当面親には内緒でという事に決めた姉兄弟だったが、この一件は意外な形で両親の知るところとなった。
噂話
「綾乃、ちょっといいか?」
綾乃と篤紀が暁人たちの家に行ってから1週間ほどたったある日、綾乃は父・明に話しかけられた。
「いいけど、なあに」
父に手招きされてリビングに行くと、母の静子が座っていた。
(やだなあ、私にまで見合い話とかじゃないでしょうね。最近ちょっとうるさいからなあ)
暁人と実央の事をずっと反対してきた静子だったが、今では二人を認めている様子だ。その代わり?矛先が綾乃に向いてきたのである。30歳が迫って来て、「いい人はいないの」「お見合いしてみる?」と度々聞かれるようになってきたのだ。
「実はね、暁人たちの事なんだけど」
明がおもむろに口を開く。
(今更反対とか言い出すんじゃ…)
「暁人が男性と付き合っているっていう話が、ご近所で噂になっているみたいなんだよ。あと静子さんが茶道で付き合いのある『花菱会』でも」
「えっ」
さすがの綾乃も絶句して、すぐに言葉が出なかった。
「もちろん暁人が悪い事をしているわけではないから、無理に弁解したり否定したりする必要はないんだが…別の所で同時期に話が出回ったからちょっと気になってね」
明が話を続ける。静子は無表情で座っている。
(やられた!)
と、綾乃は思った。あれから暁人とは随時連絡を取り合っているが、副社長からの呼び出しはなかったという。ただ一度たまたま廊下ですれ違った時に、「考えは変わったか」と聞かれたらしい。もちろん暁人は即断っている。
(ひょっとして諦めたのかと思っていたけど…甘かったわ)
―敵はこちらの一番弱いところを突いてきた。おそらく暁人の身辺調査で、母の静子がずっと二人の交際に反対していたことを掴んだにちがいない。その母親の近くを突けば、家族間でのトラブルが再燃するとでも思ったのだろう。そしてその後に最上重工業の令嬢との縁談話を拡めれば…—
綾乃は瞬時にそこまで分析した。静子がどう思うかわからないが、親に黙っていられる段階ではなくなったのだ。
「お父さん・お母さん、聞いてほしい事があるの」
綾乃は真正面から両親に向き合って、先週暁人に起こった事の経緯を説明したのだった。
「そんな事があったとは…」
人生経験豊かな明も、さすがに驚いている。
「向こうはお父さんの役職も把握しているし、こちらの事はある程度調べているみたい」
そう言った直後、綾乃は不安になった。
(はっ、まさか私が腐女子であることもバレてる!?あー、まあ最悪そこは知られてもいいか、趣味なんて個人の自由だもんね)
不安はほんの一瞬で、綾乃はあっさりと気持ちを切り替えた。
(それにしても…どうしたもんかな。暁人が拒否し続ければ実央君や実家の明石さんにも類が及ぶかも…)
プライバシーの侵害ではあるが、噂話程度ではこちらも大騒ぎはしにくい。出所を突き止めるのも困難だろう。
(やってくれたわね…)
そう思いつつ、綾乃はずっと黙ったままの母・静子の方を見た。
静子はプライドが高いし、見栄っ張りな所もある。交際範囲は広くて、セレブ意識もだいぶ強い。そんな母にとって、暁人の噂が出回ることは屈辱的だろう。二人の交際を猛反対していた時は「恥知らず」とまで言った静子だ。
「お母さんはどう思ってるの」
「え」
綾乃ははっきり聞いてみた。こうなったら曖昧な言い方をしても始まらない。
「暁人の恋人の噂や社長令嬢との縁談よ」
静子の答えが例えこちらにとって不都合であったとしても、ちゃんと確認しておく必要があった。
「噂は…出ちゃったらどうしようもないじゃないの」
綾乃は母の性格上ヒステリックに金切り声を上げるかと思ったが、案に反して落ち着いていた。
「縁談の方は?」
「縁談て…暁人はそんなの受けないでしょう?それに私だってイヤよ、大企業の社長令嬢の嫁なんて」
(え、そうなんだ?)
綾乃は意外な静子の返事に驚いた。
「だってこちらが格下みたいに扱われるじゃないの、嫁の実家にペコペコ頭下げて気を遣うなんてまっぴらよ」
(あー、お母さんのプライドの高さってこういう事か)
今更ながら母親の事がよくわかっていなかったなと、綾乃は反省した。てっきり大企業の社長一家と親戚になって親族や友人知人・ご近所さんに自慢したいのかと綾乃は思っていた。別に静子は明石家を見下しているわけではないが、少なくとも対等な関係でないと嫌なのだ。
(社長令嬢と結婚なんかしたら、下手すりゃ暁人は「マスオさん」状態になっちゃうものね)(※マスオさん、ごめんね)
「それに私だって、一度認めたものを簡単にひっくり返したりはしないわよ」
静子の言葉に明と綾乃は顔を見合わせた。軟化した態度を見せてはいたが、静子が二人の事を「認めた」とはっきり口にしたのは初めてだったのだ。
(暁人と実央君に聞かせてあげたかったな)
綾乃はそう思った。 家族内の事はどうにかなりそうだったが、問題はこの後だ。
(このまま放置すれば、社内みたいに縁談の噂を広められちゃう可能性があるな…)
綾乃が思案を巡らしている時、広瀬家に意外な来訪者があった。兼山晴子と新庄咲だった。
「静子さん、突然お邪魔してごめんなさい、でもいてもたってもいられなくて…ご主人様もご在宅で…お騒がせして申し訳ありません」
晴子は青い顔をして応接間に入ってきた。
「ご無沙汰しております。失礼します。急な訪問をお詫びします。おば様がお電話もしないでいきなり飛び出してしまうから…」
咲の方が落ち着いて挨拶をした。
3年前静子は暁人と実央を別れさせようと、花菱会で親しかった晴子にお見合いのセッティングをお願いした。(素敵な女性と知り合えば暁人も目が覚める)—静子はそう考えたのだ。その時の見合い相手が咲である。口実を作って暁人を連れ出しお見合いの場に連れて行ったが、色々あってお見合いはうまくいかなかった。うまくいかなかったというか、綾乃の手で粉砕されたというか…(※『弟の恋の話』参照)。
暁人は見合いの席で同性と付き合っていることを明かしたため、晴子と咲はその事を誰にも言わないと約束していたのだ。咲に至っては、暁人の恋を応援するとまで言ったのだった。それなのに今になってその話がお茶仲間に広まってしまった。当然疑われるのは自分だと、晴子は焦ったのである。
「私、神明に誓って誰にも話していないわ。信じてちょうだい、静子さん!」
晴子の必死な様子に、
「わかっているわ、晴子さん。落ち着いて下さいな」
静子が晴子を宥める。
「私も花菱会にはお世話になっていますが、誰にも話していません。証拠…といわれても何もないのですが」
咲も困った顔をしていた。とにかく二人とも静子に誤解されたくなかったのだ。
「信じますとも、実はこの近所でも同じ話が出回っています」
綾乃は二人を見て、そう言った。
「ご近所でも?でもこの辺りには他に花菱会の方は…」
晴子が首を傾げている。
「多分火元は2つ」
綾乃は右手で「2」の数字を表して、晴子と咲に先程両親にした説明をかいつまんで繰り返したのだった。
「なんですか…その話は…」
咲の美しい顔が怒りで歪んだ。彼女は暁人と同じ歳で、現在出版社に勤務している。ショートカットで爽やかな印象の知的美人だ。いずれは作家になりたいという夢を抱いている。お見合いをぶち壊した綾乃とも面識があった。
「つまり暁人さんとその社長令嬢をくっつけるための嫌がらせってことですか?」
咲の言葉に
「嫌がらせっていうか、あわよくば母を味方に引き込もうとしたんでしょうね。失敗だったみたいですけれど。今のご時世昔と違ってあまりにも強引な手段を取れば自分の身が危ういから、これくらいならバレないって思ったんでしょ」
綾乃はそう答えた。
「許せない…」
咲は綾乃以上に怒っていた。かなり正義感の強い女性らしい。そして
「私、この件を有耶無耶にはしません、綾乃さん。ご近所の方は無理かもしれないけれど、花菱会の方は絶対犯人を突き止めます」
花菱会はいってみればセレブな奥様たちの集まりだ。夫たちのステータスもみな高い。最上重工業や大室副社長と繋がる人間の一人や二人はいるだろう。そして広瀬家の住まいがある界隈も高級住宅地だ。条件は一緒である。咲の剣幕に晴子の方がオロオロしている。この二人は親戚ではないが、咲の親と晴子が昔からの知り合いで親しい間柄なのである。
「私も…近所の方はちょっと突いてみようかな」
綾乃がそう言うと、それまで黙って聞いていた明が口を開いた。
「綾乃、私は何をしたらいい」
「んー、とりあえず普通にしてくれていいと思うわ。さすがにお父さんの会社までは手出ししないと思うのよね。頼みたい事が出来たら、お願いする。変わったことがあったら報告するから」
「そうか」
「実央さんは…大丈夫なの?」
意外にも静子が実央の事を心配した。綾乃は「へえ」という顔つきで、
「大丈夫だよ、こっちが驚くほど動じてない。あの子繊細そうに見えて、案外神経図太いわ。暁人の気持ちが動くなんて、1ミリも疑っていない感じ」
「そう」
静子はちょっと安心したような表情を見せた。二人の仲を散々反対してきたが、もう息子の暁人が実央なしでは生きていけないことを静子も理解しているのだろう。
「綾乃さん、私の高校の時の先輩で今弁護士をしている人がいます。優秀で信頼できる人です。もしあまりに理不尽な事をされるようでしたら、相談して下さい。縁談なんて暁人さんが断れば済む話ですが、会社に居づらくなって退職になんてなったら、癪に障るじゃないですか。あと…」
咲はちょっといたずらっぽい笑みを浮かべた。
「この件が解決したら、小説のネタにしてもよろしいかしら」
逞しい人だ、と綾乃は思った。咲は前にも暁人と実央の事を題材にしたいと言っていたのだ。
「是非」
綾乃も笑って咲に応じた(※咲は腐女子ではありません)。
腐女子会議 1
大室精密(株)本社ビルの社食、定時を1時間ほど過ぎた午後6時、円テーブルに椅子を増やして女性社員が6人顔を付き合わせていた。食堂はすでに終了しているが、残業する社員のため定時後も夜8時までは解放している。彼女たちは大室精密腐女子会(非公認)、年齢も部署もバラバラながらBLをこよなく愛する腐女子の集まりだ。
このうち湯浅真理は篤紀と同じ経理部、城下紗弓は暁人と同じ広報部、最年長金沢冴子は岩城と同じ秘書課である。他3名は海外営業部松本レイナ・庶務課市川有彩・経営企画部諸星葵である。暁人が副社長から縁談の話を持ち掛けられてから、10日ほどが経っていた。この件ではすでに色々話し合っていたのだが、なかなか都合がつかず今日やっとメンバー全員が顔を揃えたのだった(※なぜ彼女たちが話し合い?)。
「金沢さん、なんで副社長を止めなかったんですか」
有彩が金沢を問い詰める。金沢は前に岩城にも同じことを言われている。
「止めたわよ、でも『男同士なら関係ない』って…」
「はあ!?何よそれ、イミわかんない、既婚者に見合い話持って来るような非常識な事して何言ってんの!?クソ副社長!」
「ま、真理ちゃん、声が大きいわよ、他の社員もいるんだから…」
「これが怒らずにいられますか!!」
暁人と岩城は入社以来腐女子会の星だった。何の星かと言えば、妄想の星だ(※?)。「岩城×広瀬」「広瀬×岩城」、そこに今年は篤紀も参入した。何より暁人に同性の恋人がいるというのは、彼女たちにとって朗報だった。8月の食事会には金沢を強引に送り込み、自分たちも熱い応援のメッセージカードを送ったのである。
「私にも詳しい経緯は全くわからないのよ、なぜ最上重工業の方がこの話に乗り気なのか…」
金沢も困惑している。
「そもそも噂が広まるのが早すぎたよね、おかしくない?きっと副社長の手下が社内にいて…はっここにもいるかもしれない」
葵が慌てて辺りを見回した。
「私たちにできる事はないかしら」
レイナが思案顔になる。
「今のところはないですね」
ふいに外側から声が聞こえて、6人はぎょっとなった。
「堀越さん…」
金沢がそこに立つ女性を見上げて、息を吞んだ。
「『副社長の手下』はここにいないから、大丈夫ですよ」
堀越は無表情でそう言った。
「えっ、こわっ、堀越さんいつからそこにいたんですか、堀越さんてくノ一ですか」
葵が思わず、身を引いた。堀越はそれには答えず
「皆さんお集まりですね、『富士吉田市の会』ですか?」
一同思わずぎょっとする。
「堀越さん…それ…」
金沢が決まり悪そうに確かめる。
堀越凛は現在人事部所属の30代。暁人・岩城を担当した面接官の一人だ。馬場の騒動の時も金沢とともに関わっていた。8月の暁人たちの食事会も、金沢に無理やり付き合わされて参加している。
「夏にあった広瀬さんの食事会で、あなた方メッセはージカードを送っていましたよね。『富士吉田市より愛を込めて』でしたっけ」
「(一同)……」
「前から不思議に思ってたんです。金沢さんがあなた方と親しく話しているのをお見掛けして。部署も年齢も入社のタイミングもほぼバラバラ、共通の趣味でもあるのかなとは思っていました」
「(一同)……(汗)」
「あの時食事会に参加していたほとんどの方が、あなた方は旅行中だと思われたようですが」
「(一同)……(大汗)」
「どうにも引っ掛かって、ネットで調べてみたんですよ、『富士吉田市』を」
「(一同)……(大汗)2乗」
「そうしたら『腐女子』という言葉に行き当たりました」
「(一同)……(大大汗)2乗」
「すべてに合点がいきました。なぜ直前になって金沢さんが半ば強引に食事会に参加する事になったのか。会社関係で女性一人は気まずいからと私まで引っ張り出されたのはどうかと思いますけれど」
「ほ、堀越さん、もうその辺で…」
堪らずに金沢が口を挟んだ。
「そうですね、それはもういいです。みなさんが広瀬さんに肩入れする理由もわかりましたし」
「肩入れしてたって知ってたんですか?」
「見てればわかります」
「やっぱり、こわっ」
「堀越さんは今回の副社長の画策、ご存知なんですか?」
レイナが堀越に真顔で尋ねた。あえて「画策」という単語を使ったのだ。レイナは30代で金沢以外の5人の中ではお姉さん的ポジである。今回の縁談が単に上司からのおせっかいではない事に気付いていたのだ。堀越はその問いには直接答えなかったが、
「結婚なんて言うのは極めて私的な話です。広瀬さんが断れば済む話…ではあるんですが、会社絡みとなると話がややこしくなります。副社長や最上重工業に恥をかかせた広瀬さんが、大室精密に居づらくなるという事は想像できますね」
「そんな理不尽な…」
有彩が言った。
「理不尽ですね。でも令和の今になってもそんな理不尽が罷り通る場合もあるんです。広瀬さんは明石さんか会社かと言われたら、迷うことなく明石さんを選ばれるでしょうけれど」
「そんなの…なんか権力に屈したみたい…許せない」
紗弓が怒気を含んだ声で言う。
「先ほど諸星さんが言った通り、話が広まるのが早すぎました。意図的であることは確かでしょう。でも思わぬ効果もありましたね」
「効果?」
一同が堀越の顔を見る。
「先日の社食の騒動、湯浅さんたちはご存じですよね」
「あー、サポート課の矢森が性懲りもなく広瀬さんに絡んだアレですか」
「そうです。ちょうど昼時で周りには多くの社員が社食にいました。普段は温厚な広瀬さんが、恋人を捨てるとからかわれて本気で怒ったんです。『怒った』なんて生やさしいものじゃない、『逆鱗に触れた』というレベルです。あれを見て湯浅さんたちはどう思いましたか?」
「それは…もうめっちゃ感動ですよ。自分の事なら我慢する広瀬さんが、恋人の事を言われて本気の怒り、この人どれだけ実央君が好きなのって、泣きそうになりました。動画撮っておけばよかったなと…」
そこまで言って真理は堀越のきつい視線に気が付いた。
「あ…すみません、動画はダメですよねー…」
「…つまりそういう事です」
堀越は話を続けた。
「そういう事?」
「あの時あそこにいた社員たちも湯浅さんと同じ事を思ったでしょう。『広瀬さんはたとえ副社長からの縁談でも恋人への気持ちは揺らがない、恋人のためなら先輩社員にも怒りを隠さない』ってね」
「そうか、あれ、めっちゃ『実央君Love』アピールになってたんだ」
「実際あの話は結構社内でも話題になっていました。広報の広瀬は意外と熱い男だなって」
「副社長には面白くない話ですよね」
レイナが冷静に分析した。
「でしょうね」
「私気になることがあるんです。最近になってちらほら違う噂が出始めてて。広瀬さんと社長令嬢との結婚が確定事項になっているような話です。具体的な日取りまで決まっていて、来春には結婚だとか」
レイナは困惑した表情で続けた。
「なにっ、それ!」
怒る真理を制して
「私の耳にも入っています」
堀越はあくまで冷静だった。
「なんで広瀬さんなんだろう?そりゃあ広瀬さんはスペック高くて性格もいいから、女性にとっては理想の男性ではあるけれど、まだ入社して4年目よ。他にも候補はいそうなのに」
レイナの言葉に
「岩城さんもスペックは同等だけれど、あの人の場合身持ちがねー」
有彩が「ダメダメ」という感じで首を振った。
「とにかく副社長は目障りな浅見専務がご不在の間になるべく早く話を進めたいのでしょう。最上重工業との関係構築はわが社にとって…というより、ご自分の地盤のために魅力的ですからね。最上一族は業界だけでなく、親族に政治家も何人かいたはずです」
話がいきなり大きくなって、一同はぎょっとした。
「やっぱりそういう事なのね…」
それまで黙っていた金沢が口を開いた。さすがに単なる縁談のゴリ押しでない事は気付いていたのだろう。
「先ほど現段階で皆さんにできる事はないと言いましたが、一つだけできそうなことがありますね」
「なんですか、堀越さん!」
紗弓が身を乗り出した。
「この先も副社長は色々な『ガセネタ』を出してくるでしょう。広瀬さんがお見合いしたとか、お相手を気に入ったとか。そういう話を片端から潰していくんです」
堀越の考えに一同「ナルホド」と頷く。
「但し、頭ごなしに否定するのはうまいやり方ではありません。そんな事をすればあなた方が『副社長の手下』に目を付けられます」
真理がごくりと生唾を飲みこんだ。
「じゃあ、どうすれば…」
「今まで通りでいいんですよ、皆さんが仲間内でしていた話を他でもすればいいんです、多少脚色して」
「脚色」
「広瀬さんが愛妻弁当を自慢げに食べていたとか、外で彼氏と恋人つなぎで歩いていたとか、デートの話を嬉しそうにしていたとか」(※脚色というか創作?)
「ああ、でもそれ中らずと雖も遠からずです。私前に冗談で、お弁当の卵焼き一つ下さいって広瀬さんに言った事があるんですよ。そうしたら広瀬さん、なんともいえない複雑な表情をして…実央君の作った物は誰にもあげたくないんでしょうねえ、もちろん頂きませんでしたよ」
同じ広報部の紗弓が「やれやれ」という感じで話す。
「えー、かわいいんだけれど」
葵の合いの手が入る。
「そういう話を広めて下さい。個々の社員がどう判断するかはわかりませんが、大事なのは一方的に『令嬢との結婚』という流れにしない事です」
「情報戦か、やってやんよ!!」
真理が気合を入れた。
「堀越さんは腐女子じゃないんですよね。それなのにどうしてそんなに広瀬さんの味方をするんですか?面接官だったから?お食事ご馳走になったから?」
有彩の問いに
「味方というか…私もこういうやり方が好きではないだけです。広瀬さんを特別に贔屓にしているわけではありません。人事部としてフラットに社員に接していますよ」
表情を変えず、堀越は答えた。
「まあ…場合によっては浅見専務に一時帰国して頂くのもアリかもしれませんね」
「えっ、そんなことできるの!?」
金沢が驚いて聞き返した。
「専務は愛妻家でいらっしゃるから、奥様がご病気とか怪我をなさったとかそういう事になれば、慌てて一時帰国なさると思いますよ」
淡々と話す堀越に
「えっ、コワッ、堀越さんホントに怖いんだけど」
真理が思わすのけ反った。
「『例えば』の話です」
「堀越さんて何者!?浅見専務の隠し子とか!?」
突拍子もない葵の言葉に
「なんですかそれ…専務は愛妻家だって言ったじゃないですか、隠し子って…」
堀越はクスクスおかしそうに笑った。だがすぐ真顔になり、
「それよりもこれからは気を付けて下さい。こんなふうに会社で集まるのはやめた方がいいと思います。特に金沢さん」
と、堀越は金沢に向き直った。
「金沢さんは現在(仮)とはいえ副社長の秘書、しかも社内では比較的広瀬さんと親しく夏の食事会にも参加しています。当然あちらもそれは把握しているでしょう。言動にはくれぐれも気を付けて下さい。それは岩城さんも同じなのでしっかり伝えておいて下さい」
「わ、わかったわ」
「それと…松本さん、連絡先を交換してもらえますか」
次はレイナの方を向いてそう言った。
「金沢さんとは仕事の関係上すでに連絡先を交換していますが、もし何か気が付いたことがあれば知らせて下さい。私もそうします」
堀越は金沢を除けば、レイナが一番冷静で的確な対処ができると思ったのだろう。
「わかりました。情報の共有は大事ですよね。私も腐女子である事を別にしても、今回のやり方には我慢なりません。男同士だからすぐに関係の解消ができるとか、ゲイじゃないから女とくっつけられるとか、二人の絆がないもののように扱われるのは許せないです」
連絡先を交換しながら、レイナははっきりとした口調で言った。一同も大きく頷く。
「皆さん、決して大っぴらには動かない事。それに会社では仕事が第一ですからそこを疎かにしないで下さいね、では」
堀越は軽く会釈すると社食を出て行った。
「…わ」
「え、金沢さん、なんて」
「堀越さんが笑ってたわ!超ラッキーアイテムゲットよ!幸先いいわ!」
「??」
一同金沢の言った意味が分からない。
「あなたたち知らないの?滅多に笑わない人事部のクールビューティ堀越さんの笑顔を見られたら、幸運が訪れるっていうジンクスがあるのよ?」
「…知りません。でもラッキーなのは何よりです」
はしゃぐ金沢に対して、レイナは落ち着いて答えた。
「さっき堀越さんが言ってた通り、連絡はラ〇ン・メールをメインにしましょう。会合は…金沢さんのマンションは避けた方がいいわね。どこにスパイがいるかわからないし」
「スパイ…これって企業サスペンス!?」(※全然違います)
「私たちは目立たないようにした方がいいわ。特に紗弓ちゃんは広瀬さん・真理ちゃんは弟の篤紀さんと同じ部署だから気を付けて。部署内に副社長の息がかかった人がいないとも限らないから、不用意に今回の件の話をしない事」
「「はいっ」」
レイナの指示に返事をする紗弓と真理。
「集まる時は…うちを使います?金沢さんのマンションよりは少し遠くなりますが、よろしければ」
レイナが提案した。
「ご実家でしょう?大丈夫なの?」
金沢が心配したが、
「若い女の子がたくさん来れば父も喜びます」
レイナは笑ってそう答えた。
腐女子会議 2
「そんなに大変な事になってたのね」
綾乃にグラスを渡しながらそう言ったのは彼女の親友アイミ。アイミは「会川みい」というペンネームで活躍するBL漫画家だ。ずっと同人誌で活動していたが数年前プロデビューを果たし、順調に仕事を増やしている。二人は高校からの付き合いで、綾乃はずっとアイミの創作活動をサポートしてきた。当然アイミも腐女子で、趣味を実益に生かしたのである。8月の食事会にはアイミも出席していた。
綾乃は暁人の件をアイミにすぐに相談したかったが、ちょうど締め切り前の追い込みのタイミングだったのでさすがに控えていたのだ。同人誌時代は作画の手伝いなんかもしていたが、プロとなった今は優秀なアシさんたちがいるし、デジタルで効率化している。綾乃のサポートは主にアイディア出しや資料集め、取材の申し込み、編集部との交渉などになっている。
アイミの校了後に、暁人に起こった災難とその後広瀬家周辺で起きたことを綾乃は簡単に説明していた。アイミとの本格的な話は今日が初めてだ。
「お母様の反応は?社長令嬢のヨメにしろとか言わないの?」
というアイミの問いに、
「それがねえ、意外にもそうじゃなかったのよ。もっと大騒ぎするかと思ったんだけど、実央君の心配したりして」
「へえ、変われば変わるものねえ」
アイミも静子のかつての強硬姿勢を知っていたので、驚いている。
「要は『格上の嫁』は嫌みたいね。まあ人に格上も格下もないんだけれど、暁人がマスオさん扱いされるのは我慢ならないらしいわ。敵はお母さんがこちらの弱点だと思って揺さぶって来たんでしょうけれど、アテが外れたわね。ザマアミロだわ」
「でも厄介ね。その辺りをちゃんと調べてるわけだし」
「まーね、花菱会の方は咲さんが調べてくれてるわ」
「咲さんて、暁人君のお見合い相手?」
「そう、うちに身の潔白を訴えに来たって言ったでしょう?その時に彼女に事情を話したら怒っちゃって、絶対犯人突き止めるって」
「それは頼もしいわね、それでご近所の方は?」
「あー、それは白黒はっきりさせちゃうと後々気まずくなるから、犯人捜しはしないけれど…」
「ど?綾乃の事だから、何もしないでは済ませないわよね」
「実は…」
―綾乃2日前の回想—
ご近所を散歩する綾乃。前方に立ち話をする主婦を発見。
「お早うございます」
主婦A「あら、お早うございます綾乃さん、珍しいわね、こんなお時間に」
「ええ、たまには朝の散歩でもと…」
主婦B「相変わらずお美しくていらっしゃるわね」
「ありがとうございます(白々しいお世辞だわね)」
この辺りは高級住宅地ではあるが、それ程の大物は住んでいない。中途半端にセレブ意識の高い奥様方が多いのだ。(うちの母親もそんな感じ)と綾乃は思っている。本当にセレブの奥様なら立ち話なんてしないだろうが、ご近所では情報収集に余念のない奥様方の井戸端会議は珍しくない。
(でもなかなかうまい具合に遭遇しなくて3日も散歩しちゃったわよ。うちの会社はフレックスだからどうにかなったけど)
綾乃は愛想よく微笑んで、話を振る。
「そう言えば…お聞きになっているかしら」
主婦A「あら、何かしら」
「私の弟の話ですわ」
主婦A「え…」
主婦B「な、何の事かしらね」
「(わー、わかりやすく動揺してんな)弟の暁人に同性の恋人がいるっていう話ですわ」
主婦A・B「……」
「(顔色変ったわ)お聞きになっていらっしゃらないですかぁ?けっこう広まってるみたいですけれど?」
主婦A「さ、さあ…私たちは何も…ねえBさん」
主婦B「ええ、存じ上げませんけれど…」
「そうなんですね、てっきりみなさんご存じかと。まあ本当の事なので、別にいいんですけれどね」
主婦A「そ、そうなの?暁人さんみたいに素敵な方が…」
「ええ、お陰様で本当にお似合いの『彼氏』を見つけたみたいで。姉のワタクシも嬉しく思っておりますの」
主婦B「それはお心の広い…」
「アラ、今時『この程度』の事で心が広いだなんて、大げさですわ」
主婦A・B「……」
(ふん、こっちはちゃんとわかってんのよ、この辺で暁人と歳の近い娘を持つ親が暁人の事を狙ってたって。父親は大手商社の重役で本人も容姿学歴申し分なし、勝手に婿候補にしてたわよね)
綾乃はちゃんとご近所の事情を把握していた。暁人に男性の恋人がいるなんて半信半疑だったのだろうが、娘が相手にされない腹いせに噂を流した奴もいるだろう。
「でもねえ、隠す事でもないけれどやはり個人的な話じゃないですか。こういうことを『面白おかしく』吹聴されて母も『心を痛めて』いますの(そうでもないけど)。弟の彼氏は料理男子っていうんですか、そういう子なので母も仕込み甲斐があるって喜んでおりましたのに」
主婦A「ま、まあ、静子さんが…」
「それで知り合いの方が『優秀な弁護士』を紹介して下さったので、『プライバシーの侵害』で対応して頂こうか迷っていますの(ウソだけどね)」
主婦B「弁護士…そんな大げさな話では…」
「でもこういう事って放置しておくと噂に尾鰭がついて『名誉棄損』にもなりかねないですから、『早め』に手を打っておいた方がいいかもねって、『父』とも相談しておりまして」
主婦A・Bは目が泳ぎ始めた。綾乃はダメ押しの一言を放つ。
「そういえば…最近お見掛けしないのだけど、柿山さんの奥様はお元気なのかしら」
綾乃がいきなり話題を変えると、明らかに主婦A・Bはビクッとした。
(やっぱりビンゴか)
主婦B「…お変わりないと思うわよ、昨日も駅近くのセレクトショップでお見かけしたから…」
「まあ、それならよかったわ。なかなかお会いする事がなかったから。もし機会がございましたら、『是非よろしく』お伝え下さいませね」
主婦B「え、ええ、もちろん…」
「アラ、お忙しいお時間に長話をしてしまって申し訳ありませんでした。それではごきげんよう(あー、上品なお嬢様の振りは疲れるわね、まったく)」
―綾乃2日前の回想終わり—
「へえ~」
綾乃の話を聞き終わったアイミは、おかしそうな顔をして聞いてみた。
「で、その『柿山さん』と綾乃は面識があるの?」
「ない」
綾乃はあっさり答えた。
「ないんだ…それで『お見掛けしない』とか言っちゃったの?その人何者?」
「うちからはちょっと離れてるんだけれどね、柿山さんの夫は『柿山金属』って会社を経営してるの。そんなに大きな会社じゃないんだけれど」
「それって、ひょっとして」
「そう、最上重工業の下請けの一つ。もちろんそこが必ず繋がってるかどうかはわからないから、あくまでカマをかけただけ。当たりならラッキーってところかしら」
綾乃はポテチをパリパリ食べながら話を続ける。
「柿山さんの奥さんておしゃべり好きなのよね。私は会ったことないけれど、よく『柿山さんの奥様が…』っていうのは耳に入っていたから。この程度の噂で弁護士頼むなんてしないけれど、いくつかパワーワードを仕込んどいたから、主婦A・Bとの話が柿山さんに届けばちょっとはプレッシャーにはなるんじゃない?無関係だったとしても、問題ないし」
綾乃は缶ビールをグイッと飲んだ。今日は平日だが、綾乃は退社後にアイミのマンションに来ている。
「仮に最上と柿山がこの件で関係あったとしても、あからさまに『噂を流せ』なんて命じられたとは限らないでしょ?『ちょっと小耳にはさんで』とか言って暁人の事を教えれば、噂好きの柿山さんは黙っていられないわよ」
「向こうも慎重ってわけね。でも副社長が自分の利権のために動いてるらしいのはなんとなく想像がつくけれど、この縁談て最上にもそんなにメリットがあるの?」
「そこなのよねえ、今一つ肝心の最上の意図がわかんないのよ。こんなに大騒ぎして一介の平社員との縁談を成功させる目的が…もしかしてさあ、美人てことになってる社長令嬢が実はとんでもないブ〇で結婚がなかなか決まらないから苦肉の策…っで事ないかしら」
「綾乃がそれ言ったら、顰蹙買うよ?」
その時綾乃のスマホが鳴った。
「誰だろ、あ…咲さんだ」
<もしもし、綾乃さんですか?新庄です。先日は突然お伺いしてご迷惑をお掛けしました。今お時間よろしいでしようか?>
「大丈夫ですよ、何かありましたか?」
<実は色々ご報告というか、お伝えしたい事がございまして…早い方がいいと思うのですが、綾乃さんのご都合はいかがでしょうか。私はこれからでも構わないのですが…>
「これからですか?時間はあるんですけれど…」
自宅ではなくアイミの家なので、綾乃はアイミの方を向いた。アイミは右手で「OK」のサインを出す。
「咲さんは今どちらに?」
<会社を出たところです。そちらはご自宅にいらっしゃいますか?>
「実は友達の所なんです。場所は…。ご迷惑でなかったら、こちらに来て頂けると助かります」
<ああ、それならここから近いですね。でも…>
「友達なら大丈夫です。弟たちの事も今回の一件もすべて了解しているので」
<そうですか、わかりました。ではそちらに向かわせて頂きます>
そこで通話を終えた。
「なんかごめんね、またアイミを巻き込んじゃって」
「何言ってんのよ、暁人君たちは私にとっては恩人みたいなものだよ?協力させてよ」
アイミはプロデビューの話をもらってから暫く二の足を踏んでいた。そんな彼女の背中を押したのが、暁人と実央の交際だったのである。「現実の二人が頑張ってるのに、創作で表現する私がビビッてどうすんだ」と一念発起、見事プロデビューを果たしたというわけだったのだ。
実はアイミの方は咲を知っている。3年前のお見合い粉砕事件の時、現場となったレストランにアイミも潜入していたのだ。万一綾乃が近づけなかった事を想定して様子を探るためだったのだが、結局綾乃自身が乱入したため、アイミが直接お見合い当事者に接触することはなかった。
「あー、でも、咲さんに私の事どう説明しよう。ここに住んでたら無職とはいえないし、OLじゃないから名刺はないし、出版社勤務の人に漫画家とかフリーライターとか言ったら絶対突っ込まれるよね」
「うーん、そうよね。三松さんと繋がる可能性もあるし」
綾乃も思案顔になった。「三松さん」というのは三松晴奈の事だ。彼女は実央の大学時代の一学年先輩で同じ研究室に所属し、8月の食事会も出席していた。実央・晴奈・篤紀は同じK大の経済学部国際経済学科である。彼女実は、咲と同じ高階出版に勤務していた。確認してはいないが、同じ編集部の可能性がないとは言えない。
(三松さんの事を聞いてみてもいいけれど、当面は目の前の問題に集中したいし…)
出版社とBL漫画家では、この先接点ができないとも限らない。アイミは漫画家として顔出しはしていない。去年の夏初めて書店でサイン会を行った時も、写真撮影はNGだった。編集部から何人か出張ってもらって厳戒態勢で臨んだのである(※大げさ)。
「どこぞの社長の愛人とか…」
綾乃がそう言うと、アイミが睨んでいる。
「ごめん…冗談です…」
そうこうしているうちにインターホンが鳴った。
「うわ、早っ」
エントランスの対応をして上がってきてもらい、玄関で咲を出迎えた。
「初めまして新庄咲です。いきなりお邪魔してすみません」
「初めまして(じゃないけど)、吉川愛美(※本名)です。どうぞよろしく」
みんなで部屋に入ると
「あら、お酒ですか?おつまみの方が良かったかしら。これどうぞ」
咲が笑ってケーキらしき箱を綾乃に手渡した。
「いえいえちょっとだけ、ありがとうございます」
3人は洋間のソファに座って改めて挨拶し、咲がアイミに名刺を手渡した。
「高階出版に勤めております。よろしくお願いいたします」
名刺を受け散ったアイミは
「私名刺とかなくて…お恥ずかしい話なんですが訳ありで今フリーターなんです。ここは海外赴任中の親戚の家で、頼まれて管理がてら住まわせてもらっています」
そう説明した。奥の仕事部屋はドアがしっかり閉められている。
「そうでしたか」
咲はそれ以上は聞かなかった。
(アイミうまいわね、「訳あり」とか言っとけばあまり深くは聞きにくいもんね。ブラックに勤めてたとか想像するだろうし)
そんな綾乃の心中は知らず、
「早速ですが」
咲はいきなり本題に入った。
「まず、花菱会の方ですが、犯人がわかりました」
「えっ、すごい。よくわかりましたね」」
「花菱会は30人くらいですから、噂を辿って行けばそれほど難しくはありません。後の方になると一人の人物から聞いた数人に絞れました。噂の元は叶ひろえというご婦人です。静子さんと同じくらいの年齢です」
「その人、認めたの?」
「認めました。初めのうちは誰かに聞いたとか、誰だったか思い出せないとか言い逃れていたんですけど…そんな最近のお話が思い出せないなら、お医者様をご紹介しましょうかと言いました」
(咲さん、怖い…)
綾乃は思ったが、人の事は言えないだろう。
「最後に残った数人の方にも同席して頂いたので、ごまかせないと思ったのでしょうね、『夫から聞いた』と白状しましたよ」
「ダンナさんて…」
「最上重工業の重役の親族だそうです。繋がりました」
「咲さん…すごい行動力ですね」
「それとこれ、政治・経済ネタを扱う編集部の知り合いに聞いてみたんですけれど」
そう言って咲さんは1枚の写真を二人に見せた。
「2年前のものですが、どこかの会社のパーティの写真です。最上の兄妹が写っています」
「エッ!!」
大室副社長とは別の、もう一方の黒幕…かどうかはまだ不明だが、重要人物には違いない。しかも妹…縁談相手の社長令嬢の写真、綾乃は思わず食いついた。
「…美人だわ、ブ〇じゃなかった…」
「どれどれ見せてよ…確かに…いかにも社長令嬢って感じ。隣がお兄ちゃんか、ふうん、いい男じゃない、30代かしら、まだ若いわね」
アイミも綾乃に顔を寄せて確かめる。
「兄は最上光太郎、妹は一花。最上重工業は現在社長が静養中で、その息子が代行という形を取っています。若いので重役たちの力は借りているようですが」
「暁人の所と同じね、大室も社長が病気療養中だとか。重役たちがあちこち散らばってるから、従弟の副社長が威張ってるらしいわ」
「そうです、大室社長には息子さんが二人いますが40代前半と30代でまだ若く、次期社長にはちょっと無理みたいです。いずれ次ぐにしても誰かが中継ぎに入るでしょう。それに長男は現在アメリカ支社、次男は九州支社で修行中とか。どうも『まず修行』というのは大室精密創業当初からの方針のようですね」
「ああ、暁人も最初は営業部で今広報部だもんね。希望部署に行けるのは早くて5年過ぎだって」
「つまりうまい具合にできたエアポケットで副社長が暗躍してるってワケか」
綾乃と咲の言葉にアイミも納得した。そして
「私の方も知り合いに聞いた情報が1コ。ひょっとして暁人君の大学辺りの関係かと思って調べたんだけれどね、最上のお兄さんの方は国立大出で妹の方は奏外語女子大だった」
と追加情報を出した。
「どっちもエリートじゃない。でもそっちの接点はなしか…」
「うん、そうなんだけど気になることが一つだけ」
「何よ」
「兄の方が三輪春学園出身」
アイミの言葉を聞いた瞬間、綾乃は背筋がゾッと寒くなるのを感じた。
「み…三輪春の出身…」
敵の輪郭
「三輪春…私立の男子校ですね、昔は中等部もあったらしいですけれど今は高校だけでしたっけ。三輪春が何か関係あるんですか?」
咲の問いかけに綾乃が黙ったままなので、代わりにアイミが答えた。
「暁人君の恋人・明石実央君の勤務先が三輪春学園なんです。そこで社会科教師をしているんですよ」
「それは…」
咲は言葉を飲みこんだ。ちょっと、いやだいぶまずいと思ったのだろう。三輪春は名門校で保護者もステータスの高い人が多い。会社経営者・医者・弁護士・役人…政治家もいるかもしれないと咲は考えた。当然最上重工業に縁のある人物の一人や二人はいるだろう。
「在学中は優秀で生徒会長なんかもやってたらしいわよ。卒業後も結構な額の寄付をしているらしいわ」
アイミの言葉にもまだ綾乃は黙り込んだままだ。
「ごめん、綾乃。最初に話そうかと思ったんだけれど、綾乃の話を聞いてからと思って…」
「うん…」
綾乃はまた黙り込む。
「綾乃さんの話?」
咲が尋ねてきたので、アイミが先程の広瀬家ご近所の顛末をかいつまんで彼女に話した。
「そうでしたか、それならご近所の方はどうにかなりそうかしら。花菱会の方も一応釘は刺しましたけど」
咲の言葉に
「釘?」
アイミが聞き返した。
「張本人の叶さんに、『場合によってはプライベートの話を噂されて、精神的苦痛を受けた事に対する慰謝料請求も辞さない』って」
「(いや、それを咲さんが言うんかい)そ、そうですか」
「『それだけはご勘弁を』って泣いてましたけど。まあ、あの方ももう花菱会には居づらいでしょうね」
「…」
「類友」とでもいうのだろうか、一度火が付くと容赦がない、綾乃と咲さんは似た者同士かもしれないとアイミは思った。
「それよりご近所に暁人さんたちの事を事実認定してしまって、よろしかったんですか?綾乃さん」
口が重くなった綾乃に、咲が確認した。
「え?ああ、もう一度話が広まっちゃったらその方がいいんです。ごまかさなくていいから、いっそ気が楽だし。お母さんも持ち込まれる見合い話をいちいち断る手間が省けて、いいんじゃない?」
綾乃は話を再開した。
「お母さんはね、特定のご近所と深い関係になるのは嫌だったみたいで、そっちからの縁談はみんな断ってたのよ。だから咲さんの時は花菱会の兼山さんにお願いしたんでしょう。それにしても咲さん、よくこんな写真手に入りましたね。ひょっとしてくれた人って恋人?」
綾乃がニヤニヤして咲を見る。
「違いますよ、私作家志望って前にお話ししたでしょう?だから日頃から情報集めをしているんです。その写真も外には出さない約束でコピーをもらいました」
咲の言葉に(いや、出しちゃってるじゃん…)と綾乃とアイミは思ったが、口には出さなかった。
「まあ…私たちも自分の恋バナはさっぱりよね、暁人君たちの世話焼いてばかりで」
アイミがお茶をすすりながらしんみり言った。
「私もです、最近同じ編集部の後輩に彼氏ができたらしくて…キラッキラした目をしてノロケてくるから、いやになりますよ。まあ、かわいいんですけれどね」
咲もお茶を飲みながら苦笑いした。
「ああ、その写真は差し上げますよ。暁人さんに確認してもらって下さい。もしかするとどこかで会っている可能性もあるし」
「本当にありがとうございます、敵の正体がなかなか見えなかったから助かります」
「いえ、アイミさんもよく学校の情報掴みましたね。私もネットで調べたけれど大学までしかわかりませんでした」
「ああ、知り合いの探て…情報通の人に調べてもらって」
アイミはごまかしたが、実は取材で知り合った私立探偵に探りを入れたのである。もちろん有料だったが、綾乃から話を聞いた直後それだけはやっておいたのだ。
「咲さんもアイミも感謝です」
綾乃は二人を拝んだ。咲が「また何かわかったら知らせます」と言って帰った後、二人はあらためて咲の名刺を見た。
「…三松さんと同じ編集部…」
二人は顔を見合わせた。
「知らないな」
写真を見せられて暁人はにべもなく即答した。
「よく見てよ、結構美人よ?最上一花さん」
「会ったこともない、名前も聞いた事ない、男の方ももちろん知らない」
暁人は不機嫌そうに答える。暁人が不機嫌なのは例によって姉・綾乃のアポなし突撃のせい…ではなかった。
「今日実央君いないの?」
「…天文部の天体観測とかで、学校に泊まってる」
「顧問なんだ、理系じゃないのに」
「顧問じゃないよ、だけど頼まれたらしい。部員を監督するのに人手が足りないからって…」
(ああ、それで機嫌が悪いのか…わかりやすー)
実央がいないと美味しい食事にありつけないから綾乃もがっかりだったが、確認のため?冷蔵庫を開けようとすると
「開けるな」
すかさず暁人の声が飛んできた。
「何よ、まだ話はあるのよ。こっちも色々大変だったんだから」
綾乃はご近所と花菱会で広まった噂と、その後の経緯を暁人に説明した。綾乃はある程度全容が掴めるまでは、暁人と実央に噂の件を知らせないようにしていたのだ。もちろん両親にも篤紀にも口止めしていた。
「そんな事になっていたなら知らせてくれても…俺たちの事なのに」
「余計な心労掛けたくなかったのよ。まあどっちもほぼ落とし前は付けたし」
「新庄さんがそこまでしてくれたなんて…お礼しないとな」
「彼女すごかったわよ、正義感が強いらしくて行動も早かった。それに実央君と篤紀の先輩三松さんと同じ編集部」
「え…まじか…すごい偶然だな」
「でもまだそれは話してないわ。この件が解決したらお礼をするから、その時にでも話すつもり」
綾乃は結局実央の作り置きを暁人と食べながら話をしている。
「あんたの方はどうなのよ、副社長はその後なんか言ってくる?」
「毎日じゃないけど時々俺の気持ちは確認してくる」
「ふーん、実家の方に揺さぶりかけてきたから、何か変化したのかと思ったのかも。お母さんが騒ぎ立てて縁談に乗り気になるとでも思ったんでしょうけれど、アテが外れたみたいね」
「母さんの反応は意外だったな」
「あんたたちの事『認めた』ってはっきり言ってたわよ。電話でもしてあげなさい」
「…そうだな…」
暁人は照れくさいような、でも嬉しそうな表情を見せた。
「実央君が帰ったらちゃんと情報共有はしておいてよ、特に三輪春の話…」
綾乃は危惧しているのだ。
(暁人の実家周辺にダメージを与えようとした策が不発に終わったとわかれば、相手が次に狙うのは…)
綾乃の心中を知ってか知らずか、暁人はこう言った。
「今度は三輪春の保護者に俺たちの事を吹き込んで、男子校に男と同棲している教師なんかけしからんって解雇を求めさせるとか?別にいいんじゃないか、そうなったらなったで」
「は?」
「三輪春なんか辞めればいいんだよ、学校は他にいくらでもあるし、学校じゃなくてもいいし、俺が養っても…」
「あんたねえ、何言ってんのよ!それはあんたが実央君を男子校に置きたくないだけでしょうが!実央君の気持ちを無視するんじゃないわよ、この執着攻め様が!」
「執着…なんだって?」
「(はっ、しまった、ついBL用語を使ってしまった)何でもないわよ、執着男は嫌われるって言いたかったのよ!」
「ふうん、まあ否定はしないけど」
「…しないんだ(前は執着男じゃないとか言ってたくせに)…」
「それより最近また社内が騒がしくて」
「あんたの事で?」
「なんか俺の縁談が決まったとか、結婚式の日取りまで決まったとかいう話が出ててさ」
「何よそれ、なんでそんなに落ち着いてんの!?」
「どうせ副社長周辺からのガセだろ。直接聞かれれば否定しているからいいんだけど…他にもさ、俺と実央の話がやたらに出回ってるみたいなんだよ」
「え、なに、別れそうとか?」
「逆。俺が実央の弁当自慢しまくってるとか、ベッタリくっついてデートしてるところを見掛けたとか、時間があると頻繁にラブコールしてるとか…」
「…事実じゃん」
「大げさに伝わってるんだよ!俺別に実央の弁当自慢とかは…」
「ニコニコしてこれ見よがしにお弁当広げて幸せオーラ出しまくってたら、それはもう十分自慢だよ?」
「…」
「あんた自分じゃ気付いていないのかもしれないけれど、買い物している時とか人前でも、実央君の肩抱いたり腰に手を回したりしょっちゅうしてるよ?」
「…」
「ラブコールだって実際してるんでしょ?実央君の時間割スマホに入れてるって言ってたじゃん」
「…」
「(自覚がないのかコイツ…まあ、いいわ)そういう噂は否定せず放置しておきなさい。あんたは普段通りにしてれば『歩くお惚気男』だから」
「バカみたいなあだ名付けないでくれよ」
「実際実央君に関してあんたはバカになるからいいのよ。それより油断はしないでね。私もネットとかで調べてはいたけれど、副社長の方に気を取られて最上サイドのチェックが疎かになってたわ。咲さんとアイミに感謝しないと」
「(バカってなんだよ、俺の真剣な愛を…)わかってるよ、気を付ける」
「それとこの前勧めた見守りカメラはちゃんと付けた?」
「…付けたけど…このマンションは(実央のために)セキュリティ万全の所を選んだし、管理人さんも常駐しているし、防犯カメラも…」
「管理会社や住人が敵に買収されたらどうするのよ」
「買収って…」
「甘いわね、最悪のケースを予測するのが危機管理の鉄則よ」
綾乃は時々正解かどうかわからない事でも、堂々と主張してくる。暁人はもう反論するのはやめて、半分になってしまった実央の作り置きのおかずを味わうのだった。
三輪春クライシス
「秋だっていうのに、今日は蒸し暑いですね」
実央に一人の若い男性が話しかけてきた。ここは都内にある私立三輪春学園—男子だけの高校である。
「そうですね、昨日雨が降ったからかな」
「秋になってもこういう日は熱中症に気を付けないとです。校舎の中は空調が効いてるけど」
実央と話をしているのは金谷豪という体育教師。去年は2年生の同じクラスで金谷が担任、新任の実央が副担任を務めた間柄だ。今年はそれぞれ別のクラスの担任を受け持っている。二人で廊下を歩いている時
「明石先生」
後ろから実央を呼びとめる声がした。教頭だった。実央が振り向くと
「今日の放課後、理事長室に来るよう申し付かっています」
教頭はそう伝えた。
「理事長室ですか?」
実央は不思議そうな顔で聞き返した。学園長は大体学校に常駐しているが、理事長は式典とかイベント、外部の客との対面以外学校に来ることはあまりない。実央自身も遠くから見かけただけで、直接会ったことはなかったのだ。
「また何かあったんですか」
金谷が横から口を挟んだ。大っぴらにはしていないが、実は金谷は理事長の甥である。彼が「また」と言ったのは今年の6月、生徒の一人が実央を盗撮したという事件があり、生徒の母親が実央が誘惑したの色目を使ったのと難癖をつけてきた事があったからだ。もちろんその時は学園長の毅然とした態度で解決し、理事長の出る幕などなかったのだが—
「いや、私も今回は何も聞いていなくてね。ただ明石先生を呼んでほしいと…」
教頭もちょっと困った顔で金谷に答えた。
「俺も…」
金谷が言いかけたが、
「いや、今回は6月のような騒ぎではないと思うよ。それなら学園長だけで対応すると思うから。とにかく明石先生一人を呼ぶようにと」
教頭の説明に、
「分かりました、放課後なるべく早く伺います」
実央はそう答えて頭を下げ、教頭と別れた。
「明石先生…」
金谷の方が、心配そうな顔をしている。
「大丈夫です、お気遣い頂いてありがとうございます」
実央は笑顔を見せた。その笑顔に
(か、かわいい…)
金谷は思わずときめいてしまうのだった。
金谷豪は隠してはいるがゲイだった。実央を好きになって今年の春告白したが、あえなく玉砕した。学園祭の時の様子で実央に男性の恋人がいる事に気付いていたので、失恋前提の告白だったのだ(※『Short stories3』参照)。振られてしまったが、金谷の片想いは依然続いていた。職場が同じで毎日顔を合わせていると、なかなか諦めきれるものでもなかった。
(明石先生と彼氏はゲイじゃないから、ひょっとして別れる可能性もないわけじゃないし…)
そんな不純な気持ちも、0.1%くらいあった(何に対する0.1%?)。
(それにしても…伯父さんが明石先生に何の用事だ?明石先生最近ちょっと元気がない様子だったけれど、関係があるのか?)
金谷は教室に向かう実央の後ろ姿を見送っていた。
その日の放課後、実央は理事長室を訪れた。ノックして
「明石です」
と言うと
「入りたまえ」
という声が中から聞こえた。実央はおもむろに扉を開ける。中に入ると正面の立派なデスクの後ろに理事長らしき人物が立っていた。比較的細身で長身、60代だろうか。机から少し離れて両端には学園長と教頭が立っていた。教頭が不安そうな面持ちでこちらを見ている。
「お呼びという事で伺いました。去年から三輪春学園でお世話になっております、明石実央です」
実央はそう言うと、丁寧に一礼した。顔を上げると理事長の鋭い視線が襲ってくる。ただ鋭い中に品定めでもするような雰囲気があって、実央は正直不快に感じた。
「君が明石君か…今日来てもらったのは君に確認したい事があってね」
「なんでしょうか」
「君は今男性と一緒に暮らしていると聞いたが」
理事長の言葉に教頭が「えっ」と言う顔をした。呼び出しの目的を知らされていなかったのだろう。学園長の方は無表情だった。こちらは何がしか事前に聞いていたらしい。
(そう来たか…)
と、実央は思った。そして落ち着いて答える。
「はい、暮らしています。2年目になります」
「その人との関係は?」
「恋人です。大切なパートナーです」
実央は何のためらいもなく、即答した。教頭はさらに驚いた顔を見せ、学園長の表情も少し動いた。
「なるほど…」
理事長はそう答えたが、実央が動揺するとでも思っていたのか、予想に反する反応にすぐに次の言葉が出てこなかった。
「学園側に報告は」
理事長の言葉に
「報告ですか?採用面接の時就職を機に実家を出るとはお伝えしましたが、それ以上の事は聞かれませんでした。私自身は結婚と同等の関係だと思っていますが正式な婚姻関係ではありませんし、扶養義務等の手続きも必要ありません。こういうことに報告義務があるとは伺っておりませんが、違ったでしょうか?」
実央は澱みなく理事長にそう答えた。
「特に報告義務はないですね」
学園長が補足をする。理事長は学園長を軽く睨んだ。今度は実央の方から質問をした。
「理事長は先ほど『確認したい事』とおっしゃいましたが、何のための確認なのでしょうか?確認なさって、その後に何かなさりたいのですか?」
理事長は黙ったままだ。
「申し訳ありませんが、私に対してご要望があるのならはっきりおっしゃって頂けませんか?私はよく『空気が読めない』と言われることが多くて、相手の意図を汲み取るのが苦手のようです。理事長のお考えを教えて下さると助かります」
この時二人の緊迫したやり取りを聞いていた人物が、もう一人いた。
理事長室には廊下に面した扉とは別に、中にもう一つ隣の部屋に繋がるドアがあった。理事長室の隣には学園に関する古い資料やアルバム、過去の様々な大会でのトロフィーやら楯やら賞状やらが雑然と置かれている(※放置ともいう)。三輪春は歴史のある学校だから、結構な量である。そういう貴重だかガラクタだかわからないものが置きっ放しの埃っぽい部屋の内扉に張り付いて、聞き耳を立てていたのは金谷だった。実央の事がどうしても心配だったのだ。
金谷は物置…もとい、お宝保管室の廊下側の鍵を持ち出して、密かに潜入していたのだ(※職権濫用ともいう)。金谷は声だけの印象だが、実央の落ち着いた様子に驚いていた。普段可愛くて天然癒し系の実央(※金谷の主観)からは想像できない実央の態度だった。金谷は実央に振られた時に、暁人と同棲していることは聞かされている。
(なんで伯父さんがそのことを知ってるんだ?あ、これ俺が伯父さんにチクったとか明石先生に思われないか?)
実央は金谷が理事長の甥である事を知っているから、そう誤解されても仕方がない。
(いやだ、たとえ振られた相手でも、明石先生に疑われたくはない!)
そう思ったのと同時に金谷の体は動いていた。というより、考えるより先に体が動いていたかもしれない。内扉に鍵はなかったので、金谷の体はいきなり理事長室に現れた。しばしの沈黙の後に突然の闖入者だったので、部屋にいた4人はびっくりして誰も言葉を発しなかった。
「豪、何をしている!!」
数秒おいて理事長の厳しい声が飛んだ。金谷はそれには答えず、まっすぐ実央の方を向いて叫ぶように言った。
「明石先生、信じて下さい!俺伯父に何も話していません、明石先生と広瀬さんの事!」
実央は金谷の突然の登場に一瞬固まったようになっていたが、
「わかっていますよ、金谷先生」
そう言って、にっこり微笑んだ。
「金谷先生は明石先生と…その、恋人の事をご存じだったんですか?」
気を取り直して学園長が金谷に尋ねた。
「知っていました」
金谷の返答に
「どうしてだ、なぜ黙っていた」
理事長が顔を怒らせて甥を追及する。
「なぜって…言う必要はないし…」
金谷は少し言い澱んだ。実央が何か気配を察して金谷を止めようとした。
「知っているのは、俺が明石先生に振られたからです」
金谷は覚悟を決めたようにはっきりと言い切った。
「なんだと…」
「伯父さん、いえ理事長、俺…私はゲイです」
金谷は身内にも実央以外の職場の人間にも言っていなかった事を、初めて口にした。
「理事長にここに来いと言われた時、なかなか応じなかったのはそのためです。自分は生徒や職員と特別な関係になろうなんて考えもしなかったけれど、ゲイの男が男子校の教師だなんて知られたら外聞が悪いと思って」
「当り前だ!なぜその時言わなかった!」
「言えなかったんです。家族にも周囲にも知られるのが怖かったから。でも去年明石先生が三輪春に来て…ほとんど一目惚れのような感じで好きになりました」
金谷は自嘲気味に少し笑みを浮かべて話したが、段々と頭が冷えてきた。
「明石先生に恋人がいる事は薄々気付いていましたが、自分の気持ちにけじめを付けたくて今年の春に告白して振られました。明石先生が恋人と暮らしている事はその時知ったんです。二人とも俺…私と違ってゲイではないけれど、お互いを深く想い合っているのは伝わってきました」
金谷の告白の後しばらく重苦しい沈黙が続いたが、それを破ったのは実央だった。
「理事長、先程の話に戻して頂けますか?私に恋人との同居を確認して、どうなさりたいのですか?」
実央は金谷を庇うような形で、理事長に向き直った。いつもと逆だった。金谷は実央の左手に光るものを見つけた。指輪だ。いつもはネックレスにして胸元に忍ばせている指輪を、今実央は左手薬指に嵌めていた。
「理事長に私のプライベートを教えたのは、最上さんですか」
実央の言葉に理事長の頬がピクリと動いた。
(「最上」…?卒業生で毎年けっこうな寄付をしている最上のことか?)
いきなり飛び出した名前に金谷も学園長も教頭も、また驚いた。理事長は黙ったまま答えない。答えない事が「Yes」だと実央は解釈した。違っていたならすぐに否定するはずだろう。
「男子校の男性教員が男と同棲しているなんて如何なものかとでもお話しされましたか?理事長がご不快に思われて私を解雇なさるというのなら、はっきりそう通告して下さい。私は自分から辞めると申し上げるつもりはありません」
「…君は今年生徒に盗撮されたそうだな」
返答に窮したのか、理事長は違う話を持ち出した。実央は思わずクスリと笑う。
「はい、私が『被害』を受けました。生徒の母親に『誹謗中傷』されましたが、事実無根です。父親の方からは『謝罪』されています」
男絡みの問題を起こす男性教諭は、男子校で勤める適性がないという話に持って行きたいのか—実央はそう解釈した。今のご時世この程度の話で解雇はしづらいから、実央の方から「辞めます」と言わせたいのだろう。
「理事長が男同士の恋愛に嫌悪感を抱かれるのなら、それは仕方ありません。考え方は個人の自由です。ただ否定してそれを口に出されるのであれば、その後の事も考えて下さい。否定された側は傷つきます。否定する側も自分の言葉には責任を持つべきだと思いますが」
実央は毅然とした態度で言い切った。実央の頭はクリアだった。怒って興奮などしていなかった。
(これ…ほんとに明石先生か?こんな明石先生見た事ない…)
金谷は驚いて実央を見つめている。
「理事長、盗撮の件は保護者の謝罪を受けてすでに解決済みです。明石先生や金谷先生のプライベートについても、特に大事にする必要はないのでは」
そこで学園長が口を挟んだ。
「保護者に知られて騒がれたらどうする。学園の恥になる」
理事長は言い返す。
「その時は私が対応します。最上君も学園を騒動に巻き込みたくはないでしょう」
学園長が静かに応じた。どうやら最上光太郎の事を知っているようだ。実際この件について最上家がどう関わっているのか学園長にはわからなかったが、ネックになっていることは間違いないと思ったのだ。
理事長も同性と付き合っているなら辞職しろ、とはさすがに言いにくい。教育者があからさまに差別や偏見を口に出せば逆に顰蹙を買う。だから実央を委縮させて、自分の方から「辞めます」と言わせたかったのだろう。いやそれよりも、甥のカミングアウトの方がショックだったのかもしれない。
「この後の事は私にお任せ頂けますか?」
学園長はいつも通りの穏やかな表情で理事長に確認した。
「…任せる。ただし、豪、お前は残れ」
理事長は甥に目を遣ってそう言った。
「…はい」
金谷は俯いて返事をする。
「金谷先生…」
実央が心配そうに声を掛けたが、
「大丈夫です、明石先生。もう戻って下さい」
「…わかりました。もう仕事に戻ってもよろしいでしょうか、理事長」
実央は理事長に確認をした。
「…戻っていい」
「わかりました。では、失礼致します」
実央は一礼して理事長室を出て、職員室に戻った。
それから実央は残った仕事を片付けていたが、暫くして金谷が戻ってきたことに気が付いた。
「金谷先生…」
実央は思わず呼び止める。その顔を見て金谷は笑った。
「色々言われました」
「すみません、僕のせいですよね。僕のせいでこんな事に」
「いいんです、いっそすっきりしました。黙っているのもしんどかったから。まあ、来年はここにいられないかもしれないですけど」
「そんな…金谷先生がいなくなったら生徒たちが寂しがります。僕も寂しいです」
「明石先生…」
金谷は苦笑いをした。
「(こういうところ残酷だよなあ、明石先生も…)それより明石先生、『最上』って…」
金谷は周囲に気を配り、小声で実央に尋ねた。
「それは…すみません。今はお話しできなくて…」
実央は申し訳なさそうに口ごもる。
「いいんです、何かあったらいつでも頼って下さい(ひょっとして広瀬さん絡みか?)」
「はい、ありがとうございます」
実央の左手にもう指輪はなかった。
その日の夕食後、実央は今日学校で起こったことを暁人に話した。
「実央に直接…」
暁人は自分の実家のように周囲で噂を流される事は想定していたが、学校側がピンポイントで実央に何かしてくるとは思っていなかった。
「すまない実央、俺の事で実央にまで迷惑かけて…」
「何言ってるんです、『二人の事』でしょう?」
実央は笑った。
「理事長との会話、録音したか?聞きたいんだけれど…」
暁人の問いに
「録音はしました。ジャージのポケットに入れていたから、気付かれていないと思います。でも今は…すみません、話の流れで他の先生のプライベートな話になってしまっているので、すぐには聞かせられないです。でも大体のところは今お話ししましたし、データはちゃんとPCに保存しておきますから」
実央はそう答えた。さすがに金谷の件を暁人に聞かせるわけにはいかなかった。
「そうか、わかったよ」
暁人は深くは追及しなかった。
「僕の想像ですけれど、最上さんは学園自体が騒ぎになるのは避けたんじゃないですかね。保護者を焚きつけたら、下手をするとSNSなんかで三輪春自体が取り沙汰される可能性も出てくる。それは嫌だったんじゃないかな。毎年高額の寄付をするくらいだから、最上さんにとっては大切な母校なんだと思います。だから僕一人にターゲットを絞ったんでしょう」
実央は自分の分析を暁人に話した。暁人はそんな実央の顔をじっと見つめる。
「?どうしました、暁人さん」
「なんか…今日の実央は雰囲気がいつもと違うな」
「ええ?なにも違いませんよ?いつもの僕ですよ」
実央はまた笑った。確かに見た感じはいつもの実央だ。でも何かが違うと暁人は感じた。
「僕ね、今日理事長室にいる間だけ指輪を嵌めていたんです。勇気をもらえました」
屈託ない笑顔でそう話す。
「実央」
「はい?」
暁人はテーブルの上の実央の手に、自分の手を重ねた。
「今夜…いいか?」
暁人の言葉に実央は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに元の笑顔に戻った。
「いいですよ、仕方ないなあ、暁人さんは」
実央はいたずらっぽく言って、暁人の手に自分の手を絡めた。
ラスボス登場!?
実央が理事長室に呼ばれたすぐ後に、三輪春祭と言う文化祭が行われた。去年は金谷に入場チケットを譲ってもらって、実央の母・実和子と暁人、綾乃に篤紀の4人が訪れた。入場はチケット制で生徒は4名、職員は2名までと定められていたからである。今年は実央の両親と暁人だけが来場した。実和子は今年は出向かなくていいと思っていたのだが、去年来られなかった夫の匠が息子の職場を見たがったので、仕方なく付き合ったのだ。
今年も当然綾乃と篤紀も来たがったが(腐女子・腐男子の好奇心で)、匠が気を遣うからと暁人が辞めさせたのだ。それに今年は暁人の縁談騒動もあって、綾乃もそちらに神経を集中していた。三輪春の動きも気になったが、理事長室に怒鳴り込むわけにも行かないのでおとなしくしていたのだ(※綾乃ならやりかねない…)。
空いた時間に実央が3人を案内している時、一度だけ金谷と廊下で会った。実央は金谷の事を父親に紹介し(実和子は去年会っている)お互い挨拶して、そのまま別れた。暁人は相変わらず無表情だった。金谷は暁人の左手に指輪があるのに気が付いた。
(明石先生と同じ指輪…)
金谷は複雑な思いで、実央たちを見送った。そして実央の両親に認められている暁人が、心底羨ましかった。
あの後理事長から実央に対して特に接触はなかった。実央は学園長にあの場を収めてくれた事へのお礼を伝えたが、学園長は
「学園内で何かあったらまず私に相談しなさい。軽々に辞表など書かないように。いいね」
と、言ってくれた。
「ありがとうございます」
実央は学園長の温情に心から感謝した。
暁人も実央も、明石家の方には今回の事はまだ何も話していない。明石家の方にまで手出しするとは思えなかったので、無駄に心配を掛けたくなかったのだ。広瀬家の方もそのつもりだったが、向こうが先に手を出してきたので仕方がない。
11月に入ると三輪春の2年生には修学旅行が待っていた。去年は実央も2年生の副担任だったので同行したが、今年は1年生の担任なので学校に残っている。実央はそれでよかったと思った。こんな状況で暁人の傍を離れていたら、不安で仕方がなかっただろう。
実央はその日もいつも通り、残業を終えて学校を出て駅に向かって歩いていた。
「明石さん」
ふいに後ろから実央を呼び止める声がした。振り向くと見知らぬスーツ姿の男性が立っている。実央は反射的にポケットの中のボイスレコーダーのスイッチを入れた。
「突然お呼び止めしてすみません。わたくし最上重工業社長代理・最上光太郎の秘書を務めます芦高と申します」
そう言って男は自分の名刺を差し出した。実央も名刺は持っていたが、あえて出さなかった。
「どういったご用件でしょうか?」
名刺を受け取り、実央は落ち着いて応対する。
「最上が折り入ってあなた様とお話がしたいと申しております。この後少々お時間を頂けませんでしょうか」
「本当に突然ですね」
実央は笑った。すぐ近くの路肩に黒のセダンの高級車が横付けされており、後部座席に男性が一人乗っているのが見えた。
「お話って、どこでですか」
「車にお乗り頂いて静かな料亭にでもお連れしたいのですが。ご希望があればフレンチでも中華でも対応いたしますよ」
相手はあくまで「お願いベース」だった。実央はまた笑った。
「それはご丁寧にどうも。でも僕これからスーパーで買い物して、帰って夕飯作らなくちゃいけないんですよ。遠くはちょっと困るかな」
相手は黙った。
「だからあそこのファミレスでいいですか?そこなら時間的にも大丈夫だと思うので」
「…少々お待ち下さい」
秘書は後部座席の人物に何やら確認を取っているようだった。実央の所に戻ってくると、
「承知いたしました。先にお店に入ってお待ち下さい」
そう言ってきた。
「分かりました、では後程」
実央はそれだけ答えて先にファミレスに入って行った。そろそろ暗くなる時間帯で、早い人は夕食を食べている。案外席が埋まって賑わっていた。実央は順番待ちのための機械に入力したが、店員がすぐに案内に来てくれた。後から連れが来ることを伝えて、席に着く。
(暁人さんに連絡は…ちょっと遅くなるとだけラ〇ンしておこう)
最上と対峙するなんて知らせたら、暁人はすぐここに飛んで来るかもしれない。いや、きっと飛んでくる。少し遅れてスーツ姿の男性が二人、ファミレスに入ってきた。店員に案内されて実央のいるボックス席に来る。先程の秘書とは別にもう一人の男性がいる—スラッとした細身で背の高い、洗練された雰囲気。ややつり上がった切れ長の目をしている—
(この人が最上光太郎か…)
相手が会釈したので、実央も一度立ち上がって会釈をし、すぐに座った。最上は実央の正面に座ったが、秘書は席の脇に立ったままだ。ファミレスのボックス席で主の隣に座るのは憚られるのだろうか。
「あの…」
実央が気になって声を掛けた。
「こういう場所で立ったままですと、かえって目立ちますよ?店員さんや他のお客様のジャマにもなるし、お座りになった方が」
この店はロボット配膳ではなかったが、それでも邪魔にはなるだろう。ドリンクバーを利用する客の往来も多い。
「座れ」
最上が一事言った。
「しかし…」
秘書はなお躊躇している。
「いいから座れと言っているんだ」
最上は少し語気を強めて秘書に命令した。仕方なく秘書は主の隣に座ったが、出来るだけ間を開けて椅子の端ぎりぎりに腰かけた。
「(こういう人も大変だなあ)ファミレスは初めてですか?」
挨拶するより先に実央が尋ねた。
「いえ、学生時代に友人と何度か…」
最上の答えに
「それならよかった」
と実央は応じたが、ファミレス自体も日々進化している。オーダーの仕方一つとっても昔と違う。
「僕小腹が空いているので、パンケーキとドリンクバーにしますね」
「なんでもお好きな物を」
「ちゃんと自分で払いますよ、そちらはどうしますか」
そう言って実央は注文用のタブレットを秘書に渡した。操作はわかるが何にしたらよいか迷っている。
「コーヒーでも頼んでおけ」
最上がそう言ったので、
「アルコール以外ならドリンクバーですよ。でもこのお店、この時間帯だとドリンクバーだけでの利用は不可だから、何か他に頼まないと」
実央がアドバイスする。
「では同じものを」
面倒になったのだろう。最上が秘書に指図した。
「ご挨拶が後になり失礼しました。最上重工業の社長代理を務めます最上光太と申します」
最上はそう言って名刺を差し出した。
「初めまして。御存知でしょうけど三輪春学園で教師をしております明石実央です」
実央の「御存知でしょうけど」という言い回しに、最上はふっと笑いを浮かべた。
「あ、ごめんなさい。ドリンクバーはセルフなので先に取りに行きますね」
実央がそう言って席を立つと
「いかがいたしましょう」
秘書が主に尋ねた。
「適当でいい、いちいち聞くな」
なかなか本題に入れなくて少し苛ついているようだ。周りが賑やかなのも気になるらしい。実央がアイスティーを持って席に戻ると、
「あれえ、実央ちゃんじゃん!」
近くにいた高校生が声を掛けてきた。
「河野君たち…この時間にファミレスはちょっと遅いんじゃないの」
実央が苦笑いする。
「俺ら予備校帰りなんです。もうすぐ帰るよ、実央ちゃんは…」
河野と呼ばれた生徒が向かいのスーツ姿の男に目を遣った。明らかに学校の人間ではない。
「せんせー仕事じゃないよな、何?まさか引き抜き!?」
河野他2人の生徒が顔を寄せてくる。
「ヤダヤダ、実央ちゃん、三輪春を出て行かないでよ」
早とちりして勝手に喋りだした彼らを制し、
「違うから。お店の中では静かにね。この人たちは…大学関係の方。もう遅いから、なるべく早く帰るんだよ」
実央はそう諭した。
「なんだ、よかった。はーい、もう帰ります。実央ちゃん、じゃあね」
1年生の担任がなんで大学関係者と話すのか、不思議には思わなかったらしい。河野たちは実央に言われて会計の方に向かって行った。
「すみません、騒がしくして…」
実央が最上に謝った時パンケーキが3つ運ばれてきた。大の男3人がパンケーキを囲む姿は、なんだかおかしい光景だった。
「いただきます…ん、おいしい」
実央は嬉しそうにパンケーキを口に運ぶ。最上はその口元をじっと見ながら
「本題に入ってもよろしいですか」
パンケーキには手を付けず、切り出した。
「どうぞお話しなさって下さい、僕は食べながら聞かせて頂きます」
「…広瀬暁人さんの事なのですが」
「はい」
「私の妹に譲って頂けませんか」
フォークを持つ実央の左手が止まった。そこには指輪が光っている。
「『譲る』…ですか?暁人さんはモノではないですよ」
実央は再び手を動かす。
「ただでとは申しません。お礼はさせて頂きます。慰謝料と言う形でもいい」
「『ただ』とか『お礼』とか、ますますモノ扱いですね。経営者の方ってみんなそんな感じなんですか?」
実央は動じなかった。そういう話をしてくるだろうと予想はついていたからだ。
「まあストレートに言って頂けたのは良かったです。回りくどい事をしないで初めからそうなさっていればよかったのに」
実央は皮肉交じりにそう言った。「お前らのやっている事なんてみんなお見通し」と言わんばかりだ。
「1億でいかがでしょう」
「1億、暁人さんの値段ですか」
「2億でも構わない。これ以上のご要望があれば伺いますよ」
「失礼な人だな、僕たちの関係に値段なんか付けないで下さい。僕は暁人さんと別れないし、暁人さんも僕とは別れないですよ」
そう言って実央はパンケーキを食べ続ける。
「…関係を続けて頂いても構わないですよ」
最上は意外な事を言い出した。
「は?」
実央はパンケーキを食べる手を止めた。
「広瀬さんと妹が結婚した後も、あなたとの関係を続けて頂いても構わないという事です。今のマンションに住み続けるなら、家賃その他生活費維持費等もこちらで負担しましょう。悪い話ではないと思います。こちらとしても女の愛人を作られるよりは都合がいい。間違っても子供はできませんからね」
最上の言い様に実央は唖然とした。
(この人…僕への嫌がらせで言ってるの?それとも大真面目に話してる?)
実央が黙っているので、最上は提示した条件に実央の心が動いたと思ったらしい。
「ここで決めて頂ければとりあえず手付金としてネットで振り込める限度額を差し上げますよ。明石さんの銀行口座を教えて下さい。昔ならここで小切手を…というところでしょうが、もう廃止されますしね」
最上は勝手に話を進め始めた。
「何から突っ込んでいいのかわからないんですけれど…」
実央の言葉を理解できなかったのか、最上は怪訝な顔をする。
「雲の上の方々というのは、庶民の斜め上の発想をされるんですね」
実央は一口アイスティーを飲むとそう言った。
「いや、斜め上じゃないか、真下ですね。それもずーっと下の方。下品過ぎて笑えます」
「下品」という実央の言葉に、最上の秘書の方が気色ばんで身を乗り出した。最上がそれを手で制する。
「僕は最上さんが提供した犬小屋で暮らせってことですか。僕は最上家の飼い犬ですか」
「…そうは言っていません」
「同じことですよ、真っ平ごめんです。答えなくていいですけれど、三輪春の理事長に僕の事を教えたのもあなたですよね。僕を辞めさせるというより動揺させて、『男同士の交際はもう無理』とでも思わせたかったのでしょうけれど」
「……」
最上は黙っている。
「おあいにく様です。そんな事で動揺して別れるくらいなら、5年以上も続かないですよ。暁人さんと僕の仲は永遠に不滅なんです」
どこかで聞いたようなセリフが飛び出した。
「向こうの席の女の子、見えますか?」
実央は突然違うことを言い出した。通路を挟んだ席で家族連れが食事を楽しんでいる。5,6歳の女の子が熊のぬいぐるみを大事そうに抱えていた。ファミレスにまで持って来るのだから、よほどのお気に入りなのだろう。
「あなたはあの子の所に行って、もっと大きくてきれいで高価な人形をあげるから、それを寄越せと言えますか」
最上は何も答えなかった。
「お話はここまでですね。今日はお会いできてよかったです。少なくともそちらのご令嬢がこの話に前向きだという事は伝わりました」
最上の切れ長な目が少し動いた。実央は荷物を持って立ち上がる。
「僕は夕飯の買い物があるので、これで失礼します。それと僕の口座番号とか勝手に調べないで下さいね。個人情報の流出だし、身に覚えのない多額の入金があったりしたら、さすがに警察に相談しますよ」
そう言って伝票を手にするとレジに向かおうとした。
「あ、それは…」
3人分まとめられた伝票を実央が取り上げたので、秘書が慌てて引き留めようとする。
「ここを指定したのはこちらなので、僕が支払います。食品ロスはよくないので、ちゃんと召し上がってからお帰り下さいね」
実央はもう最上たちの方を見なかった。テーブルの上には最上と秘書の名刺がそのまま残されている。二人分のパンケーキは手が付けられずに、のせられた生クリームが溶けて崩れかかっている。テーブル下の最上の手は腿の上で固く握りしめられていた。
(後編に続く)
お読み頂きありがとうございます。前・後編になってしまい、申し訳ありません。もう少しお付き合い頂けるとうれしいです。本文中2乗の表記がうまくできませんでした。ワードでは上付きでうまくできたのですが…。(×2)でもいいのですが、強調しているニュアンスがお分かりいただけると幸いです。




