第九章 戦場の食卓
リーゼが非番の日に基地の簡易キッチンに立つ——と聞いて、奏太は最初、冗談かと思った。
あの殲滅の堕天使が、料理。エプロンを着けて包丁を握る姿がどうにも想像できなかった。だがペトラに「今日は中尉が腕を振るうのよ。あんたも食堂に来なさい」と言われ、半信半疑で食堂に向かった。
キッチンに入ると、リーゼがいた。
銀灰色の長い髪をいつもの束ね方ではなく、頭の高い位置で雑にまとめている。軍服の上からペトラの予備のエプロンを借りたのだろう、白い布が戦場の女神にはまったく似合っていない——はずなのだが、妙に様になっていた。
「珍しいね、中尉が腕を振るうのは」
ペトラが食材を棚から取り出しながら言った。干し肉、根菜の類、穀物の粉、香辛料の小瓶——配給品の範囲内で最大限の品揃えだ。
「ただの気分転換だ」
リーゼは短く答えて、手際よく食材を並べ始めた。
その手際を見て、奏太は目を瞠った。
速い。正確。迷いがない。包丁——この世界では形状が違うが、機能は同じだ——の使い方が恐ろしくうまい。根菜を均一な厚さに切り揃え、干し肉を繊維に沿って薄くスライスし、香辛料を目分量で——だが完璧な配分で——振り入れる。鍋に油を引き、温度を手の感覚で確かめてから食材を入れていく。
料理中のリーゼは、戦場とは別人だった。
目つきが柔らかい。紫の瞳に殺気はなく、集中の色だけが浮かんでいる。鍋を揺する手つきに力みがなく、食材の状態を見極める視線は——なるほど、これもまた職人の目だ。パイロットとして機体を操る精密さと、根底にあるものは同じなのかもしれない。
「すごいですね」
奏太が率直に言うと、リーゼの手が一瞬止まった。
「何がだ」
「料理。手際が尋常じゃない」
「ただの料理だ。大げさだな」
そう言いつつ、リーゼの耳がわずかに赤くなったのを奏太は見逃さなかった——が、それを指摘するほど空気が読めないわけではない。
ペトラが「手が足りないなら手伝うわよ」と申し出たが、リーゼは「邪魔だ」と一蹴した。キッチンは自分の戦場だと言わんばかりの仕切りようだ。
奏太はキッチンの隅でその手際を眺めていた。技術者の目で見れば、リーゼの料理は整備と同じだ。素材の状態を観察し、最適な処理を判断し、正確に実行する。焦がさず、煮崩れさせず、それぞれの食材の持ち味を最大限に引き出す。限られたリソースから最高のパフォーマンスを引き出すという意味では、機体整備と何も変わらない。
鍋から立ち上る湯気がキッチンを温かく満たす。壁のランプの光が湯気を透かして、柔らかい光の幕を作った。
三十分ほどで料理が完成した。配給品だけとは思えない出来栄えだった。根菜と干し肉の煮込み、香辛料で味付けした穀物のパンケーキのようなもの、それに野草のスープ。限られた食材から三品。どれも湯気を立てて食欲をそそる香りを放っている。
食堂のテーブルにリーゼ、奏太、そしていつの間にかフィンが座っていた。
「うわ、すごい! これヴァイスフェルト中尉が作ったんですか!」
フィンが目を輝かせた。一口食べて、大げさに——だが本気で——感動している。
「美味い! こんな美味いの食べたの、基地に来てから初めてです!」
「……お世辞は要らない」
リーゼは素っ気なく言ったが、視線がフィンの方にちらりと動いた。こっそり反応を確認している。美味しいものを食べた人の顔を横目で確かめるのが癖なのだと、奏太は気づいた。
煮込みを口にした奏太は、正直に唸った。味が深い。干し肉の旨味が根菜に染みていて、香辛料が全体をまとめている。素材自体は質素なのに、調理の技術で一段も二段も引き上げられている。
「美味しいです。本気で」
「だからただの料理だと言っている」
リーゼの返答は相変わらずだが、箸——この世界ではフォークのような器具——を持つ手が少し嬉しそうに動いたのは、見間違いではなかったはずだ。
「タカモリさんの世界には、どんな食べ物があるんですか?」
フィンが興味津々に聞いてきた。奏太は少し考えて答えた。
「米ってわかります? 白い穀物を炊いたやつ。それと——味噌汁っていうスープがあって。大豆を発酵させた調味料を出汁で溶いて——」
「発酵?」
リーゼが反応した。今までで一番はっきりと、こちらを向いている。
「穀物を発酵させて調味料にするのか。この世界にも発酵食品はあるが、それを汁物にするのは聞いたことがない。どういう工程だ?」
思わぬ方向から質問が飛んできた。リーゼの紫の目に、技術者のそれに近い知的好奇心が灯っている。奏太は味噌の作り方を——自分もそこまで詳しくないのだが——できる限り説明した。リーゼは相槌を打ちながら真剣に聞いている。
「面白い。この世界の食材で再現できるかもしれないな」
「リーゼさんなら絶対できますよ」
「……さん付けは不要だ。リーゼでいい」
「あ、はい。リーゼ」
名前を呼んだ瞬間、リーゼの視線がすっと外れた。髪の毛先を指で弄っている——困ると出る癖だと、後になって知ることになる。
フィンが「俺はまだヴァイスフェルト中尉って呼んでるのに」と小声でぼやいた。
そこにペトラが通りかかった。テーブルの光景を見て、柔らかく微笑む。
「こうやって皆で食べると美味しいでしょう」
その言葉に、テーブルの空気が一段温かくなった気がした。
さらに匂いに釣られたのか、ヨハンが食堂に顔を出した。
「おい、今日は何の祝いだ。いい匂いがするぞ。俺の分は?」
「ない」
「嘘だろ中尉。俺にだけないのか」
「余りがあれば出す。なければ通常の配給を食べろ」
「非情だ……」
ヨハンが大げさに肩を落とし、フィンが笑い、リーゼは知らん顔で煮込みをすくっている。ペトラが「はいはい、余りはあるから座りなさい」とヨハンに椅子を指差した。
小さな食卓に、笑い声が響く。ペトラがヨハンに煮込みをよそい、ヨハンは一口食べて「うまい。中尉の料理は反則だ」と唸った。フィンは二杯目のスープをおかわりし、リーゼは無表情のまま——しかし箸を置かずに——全員の反応をそっと観察していた。
奏太はスープを飲みながら、この光景を胸に刻んでいた。
コンビニ弁当の味気ない夕食とは違う。一人で食べる常温のお茶とは違う。誰かが作った温かい食事を、顔の見える相手と食べる。それだけのことが、こんなにも良いものだとは。
元の世界では、食事は燃料補給でしかなかった。カロリーを摂取して、機械の前に戻る。それだけだった。だがここでは違う。食事が人を繋いでいる。食卓が居場所を作っている。
ペトラの言葉が思い出された。「まずは温かいものを食べなさい」——あれは単なる食事の提供ではなかった。温かい食事が人を繋ぐのだということを、ペトラは知っていたのだ。
戦場のすぐ裏側にある、この小さな食卓。
リーゼの料理とペトラの笑顔とフィンの歓声とヨハンの冗談。限られた配給品から生まれた温かさ。
この場所にいることが、悪くないと思えた。
食器を片付けるとき、リーゼが一瞬だけ奏太を見た。リーゼの紫の瞳が、テーブルの空になった皿をそっと見渡していた。口元がほんの少しだけ緩んでいる。
奏太は最後の一口のパンケーキを味わいながら、静かにそう思った。




