第八章 訓練番長
整備棟での雑用三日目。奏太は部品の搬送で格納庫とパイロット待機室の間を往復していた。
パイロット待機室は格納庫の二階にある。広い部屋にソファとテーブルが並び、壁には作戦地図と出撃スケジュールが貼られている。出撃と待機を繰り返すパイロットたちが、束の間の休息を取る場所だ。
部品を届けに上がった奏太が扉を開けると、明るい声が飛び込んできた。
「あ、整備棟の人だ! お疲れさまです!」
栗色の短髪の青年が、ソファから跳ね起きるように立ち上がった。明るい青緑の目が、人懐こく奏太を見ている。百七十五センチの細身の体は、まだ大人になりきっていない青年の雰囲気だった。童顔で実年齢より幼く見える。首元に銀色のペンダントが光っていた。
「フィン・レクター少尉です。あなたが噂の——」
「鷹森奏太です。噂って何の噂ですか」
「異世界から来た整備士って話、もう基地中に広まってますよ。ヴァイスフェルト中尉の機体を直したって」
まだ何もしていないのに噂だけ先に走っている。奏太は苦笑した。
フィンの隣のソファで、年配の男がコーヒーのようなものを飲んでいた。がっしりした体格で、短く刈り込んだ金髪に日に焼けた顔。口元に薄い口髭を蓄えている。リラックスしているようで、目だけは常に周囲を見ている——百戦錬磨の空気を纏った男だった。
「坊主、また訓練で最高スコア出したんだって?」
ヨハン・クライス大尉。リーゼの部隊の小隊長で、ベテランパイロットだ。言葉は軽いが、フィンを見る目にはどこか意味深なものがある。
「あ——はい。今日の模擬戦闘でもトップでした」
フィンは明るく答えたが、その声に微かな翳りがあるのを奏太は聞き取った。
待機室の片隅で、別の若い男が読書をしていた。淡い金髪に眼鏡をかけた知性的な顔つき。フィンのやり取りを聞いていたのか、本から顔を上げた。
「フィン。あまり自分を追い込むなよ」
エーリヒ・ファルク。フィンの士官学校の同期だ。穏やかな声だが、友人を心配している響きがあった。
「追い込んでなんかいないって。訓練は楽しいよ。機体を動かすのは好きだし」
「訓練はな」
ヨハンの短い言葉に、フィンの笑顔が一瞬固まった。
奏太は空気を読んだ。ここに何かある。フィンの明るさの下に、何かが潜んでいる。
部品を所定の棚に置いて待機室を出ようとしたとき、廊下で声が聞こえた。別のパイロットたちだった。
「レクター少尉、また訓練トップだってよ」
「訓練番長だもんな。本番じゃ使えないけど」
小声だったが、奏太の耳に届いた。フィンにも聞こえたかもしれない。
訓練番長。
訓練では最強、実戦では使えない。そういう意味だ。
奏太は何も言わず、廊下を通り過ぎた。フィンの名前を口にする権利は、まだ自分にはない。
その言葉の本当の意味を、奏太は食堂で知ることになった。
昼食時、フィンは奏太の向かいに座った。人懐こい性格なのだろう、初対面の奏太にも気軽に話しかけてくる。
「タカモリさんは元の世界でもメカニックだったんですか?」
「ロボットエンジニアです。産業用の」
「ロボ——なんですかそれ、かっこいい響きですね。えっと、つまり機械を作る人?」
「直す方が多いですけどね。作るのは設計者で、俺は現場で調整する側です」
「へえ。俺は——自分では何も直せなくて」
フィンは笑った。だがその笑いは、自虐の色を帯びていた。
「士官学校の卒業模擬戦で歴代トップのスコアを出したんです。周りからは天才だなんだって言われて、最前線のこの基地に配属されて。でも——」
フィンの手が、首のペンダントを握った。緊張すると触る癖なのだろう。
「実戦で、体が動かないんです。訓練みたいにうまくいかない。頭ではわかってるのに、敵が目の前に来ると力んでしまって。やれます、ってつい言っちゃうんですよね。大丈夫です、って。でも全然大丈夫じゃなくて」
エーリヒが隣のテーブルから聞いていたのだろう。食器を持って移動してきた。
「フィンの初実戦で、僚機に庇われたことがあった。それ以来だ」
「エーリヒ、その話は——」
「隠すことじゃない。誰にでもある話だ。俺だって初実戦は散々だった」
エーリヒは眼鏡を押し上げて、肩をすくめた。「まあ、僕は堅実にやるだけですから。派手に活躍するのはフィンの仕事だ」
エーリヒはフィンの肩を叩いた。「アイツの辛さはわかる」——その目はそう語っていた。
奏太はフィンの話を黙って聞いていた。訓練では歴代最高。実戦では力が出ない。頭と体が噛み合わない。そして「訓練番長」と陰で呼ばれる。
——俺にも覚えがある。
奏太は操縦適性テスト史上最低スコアの伝説を持つ男だ。機械を誰よりも理解しているのに、自分では動かせない。フィンとは逆の話だが、頭と体が噛み合わない苛立ちは——わかる気がした。
何か言おうとした時、待機室の方から急報のベルが鳴った。食堂の空気が一変する。
兵士たちが立ち上がり、慌ただしく動き始めた。
「偵察機が被弾。緊急帰還中」
通信兵の声が走る。フィンとエーリヒも席を立った。
格納庫に向かう人の流れに巻き込まれるようにして、奏太も格納庫の入口に立った。
上空から一機の魔道兵器が降りてきた。左脚が半ばから折れ、右翼が損傷して煙を引いている。着地というより、墜落に近い降下だった。ずしん、と重い振動が足元から響く。
コックピットが開き、パイロットが転がり出てきた。左腕から血を流している。顔は蒼白で、脂汗が額に浮いていた。駆け寄った仲間たちが肩を貸し、医務班に引き渡す。
「ヴェルナー曹長、左腕に破片。意識はあります!」
「医務室へ運べ! 担架!」
怒号が飛び交う。血の匂いがする。担架で運ばれるパイロットの顔は、年齢的にはフィンと大して変わらないように見えた。
奏太は立ち尽くしていた。
穏やかな食堂の風景が、一瞬で戦場に変わった。さっきまでフィンと笑いながら話していたのに、今はすぐ目の前で血が流れている。
日常の隣に、常に戦場がある。この世界では、それが当たり前なのだ。
フィンは格納庫の隅で、拳を握りしめていた。首のペンダントを握る手が震えている。青緑の目に浮かんでいるのは——恐怖か、焦りか、それとも自分への怒りか。
奏太にはわからなかった。だが、あの表情は覚えておこうと思った。あの震える拳を、あのペンダントを握りしめる手を。
整備棟に戻ると、損傷した偵察機がクレーンで吊り下げられてガルベルトの前に運び込まれた。左脚のフレームが根元からひしゃげ、右翼の装甲が剥がれて内部機構が露出している。ガルベルトは無言で機体の前に立ち、魔道刻印を光らせた。金色の光が走り、魔力回路の状態を探る。
カティアが横から工具を差し出し、ディーターが黙って作業台を準備する。三人の呼吸は完璧に合っていた。長い年月の積み重ねが生む、言葉のいらない連携。
奏太は隅で部品の整理を続けながら、損傷した機体を観察していた。左脚のフレームが折れている——いや、折れたのではない。金属疲労だ。折れる前から内部に亀裂が入っていた痕跡がある。衝撃はきっかけに過ぎない。あの脚部は、戦闘前から限界に近かったのだ。
もし出撃前に物理構造を点検していれば、亀裂を発見できたかもしれない。事前に補強すれば、あのパイロットは血を流さずに済んだかもしれない。
——かもしれない。それは後知恵だ。でも。
日常と戦場は、切り替わるものではない。ここでは常に隣り合っている。だからこそ、整備が命を左右する。ガルベルトがあれほど完璧を追求するのも、魔力回路の一本の異常が致命的な事故に繋がるからだ。
同じことが、物理構造にも言える。
奏太はツールポーチに手を置いた。自分にできることは何だろう。戦場に出ることはできない。あの化け物と戦うこともできない。だが——この整備場で、壊れた脚を直すことはできる。亀裂を見つけることはできる。次にあのパイロットが出撃するとき、もう少し安全な機体に乗せることは——きっと、できる。
自分にしかできないことが、この場所にある。
そう確信した夜だった。




