第七十章 繋いだ手
整備棟の灯りは、夜になっても消えない。
奏太は作業台に向かっていた。手元にはアウローラの共鳴駆動のデータシート。明日の作戦で使う逆位相パターンの最終確認。数字の羅列を目で追いながら、ポケットの六角ボルトを回す。かちり。かちり。
門の破壊作戦。
アウローラの共鳴駆動を逆位相で叩き込む。理論上は可能。だが機体への負荷は、これまでのどんな戦闘とも比較にならない。共鳴構造が耐えきれなければ、機体ごと砕ける。
パイロットごと。
奏太はペンを置いた。息を吐いた。何度計算しても同じ結論になる。成功率は高い。でも「高い」は「確実」じゃない。
格納庫の向こうでは、カティアとディーターが改良量産機の最終点検をしていた。金属音が規則正しく響く。ガルベルトは奥の工房で合金の応力試験をやっている。低い唸り声が聞こえる。いつもの夜だ。戦いの前の、いつもの夜。
誰も寝ない。誰も口に出さない。でも全員がわかっている。
明日は、違う。
足音が聞こえた。
軽い靴音。軍靴だが、力を抜いた歩き方。奏太はその足音を知っていた。
「起きていたか」
振り返った。
リーゼが立っていた。
軍服ではなく、薄手のシャツにカーゴパンツ。銀灰色の髪を下ろしている。普段は一つに束ねているから、下ろした姿は珍しい。整備棟の暖色の灯りの中で、銀の髪が淡く光っていた。
「リーゼさん。どうしました、こんな時間に」
「眠れなかった」
短い。いつものリーゼだ。必要なことだけ言う。
でも今夜は少し違った。紫の瞳がどこかを彷徨っている。視線が定まらない。奏太の顔を見て、作業台を見て、またどこかを見る。
落ち着かない。
リーゼロッテ・ヴァイスフェルトが、落ち着かない顔をしている。蝕域の化け物を単騎で切り開くエースパイロットが。殲滅の堕天使が。
奏太は椅子から立った。
「コーヒーでも入れましょうか。ディーターさんが豆を分けてくれたんです」
「いや、いい」
リーゼが一歩近づいた。
作業台の横まで来て、立ち止まった。横顔。灯りが左半分を照らし、右半分に影が落ちている。鎖骨のあたりの古い戦傷が、シャツの隙間からわずかに見えた。
沈黙。
格納庫の奥から金属音が響く。ディーターの作業だ。規則正しい、安定したリズム。それだけが二人の間の空白を埋めていた。
「鷹森」
「はい」
「戦いが終わったら言うつもりだった」
リーゼの声が、少しだけ低くなった。
奏太の指がポケットの中で止まった。ボルトが掌に押し当てられたまま動かない。
「でも、明日がどうなるかわからないから。今言う」
リーゼが奏太を見た。正面から。紫の瞳が、真っ直ぐに。
逃げていない目だった。戦場で敵に向かうときと同じ目。覚悟を決めた目。でもその奥に、戦場では見せない揺れがあった。怖いのだ。敵の光弾よりも、この言葉のほうが怖い。奏太にはそれがわかった。
「お前がいるから」
リーゼが言った。
「私は、帰る場所がある」
静かな声だった。
叫びでも、囁きでもなく。ただ事実を告げるような声。でもその声に、ありったけの感情が詰まっていた。言い慣れない言葉を、不器用に、一語ずつ選んで並べている。リーゼロッテ・ヴァイスフェルトという人間が、戦場以外の場所で全力を出している。
奏太は動けなかった。
整備棟の灯り。金属とオイルの匂い。遠くの金属音。リーゼの銀灰色の髪。紫の瞳。全部がくっきりと焼きついて、時間が止まったみたいだった。
帰る場所。
その言葉が、胸の奥に落ちた。ぽとり、と。重くて、温かい何かが。
リーゼの機体を整備するたびに思っていた。共鳴駆動のデータを確認するたびに。出撃する白銀の背中を見送るたびに。帰ってきたときの安堵。帰ってこなかったらという恐怖。その恐怖がどこから来ているのか、奏太はずっとわかっていなかった。
いや。わかっていて、目を逸らしていた。
自分は技術者だから。作る側だから。支える側だから。そう言い聞かせて、蓋をしていた。技術者の仕事に私情は要らない。パイロットと整備士の関係に、それ以上の感情を持ち込むべきじゃない。
でも。
リーゼが帰ってくるのを待つ時間は、怖かった。
他の誰でもない。リーゼが。リーゼロッテ・ヴァイスフェルトが帰ってくるのを待つ時間が、何より怖くて、何より長くて、何より切実だった。
それは技術者としての責任感なんかじゃ、とっくにない。
奏太はポケットから手を出した。ボルトを手放した。指先が少し震えている。
「俺も」
声が掠れた。咳払いした。もう一度。
「俺も……あなたが帰ってくるのを待つ時間が、一番怖くて」
言葉を探す。うまい言い回しなんか知らない。設計図なら引けるのに。数値なら扱えるのに。感情は設計できない。
「一番、大切です」
出てきたのは、それだけだった。
不格好だ。自分でもわかる。告白としてあまりにも地味で、ロマンチックの欠片もない。ロッテが好きな恋愛小説に出てくる台詞とは天地の差だ。
でもそれが、奏太の全部だった。
リーゼの瞳が揺れた。
大きく、一回。紫色が灯りを反射して、きらりと光った。
唇がわずかに震えて、すぐに引き結ばれた。泣くのを堪えたのだ。この人は、泣かない。戦場でも、部下の前でも、絶対に泣かない。それが彼女の矜持だから。
代わりに、笑った。
ふっ、と。短く、柔らかく。
「不器用な告白だな、お互い」
リーゼの声に、わずかな震えが残っていた。それがかえって本物だと教えてくれた。
奏太も笑った。肩の力が抜けた。
「すみません、こういうのは設計図が引けなくて」
「設計図があったらそれはそれで怖い」
「確かに」
二人の間の空気が変わった。張り詰めていたものが、ふっと緩んだ。戦いの前夜の重さは消えていない。明日の作戦の危険も変わらない。でも、その重さを二人で持っている。それだけで、少し軽い。
リーゼが右手を伸ばした。
何も言わなかった。ただ、手を差し出した。
奏太はその手を見た。
パイロットの手だ。操縦桿を握り続けてきた手。硬い。細い。でも強い。この手が白銀の機体を操り、蝕域を切り開いてきた。この手に、何人もの命が守られてきた。
奏太は自分の手を見た。
整備士の手だ。工具を握り、回路を辿り、金属を磨いてきた手。指先に古い火傷の痕。爪の間にはオイルの染みが残っている。不器用で、武骨で、きれいとは言えない手。
でもこの手で、リーゼの機体を直してきた。この手で、リーゼが帰ってこられる機体を作ってきた。
繋いだ。
リーゼの手は、冷たかった。
奏太の手は、温かかった。
その温度差が心地よかった。冷たい手が温まっていく。指先から、ゆっくりと。
握り返す力は強くなかった。互いに、そっと。壊れものを扱うように。でも離す気のない強さで。
沈黙が流れた。
長い沈黙だった。
整備棟の灯りがじりじりと音を立てている。格納庫の奥で、ディーターの金属音が止まっていた。代わりに、ガルベルトの工房から低い魔力駆動音が聞こえている。夜の整備棟は、昼間とは違う音をしている。静かで、温かい音。
何も言わなくてよかった。
手を繋いでいるだけで、伝わるものがあった。明日の作戦のこと。その先のこと。怖いこと。それでもやるということ。帰ってくるということ。帰る場所があるということ。
全部、掌の温度が語っていた。
リーゼが口を開いた。
「ペトラの食堂」
「え?」
「帰ったら、あの食堂で飯を食う。お前も来い」
奏太は少し考えた。
「ペトラさん、絶対泣きますよ」
「知るか。泣きたいやつは泣けばいい」
リーゼの声が少しだけ柔らかくなっていた。ほんの少しだけ。他の誰かが聞いてもわからないくらい。でも奏太にはわかった。
「……はい。行きましょう」
行く。帰ってきて、行く。温かいスープと、焼きたてのパンと、ペトラの小言と。それがある場所に、帰る。
帰る場所。
ペトラの食堂。格納庫の作業台。ディーターが淹れてくれる茶。カティアの質問攻め。ガルベルトの唸り声。フィンの「タカモリさん」。ヨハンの大声。エーリヒの眼鏡越しの笑顔。ロッテの正確な報告。ルーカスの敬礼。ヴェーバーの短い言葉。
そして、この手。
全部が、帰る場所だ。
リーゼの指が、奏太の指の間に入り込んだ。しっかりと。さっきよりも深く。
「明日、門を壊す」
リーゼの声が変わった。パイロットの声。冷静で、鋭くて、揺るがない声。
「壊して、帰ってくる」
「はい。俺はアウローラを最高の状態に仕上げます。帰ってこられる機体にします」
「当然だ。お前以外に任せる気はない」
二人の影が、整備棟の壁に伸びていた。
暖色の灯りが二つの影を作り、壁の上で重なっていた。背丈の違う二つのシルエット。パイロットと整備士。戦う者と、支える者。それが一つの影になって、コンクリートの壁に焼きついている。
奏太はリーゼの横顔を見た。
銀灰色の髪が灯りの中で揺れている。紫の瞳は前を向いていた。もう迷っていない。怖いものは怖いまま、前を向いている。それがリーゼだ。奏太が知っている、一番強くて、一番不器用な人。
リーゼも奏太を見た。
目が合った。
「鷹森」
「はい」
「奏太」
名前を呼ばれた。
初めてだった。
下の名前で呼ばれたのは。この世界に来てから、誰にも呼ばれたことがなかった名前。元の世界に置いてきたはずの名前。
それをリーゼが拾い上げた。
「ああ、やっぱり呼びにくい。この国の名前は発音が難しい」
「無理しなくていいですよ」
「うるさい。呼ぶと決めた」
リーゼが眉を寄せた。困った顔。髪の毛先を指で弄っている。自分で言い出して自分で照れている。二十六歳の帝国軍エースパイロットが、名前の呼び方で困っている。
おかしかった。
おかしくて、愛しかった。
「リーゼさん」
「さん付けをやめろ。今更だろう」
「……リーゼ」
「ん」
短い返事。でも口元が少しだけ上がっていた。
繋いだ手はまだ離れない。
離す理由がないから。
整備棟の灯りが、変わらずに二人を照らしていた。金属とオイルの匂い。コンクリートの壁。ガルベルトの工房から漏れる魔力駆動音。全部がいつも通りで、全部がいつもと違う夜。
明日は戦いだ。
門を壊す。帰ってくる。そのために、自分にできることをやる。
でも今夜だけは。
あと少しだけ。
この手を、繋いでいたい。
奏太はリーゼの手を握り直した。そっと。でもしっかりと。
リーゼが握り返した。同じ力で。
二人の影が壁の上で揺れた。重なったまま。整備棟の灯りが、夜明けまでずっと、二人を照らしていた。




