第七章 魔道整備官
整備棟は格納庫の隣にあった。
重い鉄扉を開けると、油と金属と——もう一つ、奏太の知らない匂いが混ざった空気が流れ込んできた。甘いような、焦げたような、説明しがたい匂い。魔力の匂いなのだろうか。
広い作業場だった。天井が高く、大型の整備用クレーンがレールに沿って走っている。作業台が整然と並び、工具が壁のラックに種類ごとに掛けられている。床は使い込まれているが清潔だ。整備する者の気質がそのまま場に反映されている。
奏太は作業場の空気を深く吸い込んだ。油と鉄の匂い。それだけで少し心が落ち着く。父の工場も同じ匂いがした。
作業場の奥で、一人の男が機体の腕部ユニットに向き合っていた。
大きい。身長百九十センチはある。がっしりとした体格で、鍛冶師のような厚い腕と太い指。赤褐色の髪を後ろに撫でつけ、顎には手入れの行き届いた短い髭を蓄えている。琥珀色の目が、鑑定するように作業対象を見つめていた。
その両手の甲に、紋様が光っていた。
淡い金色の光を帯びた、複雑な幾何学模様。奏太が荒野で見た機体内部の「管」の紋様と同系統だが、もっと精緻で美しい。手の甲から指先にかけて広がる紋様が脈打つように明滅し、その光が男の指先を通じて機体の腕部に流れ込んでいく。
魔道刻印。
昨日リーゼから聞いた話が脳裏に蘇る。魔道整備士は両手の甲に魔道刻印を刻み、それを通じて魔力回路に触れ、感覚的に異常を感知・調律するのだと。
男の指先が機体の腕部をなぞるたびに、内部の管が金色に呼応して光る。まるで楽器を調律するように、微妙な加減で光の強さと脈動が変わっていく。
見事だ、と奏太は素直に思った。自分が指先で機械の振動を読むように、この男は魔力の流れを指先で読んでいるのだ。アプローチは違えど、根底にあるものは同じだ——機械を知り、機械と対話する技術者の手。
男が手を止め、奏太を見た。
琥珀色の目が、刃物のように鋭い。
「お前が例の——」
言いかけて、男は奏太の全身を上から下まで見た。作業着。ツールポーチ。火傷だらけの指先。そして——魔力の気配が一切ない体。
「魔力なしで整備だと?」
低い声だった。呆れと不快が滲んでいる。
「馬鹿も休み休み言え」
帝国軍主席魔道整備官、ガルベルト・ドルン。奏太の異世界における上司になるはずの男の第一声が、これだった。
「魔力回路に触れない。魔道刻印もない。それで何ができる。機体の表面を磨くだけなら掃除当番で十分だ」
ガルベルトの声には怒りというより、侮蔑に近いものがあった。整備という仕事に対する絶対的な誇りが、魔力なしの素人を許さないのだ。
奏太は反論しなかった。今は何を言っても無駄だ。実績がない。この世界での信用もない。言葉より手で示すしかない。それは元の世界でも同じだった。新しい職場で信用を得るには、口ではなく手を動かすのが一番だ。
「司令の命令で来ました。雑用からで構いません」
「ああ、雑用だ。それ以上のことは期待するな」
ガルベルトは奏太から視線を外し、作業に戻った。金色の光がまた手の甲で脈打ち始める。話は終わりだという明確な意思表示だった。
作業場の別の一角から、二つの視線を感じた。
一人は、痩せた長身の男。灰色の短髪が薄くなりかけていて、表情の変化が乏しい。骨張った手で部品を黙々と磨いている。作業着は年季が入っているが、きちんと清潔だ。両手の甲にはガルベルトと同型の魔道刻印があるが、色が褪せている。ディーター・ハース。ガルベルトの右腕と呼ばれる古参整備士だ。
もう一人は、赤毛の若い女性。ショートカットの髪を額からピンで留め、作業着の袖を肘まで捲り上げている。明るい緑の目が、好奇心と警戒の間で揺れていた。右手の甲には刻印が一つだけ——まだ修行中の証だ。
「あの人が例の……?」
小声でディーターに聞いている。ディーターは無言で頷いた。
「師匠の邪魔だけはしないでくださいね」
カティア・ノイマン。ガルベルトの一番弟子だと、後で知ることになる。緑の目に浮かぶ警戒心は、師匠の領域を侵す者への牽制だった。
なんとも居心地の悪い初対面だった。だが、仕方ない。
その日から、奏太の整備棟での生活が始まった。
与えられた仕事は本当に雑用だった。工具の整理。部品の分類と清掃。作業台の片付け。整備の本質には一切触れさせてもらえない。
だが奏太は文句を言わなかった。元の世界でも、入社初日から試作機に触らせてもらえたわけではない。最初の三ヶ月は工具の整理と部品の搬送しかさせてもらえなかった。それでいい。地味な仕事の中から、場の空気と流儀を学ぶ。
ディーターが、無言で工具の配置を教えてくれた。どの棚にどの工具があり、どの箱にどの規格の部品が入っているか。言葉は一切ない。ただ指差すか、目線で示すだけだ。奏太は一度で覚えた。工具の配置を記憶するのは得意だ。
部品を磨きながら、奏太は作業場全体を観察していた。
ガルベルトの魔力回路の調律は見事だ。微細な異常も見逃さない精密さ。二十年以上の経験が指先に凝縮されている。カティアも師匠の動きを必死に吸収しようとしている。集中すると舌先を出す癖があり、それがどこか微笑ましかった。
だが——奏太の目は、別のものを見ていた。
格納庫から運び込まれる機体。ガルベルトたちは魔力回路の調律に全力を注いでいるが、物理機構のメンテナンスに手が回っていない。関節のクリアランスが狂っている機体。装甲の固定が緩んで重心がずれている機体。駆動伝達軸の摩耗が進んでいる機体。
どの機体も、魔力回路は完璧だ。ガルベルトの仕事に抜かりはない。だが物理的な骨格は——見えていないのか、優先順位が低いのか——手付かずのまま放置されている。
魔力回路が完璧でも、関節が錆びていれば機体はまともに動かない。出力がいくら高くても、物理構造でロスしていれば意味がない。
奏太の指先が、ツールポーチの工具を撫でた。直したい。あの関節を、あの装甲を、あの軸受けを。だが今はその権限がない。部外者の立場で勝手に機体に触れたら、信用を失うどころか基地から追い出される。
我慢だ。焦るな。まずは信頼を積み上げろ。
夕方、ディーターが奏太の横に立った。無言で、奏太が磨いた部品を手に取り、光にかざして確認する。表面の仕上がりを見て、かすかに頷いた。
それだけだった。言葉は一つもない。だがその頷きには、「悪くない」という評価が含まれていたように、奏太には思えた。
そして——ディーターは、奏太が格納庫の機体を観察する目つきを、ずっと見ていたのだ。あの灰色の目が何を思っていたかは、わからない。だが観察していたことだけは確かだった。
整備棟を出る頃には日が暮れていた。作業着に染みついた油と金属の匂い。それに、微かな甘い匂い——魔力の残り香。
奏太は深呼吸した。
異世界でも、整備場の匂いは悪くない。
明日もまた、あの場所に立つ。雑用でいい。今はまだそれでいい。
ポケットの中で、六角ボルトが指先に触れた。くるくる回す。考え事のリズム。あの機体の左膝関節、可動軸のずれはどのくらいだったか。装甲三番パネルの固定具は何度の角度でずれていたか。
全部、指が覚えていた。




