第六十九章 異次元の核心
それは、空の色が消えた場所だった。
蝕域の中心部。大地は黒く変質し、地面から突き出た結晶のような構造物が不規則に林立している。空はどす黒い紫に染まり、光という概念そのものが歪んでいた。
そして——その中央に、門があった。
「でかいな」
ヨハンが通信越しに呟いた。誰もが同じことを思っていた。
巨大な裂け目。空間そのものが引き裂かれたような、縦に走る亀裂。高さは魔道兵器の十倍以上。亀裂の縁は暗い光を帯びて脈動し、その奥から——敵が這い出してくる。
一体。二体。五体。十体。
途切れない。
門の前面には通常個体が群れをなし、その間を新種の青白い複眼が縫うように動いている。さらに門の両脇には上位個体が鎮座していた。結晶化した装甲が鈍い光を反射している。
「敵の増援速度、毎分約四十体。減る気配なし」
ロッテの報告が通信室から届く。声は平坦だが、データの意味は全員が理解していた。
倒しても、倒しても。門がある限り、終わらない。
*
前線指揮所の装甲車両。
奏太はモニターの前にいた。門の観測データが流れ続けている。振動波形、エネルギー分布、空間歪曲率。この世界の技術で取得できる、ありったけのデータ。
六角ボルトが指先で回る。速い。
「タカモリ、何か見えたか」
ガルベルトが隣に立っていた。腕を組み、琥珀色の目がモニターを睨んでいる。
奏太は答えなかった。まだ見えていない。
データを読む。波形を追う。門の脈動には周期がある。不規則に見えて、一定のパターンが繰り返されている。
三十秒周期。いや、二十七秒。
脈動のたびに空間歪曲率が跳ね上がり、敵が門から吐き出される。エネルギーの波形は——。
指が止まった。
「構造が見えた」
ガルベルトの目が動いた。
「言え」
「門は——共鳴で維持されています」
奏太はペンを取り、手元の紙に図を描き始めた。
「物理的なエネルギー共鳴です。門の両端にある二つの共鳴点が振動を送り合って、空間の裂け目を開き続けている。音叉を向かい合わせて鳴らし続けるような構造です」
ペンが共鳴点を示す二つの丸を描き、その間を波線が結ぶ。
「二十七秒周期で共鳴が更新されている。この共鳴が途切れれば、門は自重で閉じる」
「途切れさせる方法は」
「あります。——ただし、簡単じゃない」
*
緊急の作戦会議が招集された。
モニター越しの顔が並ぶ。リーゼはアウローラのコックピットから。フィンとエーリヒは待機位置から。セルゲイは共和国部隊の指揮車から。ゲルナー少佐は後方の通信拠点から。
奏太が説明を始めた。
「門の共鳴構造を崩壊させるには、同じ周波数の逆位相振動をぶつける必要があります」
図面がモニターに映し出される。
「問題は、この周波数に同期して逆位相の振動を出力できる装置が——」
一拍、間を置いた。
「アウローラの共鳴駆動しかない」
通信が静まった。
アウローラの共鳴構造。魔力回路と物理フレームの振動を同期させる技術。奏太とガルベルトが二人で作り上げた、この世界で唯一の技術融合機体。
その共鳴駆動を逆位相で作動させる。門の振動と真逆の波をぶつけて、共鳴そのものを打ち消す。
「理屈はわかる」
ガルベルトが低い声で言った。
「問題は負荷だ。共鳴駆動を逆位相で回すということは、機体の全構造に設計想定外の振動を流すということだ。フレームが耐えられるのか。魔力回路は保つのか」
全員が奏太を見た。
六角ボルトが回る。一回転。二回転。
「理論上は——一度だけなら」
それが答えだった。一度だけ。逆位相共鳴を起動し、門の共鳴構造に叩き込む。成功すれば門は崩壊する。だが機体には極大の負荷がかかる。二度目はない。
「つまり」セルゲイが通信越しに確認した。「成功しても機体はスクラップか」
「最悪の場合は。最良なら大破で済む。——パイロットは生きて帰れます」
嘘は言わなかった。データはそう示している。理論上は。
*
沈黙が落ちた。門の向こうから敵が湧き続ける音が、遠く、近く、響いている。
「やる」
リーゼの声だった。迷いがない。一秒も考えなかった。
「他に方法があるなら聞く。ないなら、やる。それだけだ」
奏太は口を閉じた。ないのだ。他に方法は。アウローラだけが、門と同じ言語で語れる。
「ヴァイスフェルト中尉」
ガルベルトが通信に割り込んだ。声が硬い。
「アウローラは俺とタカモリが魂を込めて作った機体だ。乗り手ごと壊すために作ったんじゃない」
「知っている」
「知っているなら——」
「だからこそ、この機体でなければできないことがある。違うか」
ガルベルトが押し黙った。反論できない。アウローラの共鳴構造があるからこそ、門の攻略が可能になった。皮肉な話だった。最高傑作が、自らを犠牲にする鍵になるとは。
ガルベルトが奏太を見た。琥珀色の目に問いがあった。——本当に持つのか。
奏太は小さく頷いた。
「逆位相共鳴の持続時間を最小限に抑えれば、フレームは崩壊前に持ちこたえる。魔力回路も、ガルベルトさんの調律が完璧なら——」
「俺の調律に不備があったことがあるか」
「一度も」
「なら保証しろ。あの機体は壊れない」
「保証はできません。でも——俺が作った機体です。信じてください」
長い沈黙。格納庫で初めて怒鳴られた日から、どれだけの時間が経っただろう。魔力なしの整備を一蹴した男が、今は奏太の言葉を待っている。
「勝手にしろ」
ガルベルトはそう言った。それが彼の承認だと、もう全員が知っていた。
*
「では作戦を整理する」
奏太がモニターに作戦図を映した。
「第一段階。門の前面を占拠する敵を排除して、アウローラの突入路を確保する。セルゲイ大尉の部隊が左翼、ヨハン大尉の小隊が右翼。正面はフィンとエーリヒが精密機動で道を開く」
「任せろ!」セルゲイが即座に応じた。
「やれます」フィンの声は静かだった。いつもの反射的な即答ではない。確信に裏打ちされた声。「エーリヒと二人なら」
「僕は堅実にやるだけですから」エーリヒが眼鏡を押し上げる音がした。
「第二段階。リーゼがアウローラで門に接近し、共鳴駆動を逆位相に切り替えて門の共鳴点に直接叩き込む。必要な距離は門から五十メートル以内」
「五十メートル?」セルゲイが声を上げた。「門の真ん前じゃねえか」
「そしてリーゼが逆位相を起動してから門が崩壊するまで、推定十八秒。その間アウローラを守る必要がある」
「十八秒か」ヨハンが呟いた。「戦場の十八秒は、長いぞ」
「やれるさ」セルゲイが言った。豪快な声。「帝国の坊主どもが道を開いて、共和国の男たちが壁を作る。悪くない分担だ」
「お前に壁を任せるとそのまま突っ込みそうで怖いんだが」ヨハンが返す。
「失敬な。俺は命令には従う男だ」
「嘘つけ」
笑い声が起きた。張り詰めた空気の中で、それは不思議と自然だった。
*
作戦説明が終わった後、通信にゲルナー少佐の声が入った。
「鷹森技術顧問。一つ、お願いがあります」
いつもの端正な声だが、どこか熱を帯びている。
「この作戦の全工程を記録してください。逆位相共鳴の理論、門の構造分析、出力制御——すべてを」
「記録は取ります。いつも通り」
「いつも通りではなく」
ゲルナーが言葉を選んだ。万年筆がメモ帳の上で止まっている姿が目に浮かぶ。
「——教本として残せる精度で。この技術は次の世代に必要です」
奏太は一瞬、言葉を失った。
次の世代。大陸にはまだ門が残っている。次に門を閉じるのは、自分たちではないかもしれない。だがこの技術が残っていれば、誰かが引き継げる。
「あなた、変わりましたね」
通信の向こうで、短い沈黙。
「前線に来て、少し。——データを見せてください、ではなく、記録を残してください。これが今の私の言葉です」
「了解です。世界一わかりやすい教本を書きます」
通信が切れた。奏太は手帳の余白に一言だけ書き加えた。——逆位相共鳴理論、教本化。
*
会議の後、奏太は逆位相制御の最終調整に取り掛かった。
通常の共鳴駆動は、魔力回路の波と物理フレームの振動を同期させる。波と波が重なり、増幅する。逆位相はその真逆。魔力回路の波に対して物理フレームの振動を百八十度ずらす。増幅ではなく打ち消し。機体内部で二つの力がぶつかり合い、その衝撃波を外に放出する。
代償は、機体そのものへの負荷。内側から引き裂かれるような力が全フレームにかかる。
フレームの疲労限界。各関節の許容応力。魔力回路の耐熱性。一箇所でも見落とせば、機体はバラバラになる。
「ここ」
ガルベルトが茶を持って戻り、モニターの一点を指した。右腕部の第三関節。
「逆位相振動を流すと、この関節に共振が集中する。魔力回路の熱が重なれば溶着する」
「魔力の流れを十パーセント絞りますか」
「ああ。出力は落ちるが熱暴走は防げる」
もう一箇所。左脚部の付け根。だがここは魔力を絞ると推進力が落ちる。門から離脱する時に致命的だ。
「減衰材を追加で挟みます。——カティア」
装甲車両の隅で息を殺していたカティアが、赤毛の下の緑の目を見開いた。
「減衰材の在庫、確認できますか」
「はいっ。すぐ調べます」
飛び出していくカティアの背中を見て、ガルベルトが茶を啜った。
「あいつ、盗み聞きの癖が直らんな」
「聞いていてもらわないと困ります」
「甘やかすな」
「事実です」
ガルベルトが鼻を鳴らした。だがその横顔は、弟子の成長を見守る師匠のものだった。
*
深夜。すべてのチェックが終わった。
奏太はアウローラを見上げた。
白銀の装甲が薄暗い仮設格納庫の中で鈍く光を放っている。共鳴構造を内蔵した特殊フレーム。魔力結晶と物理合金の融合体。奏太の工学知識とガルベルトの魔道技術が一つになった結晶。
明日この機体が、門に挑む。
自分は戦えない。操縦すれば史上最低スコアを叩き出す男だ。だが自分が作った機体と、自分が見つけた理論が、戦場の最前線で最後の一撃を放つ。
「俺は作る側だから」
呟いた。いつもの口癖。だが今日は、その言葉の重さが違った。
リーゼがアウローラに乗る。自分の計算した制御プログラムで、門に挑む。信じるしかない。自分の技術を。自分の計算を。そして——リーゼを。
「できることは全部やった」
ガルベルトが隣で腕を組んだ。
「ああ。あとは——あいつ次第だ」
「帰ってくる」
奏太が言った。
「当然だ」
ガルベルトが答えた。
アウローラの装甲が、二十七秒周期の脈動を反射して微かに揺れた。
明日、この鼓動を止める。




