第六十八章 整備官の戦場
爆発音が闇を裂いた。
奏太がアウローラのデータを睨んでいた整備テント。その天幕を突き破って、紫色の結晶弾が飛び込んできた。
「伏せろ!」
ガルベルトの怒号。工具棚が吹き飛び、部品が散乱する。
「敵襲! 前線整備拠点に敵襲!」
蝕域の闇から敵の群れが這い出してくる。主力が前方で戦っている隙を突いた奇襲だった。通常個体が十五。上位個体が二。指揮個体が一。
戦闘要員はほとんどいない。整備士と補給係と負傷者。それがこの拠点のすべてだった。
*
ガルベルトが踏み出した。百九十センチの巨体が闇に聳える。琥珀色の目が、一瞥で敵の布陣を読み取った。
「整備班、防衛配置! 非戦闘員は後方テントに退避!」
地鳴りのような声が拠点に響く。パニックに陥りかけていた人間たちが、その声で我に返った。
「ロッテ、主力に緊急通信!」
「了解!」
ガルベルトの両手の魔道刻印が白く発光した。周囲の金属——装甲板の端材、予備部品、工具箱の中身——が宙に浮き、圧縮され、壁になる。
高さ三メートル、幅十メートルの防御壁。即席にしては上出来だ。
通常個体が突進してきた。激突。金属が軋み、火花が散る。二体目、三体目。壁にひびが走った。
「師匠!」
カティアが駆けつけた。赤毛が乱れている。緑の目に恐怖がある。だが足は止まっていない。
「防御壁の魔力供給、手伝います!」
「来い!」
カティアが隣に立ち、魔力を流し込んだ。師匠が金属の構造を操り、弟子が魔力で強度を底上げする。ひびが塞がった。
師弟の連携。何百回と繰り返した整備の呼吸が、そのまま防御に転じていた。
「三秒後に右側を補強しろ。上位個体が来る」
「了解!」
読み通り、結晶装甲の上位個体が右から突っ込んできた。カティアが壁を瞬間硬化させ、受け止める。四体目の通常個体が壁を乗り越えようとした。ガルベルトが片手を振る。壁の上端から金属の棘が伸び、個体を貫いた。
*
奏太は崩れたテントから這い出した。
防御壁だけでは限界がある。拠点の簡易防御結界の発生装置——それが最初の爆発で壊れていた。あれが動けば、防御は格段に楽になる。
工具袋を掴んで走った。結晶弾が飛び交う中を十メートル。怖い。体が震える。だが工具を握ったら止まった。いつもそうだ。道具を持てば、やるべきことが見える。
カバーをこじ開け、内部を確認する。
「接合部が外れてるだけだ。直せる」
指が動いた。接合部を繋ぎ直し、ネジを締め、結晶のヒビに補修用の樹脂を流す。正規の修理じゃない。でも動けばいい。
「ガルベルトさん、あと二十秒!」
「急げ! 壁が——」
上位個体の二度目の突撃。壁の中央に亀裂が走る。
十五秒。配線を繋ぐ。十秒。起動シークエンス。五秒。結晶が光り始めた。
起動。
青白い結界が拠点を覆った。防御壁と合わせて二重の盾。通常個体の結晶弾が弾かれ、地面に落ちた。
安堵する暇はない。非戦闘員の避難だ。奏太は後方テントへ走り、補給係を誘導し始めた。
その奥で、ディーターが動いていた。
前の戦闘で倒れ、復帰したばかりの男。左腕の包帯がまだ取れていない。だが黙って負傷者を背負っている。動けない兵士を一人ずつ、防御壁の内側へ運んでいた。
「手伝います」
「いい。お前は結界装置を見てろ。出力が落ちたら終わりだ」
短い言葉。だが正しい。奏太は結界装置に戻った。応急修理の結晶では出力が徐々に落ちる。こまめに調整しなければもたない。
ディーターは三往復目に入っていた。額から血が滲んでいる。それでも足を止めない。
*
ガルベルトとカティアが限界に近づいていた。
通常個体は抑えられている。だが上位個体と指揮個体がじりじりと距離を詰めてきていた。壁の弱点を探している。
カティアの呼吸が荒い。
「師匠、私の魔力があと——」
「持つか持たないかだけ答えろ」
「……持ちます」
「それでいい」
指揮個体が高密度の結晶弾を放った。壁面が大きく凹む。このままでは抜かれる。
そのとき、医療テントから白衣の姿が飛び出した。
赤褐色の編み込み。琥珀色の目。アンネリーゼ・ドルン。ガルベルトの長女にして軍医。昨日この拠点に到着したばかりだった。
「負傷者はこっちに! 止血が必要な人から優先!」
ディーターが運んできた負傷者を受け取り、素早く容態を見極める。
「右大腿部の裂傷。動脈には達していない。止血帯で圧迫固定。——次」
二十二歳。だが手は震えていなかった。その冷静さが、周囲の人間にも伝染していた。
三人目の縫合中、ガルベルトが振り返った。
目が合った。琥珀色と琥珀色。
ガルベルトの動きが一瞬止まった。娘が戦場にいる。逃げろ、と叫びたかった。
だがアンネリーゼは慌てなかった。血に染まった手で縫合を続けながら、真っ直ぐに言った。
「お父さん、手当は任せて。あなたは防御を続けて」
命令でも懇願でもない。同じ戦場に立つ者同士の、対等な言葉だった。
ガルベルトの目が見開かれた。目の前にいるのは膝の擦り傷で泣いていた娘ではない。軍医だ。一人の専門家だ。
歯を食いしばり、前を向いた。
「カティア。壁を再構成する。全力で支えろ」
「了解です!」
魔道刻印が今までにない輝きを放った。防御壁の表面に鋭い棘が無数に生える。壁が巨大な針鼠に変貌した。通常個体が突進し、棘に串刺しになる。
「整備士を舐めるな」
低く、静かな声。だからこそ重かった。
怒りではない。矜持だ。四十五年間、機体を直し、部品を作り、現場を守ってきた男の誇り。戦うために鍛えた力ではない。守るために磨いた技術だ。それが文字通り盾になっている。
カティアが師匠に魔力を重ねた。整備で何百回と合わせた呼吸が、防御の精度を極限まで高める。
「師匠がやるなら——私も最後まで!」
緑の目に涙が滲んでいた。だが手は震えていない。
*
上位個体が側面に回り込んできた。奏太が結界の出力を偏らせると、反対側が薄くなる。そこを通常個体が突く。
ディーターが工具箱を盾にして上位個体の前に立ちはだかった。
「結界を直せ。ここは俺が持つ」
金属が歪む。足が地面にめり込む。だが退かない。
ガルベルトが防御壁の一部を切り離し、ディーターの前に飛ばした。金属片が壁を作り、上位個体を押し返す。
「借りだぞ、ディーター」
「いらん」
アンネリーゼは手を止めなかった。包帯が尽きればテントの布を裂いて代用品にした。
「大丈夫です。お父さ——整備統括が守ってくれます」
言い直した。だが口が勝手に動いたことに自分でも驚いていた。戦場でも、あの人は父親なのだ。
*
全員が限界だった。ガルベルトの腕は鉛。カティアの魔力は底が見えている。結界装置は七割。ディーターは膝をついていた。
だが——誰も退かなかった。
指揮個体が最後の突撃を仕掛けた。防御壁が悲鳴を上げる。金属が折れ、崩壊が始まる。
「分かっている!」
ガルベルトが吠えた。魔道刻印が限界まで輝く。崩れかけた金属を再び集め、圧縮し、真正面から受け止めた。
拮抗。指揮個体の質量とガルベルトの意志がぶつかり合う。
「う、おおおおっ!」
職人の叫びだった。自分の手で作ったものを、自分の力で守り抜く者の叫び。
カティアが最後の魔力を注ぎ込む。壁が硬化した。突進が止まった。
その瞬間、二機の機体が闇を裂いて降り立った。
「全員無事か!」
フィンだ。改良量産機の魔導刃が指揮個体を砕く。エーリヒが上位個体を仕留める。残りの通常個体は統制を失い、散り散りに退いた。
静寂が戻った。
戦闘開始から十二分。長い十二分だった。
*
ガルベルトが膝をついた。防御壁に使った金属は原型を留めていない。工具も部品も全部盾にした。
だが全員生きている。
「師匠、水」
カティアが水筒を差し出した。彼女も立っているのがやっとだ。それでも師匠より先に動く。
「すまん」
「弟子ですから」
アンネリーゼが医療テントから出てきた。白衣は血と泥にまみれている。
「負傷者全員の処置が終わりました。命に別状はありません」
軍医の声だった。
ガルベルトが立ち上がった。ふらつく体で。それでも立った。
父と娘が向き合う。琥珀色の目と、琥珀色の目。
ガルベルトは娘を抱きしめたかった。よく頑張ったと言いたかった。危ないところに来るなと怒鳴りたかった。全部同時に込み上げて、どれも口から出なかった。
アンネリーゼが先に動いた。父親の腕を取り、脈を確認する。
「魔力の過剰消費です。座ってください」
「わしは平気だ」
「座って」
軍医の目だった。ガルベルトは黙って座った。
アンネリーゼが水を差し出しながら、小さく言った。
「——立派だったよ、お父さん」
声が震えていた。軍医の声ではなく、娘の声だった。
ガルベルトは水を受け取り、空を見上げた。蝕域の紫色の空に星は見えない。
「お前もな」
それだけ言った。不器用な父親には、精一杯だった。
カティアがそっと目を逸らし、散乱した工具を拾い始めた。奏太は結界装置の修理に取りかかった。ディーターは壁にもたれたまま、少しだけ口元を緩めていた。
整備士は戦わない。だが、守ることはできる。
ガルベルトがレンチを一本引き抜き、指先で回した。工具を触ると落ち着く。防御壁の部品を回収して、結界を本修理して、テントを直して——やることは山積みだ。
だが整備士の仕事はいつだってそうだ。壊れたものを直す。終わりはない。
ガルベルトが立ち上がった。今度は膝が笑わなかった。
「全員、休憩は三十分。その後、片付けに入る」
整備統括の声が夜の拠点に響いた。低く、太く、揺るぎなく。
戦いは終わった。だが整備士の仕事は終わらない。




