第六十七章 リーゼの背中
蝕域が変わった。
空気が重い。紫がかった霧が地を這い、結晶化した岩柱が視界を遮る。大地は黒紫色に脈動し、まるで生き物の体内を歩いているようだった。
中核が近い。
それは、敵の密度が教えてくれた。
「接敵。前方、三群。合計十二体以上」
ロッテの声が通信に乗った。淡々としているが、報告内容は重い。
「うち上位個体が四。結晶装甲持ち」
「四体かよ……」
ヨハンが呻いた。昨日まで上位個体は一体出るかどうかだった。それが四。蝕域の中核に近づくとは、こういうことだ。
だが——リーゼは止まらなかった。
「全機、私に続け」
短い命令。それだけで十分だった。
アウローラが前に出る。黒銀の装甲が紫の霧を裂き、共鳴駆動の唸りが大気を震わせた。従来機の一・八倍の出力。その全てが、リーゼの意思に従って動く。
先頭を走るアウローラ。その背中を、フィンが追った。
「付いていきます!」
フィンの改良量産機が加速する。リーゼの動きをトレースするように、最短距離で追従。精密機動が持ち味のフィンだからこそ可能な追走だった。
ヨハンが左翼に展開。セルゲイが右翼。
布陣は一瞬で整った。
前線整備拠点。戦場から離れた場所で、奏太はモニターに張りついていた。
アウローラの機体データがリアルタイムで流れてくる。出力、関節負荷、装甲状態、魔力残量——すべての数値が奏太の目の前にある。
「ロッテさん、データ中継の状態は」
「安定してます。ただ、汚染濃度が上がってるので——随時調整します」
「頼む」
ロッテが通信機器のパネルを操作する。蝕域深部の魔力汚染は通信波を乱す。その中でクリアなデータを維持するのは、並大抵の技術ではない。
だがロッテはやる。青い目は冷静そのもの。淡い金髪がヘッドセットの下で揺れていた。
最初の敵群に、アウローラが突入した。
通常個体三体が前衛。リーゼは減速しなかった。
一体目。魔導刃の一閃。横薙ぎ。胴を断つ。
二体目。返す刃で。逆袈裟。崩れる。
三体目が飛びかかる。リーゼは機体を半身にずらし、すれ違いざまに首を落とした。
三秒。
三体を三秒で沈めた。
「速い……」
フィンが息を呑んだ。何度見ても慣れない。リーゼの戦闘は、芸術と暴力の境界線上にある。
だが——上位個体は別格だった。
結晶化した装甲を纏う巨体が、地鳴りとともに迫る。通常の魔導刃では傷一つつかない硬度。それがアウローラの前に立ち塞がった。
リーゼが踏み込む。魔導刃に共鳴出力を集中させ——斬った。
結晶装甲に亀裂が走る。貫通。通常機では不可能な一撃。
上位個体がよろめいた隙に、追撃。二の太刀で仕留める。
「上位個体一、撃破」
リーゼの報告は簡潔だった。息も上がっていない。
だが、奏太の目はデータを見ていた。
リーゼの声は平静でも、機体は嘘をつかない。
「リーゼさん、右膝関節の負荷が上限に近い。八十七パーセント」
通信に奏太の声が割り込んだ。
「さっきの踏み込みで跳ね上がった。次の回避は左に取ってください。右膝を軸にすると危険です」
「了解」
リーゼの返答は一言。だが、その一言には信頼が詰まっていた。
戦場にいない男の言葉を、リーゼは疑わない。
二体目の上位個体が右から来た。結晶化した腕を振り下ろす。重い。地面が砕ける衝撃。
リーゼは左に跳んだ。奏太の指示通りに。右膝に負荷をかけない回避。
着地。左脚で踏ん張り、カウンターの斬撃。上位個体の脇腹を抉る。
「左肩関節の温度上昇。連続斬撃は三回までにしてください」
奏太の声。休む暇なく次のデータを読み、次の指示を出す。
「ロッテさん、今の指示はリーゼさんに届いた?」
「クリアに届いてます。遅延〇・二秒」
「十分だ。この精度を維持してくれ」
「任せてください」
奏太が読む。ロッテが繋ぐ。リーゼが動く。
三人の連携が、歯車のように噛み合っていた。
ヨハンが左翼で通常個体を捌きながら、リーゼの戦闘を横目で見ていた。
「あの背中はよ——追いかけるだけで精一杯だ」
ぼやくように、だが誇らしげに言った。
リーゼの背中。
いつも先頭にいる。いつも一番危険な場所にいる。指揮官なのに——いや、指揮官だからこそ、先陣を切る。それがリーゼロッテ・ヴァイスフェルトという女の戦い方だった。
セルゲイが右翼から声を飛ばした。
「帝国のお嬢さんは化け物だな! いい意味でだぞ!」
「褒め言葉として受け取っておく」
リーゼが涼しげに返す。三体目の上位個体と切り結びながら。
奏太のモニターに警告が点滅した。
右膝——九十二パーセント。
まずい。限界が近い。
「リーゼさん、右膝が九十二。これ以上の格闘は膝が持たない」
「だが目の前に敵がいる」
「だから退くんじゃない。戦い方を変えるんです」
奏太は一瞬でデータを組み立てた。アウローラの構造は自分が一番よく知っている。
「左脚を主軸にしてください。右脚は接地を最小限に。移動は滑るように——共鳴駆動の推力で浮かせる感覚で」
「片足で戦えと?」
「片足じゃない。推力で補うんです。アウローラの共鳴駆動なら出力は余ってる。膝に頼る代わりに、背部推進で機動を確保してください」
通常なら無茶な注文だ。機体の推力バランスを戦闘中にリアルタイムで切り替えるなど、教本には載っていない。
だが——これはアウローラだ。奏太が設計に関わった機体。どこまで無理が利くか、誰よりも知っている。
そして——リーゼだ。このパイロットなら、できる。
「やってみよう」
リーゼがペダルを踏み替えた。右膝への荷重を抜き、背部推進ユニットに出力を振り分ける。
機体のバランスが変わった。重心が浮く。地に足をつけた格闘から、滑空するような機動へ。
三体目の上位個体が突進してくる。
リーゼは横に滑った。地面を蹴るのではなく——推力で移動する。右膝に負荷がかからない。
すれ違いざまに一閃。
結晶装甲を斜めに断ち割った。
上位個体が崩れる。三体目、撃破。
「右膝、七十八パーセントまで低下。いい感じです」
奏太の声に、安堵が混じった。
「お前の指示は——いつも的確だな」
リーゼの声にも、かすかな笑みが乗っていた。
フィンが感嘆の声を上げた。
「今の動き、見たことないです。推力で横移動しながら斬るなんて——」
「タカモリさんの指示があるからこそだろう。あの二人は別次元だな」
ヨハンが口髭をしごきながら言った。
四体目。
最後の上位個体は——これまでと違った。
巨大だった。他の上位個体の二倍はある。全身が黒紫の結晶に覆われ、その中核で何かが脈動している。
「指揮個体だ」
ロッテの声が緊張した。
「蝕域の中核付近に配置された最上位の個体。データベースにも記録が少ない——」
「つまり、ぶっつけ本番か」
リーゼが剣を構えた。
「タカモリ。見えているか」
「見えてます」
奏太はデータに集中した。指揮個体のスキャンデータが流れてくる。不完全だが、読めるものは読む。
「結晶装甲の厚さが段違いです。正面からの斬撃は通らない可能性が高い。ただ——関節部の結晶が薄い。脇、肘の内側、膝裏。そこを狙ってください」
「関節部か。了解」
「それと——その個体、中核部分が脈動してます。攻撃のタイミングと脈動が同期してる。脈動が速くなったら攻撃が来ます。こっちでタイミングを読むので、合図を出します」
「頼む」
指揮個体が動いた。
速い。巨体に似合わぬ俊敏さで、アウローラとの距離を詰める。
「来ます!」
奏太の声。脈動データが跳ね上がった瞬間に。
指揮個体の右腕が振り下ろされる。リーゼは左に滑り、回避。推力移動。右膝を使わない機動。
「次——左から!」
左腕の薙ぎ払い。リーゼが身を沈めて躱す。
「今! 右脇が開いてる!」
リーゼが突いた。共鳴出力を乗せた魔導刃の刺突。指揮個体の右脇——結晶が薄い関節部に、刃が食い込んだ。
指揮個体が咆哮した。衝撃波。アウローラが押し返される。
「損傷は?」
「装甲健全。ただし右腕のアクチュエータに振動。軽微です。続行できます」
「続行する」
リーゼの声は揺るがない。
ヨハンとセルゲイが周囲の通常個体を抑えていた。フィンがリーゼの退路を確保し、いつでもカバーに入れる位置を維持している。
全員がリーゼの背中を支えていた。
指揮個体が再び突進する。脈動が速まる。
「三連撃来ます。右、左、右の順!」
奏太がデータから攻撃パターンを読んだ。二度目は読める。この男の真骨頂だ。
右。リーゼが左に滑る。
左。身を反らす。
右——三撃目が来る瞬間、リーゼは前に出た。
回避ではなく、突進。敵の懐に飛び込む。
「肘の内側!」
奏太の声。
魔導刃が閃いた。指揮個体の左肘の関節部を、深く切り裂く。
左腕が落ちた。
指揮個体がよろめく。バランスを崩した巨体が、一瞬——中核を晒した。
リーゼは見逃さなかった。
アウローラが跳躍した。背部推進の全力噴射。右膝を使わず、純粋な推力だけで宙に舞う。
頂点から——急降下。
重力と推力と共鳴出力。その全てを乗せた一撃が、指揮個体の中核を貫いた。
黒紫の結晶が砕け散る。脈動が止まる。巨体が崩壊し、蝕域の大地に沈んでいった。
沈黙。
それから——歓声。
「やったぞ!」
ヨハンが拳を突き上げた。
「すげえ……」
セルゲイが素直に唸った。深い緑の目でアウローラを見上げる。
「あの整備士の声が聞こえるたびに、あのお嬢さんの動きが変わる。あれは——ただのサポートじゃねえな」
フィンが息を整えながら微笑んだ。
「タカモリさんの指示って、聞いてるだけで安心するんですよね。理屈があるから。勘とか度胸じゃなくて、全部データに裏打ちされてる」
アウローラのコックピットの中で、リーゼは静かに息を吐いた。
右膝の警告は消えている。奏太が提案した推力移動のおかげで、負荷は許容範囲に収まっていた。自分では気づけなかった。戦闘中は機体の悲鳴が聞こえない。だから——聞いてくれる人間が要る。
「ロッテ」
「はい」
「タカモリに伝えてくれ」
「何と?」
「——頼りにしている」
短い言葉。だが、リーゼがそれを口にする重みを、ロッテは知っていた。
「そのまま伝えますね」
ロッテが通信を繋いだ。
整備拠点で、奏太はその言葉を受け取った。
三文字。頼りにしている——それだけ。
だが、それで十分だった。
奏太は小さく頷き、モニターに目を戻した。右膝関節のデータを確認する。次の休止時間に修復が必要だ。部品は——限られている。だが何とかする。いつもそうしてきた。
指揮官としてのリーゼ。遠隔サポートの奏太。
立つ場所は違う。見ている画面も違う。
だが——二人の視線の先にあるものは同じだった。
この戦いを終わらせること。全員を連れて帰ること。
蝕域の中核が、もうすぐそこに見えていた。
黒紫の結晶が天を衝くように聳え立ち、異次元のエネルギーが空気を歪ませている。
リーゼは剣を構え直した。
「全機、小休止のあと前進する。次が本番だ」
その背中を、全員が見ていた。
先頭に立ち、道を切り開き、仲間を守る背中。
追いかける価値のある背中だった。




