第六十六章 夜明けの食事
進軍四日目。夜明け前。
蝕域の空はまだ暗い。紫がかった闇が、野営地を覆っている。
誰もが疲れていた。三日間の消耗戦。弾薬は減り、魔力は底を突きかけ、予備部品の在庫はほとんど尽きた。兵士たちの顔に生気はない。地面に座り込んだまま、虚ろな目をしている者もいた。
そんな中で、リーゼが立ち上がった。
銀灰色の髪を無造作に束ね、軍服の袖をまくる。紫の瞳に、静かな決意が灯っていた。
「食事を作る」
短い宣言だった。
近くにいた兵士が顔を上げた。この戦況で、食事?
「使えるものは限られている。だが温かいものを腹に入れろ。話はそれからだ」
リーゼは補給物資の箱を開けた。残っているのは乾燥肉、根菜の粉末、硬いパン、穀物の袋。前線の携帯食料としては標準的な中身だが、そのままでは味気ない。士気を上げるにはほど遠い。
だが、リーゼにはもう一つ、持っているものがあった。
背嚢の底から取り出した小さな布袋。中に入っているのは、乾燥させた香草だった。
*
出発の朝のことだ。
基地の食堂で、ペトラが奏太とリーゼを呼び止めた。丸い眼鏡の奥の茶色い目が、いつもより少し真剣だった。
「これ、持っていきな」
差し出されたのが、この布袋。
「何にでも合う香草のブレンドだよ。乾燥させてあるから日持ちする。お湯に入れるだけでいい。スープでも汁物でも、これを振りかければ味が変わる」
「ペトラさん、わざわざ——」
「わざわざじゃないよ。前線で碌なもの食べてないと、身体より先に心が折れる。私は行けないけど、味くらいは届けられるからね」
眼鏡を押し上げて、ペトラは笑った。食堂の女主人の、どっしりとした笑顔だった。
「帰ってきたら、もっと美味いもの食べさせてあげるから。だから——帰っておいで」
あの時のペトラの声が、まだ耳に残っている。
*
リーゼは大鍋に水を張った。
乾燥肉を砕き、根菜の粉末を加え、穀物をひと掴み放り込む。硬いパンも小さくちぎって入れた。とろみがつく。それだけでも汁物にはなるが、味は質素なままだ。
布袋の紐を解く。
乾燥香草を指先で摘み、鍋の上にぱらぱらと振りかけた。
火にかける。
じわり、と湯気が立ち始めた。
そして——匂いが広がった。
それは、基地の食堂の匂いだった。
ペトラの厨房から漏れてくる、あの温かくて安心する香り。何度も嗅いだ匂い。何度も食べた味の記憶と直結する匂い。
最初に反応したのは、鼻だった。
座り込んでいた兵士たちが、一人、また一人と顔を上げる。鼻をひくつかせ、匂いの出どころを探す。
「おい、この匂い……」
「飯だ。飯の匂いがする」
ヨハンがテントから出てきた。金髪の大男が、寝ぼけ眼をこすりながら鍋のそばに近寄る。一嗅ぎして、目が覚めた。
「ペトラのおばちゃんの香草だ。間違いない」
「よくわかるな」
「忘れるかよ、この匂い。胃袋が覚えてる」
リーゼは鍋をかき混ぜた。乾燥肉がほぐれ、穀物がふっくらと膨らみ、パンがとろりと溶けてスープに馴染んでいく。香草の風味がすべてを一つにまとめ上げていた。
「できたぞ。食え」
椀を並べた。素朴な汁物だ。見た目は質素そのもの。だがそこから立ちのぼる湯気には、基地の日常がそっくり詰まっていた。
*
ヨハンが最初の一口をすすった。
大きな体がぴたりと止まる。目を閉じた。咀嚼する。飲み込む。
沈黙。
「——この味だ」
低い声だった。
「これがあれば、戦える」
そう言って、二口目。三口目。椀を傾ける速度が上がっていく。ベテランパイロットの疲れきった顔に、ほんのわずかだが色が差した。
周りの兵士たちも次々と口をつけ始める。
汁物をすする音。小さなため息。椀を両手で包み込むようにして、温もりを味わう者もいた。
冷えきった身体に、温かいものが染みていく。
それだけのことだ。たった一杯のスープだ。
だがその一杯が、三日間の戦闘で削り取られた何かを、静かに修復していた。
セルゲイが椀を受け取った。
赤い短髪の大男は、帝国の兵士たちに混じって座っている。他国の指揮官。本来なら別の陣で食事をとっても不思議ではない。だがこの消耗戦で、そんな区別は意味を失っていた。
一口、すすった。
深い緑の目がわずかに見開かれる。
「帝国の飯は悪くない」
いつもの台詞。豪快な声。笑顔もいつも通り。
だが——続きがあった。
「故郷の連中も、こんな飯を食えてるといいがな」
声のトーンが、ほんの少しだけ落ちた。
ヨハンが横目でセルゲイを見た。大男の笑顔の裏にある重さを、戦場を共にしてきた者だけが感じ取れる。セルゲイの故郷は共和国の辺境。蝕域に近い土地だ。避難民が出ているという話は、奏太も聞いていた。
セルゲイの笑顔は、すぐに元に戻った。一瞬だ。ほんの一瞬だけ、大男の鎧に亀裂が走った。それだけだった。
ヨハンは何も言わず、黙ってセルゲイの椀にお代わりを注いだ。
セルゲイはちらりとヨハンを見て、小さく笑い、椀を受け取った。
*
奏太は少し遅れて食事の輪に加わった。
整備テントで最後の点検を終えてからだった。油まみれの手を布で拭い、椀を受け取る。リーゼが無言で差し出してくれた。
一口。
温かい。
香草の風味が口の中に広がる。あの味だ。ペトラの食堂で毎日のように食べていた、あの味。何でもない日常の味。朝起きて、食堂に行って、ペトラの料理を食べて、「美味いですね」と言って、「当たり前だよ」と返される。たったそれだけの日常。
それが今、蝕域の最前線で、こんなにも胸に染みる。
奏太はスープを啜りながら、周囲を見渡した。
ヨハンが二杯目をお代わりしている。セルゲイが隣でパンの切れ端をスープに浸している。若い兵士たちが肩を寄せ合って椀を抱えている。その全員の顔に、ほんの少しだけ、人間の色が戻っていた。
戦闘機械ではない。兵器でもない。温かいものを食べれば安心する、ただの人間だ。
「この味のために帰ってくるんですよね、みんな」
奏太の口から、自然と言葉がこぼれた。
リーゼが横を向いた。紫の瞳が奏太を捉える。
「ならば——お前も必ず帰ってこい」
声は静かだった。命令でも懇願でもない。ただ、そうあるべきだという確信を込めた声。
「俺は整備士ですから。戦場には出ないので、たぶん——」
「たぶんでは困る」
遮られた。リーゼの瞳が真っ直ぐだった。
「この戦いが終わったら、ペトラの食堂でまた食え。カレーとやらも作れ。お前がいなくなったら、あの味を再現できる人間がいなくなる」
それは理屈だった。合理的な理由。だが、リーゼの声の底に、理屈だけでは説明できない何かが滲んでいた。
「……必ず帰ります」
「よし」
リーゼは小さく頷いた。それ以上は何も言わず、自分の椀に口をつけた。
*
少し離れた場所で、カティアが動いていた。
椀を一つ、丁寧に持って、テントの奥へ向かう。ディーターの寝床だ。
前日に倒れたディーターは、まだ横になっていた。高熱は引いたが、体力が戻りきっていない。灰色の目が天幕を見つめている。動きたいのに動けない——そのもどかしさが、寡黙な男の表情に薄く浮かんでいた。
「ディーターさん、食事です」
カティアがテントに入った。椀から湯気が立っている。
「起きられますか? 起き上がれないなら、少しずつ口に運びますけど」
「いや、起きられる」
ディーターがゆっくりと上体を起こした。カティアがすかさず背中に手を添えて支える。
「無理しないでくださいね」
「……すまん」
「だからすみませんじゃなくて、ありがとうって言ってくださいって、昨日も言いましたよね」
カティアの声は明るかった。だがその明るさの奥に、仲間への心配が確かにあった。
ディーターは椀を受け取り、一口すすった。
目を閉じた。
「ペトラさんの……」
「そうです。リーゼさんが作ってくれたんですけど、ペトラさんの香草が入ってて。基地の味がするでしょう?」
「ああ」
ディーターの声がわずかに震えた。五十二年の人生で、幾つもの戦場を経験してきた男だ。食事で感情が揺れることなど、若い頃にはなかっただろう。だが今この瞬間、温かいスープの一口が、この寡黙な男の心に触れていた。
「もう一杯、持ってきましょうか」
「頼む」
「任せてください。あとお茶も淹れますね。ディーターさんに教えてもらった淹れ方、練習したんです」
カティアが嬉しそうにテントを出ていく。赤毛が朝の薄明かりに揺れた。
ガルベルトがテントの入り口近くで、腕を組んで立っていた。琥珀色の目が弟子の後ろ姿を見送り、それからテントの中のディーターに視線を移す。
「ディーター」
「なんだ」
「あの子に看病されて倒れた甲斐があったな」
「馬鹿を言うな」
ディーターの声に呆れが混じったが、口元はかすかに緩んでいた。ガルベルトが鼻を鳴らした。笑ったのだ。この寡黙な師弟は、いつもこうだ。短い言葉の応酬に、多くの感情を載せる。
*
食事が一段落した。
兵士たちの表情が変わっていた。目に光が戻っている。背筋が伸びている。声に力がある。
たった一杯のスープ。乾燥肉と根菜と穀物と、ペトラの香草。それだけのものが、消耗戦で疲弊した人間を、ここまで回復させた。
武器でも、魔法でも、戦術でもない。食事だ。温かい食事が、人を人に戻す。
ペトラの香草。あの布袋の中身は、ただの乾燥した葉っぱだ。だがそれは、基地の日常を前線に届ける架け橋だった。あの食堂がある。あの味がある。帰れば、またあの味が食べられる。
それだけのことが、兵士たちの足を前に進ませる。
「さて」
ヨハンが立ち上がった。膝を叩き、肩を回す。
「食ったら動けるだろう。次の戦闘までに、やれることをやる」
「整備の優先順位は出してあります」
奏太が応じた。声に張りが戻っている。自分でも驚くほどだった。さっきまで霞んでいた視界が、今はくっきりしている。温かいものが腹に入っただけで、こうも違うのか。
「助かる。パイロットは交代で仮眠を取れ。一時間でいい。寝られる奴は寝ろ」
ヨハンの指示が飛ぶ。ベテランの声だ。戦いの合間の過ごし方を知っている男の、的確な判断。
セルゲイも立ち上がった。豪快に伸びをして、首を鳴らす。その目の奥には、さっきの翳りはもうなかった。温かいものを食べた。それで十分だった。人間というのは、案外そういうものだ。
リーゼが鍋を片付けていた。奏太が駆け寄って手伝う。
「リーゼさん」
「なんだ」
「ありがとうございます。皆、顔が変わりました」
「礼を言う相手が違う。ペトラに言え」
「ペトラさんにも言います。でもリーゼさんにも言います」
リーゼは一瞬だけ目を伏せた。それから、ふっと息を吐いた。笑みとも溜息ともつかない、小さな呼気。
「お前はいつもそうだ。律儀に一人ずつ感謝を配って回る」
「配って回ってるわけじゃ——」
「褒めている」
その一言で、奏太は口を閉じた。リーゼの「褒めている」に反論しても無駄だと、もう学んでいた。
紫の瞳が東の空を見た。蝕域の暗い空の端が、かすかに白み始めている。夜明けだ。
「食ったなら、戦える。行くぞ」
リーゼの声が、野営地に響いた。
兵士たちが立ち上がる。武器を取り、機体に向かい、持ち場につく。
その足取りは、一時間前とは別物だった。
温かい食事の記憶が、身体の芯に残っている。ペトラの香草の残り香が、蝕域の冷たい空気の中にまだかすかに漂っている。
奏太は整備テントに戻りながら、ポケットの六角ボルトを握った。握って、離した。
帰る場所がある。帰れば、ペトラの飯が食える。
だからまず、今日を生き延びる。
そのために、工具を握る。震える手で。それでも。
夜が明けた。四日目の戦いが始まる。




