第六十五章 消耗戦
四日目の朝、奏太は自分の手を見た。
震えている。
細かく、止めようがない震え。火傷だらけの指先が、自分のものじゃないみたいだ。工具を握ればなんとか収まる。でも離した瞬間、また始まる。
四日間で眠った時間は合計六時間。食事は立ったまま掻き込んだパンが三回。
それでも、手は動かさなきゃならない。
*
蝕域深部。
灰色の空は脈動している。異次元のエネルギーが雲を内側から照らし、紫と赤の光が不規則に明滅する。星もない。太陽もない。時間の感覚がじわじわと溶けていく。
ここに入ってから四日。連合軍は門に向けて進軍を続けていた。だが進めば進むほど、敵の密度が上がる。
倒しても湧く。砕いても補充される。門から溢れ出す異形の群れは際限がない。
消耗戦だった。
弾薬残量、全軍平均で四十五パーセント。魔力残量はさらに低い。予備パーツは底が見え始めている。
ロッテの報告が通信越しに響くたび、数字は減る一方だった。
*
整備テントは野戦病院に似ていた。
ただし患者は鉄と魔力でできている。
損傷した機体が次から次へと運び込まれる。装甲に亀裂。関節部の歪み。魔力回路の断線。駆動系の異音。一つとして同じ症状がない。
「右腕の駆動軸、完全に逝ってます。交換しないと動きません」
カティアが報告した。赤毛を額のピンで押さえ、緑の目は計測器の数値を追っている。
「交換部品は」
「在庫、ゼロです。三時間前に最後の一本を使いました」
奏太はポケットの六角ボルトを握った。角が掌に食い込む。考えろ。
「廃棄予定の機体から抜けるか」
「確認します」
カティアが走った。テントの奥に、修復不能と判定された機体が三体並んでいる。部品取り用。まだ使える箇所があるなら、抜き取って流用する。正規の整備なら絶対にやらない手だ。中古部品の耐久性は保証できない。
だが新品はない。
「摩耗率二十三パーセント。使えます」
カティアが汚れた駆動軸を持って戻ってきた。
「洗浄して組み込もう。回転方向のガタは俺が手で詰める」
工具を手に取った。震える指を、握力で押さえ込む。ボルトを回す。ナットを締める。一つずつ、確実に。
テントの反対側で、ディーターが黙々と部品の仕分けをしていた。灰色の短髪。灰色の目。表情の乏しい顔。五十二歳の痩せた長身が、骨張った手で使える部品と使えない部品を選別している。
地味だが、これがなければ修復は回らない。ディーターが仕分け、カティアが計測し、奏太が組む。三人の連携は四日間で研ぎ澄まされていた。
ディーターの手が止まった。
一瞬だけ。すぐに動き直す。
奏太はそれを視界の端で捉えた。この男の手が止まるのは、初めて見た。
*
夕刻——たぶん夕刻。蝕域の空が少し暗くなった程度で、確信はない。
ヨハンの機体が帰投した。右脚の膝関節が抉れている。着地の衝撃で機体が傾き、ジャッキが軋んだ。
「おーい、鷹森。また世話になるぜ」
通信越しのヨハンの声は明るい。だが声の裏に疲労が滲んでいた。
「三十分ください。膝関節の応急修復だけやります」
機体の脚部に潜り込んだ。狭い。暗い。金属と焦げた魔力の匂い。関節球の表面が削れ、魔力経路が一本断線している。
「カティア、魔力経路の応急接合材」
「最後の一本です」
「使う」
迷う暇はない。二十八分で修復を終えた。完璧じゃない。次の戦闘で同じ箇所が壊れるかもしれない。でも、次の戦闘に出られなければ話にならない。
「右脚への負荷、七割に抑えてください」
「わかった。無茶はしない——たぶん」
「たぶんじゃなく確実に」
「へいへい」
ヨハンの機体が発進した。見送って、次の機体に向き直る。
*
夜になった。
目の奥が重い。肩が鉄板のように硬い。
七体目の修復に取りかかった。共和国の機体だった。帝国製とは設計思想が違う。部品の規格も異なる。ボルトの径が微妙に合わない。
「削って合わせます」
カティアが言った。帝国の部品を共和国の規格に合わせて削り出す。融合型整備で学んだ荒業だ。シャリシャリと金属を削る音がテントに響く。
「径の誤差〇・〇二ミリ以内。合いました」
二十歳の若さが、四日分の経験を上乗せして輝いていた。
作業が一区切りついたとき、奏太はテントの奥を見た。
ディーターがいた。部品棚の前に立ったまま、微動だにしない。
いや——立っていない。
膝が折れかけている。手が棚の縁を掴んで、体重を預けている。灰色の目が虚ろだ。
「ディーターさん」
返事がなかった。
「ディーターさん!」
「……大丈夫だ。少し……」
その瞬間、膝が完全に折れた。
ディーターの長身が崩れ落ちた。部品棚にぶつかり、ボルトやナットが床に散らばった。金属が跳ねる乾いた音がテント中に響く。
「ディーターさん!」
カティアが駆け寄った。奏太も走った。
床に倒れたディーターの顔は蝋のように白い。額に脂汗。呼吸が浅い。脈が速い。体が限界を訴えている。
奏太がディーターの肩を支えた。骨張った体が驚くほど軽かった。
「……すまない。休めば——」
「休んでください」
奏太の声は静かだった。だが有無を言わさない響きがあった。
「ディーターさんが倒れたら回らなくなる。部品の選別と在庫管理はディーターさんにしかできない。今無理して、明日動けなくなったら終わりです」
ディーターの灰色の目が奏太を見た。反論しようとして——やめた。整備の話をしている時の、一切妥協しないあの目だ。
「……わかった」
「四時間だけでいい。四時間寝てください」
カティアがディーターの腕を取り、立ち上がらせた。一歩踏み出すたびにふらつく。五十二年分の経験と矜持が「まだやれる」と叫んでいるのに、体が従わない。
簡易ベッドに横たえた。毛布をかけた。ディーターは目を閉じ、三秒で寝息が聞こえた。
限界だったのだ。
カティアが振り返った。
「鷹森さん。ディーターさんの分、私がやります」
赤毛の二十歳。緑の目に疲労の色が濃い。四日間、同じだけ働いてきた。それでも——目は死んでいない。
「師匠の魔道整備と鷹森さんの物理整備。それにディーターさんの部品管理。三つ全部、私が回します」
「無理するな」
「無理じゃないです。私は融合型整備士ですから。魔道も物理もわかる。部品の選別だって、ディーターさんの横でずっと見てきました」
奏太は六角ボルトを握った。
この子は——強い。
「頼む」
カティアが部品棚に向かった。動きはディーターほど無駄がないわけじゃない。でも確実に、部品を拾い上げ、分類し、判断している。
整備テントの歯車が、一つ欠けた状態で回り始めた。
*
深夜。テントの入口に人影が現れた。
銀縁の眼鏡。黒髪を束ねた女性。共和国軍の作業着。
イレーネだった。
「うちの整備班も限界が近い。部品が足りない」
イレーネの顔色も悪かった。二十年以上の経験がなければ、とっくに倒れていてもおかしくない。
「正直に言います。うちも払底寸前です」
「提案がある」イレーネが眼鏡を押し上げた。「帝国と共和国の部品在庫を統合管理しないか」
「規格が違いますよ」
「さっき君の整備士がやっていただろう。帝国の部品を共和国の規格に削り合わせる作業。あれを組織的にやるんだ」
カティアの荒業を、イレーネは見ていた。
「別々にやるより、まとめた方が効率がいい。わかるだろう、鷹森くん。数字の人間なら」
わかっていた。
「やりましょう」
その夜、帝国と共和国の整備テントが一つになった。カティアがイレーネの班員に帝国部品の特性を教え、イレーネの班員がカティアに共和国部品の構造を伝えた。部品を前にすれば、国の違いも言葉の壁も関係なかった。
ボルトを削る音。ナットを嵌める音。計測器の電子音。異なる二つの国の技術者たちが、同じテントで手を動かしている。
*
朝——たぶん朝——になった。
ディーターが起き上がった。四時間きっかり。体内時計が正確に彼を叩き起こしたらしい。
「状況は」
第一声がそれだった。
「部品在庫、帝国と共和国を統合しました。イレーネさんの班と合流してます」
ディーターの灰色の目がわずかに動いた。この男が驚きを見せるのは珍しい。
カティアの方を見た。赤毛の若い整備士は、部品棚の前で共和国の技術者と真剣に話し込んでいた。
「……いい仕事だ」
三語。この男にしては饒舌な賞賛だった。
ディーターが部品棚を確認し始めた。統合された在庫の状態を、灰色の目がさっと走査する。二十年分の経験が教える直感。
手が止まった。振り返って、奏太を見た。
「三日」
一言だった。
「今のペースなら、部品は三日で尽きる」
三日。
奏太はポケットのボルトを握った。三日以内に門を潰すか、補給を受けるか。どちらかができなければ、サポート体制は完全に崩壊する。
無敵に見えた整備班にも、限界がある。技術では覆せない壁がある。資材がなければ腕は振るえない。どんな名医でも、薬がなければ患者は救えない。
テントの外で爆発音が連続した。前線の戦闘が再開したのだ。また損傷機体が帰ってくる。また修復する。残りの在庫を削っていく。
「鷹森さん。次の機体、来ます」
カティアの声。
「わかった」
奏太は工具を手に取った。
震えは止まらない。四日分の疲労は体の芯に染み込んでいる。
それでも手は動く。動かすしかない。帰還を待っているパイロットがいる。この機体を信じて飛ぶ人たちがいる。
機体の腹に潜り込んだ。暗くて狭い。金属の匂い。焦げた魔力の匂い。
震える手でボルトを回した。一回転、二回転。きゅっと締まる感触。その確かさだけが、今の奏太を支えていた。




