第六十四章 フィンの翼
空が紫に燃えている。
蝕域の第二防衛圏。結晶化した岩の柱が乱立する地形の上を、改良量産機が一機、風のように駆け抜けていた。
フィン・レクターは笑っていた。
怖くないわけじゃない。心臓はうるさいし、手のひらには汗が滲んでいる。けれど操縦桿を握る指は、一切ぶれない。
白い前髪が額に張りつく。青緑色の目が、前方の敵影を捉えた。
通常種が五体。左翼から回り込もうとしている。
「——三秒後に来る」
呟いた瞬間、敵が動いた。
フィンの予測どおり、三秒。暗灰色の甲殻を持つ異形たちが一斉に突進してきた。五体が扇状に広がり、逃げ場を塞ぐように迫る。
普通なら後退する場面だ。
フィンは前に出た。
機体を半歩だけ左にずらす。先頭の一体が腕を振り下ろした。その軌道の内側に、フィンの機体がするりと入り込む。甲殻の腕が空を裂く風圧を、装甲の表面で感じた。近い。だが当たっていない。
紙一重。
それがフィン・レクターの間合いだった。
回避と同時に、魔導刃を横に薙ぐ。先頭の異形が胴から崩れた。その残骸を踏み台にして跳躍。二体目の頭上を飛び越えざま、真下に刃を突き立てる。
着地。振り返りもしない。三体目がもう背後に迫っているのは、わかっている。
調和型の感覚。それは戦場の全てを感じ取る力だ。
敵の殺気、空気の流れ、地面の振動、魔力の波紋。フィンの知覚はそれらを統合し、次の瞬間に何が起きるかを直感的に導き出す。
三体目の攻撃を最小限の動きで躱し、カウンターの一閃。四体目が横合いから飛びかかってくるのを半身でかわし、すれ違いざまに斬る。
四体、沈黙。
残り一体。
最後の異形が怯んだように後ずさった。知性のない獣のはずだが、目の前の機体に本能的な恐怖を感じたのかもしれない。
フィンは逃がさなかった。
踏み込みは浅く、旋回は腰で。奏太に教わった通りの体重移動で間合いを詰め、一突き。急所を正確に貫いた。
五体。所要時間、十一秒。
被弾、ゼロ。
「フィン、綺麗に片付けたな」
通信にエーリヒの声が入った。暗い金髪に丸い眼鏡の僚機パイロット。声は平坦だが、わずかに感心の色がある。エーリヒの感情表現を読み取れるのは、たぶんフィンだけだ。
「エーリヒ、そっちは?」
「三体処理した。問題ない。それより右翼側に動きがある。強化種が二体、こっちに向かってる」
「了解。合流しよう」
フィンの機体が地を蹴った。推進器が唸りを上げ、結晶岩の間を縫うように飛ぶ。
飛ぶ、という表現がしっくりくる。
改良量産機は空を飛べるわけじゃない。脚部で跳躍し、推進器で軌道を修正し、着地してまた跳ぶ。その繰り返し。だがフィンの操縦はあまりに滑らかで、まるで翼があるように見えた。
合流地点にエーリヒの機体が待っていた。堅実な構えで、強化種の接近ルートを塞いでいる。派手さはない。だが隙もない。
「来るよ」
「ああ」
強化種が二体、岩の向こうから姿を現した。通常種より一回り大きい。甲殻が青黒く光っている。動きも速い。
フィンの感覚が、瞬時に敵を分析した。
一体目は突進型。直線的な動きだが、加速が鋭い。二体目は回り込み型。一体目の突進に合わせて側面から挟撃してくるパターン。
「エーリヒ、一体目を止めて。二体目は僕がやる」
「了解」
言葉は最小限。それで十分だった。
エーリヒの機体が前に出る。一体目の強化種が突進してきた。エーリヒは真正面から受け止めるのではなく、斜めに構えて力を逸らす。盾の角度が絶妙で、強化種の突進力を横に流しながら自分の体勢を保つ。
崩れない。エーリヒの真骨頂だ。
その間にフィンは二体目に向かっていた。
回り込み型の強化種は、フィンを迂回して側面に回ろうとする。だがフィンはその動線を読んでいた。相手が回り込む先に、先回りする。
強化種の複眼が驚いたように揺れた。獲物が待ち構えていたことへの戸惑い。
その一瞬を、フィンは逃さない。
踏み込み。魔導刃が弧を描き、強化種の甲殻を深く抉った。だが一撃では倒れない。強化種が腕を振り回す。フィンは後ろに跳んで距離を取り、すぐに二撃目の間合いを測った。
呼吸を整える。焦らない。
かつてのフィンなら、ここで力任せに攻め込んでいた。訓練では通用するそのやり方が、実戦では通用しないことを痛いほど知った。
今は違う。待つ。敵の次の動きを読み、最適なタイミングを見極める。
強化種が再び突進してきた。フィンは半身をずらして回避し、すれ違いざまに首元の継ぎ目を斬った。急所。甲殻が薄い部分を正確に狙った一撃が、深々と突き刺さる。
強化種が膝をつき、崩れ落ちた。
振り返ると、エーリヒも一体目を仕留めていた。盾で押し返し、態勢を崩したところに的確な刺突を叩き込んでいる。
「二体とも撃破。被害なし」
エーリヒが淡々と報告した。
フィンは深く息を吐いた。心臓がまだ速く打っている。でも、手は震えていない。
後方の通信が開いた。
「坊主、いつの間にあんなに飛べるようになった」
ヨハンだった。
濃い金髪に口髭の大男。翡翠色の目を持つ十五年選手のベテラン。その声に、隠しきれない感嘆が滲んでいた。
ヨハンは後方で新人パイロットたちを率いて防衛線を維持していたはずだ。その合間にフィンの戦闘を見ていたらしい。
「ヨハンさん。まだまだですよ」
「謙遜するな。お前の動き、無駄がなくなった。昔は考えすぎて体が遅れてたが、今は体と頭が同時に動いてる。あれは簡単にできることじゃない」
フィンは少し照れくさくなった。ヨハンに褒められるのは、いつだって嬉しい。最初に実戦の厳しさを教えてくれたのはこの人だ。
「坊主じゃなくて、フィンって呼んでくださいよ。もう子供じゃないんですから」
「ガキが生意気言うな。俺から見りゃまだまだ坊主だよ」
ヨハンが笑った。通信越しでも、その豪快な笑い声は周囲を明るくする力がある。
「だがまあ——飛び方だけは一丁前だ。認めてやる」
それはヨハンなりの最大級の賛辞だった。
戦闘が続いた。
次の波は通常種と強化種の混成部隊。数が多い。連合軍の各小隊が散開して迎撃にあたる。
フィンとエーリヒのペアは、中央突破を図る敵集団の矢面に立った。
「フィン、中央に指揮個体がいる。あれを潰せば統制が崩れる」
「見えてる。でもまずは周りを削る。エーリヒ、僕が切り込むから後ろを頼む」
「いつも通りだな。任せろ」
フィンの機体が加速した。
通常種の群れに突っ込む。右からの爪撃を屈んで避け、左からの体当たりを横跳びでかわす。魔導刃は休まない。一撃ごとに確実に急所を捉える。
背後ではエーリヒが、フィンを追い越そうとする敵を片端から始末していた。堅実な射撃でフィンの死角を完璧にカバーする。
まるで一つの生き物だった。フィンが攻め、エーリヒが守る。どちらかが危なくなれば、もう一方が即座にフォローに入る。訓練で何百回と繰り返した連携が、実戦で完璧に機能している。
「フィン、道が開いた。指揮個体、正面」
「行く!」
通常種を蹴散らした先に、一回り大きな個体が立っていた。赤みがかった甲殻。三対の複眼。周囲の通常種に指示を出しているのが、動きでわかる。
フィンは迷わず跳んだ。
指揮個体がフィンに気づき、結晶化した腕を振り上げる。速い。通常種とは桁違いの反応速度。
だがフィンの目には、その軌道が見えていた。
右腕の振り下ろし。次に左腕の薙ぎ払い。さらに尾部での追撃。三連撃のコンビネーション。
一撃目を前転で潜り抜けた。二撃目を跳躍で飛び越えた。三撃目の尾部攻撃は——来ると知っていたから、空中で機体を捻って紙一重で躱した。
そして着地と同時に、渾身の一閃。
指揮個体の首元。甲殻の継ぎ目。最も脆い部分を、フィンの魔導刃が正確に切り裂いた。
指揮個体が絶叫のような音を発して倒れた。途端に、周囲の通常種の動きがばらばらになる。統制を失った群れは、各小隊の餌食だった。
「指揮個体撃破。敵の統制が崩壊してる」
エーリヒの報告が戦場に響いた。各小隊が一斉に攻勢に転じ、残敵を掃討していく。
フィンは肩で息をしていた。さすがに消耗が大きい。だが結果は上々だ。
通信に、聞き慣れない声が割り込んできた。
「あの二人、いいペアだな」
セルゲイだった。
共和国の指揮官。赤い短髪に深い緑の目。豪快な男だと聞いていたが、その声には純粋な称賛があった。
セルゲイはヨハンに話しかけていたらしい。
「帝国の若い連中は層が厚いな。あの白い髪の坊主と、眼鏡の相棒。どっちも大したもんだ」
「フィンは調和型でな。器用貧乏だと思われがちだが、あいつの場合は器用の度が過ぎて武器になった」
「ハッ。いいじゃねぇか。強い奴に型は関係ないさ」
セルゲイの笑い声が通信を揺らした。
フィンはその会話を聞きながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。認められている。他国の指揮官にまで、自分の戦いが届いている。
コックピットの中で、首元のペンダントに触れた。故郷の家族がくれたお守り。出撃前に必ず触る、自分だけの儀式。
——ここまで来たよ。
心の中で呟いた。
戦闘が終わり、機体を帰還させる。
整備拠点に降り立つと、奏太が既に待ち構えていた。工具箱を片手に、もう片方の手にはデータ端末。火傷痕の残る指先が画面を滑っている。
「お疲れ。データ見てたよ」
「どうでしたか、タカモリさん」
「精密回避率九十六パーセント。命中率九十一パーセント。文句なしだ」
奏太が端末の数字を読み上げた。その声はいつもの淡々とした調子だったが、口元がわずかに綻んでいる。
フィンはコックピットから飛び降りて、奏太の前に立った。自信に満ちた表情で、真っすぐに目を見る。
「タカモリさんのおかげです」
「俺は機体を整えただけだ。飛んだのはフィンだろ」
「違います。タカモリさんが僕の適性を見つけてくれた。調和型は弱点じゃなくて武器だって、最初に言ってくれた。あの言葉がなかったら、僕は今もまだ迷ってました」
奏太は少し黙った。ポケットの中で六角ボルトを回す癖が出ている。照れている時の仕草だと、フィンは知っていた。
「……そうか。なら、その翼を大事にしろ。お前さんの飛び方は、お前さんにしかできない」
「はい」
エーリヒが横から歩いてきた。眼鏡を外して拭きながら、ぼそりと言う。
「またタカモリさんに真っ先に報告してる。律儀だな」
「当然でしょ。この機体を最高の状態にしてくれてる人だよ」
「俺への感謝は?」
「エーリヒがいなかったら僕は三回は死んでた。感謝してるに決まってるでしょ」
「言葉にしろよ、たまには」
「ありがとう、エーリヒ。最高の相棒」
「……急に素直に言われると気持ち悪いな」
エーリヒが眼鏡をかけ直して顔を背けた。耳が赤い。フィンは笑った。
ヨハンが大股で歩いてきた。フィンとエーリヒの前に立ち、腕を組む。翡翠色の目が二人を見下ろした。
「坊主ども。今日の戦闘、及第点だ」
「及第点って。もうちょっと褒めてくださいよ、ヨハンさん」
「調子に乗るからダメだ。だがまあ——」
ヨハンが金髪をかき上げた。口髭の下の口元が、わずかに緩んでいる。
「悪くなかった。二人とも、な」
それだけ言って、自分の機体の方へ歩いていった。背中が少し嬉しそうに見えたのは、きっとフィンの気のせいじゃない。
フィンは空を見上げた。
蝕域の紫色の空。どこまでも不穏で、どこまでも広い。この先にはもっと強い敵がいる。もっと厳しい戦いが待っている。
でも、怖くない。
隣にはエーリヒがいる。後ろにはヨハンがいる。整備拠点には奏太がいて、自分の機体を最高の状態で送り出してくれる。
かつての「訓練番長」はもういない。
今ここにいるのは——翼を得た戦士だ。
フィン・レクターは、まだ飛べる。もっと高く、もっと遠くへ。
青緑色の目が、戦場の空を射抜いた。その瞳に迷いはなかった。




