第六十一章 進軍
夜明けと共に、大地が震えた。
一機、二機——ではない。数百機の魔道兵器が一斉に起動する振動だ。腹の底に響く低い唸りが平原を伝播し、空気が震え、枯れ草が揺れた。
連合軍の進軍が始まった。
帝国、連邦共和国、王国、連邦——四ヶ国の魔道兵器部隊が、蝕域へ向かって動き出す。
壮観、という一言では足りない光景だった。
地平線の端から端まで、鉄と魔力の奔流が大地を埋め尽くしている。帝国の制式機は白銀の装甲に蒼い魔力灯を灯し、隊列の中核を成す。共和国の重装型は深緑の装甲を纏い、一歩ごとに地面を軋ませながら進む。王国の軽量機は両翼に展開し、連邦の砲撃型が後方から援護の構えを取る。
その間を補給車列が縫い、歩兵部隊が続き、上空には偵察用の小型飛行機械が旋回する。
各国の旗が風にはためいていた。紋章が朝日に光る。何千人もの人間が、一つの目的のために動いている。
最終決戦——その号令が、これだけの力を集めた。
奏太は前線整備車両の荷台に乗っていた。
走行中の揺れなど気にしている暇はない。手元のデータ端末に、リアルタイムで各機体の情報が流れ込んでくる。
「共鳴駆動、出力安定。関節部の温度、許容範囲内。推進系のレスポンス——よし、問題ない」
独り言のように呟きながら、数値を端末に記録していく。
アウローラは先頭集団に配置されている。リーゼが搭乗し、巡航モードで移動中。その機体データが奏太の端末に常時転送されていた。共鳴出力、魔力消費率、フレーム各部の振動パターン——全てが正常値。
「鷹森さん、また揺れますよ。さっきも端末落としかけたじゃないですか」
カティアが隣から声をかけた。鮮やかな赤毛のショートヘアが車両の振動に合わせて跳ねている。
「落としてない。落としかけただけだ」
「それ、フォローになってませんよ」
「大丈夫。このデータ、すごくいい。移動時の振動が各関節に与える負荷のパターンが取れてる」
「……出発してからずっとそれ言ってますよね」
カティアは呆れた顔をしたが、その手元にはちゃっかり融合型整備マニュアルが開かれていた。前線でも勉強を怠らない。師匠と奏太の技術を融合させた、カティアの力作だ。
ガルベルトが荷台の反対側で腕を組んでいた。目を閉じている。寝ているように見える。
だが、整備車両のエンジン音が微かに変わった瞬間、琥珀色の目が開いた。
「左の第二シリンダー。微振動が出ている」
「え——マジですか」
「直しておけ。前線で車両が止まったら話にならん」
奏太とカティアが顔を見合わせた。さすがとしか言いようがない。音だけで異常を聞き分ける二十年の経験値。
ディーターが工具箱を黙って差し出した。奏太が受け取り、荷台の床板を外して車両の機関部にアクセスする。揺れる車内での作業だが、指先は迷わない。
「——直った」
「当然だ」
ガルベルトが再び目を閉じた。ディーターが静かに茶を淹れ始める。
前線整備班は、行軍中でも仕事を止めない。
通信機から、ロッテの声が流れてきた。
「全軍通信網、正常稼働中。帝国第一師団から第六師団、応答確認完了。共和国遠征部隊、中継回線安定。王国第三方面軍、接続良好。連邦砲兵師団——」
淡々と、しかし一つも漏らさず。ロッテは各部隊の応答を確認し続けていた。
今回の作戦における通信の重要度は、通常の比ではない。四ヶ国の軍が混成で行動する。通信規格が違う。言語体系が違う。符丁が違う。それら全てを中継し、変換し、統括しなければならない。
ロッテは出発前に通信設備を全軍規模に拡張していた。帝国と共和国の通信規格を橋渡しする変換器を自作し、四ヶ国全ての部隊が一つの通信網で繋がるシステムを構築した。彼女の細い声が、数千人の兵士を繋いでいる。
「ロッテさん、アウローラとの専用回線は」
奏太が通信機に向かって尋ねる。
「問題ありません。データ転送も安定です。鷹森さんの端末に届いてますよね」
「完璧だ。ありがとう」
「それから——先遣偵察隊より報告です。前方二十キロ地点から、地形の変質が確認されています」
その一言で、車内の空気が変わった。
蝕域が近い。
変化は唐突に訪れた。
午後に入った頃だった。それまで青々とした草原が続いていた視界が、急速に色を失い始めた。
最初に変わったのは草の色。緑が褪せていく。灰色がかった紫に変色し、枯れているのとも違う——生きているのに、色を奪われたような不気味さ。
次に土。踏みしめると乾いているのに、どこか湿った感触が靴底に残る。正常な土の感触ではない。
奏太が幌をめくって外を見た。
「……なんだ、これ」
大地がうねっている。
波打つように隆起した地形。岩が結晶化して鋭い刃のように突き出し、紫がかった霧が低く垂れ込めている。空気にも違和感がある。呼吸するたびに、肺の奥がぴりぴりと痺れるような感覚。
まるで地面の下から、別の世界が染み出してきている。
「魔力汚染度、上昇中」
カティアが携帯計器を読み上げた。緑の目が不安げに揺れている。
「まだ許容範囲内ですけど——上がり方が早いです」
「防護結界の出力を上げろ」
ガルベルトが端的に指示した。
「車両だけじゃない、周辺の歩兵にも範囲を広げられるか」
「やります」
カティアが両手の魔道刻印を光らせ、防護結界の出力を引き上げた。淡い光の膜が車両を包み、周囲の歩兵部隊にまで広がる。
奏太は技術者の目で蝕域を観察していた。変質パターンには規則性がある。門からの距離に比例して同心円状に広がっている。この勾配を追えば、門の位置を推定できる。
「向こう側の物理法則が、こっちに漏れ出してる。地形が変わるのも当然だ——根本のルールが書き換わってるんだから」
兵士たちの間に、緊張が走っていた。
行軍中に飛び交っていた冗談や雑談が消えた。無線が静まり返る。
初めて蝕域を目にする者が大半だ。異様な景色に顔を強張らせ、武器を握る手に力が入っている。若い兵士の中には、足が止まりかけている者もいた。
重い空気。息が詰まるような沈黙。
それを叩き割ったのは、ヨハンの声だった。
「おい、何をびびってやがる!」
通信回線に、ベテランの大音声が響き渡る。
「景色は悪いが、仕事は変わらん!」
濃い金髪に口髭の大男が、先頭集団の機体から全軍に向けて通信を飛ばしていた。声はでかい。しかし落ち着いている。十五年の戦場を生き延びた男の声だ。
「飛んで、撃って、帰ってくる。いつもと同じだ! 足元が紫だろうが空が歪んでようが、やることは変わらねぇ!」
部下たちの肩から、少しだけ力が抜けた。何人かが笑った。笑えるだけで、空気はずいぶん違う。
「ヨハンさん、音量が大きすぎます」
ロッテの冷静な声が割り込んだ。
「いいだろ、大事な話だ!」
「耳が痛いです」
「それは——すまん」
通信に笑い声が広がった。小さな笑い。でも大事な笑い。
セルゲイが通信に乗ってきた。
「帝国の隊長はいいこと言うな! 共和国も同じだ——殴って、蹴って、叩いて、帰る!」
深緑の重装型の中から、豪快な声。
「品がないな」
ヨハンが笑った。
「品で勝てるなら苦労しねぇよ!」
二人の声が重なると、不安に凍りかけていた通信回線が息を吹き返す。
「ヨハンさんとセルゲイさんの声は、大砲より効きますね」
奏太が小さく言うと、ガルベルトが顎髭を撫でた。
「ああいう男がおると、部隊は崩れん。技術だけじゃ戦はできんからな」
ディーターが無言で頷いた。
そして——リーゼの声が入った。
静かだった。ヨハンの大音声ともセルゲイの豪快さとも違う。
張り詰めた糸のような、揺るぎない声。
「ここを取り戻す」
四文字。
それだけだった。
演説でもなければ、鼓舞でもない。ただ事実を述べるように、リーゼロッテ・ヴァイスフェルトは言った。
通信が一瞬、静まった。
そして——全軍の空気が変わった。
緊張が消えたわけではない。恐怖がなくなったわけでもない。ただ、背筋が伸びた。迷いが一つ、減った。
リーゼの言葉にはいつもそうだ。大声で叫ばない。ただ短く、絶対的な確信を込めて言う。それが聞く者の芯に響く。
「堕天使が言うなら間違いないな」
ヨハンが笑った。
「その通りだ。取り戻すぞ」
セルゲイが応じた。
通信回線が活気を取り戻す。兵士たちの声が戻ってくる。不安を飲み込んで、前を向く声。
奏太はデータ端末に目を戻した。
アウローラの機体データは全て正常。リーゼの生体データも取得できている。心拍は安定。魔力の流れに淀みはない。緊張しているはずだ。だが、完璧に制御されている。
コックピットに忍ばせたメモのことを思い出した。
「必ず帰ってきてください」——不格好な字で書いた、短い一言。リーゼはもう読んだだろうか。読んでいなくても構わない。あの言葉は、奏太自身への誓いでもある。
幌の外に目を向けた。灰色の大地が広がっている。
かつては畑があったかもしれない。村があったかもしれない。誰かの暮らしがあったはずの場所が、異次元に食い潰されている。
——ここを取り戻す。
リーゼが言った言葉を、奏太は心の中で繰り返した。
自分は戦えない。だが、戦う者を支えることはできる。全ての機体を戦闘可能状態に保ち続ける——それが、鷹森奏太の戦い方だ。
端末に新しいデータが流れてきた。蝕域の環境データ——全てを記録する。この情報が、戦闘中の判断材料になる。
「ガルベルトさん」
「何だ」
「蝕域の中だと、魔力回路への干渉が大きくなる可能性があります。フィルタリングの閾値を上げておいた方がいい」
「わしもそう思っておった。カティア、やっておけ」
「はい、師匠」
整備車両の中で、前線整備班は粛々と準備を進めた。技術者にとって、不安の特効薬は手を動かすことだ。
ディーターが予備部品の在庫を確認し、カティアがマニュアルを参照しながら想定される損傷パターンを整理し、ガルベルトは目を閉じて全機体の状態を魔力感知で把握する。奏太はデータを記録し続ける。
四人の職人が、それぞれの仕事をしている。言葉は少ない。でも、やるべきことは全員分かっている。
日が傾き始めた頃、蝕域の景色はさらに異様さを増していた。
空の青さが薄れ、紫がかった膜が天蓋のように広がっている。太陽の光が屈折して、影の方向が狂っている。大地の結晶化した岩が、時折、脈打つように薄く発光する。
まるで、大地そのものが別の生き物に変わりつつあるようだった。
「不気味ですね……」
カティアが呟いた。
「不気味だな。でも、構造は見え始めてる。門を中心とした同心円状の変質だ——構造が分かれば対処できる」
「タカモリさんの『構造が見えた』、ここでも出るんですね」
「出るさ。技術者はどこでも技術者だ」
カティアが小さく笑った。それだけで、整備車両の空気が少し軽くなった。
進軍は続く。
四ヶ国の旗を掲げた巨大な隊列が、灰色に変質した大地を踏みしめて進む。白銀の機体、深緑の機体、蒼い紋章、赤い標識灯——色とりどりの軍勢が一つの意志で動いている。
ロッテの声が全軍に流れた。
「先遣隊より報告。蝕域外縁部に到達。敵の偵察個体を散発的に視認。数は少数。本隊への脅威なし」
最終決戦の戦場が、もう目の前に迫っている。
リーゼの声が、短く通信に入った。
「全部隊、進軍続行。目標は変わらない」
変わらない。
ここを、取り戻す。
奏太は端末を握り直した。全機体のデータは正常。異常値なし。全機、戦闘可能状態。
この数字を、最後まで維持し続ける。それが自分の仕事だ。
灰色の大地の向こうに、異様な光が明滅していた。蝕域の中心——門がある方角だ。空間そのものが歪み、光が不規則に瞬いている。
あそこが、最終決戦の舞台になる。
連合軍の行軍は止まらない。
数百機の魔道兵器が大地を揺らし、数千の兵士が歩を進める。四ヶ国の旗が風にはためく。
最終決戦が——始まろうとしていた。




