第六十章 出撃前の夜
基地の夜は、いつもより長かった。
明日の出撃命令はすでに全部隊に通達されている。格納庫の照明は落とされ、整備は終わり、機体は沈黙している。あとは朝を待つだけ。それなのに、誰もまだ眠っていなかった。
*
フィンは兵舎の自室で、机に向かっていた。
白い前髪が灯りに透ける。ペンを握る指が震えていた。便箋はすでに三枚目だ。一枚目は書き出しで詰まって丸めた。二枚目は途中で涙が落ちて滲んだ。三枚目。今度こそ最後まで書く。
——お母さんへ。元気にしていますか。僕は元気です。
嘘だ。元気なんかじゃない。でもそんなことは書けない。だから嘘を書く。
——こっちにはいい仲間がいます。面倒見のいい先輩パイロットとか、すごい技術者のおじさんとか。この前カレーという料理を食べました。すごく美味しかったです。
ペンが止まった。明日死ぬかもしれないのに、カレーの話をしている。でも他に何を書けばいい。
フィンはペンを握り直した。青緑色の目が便箋を見据える。
——必ず帰ります。約束します。
それだけ書いて、封をした。嘘になるかもしれない約束。でもフィンは、約束を嘘にするつもりはなかった。
「よう」
扉を叩かずに入ってきたのは、エーリヒだった。片手に瓶を二本持っている。
「ノックくらいしてくださいよ」
「悪い悪い。飲むか?」
エーリヒが瓶の一本を差し出した。エールだった。
「僕、あんまり強くないんですけど」
「半分でいい。付き合え」
エーリヒが椅子を引いて座り、瓶の栓を歯で開けた。荒っぽいやり方。この人らしい。
フィンも一口飲む。苦い。でも今夜は、その苦さが心地よかった。
「手紙か」
エーリヒが封筒を見て言った。
「……はい。母に」
「いいことだ」
エーリヒはそれ以上聞かなかった。代わりにエールを一口飲んで、天井を見上げた。
「なあ、フィン」
「はい」
「無事に帰ったら、一緒に飲もう。もっといい酒で」
軽い調子だった。まるで明日の昼飯の約束でもするみたいに。でもフィンにはわかった。エーリヒの目が笑っていない。この人も怖いのだ。怖くて、それでも飛ぶのだ。
「約束ですよ」
「ああ。約束だ」
瓶と瓶がぶつかった。小さな硝子の音。それが二人の誓いだった。
*
ガルベルトの工房には、いつもと同じ灯りがついていた。
百九十センチの巨体が作業台の前にある。琥珀色の目は手元に落ちている。大きな手が、工具を一本ずつ丁寧に磨いていた。
スパナ。レンチ。六角棒。ドライバー。一本ずつ。油を含ませた布で拭い、点検し、定位置に戻す。明日使う工具ではない。明日は戦場に出る。前線整備班として、最前線で機体を直す。持っていく工具はもう別の袋に詰めてある。
これは儀式だった。
戦の前に工具を磨く。道具を敬い、手入れをし、次に使う者のために備える。ガルベルトの師匠がそうしていた。師匠の師匠もそうしていた。技術者の作法だ。
隣の作業台で、同じことをしている男がいた。
ディーターだった。
灰色の目。寡黙な口元。ガルベルトより二回りは小さい体で、同じように工具を磨いている。油布の動きが几帳面で、力加減が一定で、無駄がない。
二人の間に会話はなかった。
必要なかった。ガルベルトが工具を磨く。ディーターが工具を磨く。布が金属を擦る音だけが、工房を満たしている。
やがてガルベルトが最後のドライバーを定位置に戻した。全ての工具が、鏡のように光っている。
「ディーター」
「はい」
「棚の三段目。右端の引き出し」
ディーターが引き出しを開けた。中には一本の万年筆が入っていた。ガルベルトの師匠から受け継いだものだ。
「もし俺が戻らなかったら、それを使え。いい万年筆だ。設計図を描くのに向いている」
ディーターの手が一瞬止まった。灰色の目がガルベルトを見た。何か言いかけて、飲み込んで、引き出しを静かに閉めた。
「……戻ってきてください」
「そのつもりだ」
ガルベルトが鼻を鳴らした。琥珀色の目が少しだけ柔らかくなった。ほんの一瞬だけ。
*
カティアの部屋は紙の山だった。
赤毛を無造作に束ね、緑の目が手元の書類に注がれている。万年筆のインクで指先が青く染まっていた。何時間書き続けているのか、本人にもわからない。
整備マニュアル。最終版。
アウローラの全整備手順。共鳴同調機構の調整方法。魔力回路と物理機構の同期手順。異常振動時の対処法。緊急時の応急処置。部品リストと交換周期。
全部で百二十七ページ。
カティアは最後のページに署名を入れた。日付を書き込んだ。インクが乾くのを待って、表紙を閉じた。
もし自分たちがいなくなっても、この技術が残るように。
それがカティアの戦い方だった。剣も銃も持てない。機体にも乗れない。でも、知識は残せる。手順書があれば、誰かが引き継げる。この一冊があれば、アウローラは死なない。
ペンを置いて、天井を見上げた。
目の奥が熱い。泣きたいわけではない。ただ疲れているだけだ。そう自分に言い聞かせた。
「——よし」
カティアは立ち上がった。マニュアルを抱えて、格納庫へ向かう。ガルベルトの作業台の引き出しに入れておく。あの人なら見つけてくれる。あの人がいなくても、ディーターが見つける。ディーターもいなくても、誰かが見つける。
技術は、人を超えて残る。
カティアはそう信じていた。
*
中庭のベンチに、二人の男が座っていた。
ヨハンとセルゲイ。
国が違う。軍が違う。言葉だって微妙に訛りが違う。だが今夜、二人の間にあるのは一本の瓶だけだった。
「これ何だ?」
ヨハンが瓶を持ち上げた。翡翠色の目がラベルを読もうとして、読めなかった。セルゲイの国の文字だ。
「うちの故郷の蒸留酒。強いぞ」
セルゲイが豪快に笑って瓶の栓を抜いた。匂いだけで酔いそうな芳香が立ち上る。
「エールの比じゃないな」
「当たり前だ。男の酒だ」
「女にだって飲む奴はいるだろ」
「俺の国の女は全員これを飲む」
「嘘つけ」
二人は笑った。夜空に声が散る。ヨハンが一口飲んで顔をしかめ、でも二口目に手が伸びた。
「……強い。でもうまいな」
瓶が行き来する。月が高い。星がよく見えた。
「なあ、セルゲイ」
「ん?」
「明日はいい天気になるといいな」
ヨハンが空を見上げて呟いた。
セルゲイは少し黙った。瓶を膝の上に置いて、同じように空を見た。星が瞬いている。雲は少ない。
「なるだろうよ。こういう夜の翌日は晴れる。俺の国じゃそう言う」
「根拠は?」
「根拠なんかない。ただの言い伝えだ」
「いい言い伝えだな」
「だろう」
もう一度、瓶が回った。二人の間に言葉は少ない。でもそれで十分だった。明日、隣で飛ぶ。それだけで。
*
格納庫。
アウローラは静かに立っていた。
銀白色の装甲が作業灯を反射して、鈍く光る。共鳴同調機構が内蔵された胸部が、まるで呼吸しているかのようにわずかに振動している。スリープモード。最低限の魔力が循環している状態だ。
奏太はその足元にいた。
作業着の袖をまくり、最終調整を施している。ポケットの六角ボルトはいつも通り。振動パターンの微調整。コンマ一ヘルツ単位の精度で、共鳴周波数を合わせていく。
もう十分だとわかっている。今やっているのは自己満足に近い。でも、やめられなかった。
この機体に全てを詰め込んだ。
ガルベルトの魔道技術。カティアの整備ノウハウ。ディーターの精密な組み付け。フィンの試験飛行データ。そして奏太自身の設計思想——物理と魔力の共鳴。
全部がここにある。
リーゼが乗るこの機体に。
最後のパネルを閉じた。全機能正常。出力は設計値の百二パーセント。十分だ。
奏太はコックピットのハッチを開けた。操縦席の革張りシート。計器盤。リーゼが座る場所。リーゼの手が触れるスロットル。
ポケットからメモ用紙を一枚取り出した。小さな紙片。奏太の字は少し癖があって、この世界の文字に完全には馴染んでいない。でも読めるはずだ。
——必ず帰ってきてください。
それだけ。
操縦桿の根元、計器盤の影になる場所にそっと挟んだ。飛行中には見えない。帰ってきた時に——気づくかもしれない位置。
奏太はハッチを閉じた。指先が金属に触れたまま、少しだけ動かなかった。
「——頼みます」
小さく呟いた。アウローラは答えない。ただ胸部の振動がわずかに変わった気がした。
*
「タカモリ」
背後から声がした。
聞き間違えるはずのない声。銀灰色の長髪が夜風に揺れている。
「リーゼさん」
奏太は振り返った。慌ててポケットに手を突っ込む。六角ボルトが指に当たった。落ち着け。メモはもう隠した。見られていない。たぶん。
「まだ起きていたのか」
「最終調整を。リーゼさんこそ、明日に備えて休んだ方が」
「お前に言われたくはないな」
リーゼが小さく笑った。穏やかだが、目の奥にはいつもと違うものがあった。決意。覚悟。そしてもう一つ、奏太には名前をつけられない何か。
リーゼがアウローラを見上げた。紫の瞳が銀白色の装甲を辿る。明日、自分の命を預ける機体。
「いい仕上がりだな」
「最高の状態です。共鳴機構の同調率も過去最高値です」
「数字の話はいい」
リーゼが奏太を見た。真っ直ぐに。
「お前が仕上げた。それだけで十分だ」
奏太の喉が詰まった。この人はいつもそうだ。短い言葉で、一番大事なところを突いてくる。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらだ」
沈黙が降りた。格納庫の天井が高い。遠くで虫の声がする。あの夜——月下の石段で隣に座った夜と同じ虫の声。
リーゼが口を開いた。
「タカモリ」
「はい」
「戦いが終わったら、言いたいことがある」
奏太の心臓が跳ねた。
リーゼの声は静かだった。いつもの鋭さはない。ただ、真摯だった。紫の瞳が奏太を映している。それ以外の何も映していなかった。
今は言わない。戦いが終わったら。つまりそれは——帰ってくるという宣言だ。リーゼなりの。不器用で、真っ直ぐで、この人らしい。
奏太はポケットの中で六角ボルトを握った。指先が少し震えている。でも声は震えなかった。
「じゃあ、終わらせましょう」
短い言葉。だがそこに全部を込めた。戦いを終わらせる。帰ってくる。そしてリーゼの言葉を聞く。
リーゼが目を細めた。あの柔らかい笑み。月下で見せたのと同じ笑み。
「ああ。終わらせよう」
手も触れない。言葉も、それ以上は交わさない。でも格納庫の空気が変わった。張り詰めていた糸が、ふっと緩んだ。
約束が結ばれた。
声にしなくても、わかる約束が。
*
基地のあちこちで、同じ夜が流れていた。
フィンは手紙を枕元に置いて、毛布を引き上げた。隣の部屋からエーリヒの寝息が聞こえる。あの人はもう眠れたのだろうか。それとも、眠ったふりをしているのだろうか。
ガルベルトは工房の灯りを落とした。磨き上げた工具が暗闇の中で鈍く光っている。
カティアは兵舎に戻る廊下で、窓の外の月を見た。百二十七ページのマニュアルは、もうガルベルトの引き出しに入っている。自分にできることは全てやった。
ヨハンとセルゲイは空になった瓶をベンチに置いて、それぞれの宿舎に戻った。別れ際にセルゲイが肩を叩き、ヨハンが拳を返した。言葉はなかった。
奏太は格納庫を出た。背後でアウローラが静かに佇んでいる。明日、この機体がリーゼを戦場に運ぶ。そして願わくば、連れ帰る。
空を見上げた。
星が多い。雲は少ない。セルゲイの言い伝えが正しければ、明日は晴れる。
いい天気になるだろう。
たぶん。
兵舎の廊下はしんと静まっていた。どの部屋にも灯りが漏れている。誰も眠っていない。
恐れながら。
祈りながら。
それでも——前を向いて。
決戦の朝は、もうすぐそこまで来ていた。




