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戦えない整備士、異世界転移して魔道兵器を修理してたらいつの間にか世界を変えていた——異世界整備録——  作者: 試作ノ山
第四部 開発篇

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第六十章 出撃前の夜

 基地の夜は、いつもより長かった。

 明日の出撃命令はすでに全部隊に通達されている。格納庫の照明は落とされ、整備は終わり、機体は沈黙している。あとは朝を待つだけ。それなのに、誰もまだ眠っていなかった。


        *


 フィンは兵舎の自室で、机に向かっていた。

 白い前髪が灯りに透ける。ペンを握る指が震えていた。便箋はすでに三枚目だ。一枚目は書き出しで詰まって丸めた。二枚目は途中で涙が落ちて滲んだ。三枚目。今度こそ最後まで書く。

 ——お母さんへ。元気にしていますか。僕は元気です。

 嘘だ。元気なんかじゃない。でもそんなことは書けない。だから嘘を書く。

 ——こっちにはいい仲間がいます。面倒見のいい先輩パイロットとか、すごい技術者のおじさんとか。この前カレーという料理を食べました。すごく美味しかったです。

 ペンが止まった。明日死ぬかもしれないのに、カレーの話をしている。でも他に何を書けばいい。

 フィンはペンを握り直した。青緑色の目が便箋を見据える。

 ——必ず帰ります。約束します。

 それだけ書いて、封をした。嘘になるかもしれない約束。でもフィンは、約束を嘘にするつもりはなかった。

「よう」

 扉を叩かずに入ってきたのは、エーリヒだった。片手に瓶を二本持っている。

「ノックくらいしてくださいよ」

「悪い悪い。飲むか?」

 エーリヒが瓶の一本を差し出した。エールだった。

「僕、あんまり強くないんですけど」

「半分でいい。付き合え」

 エーリヒが椅子を引いて座り、瓶の栓を歯で開けた。荒っぽいやり方。この人らしい。

 フィンも一口飲む。苦い。でも今夜は、その苦さが心地よかった。

「手紙か」

 エーリヒが封筒を見て言った。

「……はい。母に」

「いいことだ」

 エーリヒはそれ以上聞かなかった。代わりにエールを一口飲んで、天井を見上げた。

「なあ、フィン」

「はい」

「無事に帰ったら、一緒に飲もう。もっといい酒で」

 軽い調子だった。まるで明日の昼飯の約束でもするみたいに。でもフィンにはわかった。エーリヒの目が笑っていない。この人も怖いのだ。怖くて、それでも飛ぶのだ。

「約束ですよ」

「ああ。約束だ」

 瓶と瓶がぶつかった。小さな硝子の音。それが二人の誓いだった。


        *


 ガルベルトの工房には、いつもと同じ灯りがついていた。

 百九十センチの巨体が作業台の前にある。琥珀色の目は手元に落ちている。大きな手が、工具を一本ずつ丁寧に磨いていた。

 スパナ。レンチ。六角棒。ドライバー。一本ずつ。油を含ませた布で拭い、点検し、定位置に戻す。明日使う工具ではない。明日は戦場に出る。前線整備班として、最前線で機体を直す。持っていく工具はもう別の袋に詰めてある。

 これは儀式だった。

 戦の前に工具を磨く。道具を敬い、手入れをし、次に使う者のために備える。ガルベルトの師匠がそうしていた。師匠の師匠もそうしていた。技術者の作法だ。

 隣の作業台で、同じことをしている男がいた。

 ディーターだった。

 灰色の目。寡黙な口元。ガルベルトより二回りは小さい体で、同じように工具を磨いている。油布の動きが几帳面で、力加減が一定で、無駄がない。

 二人の間に会話はなかった。

 必要なかった。ガルベルトが工具を磨く。ディーターが工具を磨く。布が金属を擦る音だけが、工房を満たしている。

 やがてガルベルトが最後のドライバーを定位置に戻した。全ての工具が、鏡のように光っている。

「ディーター」

「はい」

「棚の三段目。右端の引き出し」

 ディーターが引き出しを開けた。中には一本の万年筆が入っていた。ガルベルトの師匠から受け継いだものだ。

「もし俺が戻らなかったら、それを使え。いい万年筆だ。設計図を描くのに向いている」

 ディーターの手が一瞬止まった。灰色の目がガルベルトを見た。何か言いかけて、飲み込んで、引き出しを静かに閉めた。

「……戻ってきてください」

「そのつもりだ」

 ガルベルトが鼻を鳴らした。琥珀色の目が少しだけ柔らかくなった。ほんの一瞬だけ。


        *


 カティアの部屋は紙の山だった。

 赤毛を無造作に束ね、緑の目が手元の書類に注がれている。万年筆のインクで指先が青く染まっていた。何時間書き続けているのか、本人にもわからない。

 整備マニュアル。最終版。

 アウローラの全整備手順。共鳴同調機構の調整方法。魔力回路と物理機構の同期手順。異常振動時の対処法。緊急時の応急処置。部品リストと交換周期。

 全部で百二十七ページ。

 カティアは最後のページに署名を入れた。日付を書き込んだ。インクが乾くのを待って、表紙を閉じた。

 もし自分たちがいなくなっても、この技術が残るように。

 それがカティアの戦い方だった。剣も銃も持てない。機体にも乗れない。でも、知識は残せる。手順書があれば、誰かが引き継げる。この一冊があれば、アウローラは死なない。

 ペンを置いて、天井を見上げた。

 目の奥が熱い。泣きたいわけではない。ただ疲れているだけだ。そう自分に言い聞かせた。

「——よし」

 カティアは立ち上がった。マニュアルを抱えて、格納庫へ向かう。ガルベルトの作業台の引き出しに入れておく。あの人なら見つけてくれる。あの人がいなくても、ディーターが見つける。ディーターもいなくても、誰かが見つける。

 技術は、人を超えて残る。

 カティアはそう信じていた。


        *


 中庭のベンチに、二人の男が座っていた。

 ヨハンとセルゲイ。

 国が違う。軍が違う。言葉だって微妙に訛りが違う。だが今夜、二人の間にあるのは一本の瓶だけだった。

「これ何だ?」

 ヨハンが瓶を持ち上げた。翡翠色の目がラベルを読もうとして、読めなかった。セルゲイの国の文字だ。

「うちの故郷の蒸留酒。強いぞ」

 セルゲイが豪快に笑って瓶の栓を抜いた。匂いだけで酔いそうな芳香が立ち上る。

「エールの比じゃないな」

「当たり前だ。男の酒だ」

「女にだって飲む奴はいるだろ」

「俺の国の女は全員これを飲む」

「嘘つけ」

 二人は笑った。夜空に声が散る。ヨハンが一口飲んで顔をしかめ、でも二口目に手が伸びた。

「……強い。でもうまいな」

 瓶が行き来する。月が高い。星がよく見えた。

「なあ、セルゲイ」

「ん?」

「明日はいい天気になるといいな」

 ヨハンが空を見上げて呟いた。

 セルゲイは少し黙った。瓶を膝の上に置いて、同じように空を見た。星が瞬いている。雲は少ない。

「なるだろうよ。こういう夜の翌日は晴れる。俺の国じゃそう言う」

「根拠は?」

「根拠なんかない。ただの言い伝えだ」

「いい言い伝えだな」

「だろう」

 もう一度、瓶が回った。二人の間に言葉は少ない。でもそれで十分だった。明日、隣で飛ぶ。それだけで。


        *


 格納庫。

 アウローラは静かに立っていた。

 銀白色の装甲が作業灯を反射して、鈍く光る。共鳴同調機構が内蔵された胸部が、まるで呼吸しているかのようにわずかに振動している。スリープモード。最低限の魔力が循環している状態だ。

 奏太はその足元にいた。

 作業着の袖をまくり、最終調整を施している。ポケットの六角ボルトはいつも通り。振動パターンの微調整。コンマ一ヘルツ単位の精度で、共鳴周波数を合わせていく。

 もう十分だとわかっている。今やっているのは自己満足に近い。でも、やめられなかった。

 この機体に全てを詰め込んだ。

 ガルベルトの魔道技術。カティアの整備ノウハウ。ディーターの精密な組み付け。フィンの試験飛行データ。そして奏太自身の設計思想——物理と魔力の共鳴。

 全部がここにある。

 リーゼが乗るこの機体に。

 最後のパネルを閉じた。全機能正常。出力は設計値の百二パーセント。十分だ。

 奏太はコックピットのハッチを開けた。操縦席の革張りシート。計器盤。リーゼが座る場所。リーゼの手が触れるスロットル。

 ポケットからメモ用紙を一枚取り出した。小さな紙片。奏太の字は少し癖があって、この世界の文字に完全には馴染んでいない。でも読めるはずだ。

 ——必ず帰ってきてください。

 それだけ。

 操縦桿の根元、計器盤の影になる場所にそっと挟んだ。飛行中には見えない。帰ってきた時に——気づくかもしれない位置。

 奏太はハッチを閉じた。指先が金属に触れたまま、少しだけ動かなかった。

「——頼みます」

 小さく呟いた。アウローラは答えない。ただ胸部の振動がわずかに変わった気がした。


        *


「タカモリ」

 背後から声がした。

 聞き間違えるはずのない声。銀灰色の長髪が夜風に揺れている。

「リーゼさん」

 奏太は振り返った。慌ててポケットに手を突っ込む。六角ボルトが指に当たった。落ち着け。メモはもう隠した。見られていない。たぶん。

「まだ起きていたのか」

「最終調整を。リーゼさんこそ、明日に備えて休んだ方が」

「お前に言われたくはないな」

 リーゼが小さく笑った。穏やかだが、目の奥にはいつもと違うものがあった。決意。覚悟。そしてもう一つ、奏太には名前をつけられない何か。

 リーゼがアウローラを見上げた。紫の瞳が銀白色の装甲を辿る。明日、自分の命を預ける機体。

「いい仕上がりだな」

「最高の状態です。共鳴機構の同調率も過去最高値です」

「数字の話はいい」

 リーゼが奏太を見た。真っ直ぐに。

「お前が仕上げた。それだけで十分だ」

 奏太の喉が詰まった。この人はいつもそうだ。短い言葉で、一番大事なところを突いてくる。

「……ありがとうございます」

「礼を言うのはこちらだ」

 沈黙が降りた。格納庫の天井が高い。遠くで虫の声がする。あの夜——月下の石段で隣に座った夜と同じ虫の声。

 リーゼが口を開いた。

「タカモリ」

「はい」

「戦いが終わったら、言いたいことがある」

 奏太の心臓が跳ねた。

 リーゼの声は静かだった。いつもの鋭さはない。ただ、真摯だった。紫の瞳が奏太を映している。それ以外の何も映していなかった。

 今は言わない。戦いが終わったら。つまりそれは——帰ってくるという宣言だ。リーゼなりの。不器用で、真っ直ぐで、この人らしい。

 奏太はポケットの中で六角ボルトを握った。指先が少し震えている。でも声は震えなかった。

「じゃあ、終わらせましょう」

 短い言葉。だがそこに全部を込めた。戦いを終わらせる。帰ってくる。そしてリーゼの言葉を聞く。

 リーゼが目を細めた。あの柔らかい笑み。月下で見せたのと同じ笑み。

「ああ。終わらせよう」

 手も触れない。言葉も、それ以上は交わさない。でも格納庫の空気が変わった。張り詰めていた糸が、ふっと緩んだ。

 約束が結ばれた。

 声にしなくても、わかる約束が。


        *


 基地のあちこちで、同じ夜が流れていた。

 フィンは手紙を枕元に置いて、毛布を引き上げた。隣の部屋からエーリヒの寝息が聞こえる。あの人はもう眠れたのだろうか。それとも、眠ったふりをしているのだろうか。

 ガルベルトは工房の灯りを落とした。磨き上げた工具が暗闇の中で鈍く光っている。

 カティアは兵舎に戻る廊下で、窓の外の月を見た。百二十七ページのマニュアルは、もうガルベルトの引き出しに入っている。自分にできることは全てやった。

 ヨハンとセルゲイは空になった瓶をベンチに置いて、それぞれの宿舎に戻った。別れ際にセルゲイが肩を叩き、ヨハンが拳を返した。言葉はなかった。

 奏太は格納庫を出た。背後でアウローラが静かに佇んでいる。明日、この機体がリーゼを戦場に運ぶ。そして願わくば、連れ帰る。

 空を見上げた。

 星が多い。雲は少ない。セルゲイの言い伝えが正しければ、明日は晴れる。

 いい天気になるだろう。

 たぶん。


 兵舎の廊下はしんと静まっていた。どの部屋にも灯りが漏れている。誰も眠っていない。

 恐れながら。

 祈りながら。

 それでも——前を向いて。

 決戦の朝は、もうすぐそこまで来ていた。

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