第六章 この世界の敵
翌朝、奏太が目を覚ますと窓の外は既に明るかった。
体が重い。昨日の荒野行軍と戦闘の疲労が、一晩寝ただけでは抜けきらない。だが頭は不思議と冴えている。見知らぬ天井を見上げて数秒——ああ、そうだ。異世界だ。夢じゃなかった。
顔を洗う場所を探して部屋を出ると、すぐにペトラが通りかかった。
「おはよう。よく眠れた? 洗面所はこっちよ。食堂で朝食も出してるから、顔洗ったらいらっしゃい」
ペトラに案内されるまま洗面所で顔を洗い、食堂に足を運んだ。硬いパンとスープ、それに干し肉のような薄切りが一枚。質素だが温かい食事だ。食堂には数人の兵士がいて、奏太の作業着姿を見て小声でやり取りしていたが、絡んでくる者はいなかった。
食事を終えて部屋に戻ると、ドアの前にリーゼが立っていた。軍服を隙なく着こなし、銀灰色の髪を一つに束ねている。昨日の荒野とは別人のように凛とした佇まいだった。
「来い。状況を説明する」
連れていかれたのは基地の会議室だった。小さなテーブルの上に、この世界の地図のようなものが広げられている。奏太には文字が読めないが、地形の描写はわかる。大陸らしき形の上に、いくつかの印が付けられていた。
「ここがヴァルハイム基地だ」
リーゼが地図の一点を指差した。大陸のやや東寄り。
「そして——ここが『門』だ」
別の場所を指す。大陸の中央に大きな赤い印。
「異次元の門。数十年前に突然開いた。そこから異形の敵が湧き出すようになった。お前が昨日見た、あの化け物どもだ」
奏太は頷いた。暗灰色の甲殻、光を吸い込む表面、不定形な体躯。思い出すだけで背筋が冷たくなる。
「門の周辺は侵食されて、大地そのものが変質している。蝕域と呼ばれる領域だ。門に近づくほど侵食が酷い」
「それで、各国が兵器を使って対抗してるわけですか」
「魔道兵器——魔道装甲騎兵が正式名称だ。魔力を動力源とした人型兵器。帝国を始め、連邦共和国やその他の国が連合を組んで防衛戦線を維持している。もう三十年以上にもなる」
三十年。奏太は息を呑んだ。それだけ長い戦争が続いているのか。
「勝ってないんですか」
「門を閉じる方法がわからない。門がある限り敵は無限に湧く。殺しても殺しても終わらない。消耗戦だ」
リーゼの声は淡々としていた。長すぎる戦争に感情を消費するのは、とっくにやめたのだろう。
「最近は門の数が増え始めている。従来は一つだったものが複数開き、戦線の維持が難しくなってきた」
「それで、あの格納庫の——」
「ああ。機体の損耗が補充を上回っている。整備が追いつかない。パイロットも足りない。前線基地はどこも同じだ」
リーゼが地図を見下ろす横顔には、何の感情も浮かんでいなかった。三十年以上続く戦争の一端を、日常の一部として語っている。
「敵にも種類がある。お前が昨日見たのは通常個体だ。力任せに突っ込んでくるだけで戦術は単純だが、数が多い。だが最近は——新種が確認されている。知性を持ち、こちらの攻撃パターンを学習する」
「学習する敵……」
「通常個体より一回り大きく、甲殻の合間に青白く光る複眼を持つ。動きが滑らかで、通常個体の無秩序な突進とは明確に違う。厄介な相手だ」
奏太は黙って聞いていた。スケールが大きすぎて実感が追いつかない。だが格納庫で見た光景——損傷した機体の群れと、人手の足りない整備棟——は、この長い消耗戦の縮図なのだと今はわかる。
「俺にこれを話すのは?」
「お前がここにいる以上、最低限のことは知っておけ。邪魔をされると困る」
素っ気ないが、合理的だ。
「あと一つ。お前がこの世界に来た経緯——転移と呼ぶが——その手がかりはない。帝国の記録にも、他国の報告にも、異世界からの転移者の前例は確認されていない。帰る方法があるかどうかもわからない」
わかっていたことだが、改めて言われると胸の奥がざわついた。
「……そうですか」
「期待させるような嘘は言わない。これは事実だ」
リーゼの声は冷たかったが、不親切ではなかった。真実を伝えているだけだ。
午後になって、ヴェーバー少将から正式な聴取を受けた。今度は昨日より詳しく——奏太の元の世界について、根掘り葉掘り聞かれる。
「工業用の自動機械? つまり、人が乗らずに動く機械があると?」
「はい。プログラムで制御します。電気信号で——えっと、魔力じゃなくて、別のエネルギーで動きます」
ヴェーバーは白髪交じりの眉を持ち上げた。隣で聞いていた副官が怪訝な顔をしているが、少将自身は真剣に聞いている。
「魔力を使わずに機械を動かす技術体系があると。面白い話だ」
「信じてもらえますか?」
「信じるも何も、お前にこの世界の常識がないことは明らかだ。言葉は通じるが、文字は読めない。通貨も知らない。魔力もない。偽装にしてはあまりに不出来だよ」
それは褒められているのか貶されているのか。
「異世界人の受け入れ前例はない。正直、上に報告するかどうかも迷っている。だが——」
ヴェーバーは地図に目を落とした。
「人手が足りん。整備士が足りん。パイロットが足りん。何もかも足りない中で、魔道兵器の物理構造を見抜ける人材を遊ばせておく余裕はない。中尉の報告が事実なら、の話だが」
「事実です。少なくとも、物理的な機構の修理と調整はできます。あの——管を流れるエネルギーは触れませんが」
「魔力回路のことだな。魔力を扱えないのは致命的だが、物理構造のメンテナンスだけでも価値はある。現に、うちの整備班は魔力回路の調律で手一杯だ。物理側に手が回っていない」
奏太はその言葉に、格納庫で見た光景を重ねた。あの歪んだ関節、緩んだボルト、ずれた装甲——魔力回路が完璧でも、物理的な骨格がぼろぼろでは機体は本来の性能を発揮できない。
「やらせてください」
気づいたら口にしていた。
ヴェーバーが奏太を見た。
「帰る方法がわからないなら、今ここでできることをやるしかない。整備の人手が足りないなら、俺にできることはあるはずです」
少将は数秒間じっと奏太を見つめた。品定めするような視線。やがて、かすかに口角が上がった。
「よかろう。明日から整備棟に出向け。ただし、整備班長の指示に従え。独断は許さん」
「はい」
「それから——ここにいる以上、読み書きは覚えろ。文字が読めなければ整備マニュアルも工程表もわからん。ペトラに頼んで初等教本を手配させる」
至れり尽くせりではないが、必要なものは出す。ヴェーバーという人物の性格がよくわかるやり取りだった。
奏太は深く頭を下げた。
帰る方法はわからない。この世界がどこなのかもわからない。だが、目の前にやるべき仕事がある。壊れた機械がある。直す手を待っている機体がある。
それだけで十分だ。鷹森奏太は、いつだってそうだった。目の前のできることをやる。それしかできないし、それが一番確かなことだ。
部屋に戻り、窓から格納庫を見下ろす。夕日が傾いて、格納庫の影が長く伸びている。あの中に、十数機の損傷した機体がある。明日から、あの中に入る。
ポケットから歯車を取り出した。異世界の機械から拾った最初の一片。紋様が刻まれた歯面を指で撫でる。この世界と自分を繋ぐ、最初の接点だ。
奏太はそれをテーブルの上に置き、ベッドに横になった。
元の世界ではこの時間、残業の真っ最中だったはずだ。試作三号機の脚部関節を触っていたはずだ。あの関節の偏心は、もう自分が直すことはないのかもしれない。
だがここにも、待っている機械がある。
やることは決まった。




