第五十九章 決戦会議
大会議室には、見たこともない数の軍服が詰まっていた。
帝国軍の濃紺。連邦共和国の鉄灰色。王国の深緑。南方同盟の砂茶。それぞれの国旗が長机の上に小さく立てられ、色の違いだけで室内が地図になっている。
奏太は会議室の隅に立っていた。技術者の作業着は、この場では明らかに浮いている。ポケットの六角ボルトに触れた。冷たい金属が、少しだけ落ち着きをくれる。
ゲルナー少佐が隣に並んでいた。手帳と万年筆を携え、黒い目を室内に巡らせている。
「鷹森、緊張しているか」
「してます」
「当然だ。私もしている」
ゲルナーがそう言って、万年筆のキャップを無意識に回した。技術者は皆、指先に癖がある。
正面の壇上にヴェーバー少将が立った。白髪交じりの短髪。鋼のように冷たい目。だがその目の奥に、奏太は微かな揺れを見た気がした。いつもの指揮官の顔とは、ほんの少しだけ違う。
「着席を」
ヴェーバーの声は静かだった。それでいて、会議室の隅々まで届く。将官が座り、佐官が座り、衣擦れの音が止むのを待って、ヴェーバーは口を開いた。
「単刀直入に言う。蝕域の解放作戦を発動する」
空気が変わった。
蝕域。その名前だけで、室内の温度が二度は下がったように感じた。帝国の東部から共和国の北部にかけて広がる、敵の最大侵略領域。かつて三カ国分の領土だった場所は、今では異形の巣窟と化している。
中央に門がある。敵が際限なく湧き出す、巨大な次元の裂け目。これを閉じない限り、蝕域は広がり続ける。そんなことは、ここにいる全員がわかっていた。
わかっていて、誰も手を出せなかった。
「従来の戦力では蝕域中央への到達すら困難だった。だが状況が変わった」
ヴェーバーが壇上の幕を引いた。巨大な地図が現れた。蝕域が黒く塗られ、中央に赤い印がある。門の位置だ。
「ロッテ」
「はい」
通信士官のロッテが立ち上がった。手元の書類を広げ、明瞭な声で読み上げ始めた。
「新型機体——アウローラの技術を基にした改良量産機の配備が、現時点で三個中隊分完了しています。共鳴構造の搭載により、従来機比で出力一・四倍、応答速度は四割以上向上。さらに帝国・共和国間の技術共有により、共和国側でも一個中隊分の改良機が稼働可能です」
数字が並ぶ。冷たい数字だ。だがその数字の裏に、奏太たちが費やした夜の数が詰まっている。ガルベルトの回路設計。カティアの検算。ディーターの部品管理。そしてカティアが切り拓いた「融合型整備」の技法。全部がここに繋がっている。
「問題は時間だ」
ヴェーバーが地図を指した。
「新型機の技術的優位は、一時的なものに過ぎない。敵が適応するまでの猶予は、我々の推定で三カ月。場合によってはそれ以下だ」
三カ月。奏太は息を呑んだ。あれだけ苦労して手に入れた技術が、たった三カ月の賞味期限。
「つまり、今しかない」
ヴェーバーの声が硬くなった。
「今を逃せば、次の機会は来ない」
*
作戦の概要が説明された。
三段階構成。第一段階は外縁の掃討。四カ国の通常戦力で蝕域の外周部を制圧し、安全圏を確保する。第二段階は突入路の確保。改良量産機部隊が蝕域内部へ楔を打ち込み、中央への通路をこじ開ける。
そして第三段階。
「リーゼロッテ・ヴァイスフェルト中尉のアウローラを先頭に、改良量産機部隊が蝕域中央へ突入。門を破壊する」
地図上を指揮棒が滑った。黒い領域の中心を、赤い矢印が貫いている。
リーゼは将官たちの列から少し離れた場所に座っていた。銀灰色の髪を一つに束ね、軍服の襟をきっちり留めている。紫の瞳が地図を見据えていた。表情に動きはない。
だが奏太にはわかった。リーゼの右手が、テーブルの下で拳を握っているのが。
共和国側の席でイレーネが手を挙げた。先日視察に来た、知的な目をした女性士官だ。
「アウローラ単機で門の破壊が可能なのですか。門の規模を考えると、相当な火力が必要になるのでは」
「アウローラの共鳴出力を最大まで引き上げれば、理論上は可能だ」
ガルベルトが答えた。腕を組み、琥珀色の目を細めている。
「ただし、出力最大時のパイロットへの負荷は未知数だ。通常運用の範囲を大きく超える」
それはつまり、リーゼの体がどうなるかわからない、ということだ。奏太のポケットの中でボルトが回った。かちり。
「承知している」
リーゼが立ち上がった。短い言葉。静かな声。それだけで、会議室が黙った。
「門を壊す。それが私の仕事だ」
座った。それ以上は何も言わない。リーゼはいつもそうだ。必要なことだけを言う。余計な言葉は戦場では邪魔だと知っている。
会議室が一瞬、沈黙した。
*
沈黙を破ったのは、大きな声だった。
「いい作戦だ。気に入った」
東方連邦の席から、巨体が立ち上がった。
セルゲイだった。鉄灰色の軍服がはちきれそうな体格。短く刈り込んだ赤褐色の髪。顔の半分を覆う豪快な髭。笑うと目が線になる、そんな男だ。
「うちの部隊も参戦させてもらう」
連邦側の将官たちがざわめいた。セルゲイは気にしない。
「第二段階の突入路確保、連邦の重装中隊で引き受ける。蝕域の化け物相手に、うちの馬鹿どもがうずうずしてるんでな」
ヴェーバーが僅かに頷いた。
「ありがたい。連邦の重装部隊は、突入路左翼の防衛に配置したい」
「防衛じゃなく押し上げだ。守ってるだけじゃ道は開かん。蹴り飛ばして進む。それが連邦流だ」
セルゲイが拳でテーブルを叩いた。水差しが跳ねた。隣の連邦士官が水差しを押さえて、慣れた顔で溜息をついている。日常的な光景なのだろう。
ヨハンが共和国の席から小声で呟いた。
「あの熊、相変わらずだな」
豪快という言葉がそのまま人間になったような男だった。だがその豪快さの裏に、東方連邦随一の指揮官としての実力がある。セルゲイが参戦する。それだけで、作戦の成功率が確実に上がる。
各国の配置が次々と決まっていく。帝国が主力。共和国が側面支援。東方連邦が左翼。南方同盟が後方補給と負傷者搬送。四カ国がそれぞれの持ち場を受け持つ、大規模合同作戦。
奏太は立ったまま、黙って聞いていた。地図に引かれる矢印の一本一本が、誰かの命を乗せている。それがわかるから、喉が乾いた。
*
作戦配置の議論が一段落した頃、ゲルナーが立ち上がった。
「技術班の配置について、提案があります」
万年筆で手帳を指しながら、ゲルナーが続けた。
「開発主任の鷹森は、後方指揮所での待機が妥当かと。現場のデータは通信で共有できますし、前線に技術者を出す必要は——」
「それはできません」
奏太が口を開いた。自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
会議室の視線が集まった。技術者の作業着を着た男に、四カ国の将官たちの目が向けられる。場違いだ。わかっている。でも、これだけは譲れなかった。
「機体の傍にいなければ、整備はできません」
奏太はまっすぐ前を見た。ヴェーバーの目を見た。
「データだけじゃわからないことがあります。共鳴構造は生き物みたいなものです。数値に出ない振動がある。音で、手触りで、匂いで判断しなきゃいけないことがある。通信越しでは、それが伝わらない」
ゲルナーが眉を寄せた。反論しようとして、口を開きかけた。
「鷹森の言う通りだ」
ガルベルトが割り込んだ。腕を組んだまま、低い声で。
「共鳴構造の状態は、現場でなければ判断できん。私も前線に出る」
ゲルナーは万年筆を止めた。黒い目が奏太とガルベルトの間を往復した。数秒の沈黙の後、手帳に何かを書き込んだ。
「了解しました。前線整備班として、鷹森を含む技術チームを同行させます」
事務的な声だったが、万年筆の動きに迷いがなかった。ゲルナーも本当はわかっていたのだろう。後方で通信を聞いているだけの奏太など、ありえないと。
リーゼがちらりと奏太を見た。紫の瞳がほんの一瞬だけ緩んだ。すぐに元の鋭い目に戻ったが、奏太はそれを見逃さなかった。
安心した顔だ。自分の機体を預ける相手が、傍にいると知って。
*
会議は三時間に及んだ。
最後にヴェーバーが全体を見渡した。鋼の目が、一人一人の顔を確認するように動いた。
「作戦名、『曙光』。発動は二週間後。各部隊は即日準備に入れ」
椅子が引かれる音。軍靴が床を叩く音。四カ国の軍人たちが立ち上がり、会議室が騒がしくなった。
セルゲイが奏太のところまで歩いてきた。近くで見ると、本当にでかい。ガルベルトより一回り大きい。
「お前が鷹森か。噂は聞いてるぞ。異世界の技術者だってな」
「はあ、まあ」
「いい機体を作れよ。うちの部隊が道を開けてやるから、お前んとこのエースが門をぶっ壊す。わかりやすい話だ」
セルゲイが奏太の背中を叩いた。ヨハンより重い。内臓が揺れた。
「は、はい。よろしくお願いします」
「はっはっは! 礼儀正しいな、帝国の人間は。堅苦しくていけねえ」
笑いながら去っていった。嵐みたいな男だった。
リーゼが横に来た。
「セルゲイ将軍は見た目通りの男だ。戦場では先頭に立って突っ込む。だから部下がついていく」
リーゼの声に、わずかな敬意があった。戦場を知る者同士の、言葉少ない信頼。
人が減っていく。各国の将官たちが退室し、ゲルナーが手帳を閉じて出ていき、ガルベルトが黙って格納庫に向かった。準備はもう始まっている。二週間しかない。
奏太も出ようとした。
扉に手をかけた時、声が聞こえた。
小さな声だった。独り言の声。
「何人、戻ってこられるか」
振り返った。
会議室にはヴェーバー少将だけが残っていた。
巨大な地図の前に立っている。蝕域の黒い領域を見つめている。その背中は、いつもの鋼のような姿勢を保っていた。背筋は伸び、肩は水平で、一分の隙もない。
だが声だけが、違っていた。
指揮官の声ではなかった。部下を戦場に送り出す、一人の人間の声だった。
奏太は動けなかった。声をかけるべきかどうか、わからなかった。聞いてはいけないものを聞いてしまった気がした。
ヴェーバーが振り返った。
目が合った。鋼の目。だがその奥に、ほんの一瞬、奏太は見た。疲れと、覚悟と、恐れに似た何かを。
一瞬だった。
次の瞬間には、いつもの指揮官の目に戻っていた。
「鷹森」
「は、はい」
「聞いていたか」
嘘をつけなかった。
「……聞こえてしまいました。すみません」
ヴェーバーは何も言わなかった。数秒の沈黙があった。長い数秒だった。
そして、短く言った。
「機体を頼む」
それだけだった。作戦の成否も、危険の大きさも、何人が犠牲になるかも、何も語らなかった。ただ三つの単語。機体を、頼む。
奏太は背筋を伸ばした。ポケットのボルトから手を離した。
「はい」
それだけ答えた。それ以上は何も言えなかった。何も言う必要がなかった。
ヴェーバーが頷いた。小さく、一度だけ。
奏太は扉を閉めた。廊下に出て、数歩歩いて、立ち止まった。
背中の壁に寄りかかった。天井を見上げた。息を吐いた。
二週間後、自分はあの黒い領域に入る。リーゼも、フィンも、ヨハンも、エーリヒも。ガルベルトも、カティアも。そしてセルゲイの部隊も、イレーネの部隊も。
何人戻ってこられるか。
ヴェーバーの独り言が、耳の奥で反響していた。
奏太はポケットに手を入れた。六角ボルトを握った。金属の角が掌に食い込んだ。痛い。その痛みが、今は必要だった。
格納庫に行こう。やることがある。二週間で、できる限りのことをやる。アウローラの最終調整。改良量産機の点検。予備パーツの確保。整備マニュアルの更新。全部やる。
何人戻れるかはわからない。
でも、一人でも多く戻れるように。自分にできることは、それしかない。
奏太は壁から背を離し、歩き出した。格納庫に向かって。作業着のポケットでボルトが揺れた。かちり。小さな金属音が、静かな廊下に響いて消えた。




