第五十七章 模擬戦
格納庫の扉が開いた。
朝日が差し込む。白い光が床を舐めるように広がり、中央に立つ一機を照らし出した。
アウローラ。
白銀の外殻に、共鳴構造の紋様が淡い燐光を帯びて浮かんでいる。従来機より一回り引き締まったシルエット。背部主管から伸びる配管ラインは一本の美しい弧を描き、関節部の嵌合ユニットが朝日を受けて鈍く光っていた。
リーゼ専用機。
奏太の物理構造設計。ガルベルトの魔力回路。カティアの調律パターン。ディーターの嵌合精度。全てが一人のパイロットのために最終調整された機体だった。
「最終チェック、全項目クリアです」
カティアが計測器を構えたまま報告した。赤毛を後ろで束ね、緑の目が真剣に光っている。
「回路の調律状態も問題ない。共鳴点は完全に安定している」
ガルベルトが太い腕を組んだ。琥珀色の目が機体を見上げる。昨夜遅くまで魔力回路の微調整を繰り返していた。その成果が、紋様の安定した輝きに表れていた。
奏太はポケットの六角ボルトを一度だけ回した。かちり。
「リーゼさん、準備はいいですか」
「ああ」
リーゼが歩み出た。銀灰色の長髪が背中で揺れる。深い紫の瞳が、まっすぐにアウローラを見つめていた。迷いのない足取り。パイロットスーツの白い布地が朝日を弾いている。
タラップを上がり、コックピットに体を滑り込ませた。
狭い。だが窮屈ではない。シートの角度、計器盤までの距離、操縦桿の位置。全てが自分の体格に合わせて調整されている。左手を伸ばせば物理駆動の操縦桿に触れ、右手を伸ばせば魔力系統の制御桿に触れる。どちらも指が自然に巻きつく太さだった。
握った。
その瞬間、全身に電流が走った。
操縦桿を通じて、機体の鼓動が伝わってくる。物理機構の振動と魔力回路の脈動が重なり合い、一つの律動を形成している。それはまるで生き物の心臓のようだった。
リーゼは目を閉じた。
わかる。この機体の呼吸が。骨格の軋みが。魔力の流れが。操縦桿越しではない。自分の手の延長として、自分の体の一部として。
「これは——」
声が漏れた。低く、確信に満ちた声。
「私のために作られた機体だ」
愛機を失ってから、ずっと探していた。あの感覚を。機体と一つになる、あの感覚を。従来機に乗るたびに感じていた違和感。手袋の上から物を掴むような、もどかしさ。それが——ない。
素手で空を掴んでいるようだった。
*
演習場。基地の東側に広がる荒れ地だ。
岩場が点在し、起伏のある地形が実戦に近い環境を再現している。アウローラが南端に立ち、三機の従来機が北端に展開していた。
三対一。ヨハン、中堅パイロット、若手パイロット。
管制塔にはカティアが計測器を構え、ガルベルトが腕を組んで立っている。奏太はカティアの後ろで、ポケットの六角ボルトを握りしめていた。ディーターは壁際で灰色の目を細めている。ゲルナーがデータ記録端末に張りついていた。
「模擬戦を開始する。ルールは単純だ。三機でアウローラを撃墜せよ。リーゼ中尉は全力で応戦しろ。制限時間は十分」
管制官の声が通信に流れた。
「了解」
リーゼの声は平坦だった。緊張の色はない。操縦桿を握る手に、余計な力は入っていない。機体の鼓動と自分の心拍が同期している。それだけで十分だった。
「開始」
合図と同時に、リーゼは右の制御桿を押し込んだ。
魔力回路が唸りを上げた。出力が一気に跳ね上がる。共鳴構造が物理機構と魔力を同時に増幅し、アウローラの全身に力が漲った。
踏み込んだ。
白銀の閃光が演習場を走った。
*
ヨハンは最初の一秒で悟った。
速い。
次元が違う。
アウローラが発進した瞬間、ヨハンの目が追いつかなかった。白銀の残像が視界を横切り、気がつけば三機の陣形の中央に飛び込んでいた。
「散開!」
ヨハンが叫んだ。十五年の経験が体を動かす。操縦桿を右に切り、距離を取ろうとした。
遅い。
アウローラは既に動いていた。中堅パイロットの機体に向かって最短距離を突き進む。直線ではない。岩場を縫うように、最小限の動きで障害物を避けながら、しかし恐ろしい速度で間合いを詰めていく。
リーゼの戦闘スタイルに完全最適化された操作系が、彼女の意思を忠実に——いや、意思よりも速く機体に伝えていた。
思考と動作の間にある隙間が、消えていた。
中堅パイロットが回避行動を取った。岩場の陰に入ろうとする。教本通りの判断だ。
だが、アウローラの前では意味をなさなかった。
リーゼは岩場を迂回しなかった。跳んだ。共鳴構造が生み出す爆発的な出力で岩を蹴り、頭上を飛び越える。着地と同時に振り向きざま、模擬弾を撃ち込む。
命中。
開始から十二秒。
「嘘だろ——」
中堅パイロットの呻きが通信に漏れた。回避行動を取る暇すらなかった。
若手パイロットがヨハンとの挟撃を試みた。左右から同時に攻める。定石だ。
リーゼはその意図を読んだ上で、若手の方に突っ込んだ。挟撃が成立する前に片方を潰す。アウローラの駆動系がその要求に完璧に応えた。
若手が盾を構えた。防御姿勢。正面からの攻撃を待ち受けている。
リーゼは正面から行かなかった。
急制動。砂塵が舞い上がる。アウローラが地面を削りながら横滑りし、左側面に回り込む。盾の死角。従来機では不可能な方向転換。共鳴構造がフレームへの負荷を分散し、機体が悲鳴を上げることなく異常な機動を実現していた。
模擬弾、命中。
開始から二十六秒。二機目。
残ったのはヨハンだけだった。
*
ヨハンは距離を取っていた。
二機が落ちるのを見て、無理に前に出なかった。翡翠色の目が冷静にアウローラの動きを追っている。正面からやり合えば負ける。十五年の経験がそう告げていた。
岩場の陰に機体を潜ませた。視界を切る。アウローラがどれだけ速くても、見えない相手は撃てない。老兵の戦い方だ。
管制塔のモニターで、カティアが息を呑んだ。二つの光点が静止している。
「両方とも——止まった?」
奏太はモニターを見つめていた。リーゼの光点が微動だにしない。待っている。ヨハンは焦らない相手だと、分かっているのだ。
十秒。
ヨハンが動いた。岩場の隙間から模擬弾を一発撃ち、即座に移動。射撃地点を特定させない牽制射撃だ。
だがリーゼは射撃地点を追わなかった。弾道からヨハンの移動先を逆算した。岩場の配置、遮蔽物の位置、従来機の旋回半径。瞬時に組み合わせて、次の遮蔽場所を割り出す。
アウローラが跳んだ。岩場を飛び越え、先回りした。ヨハンが岩陰に滑り込もうとした瞬間、正面にアウローラが立っていた。
「——まるで別次元だ」
ヨハンが呟いた。翡翠色の目が見開かれていた。驚きと、純粋な感嘆。十五年間戦場を駆けてきた男が、脱帽していた。
模擬弾が静かに放たれた。
命中。
開始から四十三秒。三機撃墜。模擬戦終了。
*
管制塔が沸いた。
「四十三秒——三対一で四十三秒ですよ!」
カティアが計測データを抱えて叫んだ。緑の目が興奮で潤んでいる。
ディーターが壁から背を離した。灰色の目が細められている。表情は変わらない。だが拳が——白くなるほど、強く握られていた。
ガルベルトは何も言わなかった。琥珀色の目でモニターを見つめたまま、太い腕を組んでいる。だがその腕が、わずかに震えていた。二十三年。二十三年間追い求めてきた魔力回路の理想形が、今、戦場で証明された。
奏太はポケットの六角ボルトを握ったまま、動けなかった。
画面の中で、アウローラが演習場の中央に立っている。白銀の外殻に傷はない。三機を相手に四十三秒で決着をつけて、なお余力を残した姿。
設計図の上の線が。計算式の中の数字が。現実になった。
通信機にノイズが走った。
リーゼの声が聞こえた。
「——奏太」
管制塔の空気が変わった。
カティアの手が止まった。ガルベルトの腕がほどかれた。奏太が顔を上げた。
鷹森でも、タカモリでも、お前でもない。
奏太。
名前だった。
「ガルベルト」
もう一つの名前が続いた。
「ありがとう」
短い言葉だった。それ以上は何も言わなかった。リーゼらしい、飾りのない感謝。だがその声には、これまで聞いたことのない温度があった。鋼のような冷静さの奥にある、柔らかな熱。
奏太は一瞬、言葉が出なかった。
名前で呼ばれた。それだけのことが、胸の奥を強く打った。六角ボルトを握る指に力がこもる。
「——こちらこそ」
やっと絞り出した声は、少しだけ震えていた。
ガルベルトが鼻を鳴らした。いつもの癖だ。だが琥珀色の目の縁が、かすかに赤かった。
「礼を言われるほどのことはしていない」
低い声。ぶっきらぼうな物言い。それがこの男の精一杯の応答だった。
*
演習場から機体が戻ってきた。
格納庫の前に全員が集まっていた。
ヨハンがコックピットから降り、ヘルメットを脱いだ。濃い金髪を乱暴にかき上げ、汗を拭う。翡翠色の目が奏太を捉えた。
「鷹森」
「はい」
「あの機体は反則だ」
笑っていた。悔しさと喜びが入り混じった、複雑な笑顔。
「十五年乗ってきたが、ああいう動きをされたのは初めてだ。読みを三手先まで潰された。あんなもん相手にしたら、何もできん」
「それはリーゼさんの腕です」
「謙遜するな。腕だけであの動きは出ない。あの機体はパイロットの限界を引き上げている」
ヨハンが右手を差し出した。
「いい機体を作ったな」
奏太はその手を握った。パイロットの手は厚く、硬かった。
アウローラのタラップが降り、リーゼが姿を現した。銀灰色の髪を風に流し、口元にかすかな笑みを浮かべている。静かな笑みだった。だが確かに——満たされた表情をしていた。
ディーターが無言でタラップに向かった。工具を手に、関節部の衝撃痕を確認しに行く。口数は少ないが、あの男は自分の仕事で応える。
そこに、早足の足音が近づいてきた。
ゲルナーだった。
きっちり七三に分けた黒髪。皺のない軍服。だが握った革鞄が小刻みに揺れていた。
「模擬戦のデータを確認しました」
万年筆を取り出す手が震えていた。
「三対一で四十三秒。性能差という言葉では足りません」
黒い目が輝いていた。官僚の殻が、完全にひび割れていた。
「これは歴史を変える機体です」
万年筆のキャップを回す指が忙しなく動いている。
「上層部への報告書を——いえ、直接のプレゼンテーションを提案します。紙の上の数字だけでは、この機体の価値は伝わりません」
ガルベルトが低く笑った。
「珍しいな。あんたがそこまで前のめりになるのは」
「二十年この仕事をしてきて、こんな数値は見たことがない。前のめりにもなります」
かつて守れなかった開発計画の記憶が、ゲルナーを突き動かしていた。
奏太はその場に立って、全てを見ていた。
ヨハンの潔い笑顔。リーゼの静かな充足。ガルベルトの震える腕。カティアの潤んだ目。ディーターの白い拳。ゲルナーの裏返りそうな声。全部が、一つの機体に繋がっている。
ポケットの六角ボルトが温まっていた。いい機体を作ってくれ——ハンスの声が聞こえた気がした。
アウローラが格納庫の中央に立っている。白銀の外殻が作業灯の光を受けて、静かに輝いていた。一人では作れなかった機体。全員の手が噛み合って、初めて生まれた機体。
リーゼが奏太の隣に立った。紫の瞳が機体を見上げている。
「いい機体だ」
「ありがとうございます」
「礼はいらない。事実を言っただけだ」
いつもの口調。だが、さっき通信で「奏太」と呼んだ声が、まだ耳に残っている。
奏太は六角ボルトをポケットに戻した。
開発の最大のカタルシス。それは数値でも、記録でもなかった。
この機体で戦える。この機体なら守れる。そう言ってくれるパイロットの声が、何よりの報酬だった。




