第五十六章 ガルベルトの家族
手紙が届いたのは、昼飯の直前だった。
格納庫の作業台に工具を並べていた奏太は、伝令兵が入ってくるのを視界の端で捉えた。若い兵士が封書を一通、ガルベルトに手渡す。後方都市の消印。家族からの手紙だ。
ガルベルトは工具を置き、油で汚れた手を布で拭いてから封を開けた。手紙を汚すことを嫌う男だ。
琥珀色の目が文面を追った。
最初の数行は穏やかだった。白い顎髭の下で、口元がわずかに緩んでいる。妻からの報告だろう。次女が学校で賞を取った、末の娘が猫を拾ってきた、そういう類の。
三行目で、目が止まった。
四行目で、手紙を持つ指が白くなった。
五行目で、ガルベルトは黙り込んだ。
百九十センチの巨体が、一通の手紙の前で固まっている。琥珀色の目は文字を追っているが、もう読んでいない。何度も同じ行に視線が戻っている。
格納庫の空気が変わった。
カティアがいち早く気づいた。計測器の前で手を止め、緑の目が師匠の背中を見つめている。ディーターも工具を置いた。灰色の目が静かにガルベルトを観察していた。
奏太は手元のボルトを回す指を止めた。何かあった。それだけはわかる。
誰も声をかけなかった。ガルベルトが自分から話すのを待った。
一分が過ぎた。長い一分だった。
ガルベルトが手紙を畳んだ。丁寧に。折り目を正確に合わせて。軍服の内ポケットにしまった。
それから、いつも通りの声で言った。
「作業を続ける」
嘘だ、と奏太は思った。
声は平静だった。だが手が違った。工具を取る手が、ほんの一瞬だけ迷った。ガルベルトの手は迷わない。二十年以上整備士をやってきた男の手が、工具箱の上で一瞬止まるのは——異常だった。
カティアが奏太と目を合わせた。緑の目が「どうしますか」と問うている。奏太は小さく首を振った。今じゃない。
ディーターだけが、何事もなかったかのように作業を再開した。だがその手が、ガルベルトの作業範囲に必要な部品を、さりげなく近くに寄せていた。二十年の付き合いが成せる技だった。
昼飯の時間になった。
食堂に向かう通路で、ディーターが奏太の横に並んだ。珍しいことだった。この寡黙な整備士は、普段は一人で歩く。
「班長の長女」
ディーターが言った。それだけだった。
「何かあったんですか」
「軍医だ。前線配属が決まった」
奏太の足が止まった。
ガルベルトの長女、アンネリーゼ。名前は聞いたことがある。ガルベルトが酒を飲んだ夜、ぽつりと漏らしたことがあった。軍医を目指して勉強している娘がいると。頑固で、真面目で、一度決めたら梃子でも動かない娘だと。
「前線に」
「ああ」
ディーターはそれだけ言って、先に歩き出した。灰色の目は前だけを向いていた。
奏太は通路に立ったまま、ガルベルトの指を思い出していた。白くなった指先。何度も戻る視線。あの反応は恐怖だ。
前線で戦う者を見送る側の恐怖。奏太には痛いほどわかった。
食堂で、ガルベルトは普段通りに食事を取った。パンをちぎり、スープを啜り、カティアの食べ方を注意した。
「肘をつくな」
「すみません、師匠」
カティアが慌てて姿勢を正す。いつもの光景だ。だが奏太は気づいていた。ガルベルトのスープが半分以上残っていることに。パンを千切る量がいつもより小さいことに。
食堂の喧騒の中で、四人は無言で食事を続けた。
午後の作業が始まった。
リーゼ専用カスタム機の設計図面が作業台に広げられている。奏太がフレーム構造の修正案を書き込み、ガルベルトが魔力回路の対応箇所を確認する。いつもの共同作業だ。
だが、ガルベルトの集中が切れていた。
奏太が指し示した設計変更点を、ガルベルトが聞き返した。二度。ガルベルトが同じ質問を二度するのは、奏太が知る限り初めてだった。
「班長」
ディーターが声をかけた。低く、静かな声。
「大丈夫ですか」
格納庫が静まった。カティアが顔を上げた。奏太も手を止めた。
ガルベルトは設計図を見つめたまま、数秒間動かなかった。それから——大きな手で顔を一度撫でた。
「アンネリーゼが来る」
搾り出すような声だった。
「前線に、軍医として配属される。次の補充部隊と一緒に」
カティアが息を呑んだ。ディーターの手が止まった。
奏太は黙って待った。
「あいつはまだ二十三だ。軍医課程を主席で卒業した。優秀だよ。優秀すぎる。だから前線に送られるんだ」
声に苦みが混じった。
「何度も手紙を書いた。後方の病院に残れと。前線に出る必要はないと。だがあいつは聞かない。聞いたことがない。一度決めたら、絶対に曲げない」
琥珀色の目が、設計図から離れて宙を見た。遠い場所を見ていた。後方都市の、娘の顔を。
「父親に似たんだろうな」
ディーターが静かに言った。
ガルベルトが鼻を鳴らした。だが否定しなかった。
沈黙が落ちた。格納庫の天井が高く、静けさが反響する。作業灯の白い光だけが、変わらずに四人を照らしていた。
ガルベルトが立ち上がった。百九十センチの巨体が、奏太の前に立った。見下ろす琥珀色の目は——真剣だった。冗談の色がない。
「鷹森」
「はい」
「娘が前線に来る」
大きな手が奏太の肩を掴んだ。痛い。いつもの肩叩きとは力が違う。
「お前の機体で、守れるんだろうな」
声は平静だった。口調も穏やかだった。冗談のような言い方だった。
だが目が笑っていなかった。
琥珀色の目が、真正面から奏太を見据えている。その奥に、父親の祈りがあった。技術で守れるのかという問いではない。俺の娘を死なせるなという、切実な懇願だった。
奏太はガルベルトの目を見返した。逸らさなかった。
ポケットの六角ボルトに手を伸ばしかけて、やめた。今は考える時間じゃない。答える時間だ。
「全力を尽くします」
飾らなかった。大丈夫ですとも、絶対にとも言わなかった。嘘になるかもしれない言葉は使わない。だが、逃げもしない。
ガルベルトの手に力が入った。肩が軋んだ。
三秒。長い三秒だった。
ガルベルトが手を離した。
「……ああ」
短い返事だった。だがその一音に、信頼と不安と期待が全部混ざっていた。奏太はそれを受け止めた。重かった。ずしりと、肩に残るガルベルトの手の感触と同じくらい。
「アンネリーゼさん」
カティアが口を開いた。緑の目がまっすぐガルベルトを見ている。
「私、お会いしたことがあります。師匠の工房に挨拶に来られた時に」
ガルベルトの眉が動いた。
「覚えているのか」
「はい。三年前の冬です。軍医課程に進むと報告しに来られた時。師匠が大反対して、工房の扉を閉めて、三時間出てこなかったのも覚えています」
「余計なことを覚えているな」
ガルベルトが渋い顔をした。だがカティアは構わず続けた。
「アンネリーゼさん、扉の前でずっと待ってました。三時間。立ったまま。冬の廊下で。寒かったはずなのに、一歩も動かなかった」
カティアの声が少し柔らかくなった。
「師匠が扉を開けた時、アンネリーゼさんは『終わりましたか』って聞いたんです。怒ってもいないし、泣いてもいない。ただ静かに、師匠の答えを待ってた」
ガルベルトは黙っていた。
「しっかりした人ですよ、アンネリーゼさん。前線に来ても、きっと大丈夫です」
カティアの言葉に嘘はなかった。気休めでもない。三年前に見た一人の女性の姿を、そのまま伝えている。
ガルベルトの肩から、わずかに力が抜けた。ほんの少しだけ。
「大丈夫かどうかは、わからん」
低い声で言った。
「だが——あいつが頑固なのは知っている。誰に似たんだ、まったく」
苦笑だった。ガルベルトの苦笑は珍しい。普段は仏頂面か、怒りか、ごく稀に見せる短い笑みか。だが今の表情は、そのどれとも違っていた。父親の顔だった。手の届かない場所へ行く娘を見送る、不器用な父親の顔。
「師匠に似たんですよ」
カティアが笑った。
「間違いない」
ディーターが頷いた。
「お前ら——」
ガルベルトが何か言いかけて、やめた。顎髭を撫でる。照れ隠しの癖だ。琥珀色の目がわずかに潤んでいるのを、全員が見て見ぬふりをした。
奏太は設計図に目を戻した。
リーゼ専用カスタム機。リーゼの戦闘スタイルに完全に最適化された、たった一機の機体。その設計思想は「パイロットの力を最大限に引き出す」ことだ。
だが今、奏太の頭には別の回路が走っていた。
前線に立つ全ての人間を守る機体。パイロットだけじゃない。整備士も、軍医も、補給兵も。前線で息をしている全ての人間の生存率を上げる機体。
ガルベルトの娘が前線に来る。名前も顔も知らない兵士が、毎日前線に送られてくる。その一人一人に家族がいる。ガルベルトの手紙を持つ白い指が、全てを物語っていた。
守る。
その言葉が、ただの概念から個人的な重みを持って奏太の中に沈んだ。
リーゼを守る機体。ヨハンを守る機体。そして、アンネリーゼという名前の軍医を——ガルベルトの娘を守る機体。抽象的な「人命」ではなく、名前と顔を持った一人一人を守る機体。
ペンを取った。設計図の余白に、小さく数式を書き始める。カスタム機の装甲配置。被弾時のコックピット防護率。機体が倒れた時の衝撃吸収パターン。
ガルベルトが横から覗き込んだ。
「何を書いている」
「防護系統の強化案です。カスタム機の設計に組み込みたい」
「攻撃力を落とすのか」
「落としません。共鳴構造の出力余剰分を防護に回します。出力が従来機の一・八倍あるなら、攻撃に必要な分を差し引いても防護に振れる余力がある」
奏太のペンが走った。数式が紙の上に並んでいく。
「リーゼさんの攻撃力を維持したまま、周囲三十メートル圏内に防護フィールドを展開できるかもしれません。前線の医療テントを覆える範囲です」
ガルベルトの目が見開かれた。
三十メートル。前線の救護所を丸ごとカバーする範囲。そこに娘がいるかもしれない場所を——機体の力で守る。
「……計算は合っているのか」
「概算です。詳細はこれからですが、方向性は間違っていない」
ガルベルトは数式を睨んだ。魔力回路の専門家の目が、奏太の書いた理論を検証している。十秒。二十秒。
「回路の負荷分散が課題になる。だが——不可能じゃない」
ガルベルトの声が低く震えた。怒りでも悲しみでもない。別の何かだ。
「やるか」
「やります」
奏太は即答した。
ガルベルトが椅子を引き寄せた。作業台に肘をつき、設計図の上に大きな手を広げた。
「カティア、計測データを持ってこい。共鳴出力の上限値が要る」
「はい、師匠!」
カティアが走った。赤毛が揺れる。
「ディーター。防護フィールドの発生器に使える部材をリストアップしろ」
「わかった」
ディーターが立ち上がった。
四人が動き出した。一通の手紙から始まった波紋が、設計図の上に新しい線を引いていく。
奏太はペンを走らせながら、ガルベルトの横顔を見た。
さっきまで揺れていた琥珀色の目が、今は設計図を射抜いている。手は迷っていない。工具を取る指に一切の躊躇がない。「守る」という目的が、この男の技術を研ぎ澄ませている。
父親は娘を守りたい。だが前線に出るなとは、もう言えない。言ったところで聞かないと知っている。だから別の方法で守る。自分の手と技術で。それがガルベルト・ドルンという男だった。
奏太はポケットの六角ボルトを握った。冷たい金属の感触が、掌の中で温まっていく。
守ること。壊すより、殺すより、遥かに難しい。全てを守ることなんてできない。それは分かっている。
だが、手を伸ばすことはできる。一人でも多く。一メートルでも広く。技術はそのためにある。
格納庫の作業灯が、四人の背中を白く照らしていた。設計図の上で二本のペンが走っている。物理構造を描く線と、魔力回路を描く線。二つの線が一つの機体の中で交わる。
守るための線だ。
奏太はペンを置かなかった。日が暮れても、作業灯が灯っても、四人の手は止まらなかった。




