第五十四章 故郷の味
きっかけは、奏太のため息だった。
昼食の時間。ペトラの作ったシチューを匙ですくいながら、奏太はぼんやりと窓の外を見ていた。何を見ているわけでもない。ただ、舌の上に広がるシチューの味が、記憶の底にある別の味と重なりかけて、消えた。
「どうした、タカモリ。ぼうっとして」
向かいに座ったリーゼが、紫の瞳を向けてきた。手には千切ったパンが挟まっている。
「いや、ちょっと思い出しまして」
「何をだ」
「カレーっていう料理です」
フィンが横から身を乗り出した。青緑の目がきらりと光る。
「カレー? どんな料理ですか」
「香辛料をたくさん使った煮込み料理です。飯にかけて食べるんですけど——辛くて、熱くて、やたらと腹に溜まる。俺の故郷では、まあ、国民食みたいなものでした」
「作れるのか」
リーゼの問いは短い。だがその目は、もう興味を隠していなかった。
「材料さえあれば。ただ、この世界にある香辛料で代用できるかどうか——」
「ペトラに聞け。あの人の棚は宝の山だ」
リーゼが立ち上がった。パンの最後のひとかけを口に放り込んで、厨房へ向かう。行動が早い。この人はいつもそうだ。決めたら迷わない。戦場でも食卓でも。
奏太は空になったシチューの皿を見下ろして、小さく笑った。ポケットの六角ボルトに指を触れる。母の作ったカレーの味が、ふいに鮮やかに蘇った。
*
ペトラの厨房は、いつ来ても圧巻だった。
壁一面の棚に並ぶ瓶、瓶、瓶。香辛料、乾燥ハーブ、塩の種類だけで十を超える。
「故郷の料理を作りたい? 大歓迎だよ」
ペトラは丸い眼鏡の奥の茶色い目を輝かせた。新しい味への好奇心は、この女主人の最大の武器だ。
奏太は棚の瓶を一つずつ開けていった。蓋を外し、鼻を近づけ、記憶と照合する。ターメリックに近い黄色い粉末——ヴォルム根。クミンに似た温かい芳香の種子。カルダモンの役割を果たせる清涼感のある莢。唐辛子の代わりになる赤い小粒の実。生姜の親戚のような白い根。
一つ見つかるたびに、頭の中でカレーの輪郭が形を結んでいく。完全な再現は無理だ。元の世界のスパイスとは全部微妙に違う。でも——骨格は組める。
「いけます」
奏太の声が、自分でも意外なほど弾んでいた。
「リーゼさん、手伝ってもらっていいですか」
厨房の入口で腕を組んでいたリーゼが、ほんの一瞬だけ目を見開いた。
「構わないが。何をする」
「野菜を切ってください。一口大で」
「任せろ」
リーゼは袖を捲り上げて、まな板の前に立った。包丁を手に取る所作が滑らかだ。刃物の扱いが染みついている。奏太が根菜と玉ねぎに似た白い球根を渡すと、リーゼはためらいなく包丁を入れた。
とん、とん、とん。小気味よいリズム。均一な大きさに切り揃えられていく野菜を見て、奏太は素直に感心した。
「綺麗ですね。揃ってる」
「母に教わった。刃物の扱いは得意だ」
「料理の話、ですよね」
「当然だ。何を想像した」
リーゼの口元がかすかに緩んだ。奏太は苦笑しながら、鍋に油を引いた。
まず香辛料を油で炒める。ヴォルム根の粉、クミンもどき、砕いた莢の種。油に触れた瞬間、厨房の空気が一変した。甘く、刺激的で、どこか懐かしい香り。
「おお」とペトラが声を上げた。「香辛料を最初に油で炒めるのか。初めて見たね」
「油に香りを移すんです」
肉を炒め、リーゼが切った野菜を投入し、水を注いで煮込む。ルウなど存在しないから、香辛料と塩と小麦粉でとろみをつけた。酸味のある赤い果物をすりおろして加える。チャツネの代わりだ。
元の世界のカレーとは違う味になっていく。でも、カレーの魂——複数の香辛料が渾然一体となって押し寄せるあの感覚——は、確かにそこにあった。
「味見、お願いできますか」
匙をリーゼに差し出した。リーゼが一口含む。
紫の瞳が、わずかに広がった。
「辛い」
「すみません、辛すぎました?」
「いや。辛い、が——うまい」
短い評価。だがリーゼの二口目が全てを語っていた。匙が止まらない。
「リーゼさん、それ味見じゃなくて——」
「味見だ。念入りにやっている」
真顔で言うから、奏太は笑うしかなかった。
「塩をもう少し。煮込みも足りない」
リーゼの指摘は的確だった。あと三十分煮込む。鍋が静かにことこと鳴る。厨房に立ち込める香りが、扉の隙間から廊下へ、やがて格納庫の方まで届いていったらしい。
*
夕食の時間。
食堂のテーブルにカレーが並んだ。この世界の穀物——米ではないが粘り気のある粒状の穀物——を炊いて、その上に黄金色のルウをかける。湯気が立ち上って、香辛料の香りが食堂を満たした。
フィンが真っ先に席についた。青緑の目が皿に釘付けになっている。
「すごい色ですね。これがカレー」
「見た目はちょっとアレですけど、食べてみてください」
フィンが一口。
目が丸くなった。咀嚼が止まった。そして——満面の笑みが弾けた。
「美味い! タカモリさん、これめちゃくちゃ美味いです!」
「本当ですか。よかった」
「おかわりってありますか」
「まだ一口しか食べてないでしょう」
フィンは聞いていなかった。猛烈な速度で皿を空にしていく。首のペンダントが食べる勢いで揺れた。
「何だこの匂いは」
ヨハンが食堂に入ってきた。濃い金髪を掻きながら、翡翠色の目を細める。皿を覗き込んで、眉をひそめた。
「黄色い。なんか怪しいな」
「大丈夫ですよ。リーゼさんの味見済みです」
「ふん。リーゼが認めたなら外れはねぇか」
ヨハンが匙を口に運んだ。一拍の間。顔が赤くなった。
「辛ぇ!」
水を一気に飲み干す。だが、すぐにまた匙を取る。
「辛ぇ! でもうまい!」
酒瓶を取り出して流し込み始めた。翡翠色の目は涙目だ。それでも匙は止まらない。
ガルベルトが食堂の奥から現れた。無言で匙を取り、淡々と食べ進める。表情は変わらない。だが匙は止まらなかった。
皿が空になった。一粒も残っていない。
「悪くない」
それだけだった。奏太は知っている。この男の「悪くない」が何を意味するか。
ペトラが帳面を広げて奏太の隣に来た。
「この香辛料の使い方、覚えさせてもらうよ。配合も全部書き取らせておくれ」
「もちろんです」
ペトラのペンが帳面の上を走った。配合の比率、炒める順番、煮込みの時間。料理人の目で、一つも漏らさず。
フィンがおかわりに立った。二杯目の皿を持って戻ってくる。食べる。三杯目。食べる。エーリヒが灰緑の目を丸くした。
「フィン、お前どこに入るんだ」
「胃袋は別腹です」
「意味が違う」
四杯目に手を伸ばしかけたフィンを、ヨハンが「残せ! 俺のおかわり分がなくなるだろうが!」と制した。フィンは渋々引き下がったが、鍋の方を未練たっぷりに見つめていた。
食堂は賑やかだった。ディーターは無言で二杯を空にした。空の皿が全てを物語っている。全員が、一つの食卓にいた。
奏太はその光景を見渡して、胸の奥が熱くなった。元の世界では一人でコンビニ弁当を食べていた。「美味しい」と言ってくれる人はいなかった。
ここにはカレールウもない。でも——この食堂がある。温かい鍋と、一緒に食べる仲間がいる。
「似ているけど違う味になりましたね」
奏太はぽつりと言った。隣に座ったリーゼに向けて。
「元の世界のカレーとは、結構違う味です。こっちの香辛料の方が香りが強いし、肉の甘みも違う。でも——」
「でも、美味しい」
リーゼが静かに続けた。紫の瞳が奏太を見ている。
「似ているけど違う。でも美味しい。それはお前がこの世界で見つけた味だ」
その言葉が、奏太の胸を突いた。似ているけど違う。この世界での自分の在り方そのものだ。でも、ここに居場所がある。
「これが俺の故郷の味です」
自然に出た言葉だった。故郷。その言葉をずっと避けてきた。でも今なら言える。
リーゼが顔を上げて、真っ直ぐに奏太を見た。
「なら、ここがお前の二つ目の故郷だ」
冗談の色はなかった。ただの事実を述べるように、リーゼは言った。
「……はい」
それしか返せなかった。でも、伝わったようだった。リーゼが小さく頷いて、皿に視線を戻す。
食堂の喧騒が二人を包んでいた。ヨハンが酒瓶を振り回し、フィンが五杯目に挑み、ガルベルトが「いい加減にしろ」と制し、ペトラが「まだ鍋にあるよ」と笑っている。
その喧騒の中で、リーゼがぽつりと呟いた。
「弟にも、食べさせてやりたいな」
奏太は匙を止めた。
「弟さん?」
「ああ。士官学校にいる。今年で二十二になる。母が亡くなった時、あいつはまだ十二だった」
初耳だった。リーゼに弟がいるなんて、一度も聞いたことがない。これだけの時間を一緒に過ごしてきたのに。
「知らなかったです」
「言ったことがなかったか」
「一度も」
リーゼの口元がわずかに苦く歪んだ。
「料理を覚えたのは、あいつに食わせるためだ。父は剣と戦術の人間で、台所には立たなかった。母が死んでから、あいつの飯は私が作った」
リーゼの声は平坦だった。もう整理のついた記憶を淡々と語る声。だがその淡々さの裏の重みを、奏太には少しだけ想像できた。
「士官学校の飯は不味いんだ。私も経験がある。味気ない芋と塩気だけの肉。量はあるが、心がない」
「心、ですか」
「作る人間の心だ。ペトラの飯にはそれがある。だから美味い。あいつは今、心のない飯を食っている。それが——少し、気にかかる」
リーゼが視線を落とした。カレーの残りが皿にわずかに残っている。黄金色のルウが、穀物の粒にからんでいた。
気の利いた言葉が見つからない。だから、別のことを言った。
「レシピ、書きますよ。弟さんの分も。香辛料を小分けにして送れば、士官学校でも作れるかもしれません」
リーゼが顔を上げた。紫の瞳がまっすぐに奏太を見た。
「……ああ。頼む」
短い返事に、リーゼの全てが詰まっていた。弟への情。不器用な姉の愛情。それを他人に見せたことへの、ほんの少しの照れ。
奏太はポケットの六角ボルトを一度握って、離した。この人の輪郭が、食卓を共にするたびに少しずつ鮮明になっていく。
ペトラが厨房から追加のカレーを運んできた。
「さあ、まだまだあるよ。遠慮しないで食べな」
フィンが歓声を上げた。ヨハンが「おう、もう一杯だ」と皿を差し出した。ガルベルトが無言で匙を取った。二杯目だ。この男が二杯目を食べるのは珍しい。琥珀色の目が一瞬だけ奏太を見て、すぐに逸らされた。
認められている。言葉にされなくても、わかる。
窓から夕焼けが差し込んでいた。橙色の光が食堂を染めて、カレーの湯気と混ざり合う。温かい色だった。記憶の中の実家の食卓と、少しだけ重なる色。
元の世界の母のカレーは少し甘口だった。福神漬けが添えてあって、父がいつも大盛りで。あのカレーはもう食べられないかもしれない。
でも今日、新しいカレーができた。この世界の仲間と一緒に。似ているけど違う。でも、温かい。
リーゼが皿を重ねて立ち上がった。片付けを手伝うつもりらしい。奏太も腰を上げた。
「タカモリ」
「はい」
「次は何を作る」
「え?」
「お前の故郷の料理。他にもあるだろう」
リーゼの声は淡々としていた。だが奏太は聞き逃さなかった。「次」という言葉。未来を前提にした言葉。一緒に食卓を囲むことが、当たり前に続いていくという前提。
「そうですね。味噌汁の完全版とか、天ぷらもどきとか——」
「楽しみにしている」
リーゼが歩き出した。銀灰色の髪が夕日に透けた。その背中を見ながら、奏太は思った。
二つ目の故郷。
その言葉が、胸の中で温かく灯っている。
ペトラが最後の鍋を抱えて厨房に戻っていく。帳面を胸に抱えた、満足げな足取りだった。
空になった食卓の上に残ったのは、香辛料の匂いと、夕焼けの光と、全員分の空の皿。
全部空だ。一皿も残っていない。
奏太は最後の皿を拭きながら、小さく笑った。ポケットの六角ボルトが、いつもより温かい気がした。




