第五十三章 月下の告白
夜だった。
格納庫の灯りが落ちて、基地が眠りにつく時間帯。空には月が浮かんでいた。満月に少し足りないが、十分すぎるほど明るい。銀色の光が中庭の石畳を染めて、まるで水底のように見えた。
リーゼは格納庫の裏手にある石段に座っていた。
銀灰色の髪を下ろしている。軍服の上着は脱いで、白いシャツだけ。袖を肘までまくっている。殲滅の堕天使と呼ばれる女が、月を見上げている。紫の瞳に月光が映り込んで、硝子のように透き通っていた。
戦闘の時とは別人だ。
いや、これもリーゼだ。戦う顔だけが本物じゃない。
足音が聞こえた。
軍靴じゃない。作業靴。少し不揃いな、間の抜けたリズム。リーゼは振り返らなかった。もう、わかっていた。
「あれ、リーゼさん。こんなとこにいたんですか」
奏太だった。
作業着のまま。手には工具箱。ポケットからはいつもの六角ボルトが覗いている。目の下にうっすら隈がある。格納庫で残業していたのだろう。フィンの新機体の調整か、データの整理か。どちらにしても、この男はいつも遅くまで残っている。
「夜風に当たっていた」
「いい月ですね」
奏太は工具箱を石段の脇に置いて、リーゼの隣に腰を下ろした。許可は求めない。自然に。半年前なら考えられない距離感だ。
沈黙が降りた。
嫌な沈黙じゃない。虫の声が遠くで聞こえる。風が木の葉を揺らす音がする。夜の匂い。草と土と、少しだけ油の匂い。奏太の作業着から漂ってくるそれが、不思議と嫌ではなかった。
「フィンの機体、好調みたいですね。今日のデータ、全部予測値を超えてました」
「ああ。エーリヒも目を丸くしていた。口には出さんが、あいつの目は笑っていたよ」
「わかりますか、そういうの」
「パイロットは表情を読む生き物だ。味方の状態を一瞬で把握しなければ死ぬからな」
淡々とした言い方だった。けれど事実だ。リーゼの観察力は戦場で磨かれたものだ。人の表情の奥にある感情まで読み取る。
だから——自分自身の感情にも、とっくに気づいていた。
「なあ、タカモリ」
「はい」
「お前がいなかったら、今頃どうなっていたかわからないな」
唐突だった。リーゼ自身もそう思った。なぜ今、この言葉が出たのか。月のせいかもしれない。夜の空気のせいかもしれない。隣に座る男の、穏やかな体温のせいかもしれない。
奏太は少し驚いた顔をして、すぐに首を振った。
「大袈裟ですよ。俺は作る側の人間ですから。戦ってるのはリーゼさんたちです」
出た。いつもの台詞。
リーゼは小さく笑った。声にはならない笑い。肩がわずかに揺れただけ。
「そういうところだ」
「え?」
「自分の功績を絶対に認めない。全部、誰かの手柄にする。お前のその癖は——美徳であり、苛立たしい」
「苛立たしい、ですか」
「ああ。お前がいなければ共鳴構造は生まれなかった。フィンは適性を活かせなかった。エーリヒの復帰先は今のような場所にはなっていなかった。それは全部、お前がやったことだ」
奏太は口を閉じた。反論が出てこない。リーゼの言葉には、嘘がないからだ。
「すみません」
「謝るな。褒めているんだ」
「褒められてる感じがしないんですが……」
「私は褒めるのが下手だと、前にも言ったはずだ」
奏太が吹き出した。リーゼも肩を揺らした。笑い声が夜気に溶ける。月明かりの下で、二つの笑い声が重なった。
風が吹いた。
少し冷たい。季節が動いている。リーゼの銀灰色の髪が風に煽られて、一瞬だけ奏太の肩に触れた。細い髪。軽い。でも確かに触れた。
奏太の体が一瞬だけ硬くなって、ゆっくりと力が抜けた。
リーゼは気づいていた。気づいていて、何も言わなかった。
「この世界に来て、後悔してるか」
リーゼが聞いた。月を見たまま。声は平坦だった。だがその問いの奥に、もう一つの問いが潜んでいることを、二人とも知っていた。
奏太はポケットの六角ボルトに指を触れた。転がす。考える時の癖だ。リーゼはそれを知っている。
「最初の頃はわからなかったです。なんで自分がこんな場所にいるのか。ただの整備士が、異世界で何をするんだって」
「今は?」
「今は——」
奏太は月を見上げた。銀色の光が瞳の中に落ちた。
「後悔はしてません。ここに来なかったら、出会えなかった人たちがいるから」
リーゼは奏太の横顔を見た。暗い茶色の目が月を映している。嘘の色はない。この男はいつだってそうだ。不器用なくらい、まっすぐだ。
「そうか」
それだけ言って、月に目を戻した。
胸の奥で何かが軋んでいる。名前をつけたくない。つけてしまったら最後だ。
リーゼロッテは自分の感情を正確に把握していた。いつからかは覚えていない。格納庫で黙々と作業する背中を目で追うようになったのは、いつだったか。報告に来る奏太の声を聞くだけで、張り詰めた何かが緩むようになったのは、いつだったか。
わかっている。わかっているからこそ、怖い。
戦時中だ。明日の命は保証されていない。パイロットはいつだって、次の出撃が最後かもしれない。自分が還らなかったら。あるいは敵の砲撃が格納庫を直撃したら。
失うかもしれないものに名前をつけることが、リーゼには怖かった。
弟はまだ士官学校にいる。あいつだけは戦場に出さないと決めている。これ以上、大切なものを増やしてどうする。
それでも。
隣にいるこの時間だけは、手放したくないと思ってしまう。
髪の毛先を無意識に指で弄っていた。困った時の癖。自分の感情に困っている。二十六年生きてきて、戦場で何度も死線をくぐってきて、それでもこういう感情の前では無力だ。
奏太もまた、隣にいる女性の存在を意識していた。
リーゼの傍にいると、穏やかになる。格納庫で機体と向き合っている時とは違う。開発の興奮でもない。戦場の緊張でもない。ただ静かに息ができる。心の水面に波が立たない。
その感覚に、奏太はまだ名前をつけられない。
いや——名前をつけることを、避けているのかもしれない。つけてしまったら、きっと元には戻れない。この心地よい距離感が壊れるかもしれない。それが怖い。
ボルトを転がす指が止まった。
月明かりの下で、二つの影が石段に落ちている。並んでいる。肩が近い。触れてはいないけれど、近い。
「風が出てきたな」
リーゼが立ち上がった。シャツの裾を軽く払う。
「そうですね」
奏太も工具箱を拾い上げて立った。
二人は並んで歩き出した。宿舎に向かう石畳の道。月明かりが二つの影を地面に伸ばしている。
影は、いつもより近かった。
肩が触れそうで触れない。半歩寄れば手が届く。けれどその半歩を、どちらも踏み出さなかった。踏み出せなかったのか、踏み出さなかったのか。その境界は、本人たちにもわからない。
「明日、起動試験の最終調整があるんですけど」
「ああ。カティアから聞いている」
「ガルベルトさんと計測系のチェックは終わってます。精度も上がってるはずなので、安心してください」
「そうか。なら任せる」
いつもの会話。部隊長と技術者の、業務的なやり取り。でも声のトーンが違った。角が取れている。互いに向ける言葉の温度が、ほんの少し高い。
宿舎の分かれ道に着いた。右が士官棟、左が技術者棟。ここでいつも別れる。
「おやすみなさい、リーゼさん」
「ああ。おやすみ、タカモリ」
リーゼが踵を返した。
三歩。
ぴたり、と止まった。
「タカモリ」
「はい?」
振り返らない。銀灰色の髪が月光の中で白く浮かんでいる。背中が見えるだけだ。その背中が、わずかに揺れた。
「——いや。なんでもない。明日は早い。しっかり寝ろ」
リーゼはそれだけ言って歩き去った。髪が揺れる。月光に溶ける。闇に消える。
奏太はしばらくその場に立っていた。
右手がポケットのボルトを握っている。冷たい金属の感触。それだけが現実を繋ぎ止めている。
リーゼが飲み込んだ言葉。あの一瞬の沈黙に、何が詰まっていたのか。聞けなかった。聞いてしまったら、自分も何かを返さなければならない。まだ名前のないものを、言葉にしなければならない。
それは——まだ、できない。
「月が、綺麗だったな」
独り言が夜に落ちた。
月は答えない。ただ光を降らせるだけだ。石畳にも、格納庫の屋根にも、二人が座っていた石段にも。等しく、静かに。
奏太は工具箱を持ち直して、技術者棟へ歩き出した。ボルトを一度だけ、きゅっと強く握った。
*
翌朝の格納庫。
奏太は作業着を着て、工具箱を提げて、いつも通りだった。すれ違う整備兵に挨拶して、コーヒーを一杯飲んで、計測機器の電源を入れて。
入口でリーゼとすれ違った。
紫の瞳と目が合った。
一瞬。ほんの一瞬、心臓が跳ねた。
「おはよう、タカモリ。今日もよろしく頼む」
「おはようございます。任せてください」
いつもの挨拶。いつもの距離。何も変わっていないように見える。
でも、ガルベルトは気づいていた。太い腕を組んで、琥珀色の目を細めている。カティアは計測器の陰で首を傾げていた。緑の目がきょろきょろと二人の間を行き来する。ディーターだけが黙って茶を淹れていた。いつも通りに。
何かが変わった。
言葉にはできない。数値にも表せない。計測器では捕まえられない。
でも、空気が違う。
それはきっと——月明かりだけが知っている。




