第五十章 魔力回路と機械構造
夜が深まっていた。
格納庫にはもう奏太しかいない。作業灯の白い光が、沈黙したプロトタイプを照らしている。ノートの上に広がる数式は、これまでとは違う方向を向いていた。
統合ではなく、共鳴。
六角ボルトが指の間で回る。かちり。かちり。金属音がリズムを刻むたびに、頭の中で何かが組み上がっていく。
物理機構の振動周波数。三・七から四・二ヘルツ。これを消そうとしていた。ダンパーで殺そうとしていた。だが、振動は消すものではない。
使うものだ。
ペンが走る。紙の上に、新しい回路図の断片が生まれていく。魔力回路の流動周期と物理機構の振動周波数。二つが干渉帯でぶつかる。それが問題だった。だが——もし、ぶつかるのではなく、重なったら?
音叉と同じだ。
同じ周波数の音叉を並べて片方を叩けば、もう片方も鳴り出す。共鳴。振動が伝わるのではない。空気を介して、もう一方を目覚めさせる。
物理機構の振動特性を、魔力回路の周波数に合わせる。完全に合わせる。干渉帯を避けるのではなく、干渉帯のど真ん中で同調させる。そうすれば、ぶつかり合いは——増幅に変わる。
かちり。ボルトが止まった。
奏太の手も止まった。
見えた。
壊れた機械を前にしたとき、因果の糸が浮かび上がるあの感覚。設計図には書かれていない、現実の構造だけが持つ透明な骨格。それが、いま、目の前のノートの上に重なった。
回路図と機構図が、一つの像を結んだ。
ぶつかり合う二つの波。位相がずれているから壊し合う。だが位相を揃えれば、波は重なり、振幅は倍になる。物理の教科書に載っている、当たり前のこと。
当たり前のことを、誰もやっていなかった。
魔力回路と物理機構は別物だ。この世界の技術者はそう考える。だから統合しようとする。あるいは干渉を避けようとする。だが奏太は違う世界から来た。振動と周波数と共鳴の概念は、元の世界では基礎中の基礎だ。
それが、ここでは誰も思いつかない。
奏太は立ち上がった。椅子が倒れた。気にしない。プロトタイプの側面パネルを開き、中を覗き込んだ。魔力回路の配線。その横を走る駆動軸。二つの距離、角度、接触面積。全部を目に焼き付ける。
ペンが走った。数式が溢れた。ノートの一ページがあっという間に埋まった。二ページ目。三ページ目。手が止まらない。
駆動軸のギア比を変える。回転数ではなく、振動の周波数帯を魔力回路の流動周期に近づける。具体的にはギアの歯数を変更し、軸受けの素材を弾性の高いものに差し替え、共振が起きやすい構造にする。
普通なら共振は忌避される。構造物を壊す力だからだ。だが、魔力回路は物理的な構造物ではない。共振で壊れたりしない。むしろ、振動を受け取って出力が増幅される。
理論上は。
奏太はノートを掴んで走った。
*
ガルベルトの工房の扉を叩いたのは、夜中の二時だった。
「師匠! 起きてください!」
カティアの声がした。隣の部屋から、寝巻き姿のカティアが顔を出していた。赤毛がぼさぼさだ。緑の目が半分閉じている。
「タカモリさん? こんな時間に何——」
「見つけた」
奏太はノートを突き出した。息が荒い。走ってきたからだ。
カティアの目が、ノートの数式に落ちた。半分閉じていた瞼が、ゆっくりと開いた。
「……え?」
奏太の背後で、重い足音が響いた。
「何の騒ぎだ」
ガルベルトが扉を開けた。百九十センチの巨体に夜着を纏い、琥珀色の目が不機嫌に光っている。白い顎髭に寝癖がついていた。
「師匠、これを見てください」
奏太はノートを差し出した。ガルベルトはため息をつきながら受け取り、作業灯をつけた。
琥珀色の目が数式を追い始めた。
最初は眠そうだった。次の行で、眉が動いた。三行目で、目つきが変わった。五行目で、ガルベルトは椅子に座った。
「……待て」
低い声だった。もう眠気は欠片もない。
「物理機構の振動を消すのではなく、同調させる? 魔力回路の流動周期に?」
「はい。干渉帯のど真ん中で位相を合わせれば、破壊的干渉が建設的干渉に変わります。出力は相互に増幅される」
ガルベルトがノートを凝視した。ページをめくる。数式を追う。指が計算を辿っている。唇が微かに動いていた。検算しているのだ。頭の中で。
カティアが奏太の隣に立ち、ノートを横から覗き込んだ。赤毛がノートに落ちた。払いもしない。緑の目が、数式の上を走っている。
沈黙が流れた。長い沈黙だった。
ガルベルトが顔を上げた。琥珀色の目が、異様な光を帯びていた。
「馬鹿な」
その一言に、否定の色はなかった。
「だが——これなら」
ガルベルトの声が震えた。二十年以上、帝国最高の魔道技師として生きてきた男が、声を震わせている。
「干渉が増幅に変わる。物理機構が魔力を食うのではなく、魔力が物理機構を押し上げる。同時に物理機構の振動が魔力回路を励起する。相互増幅——」
「永久機関みたいに聞こえますけど」カティアが口を挟んだ。「エネルギー保存則は?」
「外部からの魔力供給がある」奏太が答えた。「永久機関じゃない。効率が跳ね上がるだけだ。魔力入力に対する出力の比率が、干渉ロスをゼロに近づけることで飛躍的に改善される」
カティアの目が丸くなった。
「師匠、これ……本当に動くんですか?」
声が震えていた。期待と不安が入り混じった、細い声だった。
ガルベルトは立ち上がった。椅子が鳴った。百九十センチの巨体が、部屋を狭くした。琥珀色の目が奏太を射抜いた。
「やってみるぞ」
その声には、迷いがなかった。
*
夜中の三時。ガルベルトの工房に灯りが灯った。
作業机の上にノートが広げられ、その隣に白紙の設計図用紙が並んだ。奏太が数式を書き、ガルベルトが魔力回路の設計に落とし込む。二人の手が止まらない。
「ギア比はここだ。従動歯車を三十二枚歯から二十八枚歯に変える。これで駆動軸の振動周波数が〇・三ヘルツ上がる」
「足りん。魔力回路の流動周期は四・〇五ヘルツだ。もう少し寄せろ」
「軸受けの素材を変えます。スチールからリン青銅に。弾性係数の差で振動特性が変わる」
「リン青銅か。耐久性は持つのか」
「持たせます。肉厚を増やして——」
二人の会話は専門用語の応酬だった。傍目には意味不明でも、互いには完璧に通じている。技術者の言語だ。
カティアが割り込んだ。
「待ってください。この数式、三行目の近似が粗すぎます」
奏太が手を止めた。カティアが指差した箇所を見る。
「テイラー展開の二次までで打ち切ってますけど、振動数がこの範囲だと三次の項が無視できません。修正すると係数が一・三倍になります」
奏太はペンを置き、計算し直した。カティアの指摘は正しかった。
「ありがとう。これだと軸受けの仕様も変わる——」
「任せろ」
扉が開いた。ディーターだった。灰色の短髪にぐっしょり夜露がついている。いつの間に呼ばれたのか。誰が呼んだのか。誰も聞かなかった。
ディーターは作業机の端に座り、部品表を広げた。
「リン青銅の軸受け。在庫は二種類ある。内径十六ミリと二十ミリ。どっちだ」
「二十ミリ。肉厚五ミリ以上」
「ある」
それだけだった。ディーターの言葉はいつも必要最低限だ。だが、その最低限が、いつも的確だった。
四人が作業机を囲んだ。奏太が理論を組み、ガルベルトが回路設計に変換し、カティアが計算を検証し、ディーターが実現可能な部品を選定する。一つの歯車のように、四人が噛み合って回っている。
時間が溶けた。
奏太は気づかなかった。窓の外が白み始めていることに。カティアが四杯目の茶を飲み干したことに。ガルベルトの声が掠れ始めていることに。ディーターだけが黙々と部品リストを更新し続けていることに。
気づいたのは、全部が終わったときだった。
*
夜明けだった。
窓から薄い朝日が差し込んで、設計図用紙の上に影を落としていた。作業机の上は紙で埋め尽くされている。数式、回路図、部品表、検証計算。何十枚もの紙が、一つの結論に向かって積み重なっていた。
カティアが最後の検算を終えた。ペンを置く音が、静かな工房に響いた。
「……合いました」
声が小さかった。疲れのせいだけではない。
「物理機構の振動周波数、四・〇五ヘルツ。魔力回路の流動周期、四・〇五ヘルツ。位相差、理論上ゼロ。干渉係数——」
カティアの唇が震えた。
「マイナスからプラスに転じます。出力増幅率、理論値で一・四倍」
格納庫が静まり返った。
一・四倍。それは、設計値の八十パーセント安定どころか、百十二パーセントに到達する数字だった。干渉で食われていたエネルギーが、そのまま増幅に回る。失われていた力が、味方になる。
誰も声を出さなかった。
ガルベルトが設計図を持ち上げた。琥珀色の目で隅々まで確認し、ゆっくりと机に戻した。大きな手が、かすかに震えていた。
ディーターが部品表の最後の行にチェックを入れた。必要な部品はすべて在庫にある。新規発注は不要。つまり——すぐに取りかかれる。
奏太はボルトをポケットから出した。指の間で回す。かちり。たった一回。それで十分だった。
構造が見えている。透明な設計図が、目の前のプロトタイプに重なっている。もう、ぼんやりとした輪郭ではない。くっきりと。完全に。
「明日——いや、今日か」ガルベルトが掠れた声で言った。窓の外の朝日を見て、苦笑した。「今日、改修に入る。全員、少し休め。作業は昼からだ」
カティアが頷いた。緑の目に涙が滲んでいた。悔しさの涙ではない。赤毛が朝日に透けて、金色に光った。
「師匠」
「なんだ」
「動きますよ、これ」
ガルベルトは答えなかった。ただ、白い歯を見せた。笑ったのだ。この厳格な師匠が。
ディーターが立ち上がった。黙って薬缶を手に取り、ストーブに火を入れた。四杯の茶が並ぶ。今度は朝の茶だ。
奏太は湯気の立つ杯を受け取った。温かい。いつもの絶妙な温度。疲れた体に染みる温度。
一口飲んで、息をついた。
窓の外で、朝日が昇っていく。格納庫の屋根に光が当たり、金属が鈍く輝いた。アウローラ試作一号機は、まだ沈黙している。だが、もうすぐだ。
理論は揃った。設計は終わった。部品もある。あとは、手を動かすだけだ。
奏太はボルトをポケットに戻し、茶を飲み干した。
今日から、また始まる。




