第五章 前線基地ヴァルハイム
黒銀の機体が歩みを止めたのは、荒野を二時間ほど走った後だった。
地平線の先に、灰色とは違う色が見えた。土嚢と鉄条網。高い壁。砲台のようなものが等間隔に並び、その内側に複数の建造物が密集している。
前線基地ヴァルハイム。
リーゼが短く告げたその名前を、奏太は心の中でゆっくり繰り返した。
基地の門に近づくと、見張りの兵士が慌てた様子で走り寄ってきた。リーゼの機体を見て一瞬安堵し、次にコックピットから降りてきた見慣れない男——奏太——を見て困惑する。
「ヴァイスフェルト中尉、ご無事で! その……そちらの方は?」
「私の機体を直した男だ」
それだけ言って、リーゼは歩き出した。奏太を振り返りもしない。ついてこいとも言わないが、ついてくるものだと思っている足取りだ。
奏太は慌てて後を追った。
基地の中は、想像とは少し違った。もっと殺伐とした軍事施設を想像していたが、実際には生活の匂いがする場所だった。兵舎の窓から洗濯物が覗き、通路を行き交う兵士たちの表情は張り詰めつつも日常のそれだ。すれ違う兵士が奏太の作業着姿を見て怪訝な顔をするが、リーゼの横を歩いているので声はかけてこない。
食堂の前を通りかかると、談笑する声が漏れてきた。食器の触れ合う音と、何か煮込み料理のような匂い。戦場のすぐ裏側に、こんなにも普通の風景がある。
ただ、格納庫の前を通ったとき、奏太の足が止まった。
巨大な扉が半開きになった格納庫の中に、十数機の魔道兵器が並んでいる。どれも損傷していた。装甲が凹み、関節が歪み、中には片腕が丸ごとなくなっている機体もある。整備士らしき人物たちが忙しく立ち回っているが、明らかに人手が足りていない。
損傷、劣化、部品不足。格納庫全体から疲弊の気配が滲み出している。
奏太はエンジニアの目で一機ずつ見ていた。左端の機体は肩関節が完全に破壊されている。隣の機体は装甲がめくれ上がり、内部の管——伝達経路——が露出している。その隣は脚部のフレームが曲がったまま放置されている。直す人手が追いつかないのだ。
奏太の指が、無意識にツールポーチの蓋を撫でていた。
リーゼが振り返った。奏太が格納庫に見入っていることに気づいたのだろう。
「来い。まず司令に報告する」
基地司令部は質素な建物だった。コンクリートブロックを積んだだけの壁に、錆びた鉄扉。前線拠点にしては小さいが、堅牢さはある。
奏太は入口で待たされ、リーゼが中に入った。廊下の長椅子に座って待つ間、行き交う将兵たちの視線を感じた。あの見慣れない服を着た男は何者だ——そういう目だ。居心地は最悪だったが、仕方ない。ここでは自分こそが異物なのだ。
十分ほどで呼ばれる。
部屋に入ると、デスクの向こうに壮年の軍人が座っていた。白髪交じりの短髪に、深い皺が刻まれた顔。だが目だけが鋭い。奏太を見る視線は穏やかだが、品定めするような奥行きがあった。
ヘルムート・ヴェーバー少将。基地司令官だ。
「ヴァイスフェルト中尉から報告は聞いた。異世界からの転移者で、魔力を持たないが機体の修理ができると」
「はい。その——信じてもらえるかわかりませんが」
「信じる信じないは別として、事実として中尉の機体は修復されて戻ってきた。中尉が自力で直せるとは思えんから、誰かの手が入ったのは確かだ」
ヴェーバーの声には嫌味がなかった。淡々と事実を積み上げる、軍人らしい合理性。
「異世界人の受け入れ前例はない。だが、整備人員は常に足りていない」
少将は一拍置いた。
「しばらく預かる。身分は——そうだな、臨時の民間協力者ということにする。食事と寝床は出す。その代わり、多少の雑用は覚悟しろ」
「ありがとうございます」
「礼はいらん。使える人材を遊ばせる余裕がないだけだ。ただし——」
ヴェーバーの目が一段鋭くなった。
「問題を起こしたら、即刻放り出す。前線基地に余計な混乱は不要だ」
「はい」
奏太は素直に頷いた。選択肢がないことは自覚している。ここで放り出されたら、あの荒野で干からびるだけだ。帰る方法の手がかりもない。
ならば今できることをやる。それだけだ。
司令部を出ると、リーゼは既にいなかった。代わりに、中年の女性が廊下で待っていた。
「あんたが例の異世界人かい? 私はペトラ。食堂の賄い担当よ」
丸顔に柔らかい笑みを浮かべた女性だった。五十代くらいか。軍人ではないのか、軍服ではなく白いエプロンをつけている。両手は粉で少し白くなっていた。
「とりあえず部屋に案内するから、ついといで」
ペトラに連れられて整備棟の端にある小部屋に案内された。かつて資材置き場だったらしい狭い部屋で、簡易ベッドと小さなテーブルが一つ。窓から格納庫の一部が見える。
「狭くて悪いけど、空いてるのがここしかなくてね。寝具は新しいのを持ってくるから」
「十分です。ありがとうございます」
「あと、まだ何も食べてないんでしょう? その顔色見ればわかるわよ。ちょっと待ってなさい」
ペトラが出ていって五分もしないうちに、湯気の立つスープとパンが乗った盆を持って戻ってきた。
「配給品だから大したものは作れないけどね。でも、まずは温かいものを食べなさい」
奏太はベッドの端に腰掛け、スープを一口すすった。
温かかった。
塩味と野菜の甘みだけの素朴な味だ。だがその温かさが胃に落ちた瞬間、体の芯に沁みた。疲労と緊張でがちがちに強張っていた体が、わずかに緩む。
パンは硬かったが、スープに浸して食べると悪くない。噛むたびに穀物の味がじわりと広がる。
「ありがとうございます。美味しいです」
「そう? よかった」
ペトラが微笑んで部屋を出ていった。ドアが閉まると、奏太は一人になった。
スープの湯気を見つめる。
油の匂いが染みついた父の町工場が頭に浮かんだ。仕事を終えた父が、母の作った味噌汁を「うまい」と言って飲む光景。台所の電気が温かくて、出汁の匂いが家中に広がっていた。
機械は正直だ——父の口癖。
あの口癖を聞くことは、もうないのだろうか。帰る方法はわからない。この世界がどこで、なぜ自分がここにいるのかもわからない。わかっているのは、帰る手段が何もないということだけだ。
スープの湯気が、視界をぼんやりと歪ませた。
奏太は目を伏せ、スープを最後の一滴まで飲み干した。
盆をテーブルに置き、窓の外を見る。格納庫の明かりが漏れている。あの中に、損傷した機体たちがいる。整備士たちが懸命に修理を続けている。
帰る方法がわからないなら、今ここでできることをやるしかない。
窓の外に目を移す。日が傾き始めていた。この世界にも夕暮れがあるのだ。荒野の上空が茜色に染まっていく。東京の春の夕焼けとは色が違う。もっと赤が深い。
奏太はベッドに横になった。硬い簡易マットレスが背中に当たる。だが荒野のアスファルトよりはずっとましだ。
目を閉じると、あの二重構造の関節が瞼の裏に浮かんだ。骨格と管と紋様。未知の技術体系。明日から、あれと向き合う日々が始まる。
意外と——悪くないかもしれない。
そう思った瞬間、残業明けの疲労が一気に押し寄せて、奏太はもう眠りに落ちていた。




