第四十九章 試作一号
格納庫の中央に、それは鎮座していた。
アウローラ試作一号機。帝国の魔道整備技術と、異世界の機械工学を融合させた史上初の機体。設計図の上では完璧だった。理論値は申し分ない。計算も何度も検証した。
だからこそ、誰もが期待していた。
「起動テスト、始めます」
奏太の声が格納庫に響いた。ポケットの六角ボルトを一度だけ握り、すぐに離す。深呼吸。手順は頭に入っている。
ガルベルトが太い腕を組み、琥珀色の目でプロトタイプを見据えている。カティアが手元の計測器を構え、緑の目を輝かせている。ディーターは壁際に立ち、灰色の目で静かに全体を見渡していた。
奏太は起動レバーに手をかけた。
「魔力回路、接続開始」
ガルベルトが低く応じ、両手の魔道刻印が淡く光った。魔力が回路に注がれる。設計通りだ。ここまでは問題ない。
奏太がレバーを引いた。
物理機構が動き出す。歯車が噛み合い、駆動軸が回転を始める。振動が伝わってくる。指先に、足裏に。機体が目覚める感覚。
「出力上昇。二十パーセント……三十……四十——」
カティアの声が弾んでいた。数値が順調に伸びている。いける。誰もがそう思った。
「五十パーセント——あれ?」
カティアの声が止まった。
計測器の針が震えている。出力値が乱高下を始めた。五十二、四十七、五十五、四十三。振れ幅が大きすぎる。
「魔力回路に干渉が出ている」ガルベルトの声が低くなった。琥珀色の目が鋭くなる。「物理機構からの振動が回路を撹乱してるぞ」
「駆動軸の回転数を落とします——」
奏太が調整に入った。だが、出力は安定しない。回転数を下げれば魔力回路の出力も落ちる。上げれば干渉が酷くなる。どちらに振っても、答えが出ない。
「六十パーセントに届かない」カティアが唇を噛んだ。「設計値では八十パーセントまで安定するはずなのに」
奏太は無意識に指を動かしていた。頭の中で回路図と機構図が重なる。干渉の原因はわかっている。物理機構の振動周波数と、魔力回路の流動パターンがぶつかっている。設計段階では許容範囲と判断した誤差が、実機では想定以上に増幅されていた。
「停止します」
奏太がレバーを戻した。機体が沈黙する。歯車の回転が減速し、振動が消えていく。
格納庫に、重い静寂が落ちた。
*
二時間後。
格納庫の片隅に設けられた作業机に、計測データの紙束が積み上がっていた。奏太は椅子に座り、数値とにらめっこしていた。六角ボルトが親指と人差し指の間で回っている。
ガルベルトが隣の椅子に重い体を沈めた。百九十センチの巨体が軋んだ。
「駆動軸の振動周波数が三・七ヘルツから四・二ヘルツの間で共振を起こしてる。魔力回路の流動周期とちょうど干渉帯に入ってるんだ」
「わかっている」ガルベルトが唸った。「だが回路の流動周期は変えられん。魔力の性質そのものだからな。物理機構の側で吸収できんのか」
「やってみた。ダンパーを入れる計算も回した。だけど振動を殺すと駆動効率が三割落ちる。それじゃ意味がない」
二人は黙った。技術者同士の沈黙だった。答えが見えないときの、重い沈黙。
カティアが小走りで戻ってきた。手には新しい計算用紙。
「師匠、タカモリさん。調律パターンを変えてみました。魔力の流動を断続的にして、干渉帯を避ける方法です」
奏太はその計算に目を通した。考え方は正しい。だが——
「断続供給だと出力の山と谷ができる。戦闘中にそれは致命的だ」
カティアの肩が落ちた。緑の目に悔しさがにじむ。
「すみません……」
「謝るな」ガルベルトが短く言った。「方向性は悪くない。だが足りん」
奏太はデータの束をめくった。一枚、また一枚。数字が頭の中を流れていく。だが、掴めない。構造が見えてこない。
壊れた機械を前にしたとき、いつもなら見えるのだ。回路が、構造が、因果の流れが。目の前に透明な設計図が浮かぶように。
今は——見えない。
六角ボルトが指の間で空回りした。
*
その声は、夕方に来た。
「失礼します」
革靴の音が格納庫に響いた。きっちりと七三に分けた黒髪。一本の皺もない軍服。手には革鞄。
ゲルナー少佐だった。
「起動テストの結果を拝見しました」
万年筆を繰りながら、ゲルナーは計測データに目を走らせた。黒い目が数字を追う速度は速い。この男の技術理解は本物だ。だからこそ、次に来る言葉も本気だとわかる。
「出力安定域が五十パーセントに届いていません。設計値との乖離が著しい」
「まだ一回目のテストです」奏太は答えた。
「承知しています。しかし——」ゲルナーの万年筆が止まった。「このままでは予算の追加承認は困難です」
その言葉は、静かだった。怒りでも嘲りでもなかった。
ゲルナーの目を見た。黒い目の奥に、奏太は焦りを見た。事務的な冷たさではない。何かを知っている目だ。
「以前、有望な開発計画がありました」ゲルナーは革鞄の留め具を指で弾いた。「理論は正しかった。技術も本物だった。しかし試作段階で成果が出ず、予算が打ち切られた。その技術が実用化されていれば、前線で死なずに済んだ兵士が何人もいた」
格納庫の空気が重くなった。ガルベルトの目が細まった。ゲルナーの声を、じっと聞いている。
「私は同じことを繰り返したくない。しかし上層部は数字で判断します。感情では予算は動かない」
ゲルナーは万年筆を胸ポケットに差し、一礼した。
「次のテストまでに改善が見られなければ、報告書には現状をそのまま記載します。——それが私の仕事です」
革靴の音が遠ざかっていった。
カティアが拳を握りしめている。ガルベルトは腕を組んだまま、顎の短い髭を撫でた。奏太は手を止めて、プロトタイプを見上げた。
沈黙した鉄の塊。設計では動くはずだった。計算では正しいはずだった。
だが、動かない。現実は数式より複雑だ。
*
夜になった。
格納庫の明かりは落とされず、作業灯だけが白い光を投げている。奏太はプロトタイプの足元に座り込み、手元のノートに計算式を走らせていた。消しては書き、書いては消す。紙が黒くなっていく。
ガルベルトは機体の側面パネルを開け、魔力回路を直接触診していた。魔道刻印が淡く光り、指先で回路の状態を読み取っている。額に汗が浮いている。二十年以上の経験が、答えを探している。
カティアは計算用紙を床に広げ、三通り目の調律パターンを組んでいた。舌先を少し出して、集中している。だがその目には疲労が見えた。
ディーターは黙って工具を磨いていた。灰色の目は何も語らない。
時計の針が十時を回った頃、カティアが三通り目の計算を終えた。
「……駄目です。どのパターンでも干渉は解消できません」
声が震えていた。頑張った。精一杯やった。それでも足りない。そういう声だ。
ガルベルトがパネルを閉じた。琥珀色の目が疲れを映している。
「回路の側からも限界だ。流動パターンの変更は回路そのものの再設計が要る。時間がかかりすぎる」
奏太はノートを閉じた。答えが出ない。六角ボルトを握りしめた。金属の冷たさが掌に染みる。
チームの空気が沈んでいた。誰も口を開かない。失敗の重さが、全員の肩にのしかかっている。
ゲルナーの言葉が頭をよぎる。次のテストまでに改善が見られなければ——。
予算が切られたら、アウローラ計画は終わる。ここまで積み上げてきたものが、全部。
カティアが目をこすった。泣いてはいない。でも、近い。
その時だった。
こぽこぽと湯が沸く音がした。
全員が顔を上げた。
格納庫の隅で、ディーターが茶を淹れていた。整備用のストーブの上に薬缶を置き、人数分の杯を並べている。骨張った手が、丁寧に茶葉を量っていた。
一杯目をガルベルトの前に置いた。二杯目をカティアに。三杯目を奏太に。最後に自分の分。
ディーターは自分の杯を持ち上げ、一口啜った。
そして、短く言った。
「まだ一回目だ」
たった六文字。それだけだった。
だが、その声は静かで、重くて、温かかった。二十年以上整備場に立ち続けた男の声だった。
ガルベルトが鼻を鳴らした。杯を取り、一口飲んだ。
「……ああ。そうだな」
カティアが両手で杯を包んだ。茶の湯気が、赤毛を揺らした。緑の目に少しだけ光が戻った。
「……はい」
奏太は茶を受け取った。温かかった。ディーターの茶は、いつも絶妙な温度だ。熱すぎず、ぬるくもない。すぐに飲める温度。つまり——今必要な温度。
一口飲んだ。体に染みた。
カティアが鼻をすすって、計算用紙を片付け始めた。ガルベルトが腰を上げ、大きな体を伸ばした。背骨が鳴った。
「今日は引き上げるぞ。頭が腐っとる状態で触っても碌なことにならん」
カティアが頷いた。ガルベルトに続いて格納庫を出ていく。ディーターも杯を洗い、静かに姿を消した。
奏太だけが残った。
*
一人になった格納庫は広い。
プロトタイプが作業灯の下に佇んでいる。起動しない試作機。失敗作。
奏太はその前に立った。六角ボルトを取り出し、指の間で回す。かちり、かちり。小さな金属音が格納庫に響く。
壊れた機械を直すのは得意だ。構造が見えれば、あとは手を動かすだけだった。元の世界でも、この世界でも。
だが、これは「壊れた」のではない。「まだ完成していない」のだ。
見えていないものがある。設計図の上には存在しない、現実の機体だけが持つ何か。振動と魔力の干渉。紙の上では誤差だったものが、実機では壁になる。
奏太はプロトタイプの側面に手を当てた。冷たい金属。振動はもう止まっている。だが、さっきの感触が指に残っていた。あの不安定な震え。歯車と魔力がぶつかり合う、ちぐはぐな振動。
統合しようとしていた。物理機構と魔力回路を一つにしようと。だが、ぶつかった。当然だ。別のものを無理やり一つにしたら、そうなる。
ボルトが止まった。
奏太の目が細くなった。暗い茶色の目に、何かが浮かんだ。まだ形にならない。輪郭だけが、ぼんやりと。
統合ではなく——
ボルトが再び回り始めた。かちり。かちり。
あの振動。物理機構の振動周波数。三・七から四・二ヘルツ。そして魔力回路の流動周期。その二つが干渉するのではなく——もし、同調したら?
まだ見えない。まだ掴めない。だが、輪郭の端が光った気がした。
奏太は呟いた。
「構造が見えた……かもしれない」
声は小さかった。確信ではない。予感だ。壊れた機械の奥に因果の糸が浮かび上がる、あの感覚の前触れ。
六角ボルトが指の間で光った。作業灯の白い光を反射して。
試作一号は沈黙したまま、そこに在る。失敗したプロトタイプ。だが奏太には、それが終わりではなく始まりに見えた。
まだ一回目だ。ディーターの言葉が胸の中で響いていた。
奏太はノートを開き直した。新しいページ。白い紙。
ボルトをポケットに戻し、ペンを取った。
書き始めた数式は、これまでとは違う方向を向いていた。




