第四十八章 リーゼの休日
朝から空が青かった。
雲一つない。風もない。砲声も、通信の雑音もない。非番の朝は、世界がやけに静かだ。
奏太は工房の椅子で目を覚ました。また寝落ちしていた。作業台の上にはアウローラの補助フレーム設計図が広がり、ペンが転がっている。頬に紙の跡がついているのが、鏡を見なくても分かった。
「起きたか」
声がして振り向くと、リーゼが工房の入口に立っていた。
銀灰色の長髪をいつもより低い位置で結んでいる。軍服ではなく、白いブラウスに淡い青のスカート。羽織ったカーディガンの袖口から、白い手首が覗いていた。
見慣れない格好だった。
「今日は何を——」
「買い物に行く。付き合え」
命令形。しかし声の温度がいつもと違う。戦場の指揮官の声ではなく、もっと軽い。年相応の、とでも言うべき響き。
「え、でも補助フレームの設計が途中で——」
「非番だ。設計図は逃げない」
リーゼの紫の瞳が、有無を言わせない光を湛えていた。奏太はポケットの六角ボルトに指を触れ、一度だけ迷って、立ち上がった。
*
城下の市場は朝から賑わっていた。
露店が通りの両側にびっしりと並び、野菜、果物、干し肉、香辛料。色と匂いの洪水だ。売り子の声が重なり合って、一つの大きなざわめきになっている。戦時中とは思えない活気だった。人は食べなければ生きていけない。だから市場は止まらない。
リーゼが先を歩いた。
歩幅が小さい。いつもの倍は時間をかけて歩いている。露店を一つ一つ覗き込み、品物を手に取り、値段を聞いて、時に首を傾げ、時に頷く。その仕草がどれも軍人のそれではなかった。
「このカボチャ、形がいいな」
リーゼが丸々と太ったカボチャを持ち上げた。両手で抱えるほどの大きさ。紫の瞳が品定めの真剣さで光っている。戦場で敵を見据える目と同じ鋭さを、カボチャに向けていた。
「リーゼ中尉、料理するんですか」
「たまにはな。ペトラばかりに任せるのも悪い」
カボチャを買い物籠に入れた。ずしりと重い。奏太が荷物持ちを引き受けたのは、暗黙の了解だった。
次は肉屋。リーゼは塊肉を吟味し、脂の入り具合を確認した。店主と二言三言やり取りして、値切る。その手際は実に慣れていた。
「中尉、買い物慣れてますね」
「士官学校に入る前は普通にやっていた。母と二人で、毎週末に」
言ってから、リーゼは少し黙った。「毎週末」という言葉が、過去のものであることを噛みしめているようだった。
「いい肉だ。これにする」
話を切り替えるように、リーゼは肉を選んだ。籠がさらに重くなる。奏太の腕がやや悲鳴を上げた。整備で鍛えた腕だが、食材の重さは機体の部品とは質が違う。
香辛料の店でローズマリーとタイムを選び、パン屋で焼きたてのライ麦パンを買った。パンの匂いが籠から立ち上り、腹が鳴った。朝食を食べていないことを思い出した。
「ほら」
リーゼがパンの端をちぎって差し出した。
「え」
「食べていないんだろう。顔に書いてある」
受け取ると、まだ温かかった。一口齧る。小麦の甘みが舌に広がった。美味い。単純に、美味い。
リーゼも自分の分をちぎって口に運んだ。頬がわずかに緩んでいる。軍人の顔ではなかった。二十六歳の女性の、休日の顔だった。
*
それは金物屋の露店で起きた。
市場の外れ、日用品を扱う一角に、雑多な金属部品を並べた店があった。鍋、釘、蝶番。実用品ばかりだ。奏太は何気なく目を向けて——足が止まった。
山積みの雑貨の隅に、小さな板材が数枚。表面の光沢が周囲とは明らかに違う。
「すみません、これ何の合金ですか」
店主に声をかけた。火傷だらけの指が板材を拾い上げる。重さ、硬さ、表面の粒度。指先が勝手に情報を読み取っていく。
「ああ、それか。北方の鉱山から流れてきた端材だよ。何に使うか分からなくてな、ずっと売れ残ってる」
奏太は板材を光にかざした。結晶構造が細かい。耐熱性が高そうだ。しかも軽い。この比強度——もしかして。
「この合金、アウローラの補助フレームに使えるかもしれない」
目が輝いていた。自覚はない。だが声のトーンが明らかに変わっていた。設計図の上で悩んでいた問題の、答えがここにあるかもしれない。フレーム接合部の熱膨張差を吸収するには、こういう素材が——
「タカモリ」
リーゼの声が、思考を断ち切った。
振り返る。リーゼが腕を組んで立っていた。紫の瞳がじっとりとこちらを見ている。
「今日は何の日だ」
「え。非番——休日、ですね」
「そうだ。休日だ」
「はい」
「買い物に来ている」
「はい」
「食材を選んでいた」
「はい」
「なのにお前は合金の話を始めた」
奏太は板材を手に持ったまま固まった。しまった、と思った。思ったが、手は板材を離さなかった。
「いや、でもこれ本当にすごい素材で——結晶構造がですね、通常のクロム鋼と比較して——」
「聞いていない」
リーゼの声は呆れの色を帯びていた。だが、怒ってはいない。口元がわずかに歪んでいる。笑いを堪えているのだ。
「……買ってもいいですか」
「好きにしろ」
溜息混じりの許可だった。奏太は板材を五枚まとめて購入した。籠の中で、カボチャと肉とパンと合金が同居する異様な光景が出来上がった。
リーゼは半歩先を歩き始めた。奏太がその背中を追う。
リーゼは気づいていなかった。いや、気づかないふりをしていたのかもしれない。合金に興奮する奏太を呆れた目で見ていた自分の表情が、どんな場面の指揮官の顔よりも柔らかかったことに。どこにいても、何をしていても、機体のことを考えてしまう男。そのまっすぐさを見ている自分の瞳が、穏やかな色をしていたことに。
*
帰り道、花屋の前を通りかかった。
露店ではなく、小さな店舗だった。木製の棚に陶器の花瓶が並び、色とりどりの花が飾られている。薔薇、百合、矢車菊、名前の知らない白い小花。甘い香りが通りにまで漏れ出していた。
リーゼの足が止まった。
紫の瞳が花に向いた。何かを見つけたように、ふっと表情が変わった。店先に歩み寄り、淡い紫色の花を手に取った。小ぶりだが品のある花だった。花弁が薄く透けて、光を含んでいるように見える。
リーゼはその花を手のひらの上で転がすように眺めた。銀灰色の髪が頬にかかる。白いブラウスの胸元に花を近づけ、少しだけ顔を傾けた。花の匂いを嗅いでいるのだろう。
奏太はその光景を見ていた。
見ていて、口が勝手に動いた。
「似合いますね」
言ってから、何を言ったか理解した。
リーゼが動きを止めた。花を持つ手がそのまま固まった。紫の瞳が一瞬だけ見開かれ、奏太を見た。頬に薄く色が差したのは、光の加減か。
沈黙が二秒ほど続いた。
二秒が長かった。
「——そうか」
リーゼは花に視線を戻した。声はいつも通り。だが、花を棚に戻す手がわずかにぎこちなかった。
「買わないんですか」
「枯らすだけだ。軍人の部屋に花は持たない」
そう言いながらも、立ち去る足がほんの少しだけ遅かった。
奏太は自分が何か不用意なことを言ったらしいと感じていた。だが、何が不用意だったのかは分からなかった。似合うものを似合うと言っただけだ。紫の花を手にした銀灰色の女性は、事実として綺麗だった。それ以上の意味は——たぶん、ない。
ポケットの六角ボルトを回した。思考が花からフレーム設計に戻りかけて、慌てて引き戻した。今日は休日だ。
*
帰路についた。
陽が傾き始めていた。西の空が橙色に染まり、市場の喧騒が遠ざかっていく。二人の影が石畳の上で長く伸びていた。
籠は重い。カボチャと肉とパンと合金板。奏太の腕は限界に近かったが、文句は言わなかった。言う理由がなかった。
リーゼは隣を歩いていた。半歩前ではなく、隣。市場では常に先を歩いていたのに、いつの間にか並んでいた。
どちらも無言だった。だが気まずい沈黙ではない。何も言わなくていい時間というものがある。
基地の正門が見えてきた頃、リーゼが口を開いた。
「こういう時間があるから、戦える」
小さな声だった。奏太に向けた言葉なのか、独り言なのか。その境界が曖昧な、柔らかい響き。
奏太は横を見た。リーゼは前を向いていた。紫の瞳が夕陽を映して、琥珀に近い色を帯びている。
「僕もです」
奏太は言った。思ったことをそのまま。
リーゼがわずかに首を傾けた。視線は前のまま。だが、口元がかすかに動いたのが見えた。笑った、のだと思う。
正門をくぐった。歩哨の兵士が敬礼し、リーゼが軽く手を上げて応じた。その瞬間、スイッチが入るように背筋が伸びた。軍人の顔に戻っていく。
格納庫の前で足を止めた。
「タカモリ」
「はい」
「合金板、ちゃんと使えよ。買ったからには」
「もちろんです。明日から試験を——」
「明日な。今日じゃない」
念を押された。奏太は苦笑した。
リーゼが籠から食材だけを取り出し、合金板を奏太に残した。白いブラウスの背中が食堂棟に向かって遠ざかっていく。夕陽を背にしたその姿は、やはり軍人というより——年相応の女性だった。
奏太は合金板を手に取った。五枚。ずしりと重い。表面を親指で撫でた。明日からの設計が楽しみだ。この素材なら、もっといいものが作れる。
だが今は——今日は休日だ。
ポケットの六角ボルトを一度だけ回して、格納庫に背を向けた。
西の空が燃えていた。橙から赤へ、赤から紫へ。空の色がリーゼの瞳と同じ色を経由して、夜に沈んでいく。
明日からまた、戦いの日々が始まる。
だが今日は、カボチャと肉とパンと合金板の重さだけが、腕に残っていた。




