第四十六章 設計図
三日目の朝、奏太は黒板を全部消した。
前日までに描いた線を、一本残らず。カティアが「え」と声を上げ、ディーターが手を止めた。ガルベルトだけは腕を組んだまま、琥珀色の目を動かさなかった。
「やり直します」
奏太はチョークを握り直した。
「昨日までの設計じゃ駄目だ。物理構造と魔力回路が喧嘩してる」
黒板には二日かけて描いた機体の骨格図があった。現代工学の構造計算に基づいた、合理的な設計。応力分散、重量配分、関節可動域。どれも最適解に近い自信があった。
だが魔力回路を重ねた瞬間、破綻した。
「回路の主幹線を通すには、ここの隔壁を抜くしかない。でも隔壁を抜けば胸部フレームの剛性が三割落ちる」
奏太は新しい線を引きながら説明した。
「逆に剛性を優先すると、主幹線が迂回して回路全長が一・五倍になる。魔力伝達のロスが許容範囲を超える」
「どっちを選んでも詰む、ってことですか」
カティアがノートのペンを止めた。赤毛が作業灯の下で銅色に光っている。
「そういうことだ」
ガルベルトが壁から背を離した。百九十センチの巨体が一歩前に出ると、黒板の前が狭くなる。
「物理屋の最適解と、魔道屋の最適解は一致しない。一致した例を、俺は二十三年間見たことがない」
低い声だった。経験に裏打ちされた断言。
「だから今まで、物理構造は物理屋が決めて、魔力回路は後から無理やりねじ込んできた。それが帝国の機体設計のやり方だ。結果、回路はいつも最適配置から遠い。効率は六割がいいところだ」
「六割」奏太は呟いた。「残りの四割は、捨ててたってことですか」
「捨ててた。誰もそこに手を突っ込もうとしなかった。面倒だからだ」
ガルベルトの声に苛立ちがあった。二十三年間、ずっと感じていた苛立ちだろう。
奏太はチョークを置いた。黒板の前で腕を組み、白い粉がついた指で顎を撫でた。
*
午後。格納庫の専用区画に、紙が散乱していた。
奏太は作業台でペンと定規を走らせていた。前の世界でCADの画面に向かっていた頃の感覚が、指先に蘇る。頭の中の三次元を、紙の上の二次元に落とし込む。全て手描き。もどかしいが、手で描くからこそ見えるものもある。
「ここだ」
奏太はペンを止めた。
胸部フレームの断面図を睨む。問題は隔壁の位置だ。構造計算上、隔壁は胸部中央に必要。だが魔力回路の主幹線も胸部中央を通したい。同じ場所を二つのものが奪い合っている。
ならば——隔壁そのものを回路にできないか。
発想の転換。構造材と回路を分離するのではなく、統合する。隔壁の素材に魔力伝導性を持たせれば、隔壁を残したまま回路を通せる。
奏太は興奮して立ち上がり、ガルベルトの方を向いた。
「ガルベルトさん。隔壁素材に魔力を通すことって可能ですか」
ガルベルトは椅子の背にもたれ、腕を組んでいた。琥珀色の目が細くなる。
「可能か不可能かで言えば、可能だ。魔力伝導合金というものがある。ただし——」
「ただし?」
「伝導率が低い。純正の回路管の三分の一以下だ。加工も難しくなる」
「三分の一じゃ、主幹線の代替にはならない」
「ならん。だが」
ガルベルトが黒板に歩み寄り、チョークを取った。太い指が繊細な線を引く。
「主幹線を一本にこだわる必要があるか」
描かれたのは、樹の枝のような図だった。太い一本の幹ではなく、細い線が何本も分岐して走っている。
「分散配管か」奏太が目を見開いた。
「主幹線を複数の細い回路に分割して、隔壁の中を並列で通す。一本あたりの伝導量は少なくて済む。本数で補える」
「でも並列回路は干渉を起こすんじゃ——」
「起こす。だから実用例がほとんどない」
ガルベルトがチョークを置いた。
「干渉の制御が、この設計の核になる。解けるか?」
挑むような視線だった。奏太はその視線を正面から受けた。
「やります」
「根拠は」
「ない。でもやる」
ガルベルトが鼻で笑った。だが目は笑っていなかった。真剣な、期待の目だった。
*
夜。格納庫に残っているのは四人だけだった。
ゲルナーは「明日の報告書を書く」と言って兵舎に戻った。あの男は毎日、技術本部に進捗報告を送っている。几帳面な字で。
奏太とガルベルトは黒板を挟んで向かい合っていた。
「並列回路の干渉パターンは三種類ある」
ガルベルトが語り始めた。チョークが走る。
「位相干渉、振幅干渉、共鳴干渉。このうち位相干渉は回路間の距離で制御できる。振幅干渉は負荷の均等分散で抑えられる。問題は共鳴だ」
「共鳴」
「二本以上の回路が同じ周波数で振動すると、魔力が暴走する。最悪の場合、回路が焼き切れる。パイロットごと」
奏太の背筋が冷えた。
設計ミスが人を殺す。回路が焼ければ、コックピットの中で人が死ぬ。
「共鳴を避けるには、各回路の固有振動数をずらす必要がある。配管の長さ、太さ、素材——全部変える。同じ回路は二本作らない」
「それ、設計がとんでもなく複雑になりませんか」
カティアが口を挟んだ。ノートにはびっしりとメモが詰まっている。右手の魔道刻印が、作業灯にぼんやり光っていた。
「なる」ガルベルトが断言した。「一本一本の回路を個別に設計する。量産機では絶対にやらない手法だ」
「でもこれは量産機じゃない」奏太が言った。「一機だけの、特注品です」
沈黙が落ちた。
カティアがペンを唇に当てて考え込んでいた。緑の目が図面と黒板の間を何度も往復する。
「あの——」
小さな声だった。だが全員の視線がカティアに集まった。
「配管の経路なんですけど」
カティアが立ち上がり、黒板に近づいた。ガルベルトの隣に立つと、身長差が際立つ。チョークを受け取り、既存の図の横に新しい線を描き始めた。
「師匠の案だと、分岐点が胸部に集中してますよね。ここで全部分かれて、四肢に向かう。でも——分岐点を分散させたらどうですか」
描かれたのは、胸部からいきなり枝分かれするのではなく、背骨に沿って段階的に分岐する配管図だった。
「背部主管から、肩で二本、腰で二本、段階的に分ける。こうすれば一箇所に集中する回路の本数が減って、共鳴のリスクも下がります」
ガルベルトが黒板を見つめた。
長い沈黙だった。カティアの指がチョークを握ったまま微かに震えている。師匠に意見するのは、彼女にとって相当な勇気が要ったはずだ。
「……筋は悪くない」
ガルベルトが言った。
カティアが息を呑んだ。奏太もだった。ガルベルトの「悪くない」は最上級の褒め言葉だ。だが今回は「筋は」が付いている。もう一段上だ。
「分岐点を分散させれば、局所的な魔力密度を下げられる。共鳴の閾値に達しにくくなる。理にかなっている」
ガルベルトがカティアの描いた線をなぞった。太い指がゆっくり動く。
「ただし、背部主管を通すとなると背面装甲の設計が変わる。鷹森、そこはお前の領分だ」
「やります」
即答した。背面装甲の再設計。難題だが、不可能じゃない。
カティアが頬を紅潮させて席に戻った。ノートに書き込む字が震えている。
「カティア」
ガルベルトが振り向かずに言った。
「はい」
「次からはもっと早く言え。遠慮する暇があったら案を出せ」
「——はい!」
声が跳ねた。赤毛が揺れた。緑の目が輝いていた。
*
深夜。
黒板は三枚目に突入していた。足りなくなって別の区画から引っ張ってきた。
奏太は作業台の上に広げた設計図に、最後の線を引いた。
「第一稿、完成」
声がかすれていた。水を飲むのも忘れていた。
机の上には空になったコーヒーカップが四つ並んでいる。ガルベルトのは酒瓶だったが、中身は空だ。
「見せろ」
ガルベルトが図面を覗き込んだ。カティアも横から顔を出す。三つの頭が作業台の上で密集した。
設計図は三枚一組だった。一枚目が物理構造の全体図。二枚目が魔力回路の配管図。三枚目が——統合図。物理構造と魔力回路を重ね合わせた、この機体の核心。
「統合図の密度がすごいですね」カティアが呟いた。
統合図は線が入り組んで、一見すると何が何だかわからない。だがよく見れば、全ての線に意味がある。構造材と回路が絡み合い、一つの体系を成している。
「これは」ガルベルトが低く言った。「今までの機体とは根本的に違う」
「ええ。構造と回路を別々に作って後から合わせるんじゃなくて、最初から一体として設計してます。骨格の一部が回路で、回路の一部が骨格。分離できない」
「分離できないということは」
「壊れる時は全部壊れます。部分修理は難しい」
正直に言った。欠点を隠す気はなかった。
「整備性は最悪だな」
声は作業台の隅からだった。ディーターだ。灰色の短髪の男は、ずっと黙って工具を磨いていたと思っていたが、聞いていたらしい。
「関節部の回路が構造材と一体化してるなら、回路の交換は関節ごとアッセンブリー交換になる。部品代が跳ね上がる。交換時間も倍以上」
三十年以上現場で機体をばらしてきた男の言葉は重い。
「わかってます」奏太は頷いた。「でも性能を取りました」
「性能を取って整備性を捨てるのは、パイロットは喜ぶが整備兵が泣く」
「ディーターさんなら、どうしますか」
ディーターは工具を置いた。立ち上がり、設計図の前に来た。太い指で関節部を指す。
「ここ。膝関節。構造材と回路の一体成型をやめて、嵌合式にしろ。回路ユニットを関節殻の内側に固定する方式なら、殻ごと外して交換できる。一体成型より重量は増えるが、整備時間は三分の一になる」
奏太は頭の中で構造を組み替えた。重量増は片膝で二百グラム、両膝で四百グラム。
「いけます。四百グラム増で整備時間が三分の一なら、やる価値がある」
「肘も同じ方式にしろ。あと足首。可動部は全部だ」
「全部嵌合式にすると、総重量が——」
「二キロ増える。それでも、戦場で膝を壊した時に十分で交換できるのと、三時間かかるのと、どっちがいい」
答えは明白だった。
「直します」
奏太はペンを取った。設計図に赤い線で修正を入れていく。ディーターが指す。奏太が直す。指す。直す。言葉は最小限だった。それで十分だった。
カティアが嵌合式に変更した場合の回路設計をノートに起こし始めた。
四人が、それぞれの持ち場で動いている。
ぶつかり合った。何度も。物理構造と魔力回路が干渉するたびに議論が起き、妥協点を探り、時には最初からやり直した。
だが、止まらなかった。
奏太はペンを置いた。赤い修正線だらけの図面を見下ろす。黒い線と赤い線が交錯して、まるで血管のように見えた。
「第一稿の修正版。明日、ゲルナー少佐に見せます」
「あの男は重箱の隅を突いてくるぞ」ガルベルトが欠伸をした。
「望むところです。突かれた分だけ、設計が良くなる」
ガルベルトが琥珀色の目を細めた。笑ったのか。暗くてよくわからなかった。
格納庫の窓の外が、うっすら白み始めていた。徹夜だ。また。
カティアがノートを抱えたまま船を漕いでいた。ディーターが黙って毛布を持ってきて、カティアの肩にかけた。赤毛が毛布の上に散った。
「寝ろ。お前もだ、鷹森」
ガルベルトが言った。
「ガルベルトさんは?」
「酒がまだ残ってる」
嘘だ。瓶は空だった。奏太にはわかっていた。この人も、設計図から目が離せないのだ。
奏太は作業台に腕を組んで突っ伏した。頬に図面の端が触れる。冷たい紙の感触。インクの匂い。
目を閉じると、脳裏に線が走った。構造線。回路線。統合線。ぐるぐると回って、やがて一つの形になる。まだ見ぬ機体の輪郭。
リーゼが乗る。フィンが援護する。ヨハンが指揮を執る。
その全員を守る機体を、自分が作る。
責任の重さが胸に沈む。だが怖くなかった。ガルベルトがいる。カティアがいる。ディーターがいる。ゲルナーが予算を守ってくれる。
一人じゃない。
その確信だけを抱えて、奏太は眠りに落ちた。作業台の上で。設計図を枕にして。
格納庫の窓から、朝の光が射し込み始めていた。




