第四章 堕天使の帰還
機体が走り始めた瞬間、奏太は後悔した。
乗るんじゃなかった。
補助席にはシートベルトらしきものがあったが、それでも体が左右に振られる。機体が地面を蹴るたびにコックピット全体が揺れ、奏太の背中がシートに叩きつけられる。
リーゼは涼しい顔で操縦桿を握っていた。正確には、顔は見えないのだが、背中に余裕が漂っている。パイロットにとっては日常の速度なのだろう。奏太にとっては命の危機だが。
コックピットの計器類——文字は読めないが、おそらく速度や方位を示す表示器——が忙しなく点滅している。操縦桿の根元から伸びる管には、あの紋様が光を帯びて脈打っていた。機体を動かすエネルギーが、パイロットの意志に応じて流れているのだ。
「すみません、もうちょっとゆっくり——」
「黙っていろ。追いつかれる」
追いつかれる。誰に? 何に?
その言葉の意味を問う間もなかった。
背後で、空気を引き裂くような咆哮が響いた。
奏太は振り返った。コックピットの後方窓——小さな覗き穴のようなそれ——から見えたのは、荒野を突き破るように出現した異形だった。
暗灰色の甲殻に覆われた体躯。人型とも獣型ともつかない不定形な姿。光を吸い込むような不気味な表面質感が、荒野の灰色とは明らかに異質だった。複数の肢が地面を掻き、砂埃を巻き上げながらこちらに向かって突進してくる。
三体。いや、五体。灰色の大地の起伏の影から湧き出るように次々と現れる。
「何——あれ——」
「異次元の敵だ。質問は後にしろ」
リーゼの声が変わった。さっきまでのぶっきらぼうな声ではない。冷たく、鋭い。刃物のような声だ。
機体が急停止した。奏太の体が前にのめり、シートベルトが胸に食い込む。
そして——反転。
慣性で内臓が置き去りにされた。機体が百八十度回頭し、正面に敵を捉える。
「掴まっていろ。死にたくなければ」
それだけ言って、リーゼは機体を突進させた。
逃げるのではない。
敵に、向かって。
黒銀の機体が一気に加速する。背中がシートに張りつく。奏太の視界の端で、機体の右腕が動いた。腰部のホルダーから武器——大振りの剣のような兵装を引き抜く。刃が淡い光を帯びた。
先頭の敵が甲殻の肢を振り上げた。ぶつかる——と奏太が身構えた瞬間、機体は横に跳んだ。奏太の体が横Gで壁に押しつけられる。敵の肢が空を切り、その隙に剣が薙ぐ。一閃。甲殻が断ち切られ、異形が崩れ落ちた。
止まらない。
リーゼは次の敵に向かって機体を駆った。二体目が突進してくるのを正面から迎え撃ち、剣の一撃で仕留める。返す刃で三体目の肢を斬り飛ばし、体勢が崩れたところを胴に突き刺した。
四体目が横から飛びかかった。甲殻の肢が鉤爪のように光る。普通なら反応できない角度だ。だがリーゼの機体は半歩だけ横にずれ、爪の一撃をすんでのところでかわした。すれ違いざまに斬る。五体目も同様——左手のサブウェポンで牽制し、接近した瞬間に右手の剣で貫く。
十秒。
五体の敵が、十秒で全滅した。
コックピットの外には、甲殻の破片が散乱していた。さっきまで生きて動いていた異形たちが、ただの残骸に変わっている。リーゼの剣技は正確で、必要以上の動作が一切ない。斬る場所、斬る角度、斬るタイミング——全てが最短距離で致命傷に到達している。
殲滅の堕天使——。
十秒前まで五体いた敵が、甲殻の破片になって散らばっている。奏太は息を呑んだまま、その光景から目を離せなかった。
コックピットの中で、奏太は荒い息をついていた。恐怖で手が震えている。膝も笑っている。生まれて初めて「死ぬかもしれない」を全身で体感した。心臓が耳元で鳴っている。口の中がからからに乾いている。指先が冷たい。
だが——。
奏太の頭の中では、別のプロセスが走っていた。
戦闘中、機体の挙動を間近で体感した。補助席は操縦席のすぐ後ろだ。振動、加速、旋回——全てが体を通じて伝わってきた。そして奏太の頭は、恐怖の中でも機械の言葉を聞き取っていた。
関節の応答遅延。
操縦桿を倒してから機体が反応するまで、わずかなラグがある。特に左肩。さっき修理した箇所だが、物理的な修復だけでは足りない。あの「管」の伝達効率——奏太には触れない領域——に問題があるのだろう。
出力のロス。
剣を振る動作のたびに、機体全体が微かに軋む。パワーが腕に集中するとき、脚部の制御が一瞬甘くなる。出力配分の問題だ。物理骨格の剛性が足りていないか、あるいは力の伝達経路に無駄がある。
重心のブレ。
急旋回のとき、機体が外側に振られている。リーゼの技量で抑え込んでいるが、機体の重心位置がずれている。装甲の重量配分か、あるいはさっき奏太が修正した外殻パネルの位置がまだ最適ではないか。
応答遅延、出力ロス、重心ブレ。
三つの問題が、脳内のメモ帳にリストアップされていく。怖い。死ぬかと思った。だがそれとは別の回路で、エンジニアの脳が勝手に仕事をしている。自分でも呆れるが、これが鷹森奏太という人間だ。操縦適性テスト史上最低スコアの男が、機械の性能だけは誰よりも鋭く読み取ってしまう。
もし左肩の応答遅延がなかったら、二体目の処理がコンマ数秒速かったはずだ。出力配分が最適化されていれば、剣を振るたびに脚が揺れることもない。重心が正しい位置にあれば、旋回で機体が外に振られるロスもなくなる。
改善の余地がある。この機体は、まだ速くなれる。
リーゼが操縦桿を手放し、ため息をついた。
「問題ない。殲滅した」
その声は、戦闘前の鋭さが嘘のように、普段のトーンに戻っていた。
奏太は震える手を握りしめた。
「あの——」
「怪我は」
「ないです。あの、一つ聞いていいですか」
リーゼが肩越しに振り返った。
「左肩の動き、まだ引っかかってましたよね。あと、剣を振るときに機体全体が軋んでた。右腕に出力を集中すると脚の制御が甘くなってませんか」
リーゼの紫の瞳が、見開かれた。
数秒の沈黙が落ちた。
「……お前、今の戦闘中にそれを見ていたのか」
「見てたというか——体で感じてたというか。振動で、なんとなく」
リーゼは前を向いた。その背中が、微かに強張っているのがわかった。戦場で弱点を見抜かれるというのは、パイロットにとって気持ちのいいことではないだろう。しかもこの男は戦闘中に——初めて戦場に放り込まれた恐怖の最中に——それを感じ取ったのだ。
「助かった。腕は確かなようだ」
短い。それだけ。だがその声には、初めて奏太を一人の技術者として認めた響きがあった。
黒銀の機体が、荒野を走り始める。さっきより振動が少ない。奏太の修理が効いているのか、あるいはリーゼが少しだけ丁寧な操縦に切り替えたのか。
窓の外を灰色の大地が流れていく。地平線のどこかに、リーゼの帰る場所があるのだろう。奏太にはまだ、帰る場所がない。この世界には昨日来たばかりだ。いや、今日か。時間の感覚がわからない。
ただ、ポケットの中の歯車と六角ボルトだけが、確かな重さで太ももに触れていた。
奏太は目を閉じた。
戦えない者が、戦う者を支えた。その最初の一歩が、たった今、荒野の真ん中で踏み出された。




