第三章 壊れた翼
どれくらい歩いただろう。一時間か、二時間か。
太陽は高い位置から少し傾いて、荒野に長い影を落とし始めていた。閃光と轟音は遠ざかっている。少なくとも反対方向に進んだ判断は正しかったらしい。
だが喉の渇きと空腹はごまかせない。水がない。食料もない。このまま歩き続けても、干からびて倒れるのが先だ。
その時、奏太は見つけた。
荒野にぽつんと佇む、一機の人型兵器。
さっきまでの残骸とは違う。大破していない。中破——いや、片腕と片脚が損傷しているが、胴体と頭部は無事に見える。黒と銀のカラーリングが荒野の灰色に映えていた。
そしてその足元に、人影があった。
奏太は足を止めた。人だ。この世界で初めて見る、生きた人間。
近づくと、声が聞こえた。短い舌打ちと、何かを呟く声。言葉の意味は——わかる。日本語ではない。だが不思議と、意味が頭に流れ込んでくる。
「くそ、また繋ぎ直しても駄目か……」
機体の胸部装甲を開け、中に上半身を突っ込んでいる人物がいた。銀灰色の長い髪を乱雑に束ね、帝国軍の軍服——らしきもの——を着た女性だ。簡易整備キットを広げ、工具で何かの配線をいじっている。
奏太は立ち止まって、その作業を五秒ほど見つめた。
五秒で十分だった。
「すみません。その繋ぎ方だと、負荷が逆流しますよ」
女性が弾かれたように顔を上げた。
深い紫の瞳が、奏太を射抜くように見据える。一瞬で全身の力が戦闘態勢に切り替わったのがわかった。空気が変わる。さっきまで整備に四苦八苦していた人物と同一人物とは思えない殺気。
「何者だ」
短い。そして低い。問いかけではなく、警告に近い声だった。
奏太は両手を上げた。武器がないことを示すつもりだが、そもそもこの世界の作法がわからない。
「怪しい者じゃないです。いや、怪しいか。見ての通りの一般人で、ここに迷い込んで——」
「軍属か」
「違います。ただの……機械屋です」
女性の紫の目が、奏太の全身を値踏みするように走った。作業着。腰のツールポーチ。火傷だらけの指先。戦闘能力のかけらもない体格。
殺気が一段階下がった。脅威ではないと判断されたらしい。
「こんな場所に民間人がいるはずがない。所属部隊は」
「だから——部隊もないし軍人でもないんです。説明すると長いんですが、とりあえず——」
奏太は女性の手元を見た。
「そこ、伝達経路の接続が逆です。あと二本手前の管も外れかけてる。そのまま通電させたら多分、経路が焼き切れます」
女性が目を見開いた。奏太に対する警戒とは別の、純粋な驚きの色が紫の瞳に浮かぶ。
「見えるのか。回路が」
「回路かどうかはわからないですけど、構造的に見てこの管は動力の伝達経路ですよね。今の接続だと負荷の方向が逆になるから、動かした瞬間に逆流する。……あ、工具貸してもらえますか?」
数秒の沈黙。
女性は奏太を見つめたまま、足元の簡易整備キットを蹴るように寄越した。信用したわけではないだろう。だが機体を直せないまま荒野に留まるよりはマシだ、という計算は成り立つ。
奏太はキットを開いた。見たことのない形状の工具が並んでいる。だが——工具の構造を見れば用途はわかる。挟む、回す、剥がす、締める。形は違えど機能は同じだ。
「失礼します」
機体の胸部に頭を突っ込んだ。内部構造が目の前に広がる。荒野で見た残骸と同じ二重構造。だがこちらは生きている。管の中を流れる何かの気配が、微かに感じ取れる。
「この関節、二重構造になってるんですね。外殻を外せますか?」
「勝手に触るな! 整備班以外が——」
「外殻の固定具、三番目が歪んでます。このままだと関節の動作範囲が制限されてるはずです」
女性が口をつぐんだ。それは図星だったのだろう。
「……左肩の可動範囲が狭くなっている。整備班に見せたが原因不明と言われた」
「原因はここです。固定具の変形で外殻が内側にずれて、関節の軌道を圧迫してる」
奏太は工具を選び——この平たいやつは恐らくこじ開け用——外殻パネルの固定を緩めた。変形した固定具を外し、位置を修正して締め直す。物理的な作業だ。あの「管」に流れる未知のエネルギーは触れないが、骨格と装甲と関節は奏太の領域だった。
次に、女性が苦戦していた伝達経路の管を修正する。接続を正しい方向に繋ぎ直し、外れかけていた管を固定する。管の表面は滑らかで、固定用の嵌合部が精密に作られている。正しい向きに差し込むと、かちりと手応えがあった。逆方向だと嵌合が甘くなる設計だ。女性が苦戦していたのは、この微妙な差に気づけなかったからだろう。
「この管の固定部、向きが決まってるんですよ。嵌合部の形が左右非対称で——」
「わかった。説明はいい。続けろ」
ぶっきらぼうだが、拒否ではない。奏太は内心で苦笑して作業に戻った。
そこから先は、止まらなかった。
膝関節の遊びが大きすぎる。スタビライザーの支持角度が微妙にずれている。装甲板の取り付けボルトが緩んでいて、走行時にがたつくはずだ。問題が次から次へと指先に飛び込んでくる。
奏太は無心で手を動かした。工具を持ち替え、部品を外し、調整し、戻す。異世界の機械だが、物理法則は変わらない。力の伝わる方向、荷重の分散、摩擦の低減——原理さえわかれば、やることは同じだ。
「——終わりました」
汗を拭いながら機体から出ると、女性は腕を組んで奏太を見下ろしていた。
銀灰色の髪が風に揺れる。紫の瞳には、最初の殺気はもうない。代わりに、理解できないものを見るような怪訝な色が浮かんでいた。
「お前は何者だ。魔力は感じない。刻印もない。だが回路の異常が見えて、整備もできると?」
「繰り返しますけど、ただの機械屋です。回路っていうのがその管のことなら、中を流れてるエネルギーは見えないし触れないです。でも物理的な構造は——まあ、触ればわかります」
「触ればわかる」
女性が、その言葉を反芻するように呟いた。
「お前の名は」
「鷹森奏太。たかもりそうた」
「聞いたことのない響きだ」
「はい。たぶん、この世界の人間じゃないので」
女性の眉が上がった。だが追及はしなかった。
「リーゼロッテ・ヴァイスフェルト。帝国軍所属、中尉」
それだけ名乗ると、リーゼは機体の方に視線を移した。黒と銀のカラーリングが西日を浴びて鈍く光っている。修復の出来を確認するように、左肩関節を見上げていた。
リーゼが機体の外装に手を置いた。何か確かめるような仕草で、装甲板の表面をなぞる。
「……悪くない」
短い評価だった。だがその声に含まれていたのは、驚きだった。少なくとも奏太にはそう聞こえた。
「ここは前線の哨戒圏外だ。水も食料もない。一人でいたら三日もたない」
リーゼは奏太に背を向けて、機体の足——ステップのような突起——に手をかけた。慣れた動作でコックピットへの乗降口を開ける。
「乗れ」
「え?」
「補助席がある。嫌なら歩いて死ね」
選択肢は一つしかなかった。
奏太はリーゼに続いてステップを登り、狭いコックピットに体をねじ込んだ。操縦席の後方に小さな補助シートがある。元は偵察員用か、予備パイロット用か。
リーゼが操縦席に座り、機体が低い振動を発した。起動だ。あの管を流れる未知のエネルギーが全身を巡り、十メートルの巨体に命を吹き込んでいく。
機体が立ち上がった。
荒野の景色が一変する。さっきまで見上げていた残骸が、今は足元にある。
コックピットの小さな窓から見える灰色の大地。壊れた翼を直した者と、その翼で飛ぶ者。二人の異世界生活が、この瞬間から始まった。




