第十七章 初めての撃墜
警報が鳴ったのは昼過ぎだった。
「哨戒線に敵反応。数八、接近中。全戦闘部隊、出撃準備」
通信兵の声が基地に響き渡る。食堂のテーブルに食器を置く音、廊下を走る足音、格納庫のクレーンが動き始める金属音。いつもの出撃準備が始まった。
だが今日は、いつもと違う。
フィンの機体が——奏太が調整した機体が、初めて実戦に出る。
格納庫では、パイロットたちが機体に乗り込んでいく。ヨハンは余裕の表情でコックピットに滑り込んだ。リーゼは銀灰色の髪を束ね直して無言で搭乗する。ルーカスは少し緊張した面持ちだが、前回よりも顔色がいい。
フィンが機体の前に立っていた。
奏太が近づくと、フィンは首のペンダントを握っていた。いつもの癖だ。だが今日は、握り方が少し違う。ぎゅっと握りしめるのではなく、軽く触れるように持っている。
「調整、信じてます」
フィンが言った。青緑の目が真っ直ぐだった。
「機体は最善の状態です。あとはフィンさんの腕を信じてください」
「——了解」
フィンがコックピットに乗り込む。ハッチが閉まる。機体の目が光を帯び、魔力回路が起動する低い振動が格納庫の空気を震わせた。
十二機の魔道兵器が格納庫を出て、空に駆け上がっていく。装甲が太陽光を弾いて銀色に輝く。轟音と振動が格納庫を揺らし、砂埃が舞い上がった。その中の一機が、フィンの機体だ。奏太が三日間かけて調整した、世界に一つだけのカスタム機。
機影が空に溶けていく。奏太は格納庫に立ち尽くしていたが、すぐに通信室に向かった。
ロッテの横に座り、通信を聞く。前回と同じだ。通信室の青白い照明。計器のランプ。ヘッドセットから漏れる雑音。自分にできるのは、ここで聞いて、待つことだけ。
「接敵まで三分。各隊、戦闘態勢へ」
ロッテの声は相変わらず冷静だった。ヘッドセットの向こうから、複数の「了解」が返ってくる。
「ブラボー隊、クライス大尉。左翼から回り込む。坊主、ついてこい」
「了解です!」
フィンの声。緊張しているが、前回ほどの震えはない。
「チャーリー隊、ファルク少尉。後方支援、配置につきます」
エーリヒの冷静な声。フィンの僚機として、いつも隣にいる男。
接敵。
通信に戦闘音が混ざり始めた。魔力の放出音。装甲がぶつかる重低音。ヨハンの小隊が最初に接触し、リーゼの小隊が中央から突撃する。
「ヴァイスフェルト中尉、敵三体を撃破。中央突破」
リーゼの戦闘は相変わらず鮮烈だった。殲滅の堕天使の名に恥じない戦いぶりが、座標の変化と通信の断片から伝わってくる。
「ブラボー隊、敵二体と交戦中。レクター少尉、左の一体を頼む!」
ヨハンの指示。フィンへの名指しだ。
通信が一瞬途切れた。奏太は拳を握った。
三百メートル。あの距離を越えられるか。
「——了解!」
フィンの声が返った。震えていた。恐怖は消えていない。三百メートルの壁は、まだそこにある。
だが——機体が受け止めた。
通信の向こうで、フィンの呼吸が荒くなっている。力んでいる。操縦桿を握りすぎている。でも機体は暴走しない。反応カーブの調整が、フィンの硬直を受け止めて、滑らかな動きに変換している。
奏太には、通信の音だけで何が起きているかがわかった。機体の駆動音のピッチ。関節の動作音。歯車が噛み合う微かな音。自分が調整した全ての部品が、今フィンの手の下で正確に動いている。
「レクター少尉、動きが変わったな! いいぞ、そのまま!」
ヨハンの声に驚きが混ざっていた。ベテランの目が、フィンの変化を捉えている。
「エーリヒ、フィンの右側を守れ!」
「了解。フィン、俺がいる。思い切りやれ!」
エーリヒの声。友人を信じる声だ。
通信に、フィンの叫びが入った。
「——いける!」
衝撃音。魔力の炸裂音。そして——静寂。
「ブラボー隊、レクター少尉。敵一体、撃破しました」
フィンの声が震えていた。今度は恐怖ではない。信じられないものを見た時の震えだ。
奏太は思わず立ち上がっていた。通信室の椅子が後ろに倒れた。ロッテが少し驚いた顔をしたが、すぐに目を細めた。
「おい、坊主——やったな!」
ヨハンの声が弾けた。百戦錬磨のベテランが、本気で嬉しそうだった。通信の中にいくつもの声が重なる。
「レクター、やったか!」「少尉、おめでとうございます!」
エーリヒの声は静かだった。だがその一言に、全てが詰まっていた。
「おめでとう、フィン」
通信室で、奏太は椅子の背に身体を預けた。握りしめていた拳を開く。掌に爪の跡が残っていた。隣のロッテが、ほんの一瞬だけ奏太を見て、小さく頷いた。言葉はなかった。でも、その頷きが全てを語っていた。
残りの敵を掃討して、作戦は終了した。
格納庫に機体が帰還してくる。一機、二機、三機。カウントしながら待つ。全機帰還。今日も全員が帰ってきた。
フィンの機体が着地した。ハッチが開いて、フィンが飛び出してきた。文字通り飛び出した。タラップを駆け下りて——真っ直ぐ奏太の元に走ってきた。
「タカモリさん!」
青緑の目から涙が溢れていた。堪えきれない涙だ。
「やりました——やりました! 初めて、撃墜しました!」
声が裏返っていた。鼻水も出ていた。汗で栗色の髪が額に張り付いて、パイロットスーツは汗で濡れて、格好悪い。でもその顔は、奏太が見た中で一番かっこいい顔だった。「訓練番長」と呼ばれ続けた青年が、自分の手で壁を越えた瞬間の顔だ。
「機体が——機体が受け止めてくれたんです。怖かった。力んだ。でも機体が暴走しなかった。だから、冷静に——初めて、冷静に戦えたんです」
フィンの涙声に、格納庫の空気が変わった。周囲のパイロットや整備士が足を止めて、二人を見ている。「訓練番長」と陰で呼ばれていた青年が、初めての撃墜を果たした。それを泣きながら、魔力すら持たない異世界人の整備士に報告している。
かつてフィンを「訓練番長」と呼んでいたパイロットの一人が、小さく拍手を始めた。それが広がって、格納庫全体に拍手が響いた。
エーリヒが静かに歩いてきて、フィンの肩を叩いた。
「おめでとう」
一言だけ。だがその一言に込められた友情と安堵は、誰の目にも明らかだった。
ヨハンが後ろからやってきて、フィンの頭をがしがしと撫でた。
「今夜は坊主の奢りだ! 宴会だ!」
「ええっ、俺の給料じゃ——」
「冗談だ。俺が出す。お前は飲みすぎるな」
パイロット待機室が沸いた。フィンの初撃墜を祝う声が上がり、ルーカスまで嬉しそうに拍手していた。
リーゼが格納庫の入口に立って、騒ぎを眺めていた。紫の瞳にほんの僅かな温かさが浮かんでいる。フィンの成長を、彼女なりに見守っていたのだろう。奏太と目が合い、リーゼは小さく頷いた。「悪くない仕事だ」——そう言わんばかりの頷きだった。
奏太は輪の外で、工具を片付けていた。ポケットの六角ボルトに触れる。くるくる。くるくる。
機体を直す。パイロットに合わせる。送り出して、待って、帰ってきたらまた直す。
それが自分の仕事だ。派手じゃない。目立たない。
でも——今日、確かに一人の人間の人生を変えた。
フィン・レクターの涙が、その証明だった。




