第十五章 フィンの恐怖
フィンの戦闘データには、はっきりとした異常があった。
奏太は数日間かけて蓄積した複数回の戦闘記録を並べ、パイロットごとの操縦パターンを分析していた。ヨハンは安定した旋回と正確な射撃。リーゼは爆発的な加速と圧倒的な魔力出力。エーリヒは堅実な位置取りと確実な支援。それぞれに個性があり、一貫したパターンがある。
だがフィンだけが違った。
訓練データと実戦データを重ねてみると、別人のようだった。訓練では、操縦桿の入力が繊細で正確。微細な角度調整、滑らかな旋回、無駄のない加減速。歴代トップスコアの片鱗がはっきりと見える。パイロットとしての素質は間違いなく本物だ。
実戦になると、すべてが崩れる。
データが語る事実は残酷だった。敵が一定距離——およそ三百メートル——に近づいた瞬間、操縦桿を握る力が急激に増加する。入力の強度が訓練時の二倍以上に跳ね上がる。それに伴って繊細な制御が失われ、機体の動きが硬くなる。急激な操作。過剰な回避。本来できるはずの精密な機動が、力任せの大振りな動きに変わってしまう。
恐怖による身体の硬直。それがデータに克明に刻まれていた。
奏太は額を押さえた。紙に描いたグラフを眺める。横軸が距離、縦軸が入力強度。三百メートルを境に折れ線が急上昇する。まるで壁があるようだった。
三百メートル。フィンの初実戦で僚機に庇われた距離が、おそらくそのあたりだったのだろう。あの経験が身体に刻み込まれて、同じ距離で無意識に硬直する。頭ではわかっている。でも体が言うことを聞かない。
元の世界にも同じ問題はあった。工場でプレス機に挟まれかけた作業員が、プレス機の前に立てなくなる。それと同じだ。恐怖は理性では制御できない。身体が覚えた回路は、簡単には書き換えられない。
整備棟の入口に、足音が近づいてきた。
「タカモリさん、フィンのこと、調べてるんですか」
エーリヒだった。淡い金髪に眼鏡。穏やかな表情だが、目の奥には友人への切実な心配が浮かんでいる。
「……すみません、勝手に」
「いいんです。むしろ——お願いしたいくらいで」
エーリヒは奏太の隣に腰を下ろした。テーブルの上の分析データを見て、静かに頷いた。
「アイツは訓練じゃ俺より全然上手いんです。同期で一番の腕だった。でも実戦になると——見ていて辛い」
「初実戦の時に何かあったんですよね」
「僚機が庇いました。フィンが固まったところを。庇った先輩は重傷で——命は助かりましたけど、パイロットは引退です。フィンはそれを自分のせいだと思っている」
エーリヒの声は静かだった。友人の弱さを語ることへの葛藤と、それでも誰かに知ってもらいたいという思いが、声の端に滲んでいた。
「僕は僚機として隣を飛んでいます。でも——僕にできることには限界がある。操縦の腕じゃフィンに敵わない。精神的な支えにはなれても、あの硬直を直すことはできない」
「エーリヒさんがいるから、フィンさんは飛び続けられているんだと思いますよ」
エーリヒは少し驚いた顔をして、眼鏡の奥で目を瞬いた。
「——ありがとうございます」
エーリヒが去った後、奏太はデータをもう一度見直した。フィンに直接伝えるべきか。迷いがあった。自分の弱点を数値で突きつけられるのは、誰だって辛い。データは事実を語る。だが事実が人を傷つけることもある。
ポケットの六角ボルトを回した。くるくる。くるくる。考え事のリズム。
だが、このまま放置すれば——いつか取り返しのつかないことになる。三百メートルの硬直が、致命的な瞬間に起きたら。あの偵察機パイロットのように、血を流すことになったら。
技術者には二つの選択肢しかない。問題を見て見ぬふりをするか、正面から向き合うか。奏太は昔から、後者を選ぶ人間だった。
翌日の夕方、奏太はフィンをパイロット待機室に呼んだ。
フィンは明るい笑顔でやってきた。いつもの調子だ。「何ですか? また何か頼みたいことですか?」と人懐こく聞いてくる。
奏太はデータを広げた。訓練時と実戦時の操縦桿入力の比較。敵との距離と入力強度の相関。三百メートルを境に急激に変化するグラフ。
「フィンさん。これ、見てもらえますか」
フィンの表情が固まった。
データを見る目が泳いでいる。首のペンダントを握る手に、力が入った。
「これは——」
「実戦時の操縦データです。敵が三百メートルに近づいた瞬間に、操縦桿を握る力が倍以上になっている。それで繊細な制御が失われて、訓練の時みたいに動けなくなってる」
「……」
「フィンさんの腕は本物です。データが証明してます。訓練の数値は歴代トップレベルで、エーリヒさんの二倍近い精度がある。ただ、実戦で三百メートルを切った瞬間に——」
「わかってるんです」
フィンが遮った。声が震えていた。いつもの明るさが剥がれて、その下の脆さが露出している。
「自分でも、わかってるんです。あの距離になると、体が固まる。頭では動けって命令してるのに、手が勝手に力んで——初めての実戦の時と同じになっちゃうんです」
ペンダントを握る指が白くなっていた。
「やれます、大丈夫ですって——そう言うしかなくて。でも全然大丈夫じゃなくて」
フィンの目の縁が赤くなっていた。涙をこらえている。待機室のソファの上で、身体を小さく丸めている。百七十五センチの細身の体が、今は子供みたいに見えた。
「エーリヒに迷惑かけて、ヨハン大尉にも心配させて——訓練番長って、陰で言われてるのも知ってます」
「フィンさん」
奏太は静かに言った。
「俺は操縦適性テスト史上最低スコアの男です。機械のことは誰よりわかる。でも自分じゃ動かせない。頭と体が噛み合わない辛さは——俺もわかります」
フィンが顔を上げた。青緑の目が、奏太を見ている。
「でも、俺にはできることがある」
奏太はデータの裏にメモを書いた。簡単な図。操縦桿の調整案。反応速度の曲線変更。恐怖で力んでも急激な操作にならないセッティング。
「フィンさんの恐怖は、直さなくていい。機体の方を合わせます」
「——合わせる?」
「パイロットに合わせた機体調整。恐怖を消すんじゃなくて、恐怖があっても戦えるように、機体を調整する」
奏太はメモに図を描き足した。操縦桿の遊びを広げる。反応速度のカーブを緩やかにする。力んでも急激な操作にならない。パニック時にも最低限の制御が維持される。
「俺はパイロットじゃないし、メンタルトレーナーでもない。でも機体なら、いくらでもいじれます。フィンさんの手に合う機体に仕上げます」
フィンは長い間、黙っていた。ペンダントを握る手が、ゆっくりと緩んでいった。
「——お願いします」
小さな声だった。だがその声には、初めて聞く真剣さがあった。「大丈夫です」ではない。助けを求める声。
奏太は頷いた。
この仕事は、ボルトを締めるより大事な仕事だ。機械を直すのではない。機械を通じて、人を支える。
それが自分にできる、唯一のこと。
窓の外では日が沈みかけていた。夕焼けの赤い光が待機室に差し込んで、フィンの栗色の髪をオレンジ色に染めている。ペンダントの銀が光を受けて小さく輝いた。
明日から、調整を始める。フィン・レクターという人間のために、世界に一つだけの機体に仕上げる。




