第十四章 数字が語る
戦闘から二日後。奏太は整備棟の片隅に陣取って、データの山と格闘していた。
この世界にも戦闘記録の仕組みはある。魔力回路のログ、機体の動作履歴、パイロットの操作記録。ただ、それらは個別にバラバラに保存されていて、横断的な分析をする文化がなかった。整備士は経験と勘で機体を診る。データで語るという発想自体が存在しない。
奏太は記録を一つずつ開き、数値を手作業で抜き出していった。機体ごとの稼働効率。魔力消費率。被弾率。戦闘中の旋回回数と平均速度。急停止からの再加速にかかる時間。関節部の摩耗率。装甲の被弾分布。
元の世界なら、この手の作業はコンピュータが一瞬で終わらせてくれる。ここでは全部手作業だ。紙と計測器と、自分の頭。だが不思議と苦にはならなかった。数字を追うのは好きだ。数字は嘘をつかない。感情も政治も忖度もない。ただ事実だけを語る。
数字の羅列が、テーブルの上で地図のように広がっていく。機体の名前と番号。パイロットの名前。日付。条件。数値。それらが紙の上で一つの風景を描き始めていた。
二日間、ほとんど寝ずに作業した。食事はペトラが差し入れてくれたパンと干し肉。ディーターが置いていってくれた茶。それだけで動いている。
「タカモリさん、これ——何をしてるんですか」
カティアが作業台を覗き込んだ。赤毛のショートカットの下の緑の目が、紙の上の数字を追っている。
「戦闘データの分析です。調整済みの機体と未調整の機体の比較をしたくて」
「師匠には——」
「記録の確認をしているだけです、って言っておけば大丈夫ですか」
「……わかってるんですね」
カティアは一瞬だけ苦笑して、奏太の隣に座った。ガルベルトには内緒。いつもの暗黙の了解だ。
二人でデータを整理していくと、差は歴然だった。
調整済みの三機——ヨハン機、リーゼ機、もう一機のベテランパイロットの機体——は、未調整の機体と比較して稼働効率が平均十二パーセント向上していた。魔力消費率は七パーセント低減。被弾率に至っては二十パーセント以上の改善が見られた。
「こんなに差が……」
カティアが数値を指でなぞった。集中すると舌先を出す癖が出ている。技術者モードのカティアだ。
「被弾率が下がってるのは、回避機動の切れが良くなったからです。関節のクリアランス修正で、旋回時のタイムラグが減った」
「それだけの違いが出るんですね……物理構造だけで」
カティアの声が小さくなっていた。技術者として、無視できない数字だ。師匠の魔力調律は完璧だと信じている。信じているからこそ、物理側の改善でこれだけの差が出るという事実が、複雑な感情を呼び起こしている。
「これは——偶然じゃないですね」
「三機ともほぼ同じ傾向です。サンプル数は少ないですけど、偶然とは言いにくい」
奏太はデータをグラフのようなものに整理した。この世界に棒グラフの概念はないが、数値を棒状に並べれば視覚的にわかりやすい。カティアは目を見開いて、棒の長さの違いを指でなぞった。
「すごい。これなら一目で差がわかります」
「データの可視化って言います。元の世界では基本的な手法なんですけど」
「こっちの世界にはないです、こういうの。数字は数字のまま記録して、読める人だけが読む」
カティアの目が輝いていた。データに基づく整備。数値で機体の状態を把握し、数値で改善を確認する。経験と勘の世界に、客観的な指標を持ち込む。それだけのことが、この世界では革命だった。
足音がした。
二人が振り返ると、ディーターが立っていた。灰色の髪の下の無表情な顔。その手に——記録簿を持っている。
「ディーターさん?」
ディーターは無言で記録簿を奏太の前に置いた。自分が担当している機体の戦闘記録だ。開いたページには、丁寧な字で数値が書き込まれている。
「これも見てくれ」
初めて。ディーターが奏太に、直接何かを依頼した。
茶を置く。工具の場所を教える。それはあった。だが「頼む」という行為は初めてだ。
奏太は記録簿を受け取った。ディーターの担当機体——ベテラン整備士が長年面倒を見てきた機体のデータ。そこには二十年分の経験が染み込んだ整備の痕跡があった。
「——ありがとうございます。きちんと分析します」
ディーターは頷いて、自分の作業台に戻った。背中は相変わらず無口だったが、あの記録簿を差し出すことが、ディーターにとってどれだけ大きな意味を持つか。奏太にはわかった。
カティアが小声で言った。
「ディーターさん、自分のデータを人に見せたの初めてだと思います」
「そうなんですか」
「あの人、二十年以上この整備棟にいるんです。師匠より長い。でも自分のやり方を人に説明したことがない。全部、無言でやるんです」
無言の男が、記録を差し出した。それはどんな賛辞よりも重い信頼の表明だった。
奏太は記録簿のページをめくった。几帳面な字で書かれた整備記録。部品の交換日、摩耗の程度、調整値。言葉を使わない男の、言葉の代わりの記録だった。
データの整理が一段落した夕方、整備棟の奥からガルベルトの声が聞こえた。
「カティア。何をしている」
「あっ——師匠。記録の確認を——」
「記録の確認に半日もかかるのか。お前の仕事は魔力回路の修練だ」
琥珀色の目が鋭くこちらを見ている。ガルベルトは奏太のテーブルに並んだデータを一瞥した。数字の羅列。棒状の図。調整前後の比較。
ガルベルトは何も言わなかった。数秒だけデータを見て、視線を外した。
「一度の戦闘で判断するのは早計だ」
それだけ言って、自分の作業に戻った。
否定ではなかった。「くだらない」でも「無駄だ」でもなかった。「早計だ」——つまり、データが積み重なれば判断が変わる余地がある、という意味だ。
カティアが奏太を見た。奏太もカティアを見た。
二人とも何も言わなかったが、同じことを感じていた。あの男の中で、何かが動き始めている。
夜。奏太は一人で残業しながら、ディーターの記録簿を分析していた。丁寧に記録された数値の中に、二十年の整備履歴が凝縮されている。交換した部品。調整した箇所。修理の頻度。
指先でページをめくりながら、奏太は気づいた。ディーターは魔道刻印を持っているが、その色が褪せている。魔力回路への感度が落ちている。だからこそ、物理側の整備に長けていたのではないか。ガルベルトが魔力回路を、ディーターが物理構造を——無意識のうちに補い合っていた可能性がある。
データは嘘をつかない。数字が語る。
あとは、数字を積み重ねるだけだ。一度の戦闘では「早計」でも、二度、三度と重ねていけば——ガルベルトの「早計」は「事実」に変わる。
テーブルの上に広げた紙を見渡した。数字と図形が埋め尽くした紙の群れ。元の世界なら当たり前のことが、ここでは誰もやっていなかった。
データに基づく整備。客観的な数値で機体を評価し、改善を定量的に検証する。経験と勘を否定するのではない。経験と勘の上に、もう一つの柱を立てる。
ポケットの六角ボルトを回しながら、次の戦闘を待った。次のデータを。次の証明を。
数字は嘘をつかない。積み重ねれば、いつか——あの頑固な主席整備官にも、届くはずだ。




