第十三章 初陣の調律
作戦開始から十分が経過していた。
奏太は基地の通信室にいた。格納庫でも整備棟でもない。通信室だ。ここにいることしか許されなかった。
通信卓の向こうで、通信士官のロッテ・シュミットが冷静に座標を読み上げている。淡い金髪を耳にかけ、ヘッドセットを片耳に当てた姿勢は微動だにしない。
「ブラボー隊、座標E-7に敵反応。数、六。接近速度——速い」
通信機からヨハンの声が弾けた。
「了解、迎撃する。——おい、なんだこれ! 俺の機体が別物みたいに軽いぞ!」
奏太の心臓が跳ねた。ヨハンの機体。昨夜、最終調整を施した一機だ。関節のクリアランス修正と重心バランスの最適化。旋回時のブレを消し、反応速度を上げた。
その効果が、戦場で出ている。
「アルファ隊、ヴァイスフェルト中尉。座標F-3にて交戦開始」
リーゼの声が通信に入った。
「——殲滅する」
短い宣言。その直後、通信に爆発音が重なった。リーゼ機が動いている。奏太が昨夜徹夜で調整した機体が、今まさに戦場を駆けている。従来よりも少ない魔力消費で、より大きな出力。物理構造の最適化がもたらす効率の改善は、数値の上では数パーセントに過ぎない。だがパイロットの体感では、別の機体に乗っているような差になる。
奏太は拳を握りしめていた。
通信室の椅子に座って、戦闘の音を聞いている。遠くで爆発が響き、通信から叫び声が飛び交い、座標と状況報告が矢継ぎ早に行き来する。金属がぶつかる音。魔力が炸裂する音。そして——誰かが痛みに叫ぶ声。
通信室は狭かった。計器の並ぶ壁に囲まれた、四畳半ほどの空間。天井の低い蛍光灯が青白い光を落とし、通信機のランプが赤と緑に明滅している。この小さな部屋が、基地と戦場を繋ぐ唯一の線だ。
自分は何もできない。ここに座って、聞くことしかできない。
「戦闘は初めて聞きますか」
ロッテが通信の合間に声をかけてきた。澄んだ青い目が、奏太をまっすぐ見ている。
「……はい。こんなにきついとは思いませんでした」
「慣れはしません」
ロッテは短く答えた。ヘッドセットの位置を直しながら、ぽつりと付け加えた。
「兄もパイロットでしたから」
「でした」。過去形。それ以上は聞かなかった。聞けなかった。
ロッテは通信に集中を戻した。声は震えない。指先も震えない。プロフェッショナルとして、この椅子に座り続けている。兄を失った後も、この場所で、戦場の音を聞き続けている。ヘッドセットの脇に、小さな写真が貼ってあった。パイロットスーツを着た青年が笑っている。
奏太は自分の無力さを噛みしめた。機械を直すことはできる。だが戦場に出ることはできない。あの通信の向こうで、自分が調整した機体に乗った人間たちが命をかけている。その事実の重さが、通信室の硬い椅子を通じて背骨に響いた。
「チャーリー隊、レクター少尉。座標G-2にて敵と遭遇——」
フィンの声だ。通信越しでも緊張が伝わってくる。フィンの機体はまだ奏太の個別調整が入っていない。標準のセッティングのまま、大規模作戦に出撃している。
「レクター少尉、落ち着け。呼吸を整えろ」
エーリヒの声が割り込んだ。僚機として、友人として、フィンの隣を飛んでいる。
「——わかってます。大丈夫です」
フィンの口癖。「大丈夫」。大丈夫じゃないときに言う「大丈夫」。奏太にはもう聞き分けられる。
だが今は、信じるしかない。
通信室の窓から、遠くの空に光が走るのが見えた。魔力の放出。爆発の閃光。あの光の一つ一つが、誰かの命のやり取りだ。
三十分が経過した。
戦闘は佳境に入っていた。ヨハンの小隊が敵の左翼を押し込み、リーゼが中央を突破。フィンの小隊は後方支援に回っている。通信の密度が上がり、ロッテの読み上げるテンポも速くなった。
「ブラボー隊、クライス大尉。敵、後退開始。追撃する」
「ヴェーバー司令より全隊へ。追撃は各小隊の判断に委ねる。深追いはするな」
四十五分後、通信に変化が現れた。
「アルファ隊、ヴァイスフェルト中尉。敵残存勢力、撤退を確認。追撃を打ち切る」
「ブラボー隊、クライス大尉。同じく確認。撤退していく」
「チャーリー隊、レクター少尉。こちらも——敵、いなくなりました」
フィンの声が震えていた。安堵の震えだ。
ロッテがヘッドセットを外し、静かに息を吐いた。
「作戦成功。帰還開始」
奏太は椅子の背にもたれかかった。握りしめていた拳を開くと、爪の跡が掌に残っていた。何も持たない手。何も振るえない手。だがこの手で調整した機体が、戦場で人を守った。
格納庫に走った。
機体が次々と帰還してくる。着地の振動が床を通じて伝わってくる。コックピットが開き、パイロットたちが降りてくる。汗だくの顔。疲労の色。でも——生きている。全員が。
ヨハンが機体から降り、奏太を見つけて親指を立てた。
「おい整備士。あの調整は本物だ。右旋回の切れが全然違った」
短い賛辞だが、ベテランの言葉は重い。奏太は頭を下げた。
リーゼが機体から降りてきた。銀灰色の髪が汗で額に張り付いている。軍服の肩に焦げ跡。被弾したのだろうか。だが足取りはしっかりしている。紫の瞳が奏太を捉えた。
「機体の反応が良くなっていた。特に左旋回から急停止への繋ぎ。魔力の伝達ロスが減ったのがわかった」
「物理構造の最適化で、魔力回路との干渉を減らしました」
「——悪くなかった」
リーゼにしては、最大級の賛辞だ。ほんの僅かだが、口元が緩んでいた。
そして——ルーカスの機体が着地した。着地はやや荒い。初めての大規模作戦。淡い茶色の髪の青年がコックピットから出てきたとき、全身が震えていた。
ルーカスは地面に降り立ち、まっすぐ立てなかった。膝が笑っている。それでも、震える手で敬礼した。
「ルーカス・ヴェント、帰還しました」
声が上擦っている。目が赤い。泣くのを堪えているのか、恐怖の名残か。
フィンが駆け寄った。
「よくやった。帰ってきたじゃないか」
「レクター少尉……俺、何もできなかった。怖くて——」
「それでいい。帰ってきたことが全部だ」
フィンは自分の言葉に、自分で驚いたような顔をした。かつて「大丈夫です」しか言えなかった青年が、後輩に本当の言葉をかけている。
奏太は格納庫の隅で、帰還した機体の損傷チェックを始めた。やることはいくらでもある。次の出撃に備えて、今から整備を始めなければ。
ロッテが通信室から出てきて、格納庫の入口で立ち止まった。全員の帰還を確認して、初めて表情を緩めた。小さく、本当に小さく、息を吐いた。
戦えない者たちの戦いが、ここにある。
通信室の椅子に座って祈ること。格納庫で機体を整えること。厨房で食事を作ること。それぞれの持ち場で、それぞれのやり方で、戦場を支えている。
カティアが整備棟から走ってきた。赤毛が風に揺れている。
「戦闘データの記録、始めましょう! 今回は調整済みの機体と未調整の機体の比較ができます」
師匠には「記録の確認」と言うつもりなのだろう。だが緑の目は技術者の興奮で輝いていた。データが待っている。数字が真実を語る。
奏太は工具を手に取り、帰還した機体の足元に膝をついた。ポケットの六角ボルトが指先に当たる。くるくる。くるくる。
全員が帰ってきた。今回は。
次も全員を帰す。そのために、もっといい状態で送り出す。




