第十二章 出撃前夜
大規模迎撃作戦が明日に迫っていた。
基地全体が、静かな緊張に包まれている。廊下を行き交う人の足音がいつもより速い。食堂では兵士たちが黙々と食事を取り、誰も冗談を言わなかった。
奏太は格納庫にいた。
天井の高い空間に、十二機の魔道兵器が整然と並んでいる。装甲の表面が格納庫の照明を受けて鈍く光る。明日、この機体たちが戦場に出る。乗っている人間が帰ってこない可能性もある。
この二日間で調整を施した三機の機体が、出撃を待っている。ガルベルトの魔力回路調律は完了済み。奏太がやったのは物理側の最適化だ。公式には「雑用」ということになっている。カティアだけが本当の作業内容を知っていた。
調整済みの一機——ヨハンの搭乗機のコックピット周りを最終確認していると、パイロット待機室から足音が降りてきた。
「タカモリさん」
フィンだった。栗色の短髪の下の青緑の目が、いつもの明るさを失っている。首元のペンダントを握る手に力が入っていた。
「明日、大丈夫ですかね」
誰に聞いているのか、自分に言い聞かせているのか。フィンの声が微かに震えていた。
「大丈夫かどうかは、俺にはわかりません」
奏太は正直に答えた。嘘は言えない。
「ただ、機体は最善の状態にしてあります。フィンさんの機体も、今から最終調整します」
「……そっか。それだけで、ちょっと安心します」
フィンが薄く笑った。笑えているだけ、偉いと思う。明日の戦場を前にして、笑顔を作れるのは強さだ。不器用な強さだが、本物だ。
「——ありがとうございます」
フィンが首のペンダントを握りしめたまま頭を下げた。小さく息を吐いて、待機室に戻っていく。階段を上がる足音が遠ざかっていった。
その背中を見送っていると、格納庫の奥から別の気配がした。
新人パイロットのルーカス・ヴェントが、自分の機体の足元に立っていた。淡い茶色の髪をした、フィンより少し背の低い青年。作業着姿で、じっと機体を見上げている。
その横顔に浮かんでいるのは、紛れもない不安だった。初めての大規模作戦。何が待っているかわからない。当然の恐怖だ。
フィンが戻ってきた。ルーカスの姿を見て、一瞬だけ立ち止まる。
「ルーカス」
「あ、レクター少尉——」
「大丈夫。俺も最初はそうだった」
自分だって不安なくせに、フィンはそう言って笑った。年上の新人パイロットに、年下の先輩が声をかける。不格好な励ましだったが、ルーカスの肩から少しだけ力が抜けたのが見えた。
廊下から、ヨハンの声が飛んできた。
「坊主ども、寝られるときに寝ておけ。明日は長い一日になる」
ベテランの一言は短くて重い。フィンとルーカスが「はい」と返事をして、待機室へ消えていった。
ヨハンは格納庫に残った。金髪を短く刈り込んだ頭が、照明の下で光る。奏太の作業を横目で見ながら、壁にもたれかかった。
「……俺の機体、どうだ」
「関節のクリアランスと重心バランスを調整しました。旋回時のブレが減るはずです」
「ほう。楽しみだな」
片頬の古い傷跡が、薄暗い格納庫の中で影を作っている。ヨハンは短く笑って、待機室に上がっていった。
格納庫に奏太だけが残った。
リーゼの機体が、一番奥に鎮座している。銀色の装甲が格納庫の照明を反射して、鈍い光を帯びていた。エース機。最も酷使され、最も精密な調律を必要とする機体。
ガルベルトの魔力回路調律は完璧だ。だが物理側は——奏太の目には、改善の余地がいくつも見えている。
やるしかない。
工具を揃え、作業灯を点けた。リーゼ機の足元に取りつく。この機体は他の機体とは格が違う。ガルベルトが特別に調律した魔力回路。精度の高い関節機構。エース専用の装甲配置。一つ一つの部品に手間がかけられている。
関節部の精度確認から始めた。左肩の球面ジョイントにわずかな引っかかり。取り付け座面を研磨し、クリアランスを広げる。装甲パネルの取り付け角度補正。駆動系のアライメント調整。膝関節の遊びを詰める。一つ一つ、丁寧に。急いで雑になるのが一番まずい。
時計の針は深夜を回っていた。
足音がした。振り返ると、ディーターが立っていた。灰色の髪の下の無表情な顔。その手には、パンと干し肉——夜食だった。
作業台の端に無言で置いて、ディーターは踵を返した。
「ディーターさん」
「……」
「ありがとうございます」
ディーターは振り返らなかった。だが、その足取りがほんの少し遅くなったのは——たぶん、気のせいではない。
夜食を頬張りながら作業を続けた。パンは固かったが、腹に入れば力になる。ペトラが焼いたパンだ。あの温かい食堂の味がした。
時計が午前三時を指した頃、格納庫の入口に人影が立った。
銀灰色の長い髪。紫の瞳。軍服の上にコートを羽織った姿。
リーゼだった。
片手に湯気の立つカップを持っている。紅茶の香りが格納庫の油の匂いに混ざった。
「まだ作業しているのか」
「あと少しで終わります」
「無理をするな。明日——いや、今日か。長い一日になる」
「パイロットに言われると説得力ありますね」
「……お前に言っているんだ」
リーゼは作業台にカップを置いた。奏太はそれを受け取り、一口飲んだ。温かい。身体の芯まで染みる。
「美味しいです。冷えた体に染みます」
「ただの紅茶だ。大げさだな」
そう言いながら、リーゼの表情がわずかに和らいだ。戦闘の前夜に格納庫で紅茶を出す——殲滅の堕天使と呼ばれる女性の、意外な一面だった。
リーゼの視線が、自分の機体に向いた。装甲の一部が外されて内部が露出している。奏太の手が入った痕跡。
「私の機体に何をした」
「物理構造の最適化です。魔力回路には触ってません。ガルベルトさんの調律は完璧なので」
「……ふん」
リーゼは何かを言いかけて、やめた。髪の毛先を指で弄る。困ると出る癖だ。
「俺は送り出す側だから、万全にして渡すまでが仕事です」
奏太の言葉に、リーゼは少し目を見開いた。紫の瞳がまっすぐ奏太を見る。
「——わかった」
短い返事だけ残して、リーゼは格納庫を出ていった。コートの裾が、冷えた空気の中で揺れた。
作業に戻る。残りは背部装甲の微調整だけだ。
最後のボルトを締め、バランスを確認し、作業灯を消した。
東の空が白み始めていた。格納庫の高い窓から、夜明けの淡い光が差し込んでくる。出撃を待つ機体たちの装甲が、朝焼けの光を受けて薄く輝いた。
整備棟の陰から、視線を感じた。
振り返ると——誰もいなかった。だが、ほんの一瞬前まで、琥珀色の目がこちらを見ていた気がした。油と魔力の残り香が漂う薄明の格納庫に、もう一人の整備士がいた痕跡。床に残る靴跡。
ガルベルト。
あの男が深夜に格納庫を巡回するのは、知っている。二十年以上この場所を守ってきた主席整備官。機体への愛着が、あの頑固な男を毎晩ここに引き寄せるのだ。奏太の作業を——見ていたのか、いないのか。
見ていたとしたら、何を思っただろう。魔力なしの素人が、自分の管轄の機体に勝手に触っている。怒りか。軽蔑か。それとも——。
わからない。だが、今はそれでいい。
奏太はツールポーチを腰に巻き直し、ポケットの六角ボルトに触れた。くるくる。くるくる。
やれることは全部やった。
あとは——送り出すだけだ。




