第十章 素人の手仕事
整備棟での雑用が一週間を超えた。
奏太は黙々と与えられた仕事をこなしていた。工具の整理、部品の清掃、作業台の片付け、消耗品の在庫管理。整備の本質には一切触れさせてもらえない毎日が続いている。
ガルベルトの「邪魔をするな」という条件は厳格に守られていた。奏太が整備中の機体に一歩でも近づこうとすれば、ガルベルトの琥珀色の目が刃物のように光る。結界のようなものだった。
だが奏太は不満を覚えなかった。むしろ、この時間を有効に使っていた。
部品を磨きながら構造を覚える。工具を分類しながら、この世界の規格体系を理解する。作業台を片付けながら、ガルベルトやディーターやカティアの整備作業を観察する。特にガルベルトの魔力回路調律は何度見ても見事で、手の甲の刻印が金色に脈打つたびに、機体の内部で何かが呼応するように光が走る。
奏太には魔力が見えない。だが振動が見える。音が聞こえる。魔力回路の調律が終わった後の機体を触ると、内部の何かが整然と並んだ感覚が指先に伝わってくる。逆に調律前の機体は、どこかがずれている——魔力の流れとは関係なく、物理的な何かが。
ディーターは相変わらず無言だった。だが奏太が工具の配置を完璧に覚えてからは、朝、作業場に入ると奏太の分の茶が机に置いてあるようになった。温かい、やや渋めの茶。ディーターが茶を出すのは「認めている」のサインだと、カティアに後で教えてもらうことになる。
カティアは警戒を完全には解いていなかった。赤毛のショートカットの下の緑の目が、奏太を時折うかがっている。だが奏太が師匠の整備作業を邪魔しないことを確認してからは、多少口をきくようになった。
「師匠の邪魔だけはしないでくださいね」という言葉は、もう言わなくなった。代わりに「その部品、三番棚の上段です」と事務的な情報だけを伝えてくる。それで十分だった。
転機が訪れたのは、十日目の午後だった。
格納庫から二機の機体が整備棟に運び込まれた。一機は魔力回路の調律が必要で、もう一機は損傷が軽微で「後回し」にされていた。ガルベルトとカティアは一機目の調律にかかりきりで、ディーターは別の機体の部品加工をしていた。
後回しにされた二機目は、整備場の隅に放置されていた。
奏太は部品の清掃をしながら、その機体を横目で見ていた。左腕の関節部が固着している。装甲の外から見てもわかるくらい、肘が曲がらなくなっていた。恐らく関節内部の潤滑が失われて、可動部が噛み込んでいる。
整備班の一人が——奏太の名前も知らない若い整備士が——その機体の前でしゃがみ込んでいた。工具を握って関節を叩いている。が、固着は解消されない。力任せに叩いても、機械は応えてくれない。
若い整備士が舌打ちした。汗を拭い、工具を持ち替え、別の角度から叩こうとする。
「あの——」
気づいたら、奏太は声をかけていた。
整備士が振り返る。奏太を見て、「ああ、異世界人の」という顔をした。
「その固着、叩いても取れないと思います。関節内部で潤滑剤が固化してるんじゃないかと」
「は? お前、触ってもいないのにわかるのか」
「外から見て、関節の隙間に変色があるので。固化した潤滑剤が酸化して変色する——たぶん、こちらの世界の潤滑剤も同じだと思います」
整備士は疑わしそうな顔をしたが、手詰まりだったのだろう、「じゃあどうすればいいんだ」と聞いてきた。
「まず、外殻パネルを外して関節を露出させます。そこから固化した潤滑剤を除去して、新しいのを入れ直す。それと、固着の原因になった異物があるはずなので、それも取り除かないと再発します」
奏太はツールポーチから工具を取り出した。パネルの固定具を緩め、外殻を外す。中から関節機構が露出した。
案の定だった。関節の隙間に黒く変色した潤滑剤がこびりつき、可動部の動きを阻害している。さらに、小さな金属片——恐らく装甲の破片——が関節内に入り込んでいた。
「これですね。この破片が潤滑剤を押し出して、残った分が熱で固化した」
奏太は破片を摘み出し、固化した潤滑剤を丁寧に除去した。固着していた潤滑剤は指の爪で削るように取り除く。古い潤滑剤の下から、本来の関節面が姿を現した。精密な加工がされた面だ。この世界の金属加工技術は高い。
清掃用の布で関節面を磨き上げ、棚から潤滑剤の缶を取って——ディーターが教えてくれた場所だ——適量を注入する。多すぎても少なすぎてもいけない。ちょうど関節面を薄膜で覆う程度が最適だ。元の世界の経験が、そのまま通用する。
最後に、関節の遊びを微調整した。角度を変えながら指先で回転の滑らかさを確認する。回転軸がわずかにぶれている。締め付けを修正。もう一度回す。今度は滑らかだ。
「これでどうですか」
関節が、するりと動いた。
整備士が目を見開いた。自分が三十分叩いて動かなかったものが、あっさりと動いている。
「……マジか。十分もかかってないぞ」
「潤滑と異物除去だけですから。大した作業じゃないです」
奏太は謙遜したが、本心では手応えを感じていた。異世界の機体でも、物理法則は変わらない。潤滑も異物除去も、元の世界で何百回とやった基本作業だ。
整備士は複雑な表情をしていた。魔力も刻印もない異世界人に、自分が解決できなかった問題をあっさり解かれた。面白くはないだろう。だが機体が直った事実は事実だ。
「……ありがとよ」
短い礼を言って、整備士は去っていった。その背中に嫌悪はなかった。純粋な困惑の方が大きかったように見える。
気配を感じて振り返ると、カティアが五メートルほど離れた場所で足を止めていた。緑の目が大きく見開かれている。集中すると出る舌先が、半分だけ見えていた。
「どうやったんですか——」
声をかけかけて、カティアは口をつぐんだ。作業場の奥から、ガルベルトの視線を感じたのだろう。琥珀色の目が、こちらを見ていた。
ガルベルトは何も言わなかった。奏太の作業を見ていたのか、いないのか。ただ無言で自分の調律作業に戻った。
「小手先の真似事だ」
低い声が、背中越しに聞こえた。
認めてはもらえない。だが、否定の言葉の中に——ほんの僅かだが——観察の色が混ざっていたような気がした。もしガルベルトが本当に奏太を取るに足らないと思っているなら、わざわざ「小手先の真似事」と評価する必要すらないはずだ。無視すればいい。それをわざわざ言葉にしたということは——少なくとも、見てはいたのだ。
それだけで今は十分だ。
夕方、ディーターが奏太の作業台に茶を置いた。いつもより少しだけ、多く淹れてあった。
格納庫の隅から、新人パイロットらしい若い男が一人、自分の機体を見上げていた。栗色ではなく淡い茶色の髪の、フィンより少し背の低い青年。戦闘帰りなのか、作業着に土埃がこびりついている。奏太はその青年の顔を覚えなかったが、ルーカスという名前だと後で知ることになる。
奏太はポケットの六角ボルトを回しながら、機体を見上げるルーカスの背中を一瞬だけ見て、整備棟に戻った。
今日一つ、自分の場所が少しだけ広がった。それは確かだった。
明日もまた、地道に広げていく。焦らず、一歩ずつ着実に。それが一番確かな道だ。




