第一章 終わらない残業
オフィスの蛍光灯が白々しく光っている。時計は二十一時を回っていた。
鷹森奏太は試作機の関節ユニットに指を這わせながら、今日三度目のため息をついた。ため息の理由は疲労ではない。肩関節の第二軸が、どうにも気に入らないのだ。
周囲のデスクはとっくに空だ。同僚たちは定時の十八時を過ぎると三々五々帰り支度を始め、「お先に」「鷹森くんも早く帰りなよ」と声をかけていった。部署の後輩は「鷹森さん、今日こそ終電前に上がってくださいよ」と心配そうな顔をしていたが、奏太は曖昧に手を振ってすぐに視線を部品に戻した。
もう慣れたやり取りだ。
産業用ロボット開発部門。大手重工メーカーの中でも花形とされる部署だが、実態は地味な調整作業の繰り返しだ。設計図通りに組んでも動かない。スペック通りに動いても現場では使えない。理論と現実の隙間は常にある。その隙間を埋めるのが奏太の仕事であり、奏太が最も得意とする領域だった。
試作三号機の肩関節ユニット。直径十二センチほどの円筒形のアセンブリを両手で包むように持ち、指先をゆっくりと滑らせていく。
第一軸——問題なし。第二軸——ここだ。
指先がわずかな振動を拾った。
「——ここか」
呟いて、奏太は目を細めた。第二軸の軸受けだ。組み付け精度は基準値内。計測器で測っても公差の範囲に収まっている。数値上は正常。だが指が知っている。クリアランスが微妙に偏っている。百分の数ミリ、計測器の分解能では拾えない領域の話だ。
けれど奏太の指は拾ってしまう。
この機体は、ここが気に入らないのだと訴えている。
ツールポーチからトルクレンチを取り出した。腰に常備している革製のポーチには十数本の工具が整然と収まっている。配置は全て決まっている。暗闇でも手探りで正しい工具を引き抜ける。それは父親から叩き込まれた習慣だった。
締め付けを〇・二度だけ変えた。もう一度指を滑らせる。
振動が消えた。
「よし」
短く頷いて、次の関節に移る。工具をポーチの定位置に戻す動作は、ほとんど無意識だ。
——触れば直る鷹森。
社内でそう呼ばれるようになったのは、入社三年目の頃だったか。新型溶接ロボットの稼働試験で原因不明の精度低下が発生し、設計チームが三日かけても特定できなかった不具合を、奏太が素手で触って十分で直してしまった。第七関節の軸受けにわずかな偏心があった——ただそれだけの話だが、計測器が拾えない微差を指先で見つけるという芸当に、開発部は騒然となった。
以来十年、その評判は社内に定着した。
管理職昇進の打診は何度かあった。全部断った。
「俺は作る側だから」
毎回そう答える奏太に、上司は渋い顔をしつつも最終的には折れる。奏太の腕を現場から引き剥がすのは、会社にとっても損失だと理解しているからだ。おかげで三十四歳にして役職なし。同期はとっくに係長やらチームリーダーやらになっているが、奏太は気にしていなかった。
黒い短髪に寝癖がついたまま。暗い茶色の目は部品だけを映している。やや痩せ型の体つきは、筋肉はあるが作業で培った実用的なもので見た目には頼りない。指先には古い火傷の痕がいくつも刻まれていて、それは奏太が現場の人間である何よりの証明だった。
三号機の全関節ユニットの調整を終え、奏太はようやく腰を伸ばした。背中がばきばきと鳴る。肩を回すとこちらも鳴った。自分の体の整備は完全に後回しだ。
試運転用のコンソールを立ち上げ、各関節の動作テストを走らせる。画面上でパラメータが並ぶ。応答速度、トルク変動、角度精度——全て基準値内。しかし奏太が見ているのは数字ではない。三号機の腕がなめらかに弧を描く動きを、じっと目で追っている。
滑らかだ。引っかかりがない。さっきまで微かに感じていた「ざらつき」が消えている。
奏太は小さく口角を上げた。満足だ。この瞬間のために、四時間半の残業がある。
コンソールを落とし、三号機のカバーを戻す。フロアに奏太以外の人影はない。空調の音だけが低く唸っている。
時計を見ると二十二時半。終電にはまだ間に合う。
デスクに放置されていたペットボトルのお茶——もうぬるいどころか完全に常温だ——を一口飲んだ。旨くも不味くもない。ただの水分補給だ。
工具を一本ずつポーチに収めていく。レンチ、ドライバー、ノギス、六角レンチセット。最後にトルクレンチを定位置に差し込んで、ポーチの蓋を閉じた。一つでも欠けていたらすぐにわかる。工具と自分の指だけが、奏太の武器だった。
——機械は正直だ。
町工場を営んでいた父の口癖。油と鉄粉の匂いが染みついた作業着の背中を、奏太は今でもよく思い出す。設計図を見る前に、まず手で触れ。数字を信じるな、自分の指を信じろ。父のその教えが、奏太の技術者としての根幹を作った。
着替えもせず、作業着の上にジャンパーを羽織って会社を出た。
三十四歳独身。彼女なし。趣味は仕事。我ながら寂しい人生だと思わなくもないが、不満もない。機械と向き合っている時間が一番落ち着く。人付き合いは苦手ではないが、積極的にもなれない。それだけのことだ。
駅前のコンビニで適当な弁当を掴み、レジに並ぶ。
「温めますか?」
「お願いします」
毎晩同じやり取り。店員の顔も覚えた。向こうも覚えているだろう。深夜の作業着の常連客。
温まった幕の内弁当をぶら下げて夜道を歩く。
春先の夜風は少しだけ温い。桜はまだ蕾だが、空気に混じる湿り気がもう冬のそれではない。住宅街の街灯がぽつぽつと並ぶいつもの帰り道。電柱の影が等間隔に伸びて、奏太の足元を交互に明るくしたり暗くしたりする。
アパートまであと十分。帰ったらシャワーを浴びて、弁当を食べて、設計図を少し見直して寝る。明日は七時半に起きて八時半に出社。そしてまた試作機の前に座る。そういう毎日だ。変わり映えしない。けれどそこに不満はない。
明日も同じ試作機を触る予定だ。今日の肩関節の偏心を考えると、脚部の関節にも同じ傾向があるかもしれない。軸受けのロット自体に微妙な個体差があるのか、それとも組み付け治具の問題か。
頭の中では既に明日の作業手順が組み上がっている。
ポケットに手を入れると、指先に小さな六角ボルトが触れた。いつからか持ち歩くようになったお守りみたいなものだ。考え事をするとき、これを指で回す癖がある。くるくる。くるくる。思考のリズムに合わせて、ボルトが指の上で踊る。
脚部の第一関節と第三関節の応答速度に差がある。設計上は同一仕様だが、組み付け時の——
足元が、光った。
「——は?」
奏太は立ち止まった。弁当の袋を持つ手が止まる。
光だ。アスファルトの地面から、青白い光が滲み出している。街灯の反射ではない。下から来ている。足元の舗装の亀裂に沿って、毛細血管のように光の筋が広がっていく。
何だこれは。
ガス管の破裂? いや、光が青白い。しかも規則的だ。まるで回路みたいに——
考える間もなかった。
光が一気に膨れ上がった。足元だけだった光が視界全体に広がり、世界を白く塗り潰す。
足元の感触が消えた。地面がない。体が落ちているのか浮いているのかもわからない。
弁当の袋が指から滑り落ちる感覚だけが、やけにはっきりしていた。温められたばかりの幕の内弁当。食べてもいないのに。
意識が遠のく。
最後に思ったのは、明日の脚部調整のことだった。




