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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

侯爵令嬢イングリッドは独身貴族であり続けたい!

 わたくしはこの縁談を台無しにしてやる!


 いま現在、侯爵令嬢のイングリッド=アイラ=フォン=グーデンベルクは縁談に臨んでいた。


 今年で十五歳になったイングリッドの容姿はよりいっそう美しくなった。さらりと流れる銀髪が照明の光を浴びて輝いている。柔和な目と薄桃色の唇が彼女の魅力を引き立てていた。華麗な意匠の赤いドレスを着飾る彼女は、傾国の美姫を勝るとも劣らない。


 侯爵家の本邸で縁談を進めていたイングリッドは、婚約破棄の腹案を持ちながら笑顔を振りまいた。目の前にいる金髪の美男子はジークフリート=フォン=パウエル。今回の縁談でイングリッドを指名したパウエル伯爵家の令息だ。微笑みを絶やさないジークフリートは、使用人に用意させた紅茶に口をつけた。


 事の発端はいまから一ヶ月前にさかのぼる。ここの領地を治めるイングリッドの父親のグーデンベルク侯爵からの一言だった。


「イングリッド、今年でお前も立派な淑女だ。近いうちに見合いの場を設けるから、がんばって婚約を結んでくるんだぞ? お父さんも応援しているからな」


 イングリッド、今世紀最大の非常事態だ。


 なぜならば、イングリッドは生涯独身を貫きたいからだ。独り立ちして自由気ままに絵を描きたい。画家になるのがイングリッドの将来の夢なのだ。


 それなのに、貴族令嬢としての義務がイングリッドの夢を阻んでいる。本当は誰にも邪魔されずに絵を描きたい。その本心を貴族社会のしがらみのせいで打ち明けずにいる。はっきり言ってうんざりだ。


 もちろん父親の気持ちは理解している。そんな父親に迷惑をかけるのは少し気がひける。


 だけど、これだけは妥協したくない。自分の夢を絶対に諦めたくないんだ。


 もしこのお見合いが成功して婚約が決定したら、嫁ぎ先の家庭を守るために尽力するだろう。


 それはつまり、大好きな絵を描く暇がなくなるんだ。その最悪な結末を迎えてたまるか。イングリッドにはイングリッドの人生があるんだ。画家の夢を叶えるために、イングリッドは貴族社会に抗ってやる。


 それゆえに、イングリッドは相手の口から婚約破棄の四文字を言わせようと策を練った。その会心の策をいま解き放つ時が来た!


 居住まいを正したイングリッドは、前髪を整えてから喉を震わせた。


「実はわたくし、最近ペットを飼い始めましたの。ジークフリートさまにもお見せしたいので、ここにお呼びしてもいいでしょうか?」


「構いませんよ」


 口角を上げたジークフリートは快く了承する。彼の許可をもらえたので、さっそくペットをお披露目するべく手を叩いた。すぐあとに扉の向こうで控えていた使用人が、なにかを抱きかかえながら部屋に入って来た。大事そうに抱えられたそれをイングリッドに手渡した。


 子どもよりも小さな身体からふわふわの茶色い体毛が生えている。くりくりしたつぶらな瞳が愛らしい。ぺろっと出した舌も憎たらしく可愛い。ふりふりと振っている短い尻尾がチャーミングさを強めている。


 それは犬だった。紛うことなきトイプードルだった。


 ジークフリートはその犬を視界に捉えた瞬間、どばどばと冷や汗を流し始めた。実はこのジークフリート、大の犬嫌いなのだ。親の仇のように恨んですらある。


 確かな手応えを感じたイングリッドは、ペットの犬を優しく抱える。


「名前はカモミールです。嫁ぎ先ではカモミールも合わせて三十匹ほど犬を飼おうと思いますの。よろしければ、カモミールを抱いてみますか?」


 イングリッドのワンワン計画を述べてみせた。愛犬の頭を丁寧に撫でながら、ジークフリートに抱いてみないか、と物腰柔らかく勧めた。


 だが、当のジークフリートはそれどころじゃない。さっきからカモミールに視線を合わさず「い……いえ。結構です」と心底取り乱している。


 彼の慌てる様子を見たイングリッドは、使用人にカモミールを返し、また手を叩いた。


 すると、またもやドアの向こうから別の使用人がワゴンを押しながら入って来た。


 そのワゴンの上に置かれたアフタヌーンティーセットが、イングリッドとジークフリートの前に配膳された。


「うちの庭園で採れた野菜とハーブをふんだんに入れたケーキとハーブティーですの」


「ほう。それは興味深いです。さっそく頂かせてもらいますね」


 フォークを手に取ったジークフリートは、オレンジ色のケーキを切って口に運んだ。次の瞬間、彼は苦虫を噛み潰したような渋面を作った。すぐさまハーブティーに手を出して飲み干した。しかし、気分の悪そうな顔は変わらず続いている。少し愉快になったイングリッドは種明かしをした。


「わたくし、ニンジンが大好きですの。毎日大好物を食べたくて庭師にたくさん作らせているんです。ハーブはヤロウが特に好きで、このクセのある味が気に入っているんです。もし機会があれば、またこうしてお茶の席を共にしたいです」


 そう言って、ティーカップの取っ手を掴み嫋やかに啜る。うん、今日のハーブティーも美味しい。


 ちなみに、ジークフリートはニンジンも大嫌いだ。ハーブティーに至っては甘い味しか飲まない。彼に振る舞われたこのアフタヌーンティーセットは顰蹙を買うものだった。その仕掛けを準備したイングリッドは、ケーキを食べながらほくそ笑む。すべて計画通りだ。この日のために、イングリッドの専属使用人に調査させた甲斐があった。そのおかげで効果的なプランを立てることができた。


 ぜんぶ使用人に任せるのは良くないと思い、自ら率先して土いじりに取り組んだ。母親にバレてこっぴどく叱られたけど。


 まあ、なにはともあれ。これでおそらく相手のほうから婚約の話を白紙にしてくれるはずだ。


 そう思っていると、ジークフリートが視線を落としてため息を吐いた。


「……イングリッドさまは多趣味なんですね。羨ましいです。わたしはそういった趣味を見つけられないつまらない男なので。貴女の婚約相手が務まるのか自信をなくしてしまいました」


 自嘲的に語ったジークフリートは、嫌いなはずのニンジンのケーキをもう一口食べる。口に合わないはずのハーブティーを勢いよく呷った。その目に映るのは、必ずお見合いを成功してみせる覚悟の色だ。


 ……専属使用人が掴んだ()()()()()を抜きにすれば、この殿方は非常に魅力的な男性だ。


 そして、そんな最高のお見合い相手に意地悪しているイングリッドは最低な女だ。


 そのお見合い相手にお詫びの言葉を送ろうか。こんな性悪女を諦めてもらうために。


「……これはあくまで噂話ですが、ジークフリートさまは()()()()()()()()()()()()。それも、すでに意中の方と密やかにお付き合いされているとか」


 この事実を暴露した瞬間、ジークフリートが席を立ち上がった。たいそう困惑している表情だ。彼のほおに一筋の汗が流れた。


「ど……どうしてそれを!?」


「ジークフリートさま。どうか落ち着いてください。先ほども噂話と申しましたよ? 根も葉もない噂に信ぴょう性などありません」


 イングリッドはいちど言葉を区切る。深呼吸したあと、ジークフリートの綺麗な青い目を見つめた。


「ですが、その噂が本当なら好きでもない女性に婚約の話を持ちかけるのはやめたほうがいいと思います。意中の方と一緒に過ごされるほうがはるかに有意義と思いませんか?」


 その助言に耳を貸したジークフリートは、しばらく銅像のように硬直した。やがて、ゆっくりと目を伏せて踵を返した。


「……今日は帰らせてもらいます」


 そう告げて部屋の出入り口に向かい、使用人に開けてもらったドアから出ていった。


「後片付けはあとで構わないので、ジークフリートさまのお見送りをお願いします」


 後ろに控えているふたりの使用人に呼びかける。今回の婚約破棄作戦に参加してくれたふたりは「承知しました」と頷いて部屋を出た。


 静かになった部屋の中で、イングリッドは最後の一滴までハーブティーを飲んだ。


「お嬢さまは本当にお優しいですね」


 突然イングリッドの背後から涼やかな声が聞こえた。そちらに振り返ると、肩口で切り揃えた黒髪の使用人がイングリッドを見据えていた。専属使用人のキョウカだ。ぴしっと定規みたいに背筋を伸ばす彼女は、感情の薄い声色で話の続きをした。


「この国の法律に則れば、同性愛は神の教義に反する大罪です。しかしお嬢さまは、そのことを誰にも告げ口することなく、今日この日のお見合いに臨まれました」


「別に大した理由はないわよ。ただ、あのひとの気持ちに少しだけ共感したの。ジークフリートさまもわたくしと同じ被害者だから」


 イングリッドは普段の砕けた口調で呟いた。そう、彼の境遇に少しだけ共感したのだ。


 イングリッドとジークフリートは大切な宝物を奪われた被害者だ。貴族社会に翻弄され続けるなんてまっぴらごめんだ。個々人の価値観や尊厳を踏みにじる貴族社会は悪でしかない。断じて許されないのだ。


 やがて、イングリッドは席から立ち上がり背伸びする。


「さてと、それじゃあわたくしは絵でも描こうかな。あっ、そういえば言い忘れていた。ジークフリートさまの身辺調査お疲れさま。機会があれば、またキョウカの絵を描いてあげるね」


「もったいなきお言葉です」


 キョウカは淡々とした口調で返事する。踵を返した彼女は、ドアのほうに歩いて開けてくれた。


 イングリッドは懐から絵筆を取り出し、「今日も描くぞ〜!」とルンルン気分のまま部屋を出ていった。

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