2-1:まだ食事中なんだけどぉ
砦都シルバラードの城壁に囲まれた一角。埃っぽく、安酒と汗、そして香ばしい肉の匂いが漂う場末の酒場「モフモフ亭」。
そのカウンターで、一人の大男がエールのジョッキを呷っていた。
顔には無数の古傷。左目は黒い革のアイパッチで覆われ、覗く右の眼光は鋭い。男の名は、アポロ・”アイアンウルフ“・フォートレス。目の前には、店の名物であるコカトリスの”唐揚げと手羽ちゃん揚げ”と、野生牛の”骨付きカルビ”が山と盛られている。
「シルク! もう一杯!」
アポロが空になったジョッキをカウンターにドン、と叩きつけると、ふさふさの狐耳をぴくりと動かしながら、獣人族の女主人シルクが呆れた顔を向けた。
「アポロ、あんたねぇ。そんなおっかない顔で口の周りベトベトにして、みっともない。ほら、口くらい拭きなさいよ」
差し出された布巾を無造作に受け取りながら、アポロは骨付き肉に齧り付く。
「仕方ないだろ。オレが昔教えたレシピを、さらに旨くしやがったお前が悪い。舌が言うことを聞かん」 「へらず口だけは昔から変わらないんだから。…あら?」
シルクが眉をひそめたその時、酒場の扉が軋みながら開き、鎧の擦れる音と共に、堅苦しい法衣をまとった男と辺境伯直属の衛兵が五人、なだれ込んできた。一瞬にして、店内の喧騒が水を打ったように静まり返る。
「おい、またここで”ボッチ呑み”とやらを決め込んでいるのか、”元”騎士様」
年配の衛兵が制止するのも聞かず、血気盛んな若い衛兵がアポロに絡み、その肩を侮蔑的に掴んだ。
次の瞬間、若い衛兵の視界は反転していた。何が起きたのか理解する間もなく、衝撃と共に酒場の端のテーブルへ叩きつけられ、派手な音を立てて伸びてしまう。アポロは肉を口に運びながら、ちらりとも衛兵を見ない。
「……」
アポロの肩を掴んだはずの手は、空を切っていた。ただ、彼の周囲の空気が一瞬だけ陽炎のように揺らいだのを、シルクだけが見ていた。
「アポロ、まったくアンタは…。今壊したヤツ、飲み代につけとくからね!」
「ああ」
シルクの怒鳴り声に、アポロは肩をすくめて応じる。そのやり取りを合図に、酒場には再びざわめきが戻った。
「アポロ・フォートレス殿、おられますかな?」
法衣の男──王都から派遣されている首席判事が、冷ややかな声で言った。
「辺境伯閣下がお呼びです」
「まだ食事中なんだけどぉ」
アポロは心底面倒くさそうに顔をしかめ、手羽ちゃん揚げに手を伸ばす。
「それに、オレを厄介払いした張本人のお前の言うことなんざ、聞きたくないね。判事さん」
「あれは法令と規則に基づく適切な処置です。あなたの度を越した暴力行為は、騎士の品位を著しく汚したのです。」
「王都の貴族様方が決めた規則ってのは、利権という名の甘い汁を啜るための道具に成り下がってるだけさ。なあ、判事さん。その立派な『法』ってやつは、この禁域で、魔獣の牙から俺の身を守ってくれるのかい?」
アポロの右目が、鋭く判事を射抜く。判事はその強烈な圧を全く気にかけず静かなままだった。
「……問答は無用。詳細は、城でお聞きください。辺境伯閣下からの、緊急の案件とのことです」
厄介事と、金の匂い。
アポロは舌打ちを一つすると、飲みかけのエールを一気に呷り、立ち上がった。
「シルク、お勘定。ツケといてくれ」
「はいはい。…あんたってホント、トラブルに愛されてるわね」
「オレはシルクに愛されたいんだが」
「ヘタレのくせに、よく言うよ!」
シルクは本気で怒り中指を突き立て、ぷいと顔をそむけた。