第九話 過去
龍ノ宮学園つまり夜な夜な神殺しの生徒たちが集うという神殺し学園にメビウス球が大量に表れるという信じがたい情報を手にして、俺は判断に迷った。
目の前の人物、鬼室兄弟の片割れは確かに数年前に神のもとから去った反逆者に違いない。しかし彼と短い間だが話してみて、本当に悪逆非道な反逆者なのか分からなくなってきた。
俺が何を迷っているのか、それに気づいた鬼室兄弟の片割れは突然、なぜ自分が神のもとを離れたのか説明を始めた。
「俺は昔、野球をやっていた。高校時代のことだ、いわば高校球児ってやつだ。この近くの高校、もちろん龍ノ宮学園じゃないぞ、そこの野球部のレギュラーだった。病弱だった俺がそこまで激しい運動ができるようになれたのも神の力のおかげだと感謝していたものさ」
「それが神のもとを離れた事件とどう関係するんですか?」
「一時はプロ野球選手になることを夢見たが叶わなかった。夢がかなわなかったからと言って神のもとを離れたわけじゃない。俺が神のもとを離れた原因は三年前のある出来事がきっかけだ」
俺たちはすでに厨房から客席に戻っていた。
鬼室兄弟の片割れは通りに面している窓ガラスを指さした。
「あの窓だ。忘れもしない三年前の四月三日、早朝。開店を控えて客席を掃除していた俺は、じじっと焼き付くような視線をどこからともなく感じたんだ。おかしいはずだろう? この店は全部俺一人でやりくりしていて、早朝の時間帯だ、店の中は俺一人っきりのはず。なのに誰かに見られているって感じたんだ。最初は気のせいだと思った。例えば怖い話とか聞いた後、暗がりに誰かいるんじゃないかとか気になることがあるだろ。そんなことだと思って掃除を続けていたんだが、どうもおかしい。何がおかしいって、この視線は気のせいなんかじゃないって確信のようなものを感じたんだ。メビウス球が俺みたいな末端のところに来るのもおかしいが、その可能性も考えて部屋を見渡してみたが、見当たらない。どうやら俺は本能的には、何かに見られていることを気付いているのに、意識の上にそれが上がってきてないだけ、そう思って、俺を見ているやつの正体を突き止めようと首を振り回したのさ。そしたら居たんだ、そこに」
そこというのは、彼が指さしている窓ガラスのことだろう。
「二つ光るものがあった。目だった。誰かが店をのぞいているのだったら、つまりのぞいているのが人間だったら、例えそれが幽霊だとしてもどんなに良かったことか。その双眸の主は人ではなかった。何だったと思う?」
「人でないもの……?」
「龍だった。ちょうど窓ガラスぐらいの顔の大きさの龍が、じっと俺のことを見つめていたんだ。その口には封筒を咥えてて、目が合うと額で窓ガラスをコツンコツンと叩きやがったんだ。あの時以上の恐怖を俺は味わったことはないな、その証拠としてあの時俺は失禁しかけたんだ。よく創作物で驚きのあまり失禁するって描写があるだろう、俺はその当時はあまり水を飲まない生活をしていたもんだから失禁はしなかったものの、健康のために意識的に水を飲むようになった今同じ目にあったら間違いなく失禁していただろうな。それで俺は悩んだ挙句、龍を店内に入れることにしたんだ。もうどうとでもなれって気持ちだったぜ、龍は玄関に顔だけ入ってきて封筒を渡してきた。俺はすぐに封を切って中を確かめたさ、そこには数字が大量に書かれていた、それも全部5-2とか引き算の形でだ。その時はそれが何なのかわからなかったけど、その紙切れこそが、俺が神のもとを離れた直接の原因といってもいいものだ」
「その紙切れは何だったんですか?」
「いや、ちょっと待ってくれ。順番に話したほうがわかりやすいから。その龍は人語を話せて、自分の名前を名乗ったんだ。一色夕。それがその龍の名前だと言うんだ。俺はその名前に聞き覚えがあった、まさかそんなはずがと思ったよ。その名前を聞いた瞬間に鳥肌が一斉に立ったのを覚えてるぐらいだ。一色夕。とっくの昔に死んだ人間の名前さ」
「その人はどんな人だったんですか?」
「高校野球の監督をしていた。俺が通っていた高校とライバル関係にある高校のだ。とはいえ、今となってはその高校の名前を覚えてないんだ。いや、一度もその高校名を知ったことはないんじゃないのかもしれない。そこはその当時から謎の高校と呼ばれたぐらいだからな。俺が通っていた高校もそこそこの強豪だったが、突如として俺たちの前に立ちふさがったのが謎の高校の野球部ってことさ。端的に言えば一色夕は殺されたわけだが、その殺害者こそがわが黍ヶ丘高校野球部の名監督安堂監督その人だったわけだ。安堂監督はこのままでは俺たちは謎の高校に勝てず全国大会に出場できなくなることを危惧して、常日頃その対策を考えていた。俺たちは様々なトレーニングを監督の指導の下行ったが、安堂監督の分析の結果は謎の高校との実力差はどんどん開いていっているという絶望的なものだった。ある日練習が終わりいつものように監督は俺たちを集めたんだが、監督は突然立ち上がって一色監督を討ち取ることを宣言したんだ。司祭殿はご存じかもしれないが、安堂監督の一家は代々紙に忠実な家系で、監督自身も神から信頼されていて、術をいくつか仕えたんだ。そのうちの一つ変身術で黒猫に化けて一色監督の頸動脈を掻っ切るというのが監督の計画だったわけだ。その計画はすぐに実行に移されたんだ。といっても、俺は安堂監督のお供に選ばれなかったから一色監督襲撃の様子は人づてに聞いた話にすぎんが、そうとう凄まじい闘いだったらしい。夜道を歩く一色監督を襲撃すべく待ち伏せていた我らが安堂監督は、獲物を目視するや黒猫に化けて一色監督の首に向かって飛び掛かったそうだ。本当に一瞬の出来事で、これは上手くいったぞと付き添いの部員たちも思ったらしいのだが、次の瞬間一色監督は人間離れした速さで振り返って黒猫の一撃をひらりと交わしたらしいんだ。まさか交わされると思っていなかった安堂は一瞬動きが止まったもののすぐにもう一度首を狙ったらしいんだ。だが、その時信じられないことが起こったんだ。一色監督のほうも変身したんだ。聞いた話によると一メートルはあるこんにゃく芋みたいな化け鼠に変身したんだとさ。猫対鼠だったら猫が勝ちそうなものだが相手は一メートルもある巨大化け鼠だ。そのまま戦ったら間違いなく安堂監督は返り討ちにあっていたはずだ。だが、そこはさすが名将と名高い安堂監督のこと。すぐに三メートルはある巨大な豹に変身しなおしたんだ。二段階変身は神から授かった特別な術で、後出しじゃんけんを可能にするもので、さすがに一色監督も想定してなかったらしい。十分の死闘ののちに安堂監督が一色監督を討ち取ったらしい」
「つまり安堂監督に殺された一色監督を名乗る龍がやってきたわけですね」
「そういうわけだ。それで俺は龍にこう言ってやったわけだ。お前が一色夕であることの証拠はあるのか? そしたらその龍は黍ヶ丘高校のマウンドの下を調べてみろって答えてきた」
「マウンドの下? どういう意味ですか?」
「一色監督の骸は黍ヶ丘高校のマウンドの下に葬られたんだ。このことは極秘事項で安堂監督をはじめ限られた人間しか知らないことだった」
「マウンドの下に埋めたんですか? 死体を?」
「ああそうだ。とにかくそれから龍は最後にあることを言い残して去っていったんだ。そのあることとは恐ろしいことだった。その内容というのは、俺が応援しているプロ野球チームがこれから20連敗する、そして封筒の中身の紙に書かれた数字はその点数だ、というものだったんだ。そんな馬鹿な話、最初は信じなかったさ。龍が帰った後、すぐに安堂監督に連絡してマウンドの下を調べてみた。そしたらそこにあるはずの死体は跡形もなく消えていたんだ。俺と安藤監督は二人して身震いしたが、俺たちにできることは何もなかった、したことといえば地域を統括する神官に報告したぐらいだ。ここで話が終わっていれば、俺は神のもとを離れることもなかったはずだ。俺が神のものを去った原因は、先にも言ったように、龍の予言が当たり俺の応援しているチームが負け続けたからだ。俺の応援している○○○○が十連敗をしたとき、ついに俺はこの連敗を止めてくれるように神に懇願したんだ。三十万円という大金を献金した、ラーメン店がまだ軌道に乗っていなかった時の話だ。地域を統括する神官はそれを受け取て○○○○は次の試合に必ず勝つと約束した。だが結果はどうだった? 結果は龍の予言の通りになった、そのあと何度も地域を統括する神官にアポイントを取ろうとしたがそいつはあってくれなかった。そいつにとっても龍はイレギュラー存在だったんだろうな。そのまま○○○○は二十連敗したのさ、龍の予言通りにね。その時俺は悟ってしまったんだ。龍にすら勝てない神なんかに俺は帰依していたのかとな」
「それが神のもとを離れた理由ですか」
「そうだ」
俺は長い話を聞き終えた疲労感を感じながら、彼の話の内容を理解しようとしていた。
つまり、どういうことなんだ?
その時、鬼室邸の玄関の戸が勢いよく開かれた。
「そういう事情があったのですね」