第七話 鬼室邸への侵入
新しい神である妹杏理は、新しい神であるという立場上、新しい神を狙う輩に常に狙われてきた。
近くの空き地に着陸して、遠くから鬼室邸を眺めているとそんなことを思い出した。
流れは鬼室邸に侵入ということで決まりつつあったが、神である杏理が神殺し学園と関係があると考えられている人物の家に入るのは危険すぎるようにも思われる。
「それでは兄さん。侵入しましょうよ」
「いや、危険だ。この屋敷からは異様な妖気を感じる。ここがただの民家とはどうにも思えないな」
「確かに今までとは違う何かを感じますね。でもそんなことは中に入って確かめてみればいいじゃないですか」
「神自身が、神殺し関連の家へ入るのは危険すぎる」
実際鬼室邸は外見こそ一般の民家の範疇だが、中身はどんな仕掛けがなされているか分かったものじゃない。
忍者屋敷かもしれないしお化け屋敷かもしれない、化け物屋敷の可能性だってある。
新しい神が直々に、この危険地帯に足を踏み入れることは得策でないことを、俺は杏理に根気強く説得した。
「そうですか」
普段は神の意志を押し通す杏理も今回ばかりは譲歩。情報も何もない、奇怪極まる鬼室邸には俺一人で潜入することにした。
「無理しないでくださいね。危険を感じたらすぐに逃げてくださいよ」
「ああ、わかってる」
神に忠実な司祭である俺にとって、こんなことは何度も経験したことだ。
俺は神になる妹を守るために何度も魑魅魍魎と対峙してきた。
これから会う鬼室という人物か、これから入る鬼室邸がどんな場所かは知らない。
だが確実に言えることが一つだけある、俺は妹を必ず守る。それだけは絶対的なことだった。
新しい神である妹杏理は少し離れた場所で待機するということだった。
俺は一人、鬼室邸の玄関口に立って。敷地内に入った時から何か名状しがたいものを感じる。
チャイムを鳴らそうとしたとき、ふと「営業中」という文字列が目に入った。
それが何を意味するのかは分からないが、俺はチャイムを鳴らした。
チャイム音が鳴った後少しして、玄関のドアがゆっくりと開く。そこにいたのは俺が一度見たことがある人物だった。
「何しに来た」
「いや、こんなところにちょっとドアがあったんで、まあ、ちょっと入ってみようかなって思ったんですよ」
「いかにも、これはドアだ。われわれが所有する建築物への入り口にあたるものだ。そこからこの中に入ろうということは、貴様はここに何らかの用があるんじゃないのか?」
俺はもう一度彼の顔を確かめる。確かに朝、神殺し学園で俺を追ってきた男だ。間違いない。
しかし、それにしては彼は様子がおかしかった。
「どこかで会いませんでしたか?」
彼は俺の顔をじろじろと眺めた後吐き捨てるように言った。
「知らん顔だ」
これはどうゆうことなのか?
俺は今朝の出来事をほのめかす。
「今朝会いませんでした?」
「今朝? そんなはずはない」
「龍ノ宮の辺りで会ったかな、とか思ったんですが。俺の勘違いだったのかな?」
俺はわざとらしく(もっとも故意にわざとらしくしたのではないが)考え込むしぐさをした。
彼のほうも目をぱちぱちさせて、大げさに考え事をしているようだ。
「もしかしたら、貴様があったのは、俺の双子の兄弟ではないだろうか?」
「双子の兄弟!?」
「鬼室兄弟は双子の兄弟だ」
そんなことは北雲さんからは聞いていない。だが、確かに双子の兄弟だとすると納得もできる。
目の前の彼は、朝追っかけてきた人物よりかは少しばかりは温和な性格のようだ。
鬼室兄弟の片割れは、玄関の天井をじっと見つめた。
そこに球体が突然現れた。銀色に輝くその球体を俺はよく知っていた。
神に関わる人間ならその存在を熟知しているのは当たり前だ。
かつて神官だった彼もその存在を知っているらしい。
「見ろ、メビウス球だ。こんなところでぐずぐずしてる分けにはいかない。中に入りたまえ」
鬼室邸の中からは、どこかで嗅いだことがあるにおいが漂ってくる。
人は突然に語彙を失うことが少なくない。この瞬間、俺も、このにおいを表す言葉を見つけ出せずにいた。
潜在的な意識では既に情報は処理されている。
この匂いは○○の匂い。それから導き出される鬼室邸の正体は○○である。
しかし、それが何であるか思い出せない。
非常にもどかしい。
俺が思い出そうとして立ち止まると、俺の目の前にメビウス球が静止した。
それは機械音声にも似た声で俺をせかしたのだった。
「無駄に立ち止まるな。展開が遅れるだろうが。それに無駄なことを考えるな。俺を飽きさせるな」
メビウス球にそう言われたのなら仕方ない、俺はまたとぼとぼと歩き始めた。
いつ頃からメビウス球が現れたのかは覚えていない。とにかく、物心がついた時からたまにメビウス球は姿を現したのだった。
ある時などはメビウス球を野球のボールの代わりにして大神殿の窓ガラスを割ってしまったことさえあった。
そんなメビウス球が喋ることを初めて知ったのは、父である古い神に妹杏理とともに呼び出され、神と司祭の責務について教えられた時だった。
その時、俺は頭の中で別なことを考えていたのだが、メビウス球はそんなこと考えてないで話を聞けと俺を叱責したのだった。
それ以後、時々メビウス球は俺の目の前に現れるようになり、三つの無駄をなくすように命令するようになったのだ。
曰く、無駄なことをするな、無駄にしゃべるな、無駄に考えるな。
最初はなぜメビウス球がそんなことを要求するのかわからなかったが、何度もメビウス球と遭遇するうちに、俺の中にある仮説が打ち立てられた。
つまりその仮説とは、メビウス球は俺に物語の中の登場人物のような振る舞いを求めるているのではないか、というものだ。
今までの出来事を照らし合わせてみても納得のいく仮説だ。
メビウス球は、俺だけでなく神にかかわるすべての人間が、神学的に重要な出来事時に、間延びした会話や、脱線、意味不明な思索をすることをひどく嫌っているのだ。
現に、俺が今こうして考え事をしている最中にもメビウス球はそんなことやめろと言ってきている。実際的な罰があるわけではないが、結構鬱陶しいものだ。
普段俺がどんなに怠惰に、無駄に、荒唐無稽にふるまってもメビウス球は干渉してくることはないのだが、一端神がかかわると、それは一切許されなくなるのだ。
俺たちの人生を物語のように扱い、その流れが滞ると、早く次の展開へ行くように注文をつけに来るのがメビウス球といっても過言ではないだろう。
もしかしたら、ここに来てからもメビウス球はこっそり陰から俺たちを観察していたのかもしれないが、鬼室邸に入ってから看過できないほど展開が遅れたからしびれを切らして出てきたのかもしれない。
そうだとしたらメビウス球もなかなか可愛い奴だ。
「長い妄想を垂れ流すな。さっさと話しを進めろ」
メビウス球もお怒りなようなので、俺はそれ以上考えるのをやめた。
周囲を見渡す。
鬼室兄弟の片割れが奥のほうから出てきた。
彼は湯気の立つ液体の入った器を俺の前に置いた。
薄黒いその液体には、細長い黄色いものや、黒い繊維状のもの、緑細切れになった物体が入っていた。
「メビウス球も見ていることだ、無駄なやり取りはなしだ。さっさと食べな」
「これはラーメンですか?」
「ああ、自宅を改造してラーメン店を始めたんだ。三年前からやってる」
箸で麺を持ち上げる。ちぢれ麺だ。
俺はちぢれ麺が大好きだ。
口に入れる。
うまい……
鬼室邸を探索するつもりが、こんなにうまいラーメンにありつけるとは……
俺の脳裏に新しい神である妹杏理のイメージが浮かんだ。
新しい神である妹杏理もラーメンが好きだったはずだ。