第一話 神の失踪
神に忠実な司祭であり、それなりに名の知れた探偵の俺にその依頼が届いたのはスギ花粉がひどい時期だった。
持ち込んだのは、いつも俺にいろいろと依頼をくれる野本さんだ。
「花粉症ですか? この季節はきついでしょうね」
雑居ビルの一室に俺は探偵事務所を構えている。野本さんは部屋に入ってくるなり、書斎机の上に一冊の雑誌を置いた。
彼女は超常現象をテーマにした雑誌の編集長で、これは今月号らしい。表紙には、「廃校に夜な夜な集まる生徒たち」という文言が躍る。
「青森県にかつてあった龍ノ宮学園って知ってる?」
「聞いたことないです」
野本さんは雑誌を開いて説明を始めた。曰く、今から二十年前に生徒のほとんどが失踪したため廃校になったいわくつきの学園らしい。
「信じがたい話ですね」
野本さんを悪く言うつもりはないが、彼女の言うことをすぐに信じることはできない。
なぜかというと、野本さんはあまり確証のないことを言いふらすので、神に二度も破門されているのだ。まあ、破門されるたびに許されるので、それだけ神にとって必要な人材であることも確かだが……
「それで、その龍ノ宮学園っていうのがどうかしたんですか?」
「いやちょっとね、司祭君なら興味持つと思ったんだけど」
「興味ですか」
雑誌をぱらぱらとめくってみる。学園の校舎は、見たところ特に変わったところはない。二十年以上放置されているにしては思ったよりもしっかりした建物だが違和感はない。
「で、その生徒たちの写真はないんですか。夜中に登校する写真とか」
「写真はない、けど見た人はいる」
この程度の情報ならいくらでも出まわっている。十中八九ほら話と言っていい。
もっと近いところなら現地に行ってもいいが、青森となるとその分、神と離れる距離が広がる。
「神と離れすぎるのはまずい。今回はパスで」
「本当にそれでいいのかな? この雑誌にはまだ載せてない情報があるの」
彼女はレインコートから茶封筒と黒い物を取り出した。
茶封筒の方には現金、おそらく依頼金が入っているのはすぐに分かった。というのも、野本さんからは袖の下をよく貰っていたからだ。
だが、黒い物の方は信じがたいものだった。
「拳銃!?」
「持って行ったほうがいいよ。いつ必要になるかわからないから」
「いや、まだ行くって決めたわけじゃないですよ」
彼女はそれらを書斎机に置くと急に低い声で言った。
「その生徒たちはみんな神殺しを目指しているらしいの。いわば龍ノ宮学園は神殺し学園ってわけ」
俺は探偵事務所の壁に掛けられた728mm×1030mmの額縁を見上げた。その中で、俺の妹、杏理が笑っていた。
その微笑はあらゆる凍り付いたものを溶かすような慈愛と暖かさに満ちていた。
杏理は昔から完璧な人間だった。美貌においても、学業やスポーツにおいても、そしてソフトテニスにおいても、常にその非凡な才能を発揮した。
それだけの才能があっても驕ることはなく、いつも誠実で、いつも実直で、いつも慈愛に満ちていた。
その人柄はあらゆる人を信頼させ、その頭脳はあらゆる問題を解決し、そしてその美貌はあらゆる人物を惚れさせた。
俺の小さい頃は、杏理に会うたびに彼女が妹であることを忘れ、一目ぼれしてしまうほどだった。だが心優しき妹、杏理は俺が記憶を失うたびに、俺たちは仲睦まじい兄妹であることを一から説明してくれた。
杏理が文字を覚えたのは俺より二年以上も早い。彼女は文字を覚えたその日から、毎日のように俺に直筆の手紙を書いてくれている。それは今日まで一日も欠かすことなく続いていて、今朝の分は俺の胸ポケットの中に入ったままだ。
また、杏理は音楽的才能にも、絵心にも恵まれていた。今この部屋に流れている心地よい音楽は彼女が作ったものであり、額縁の中の杏理は彼女自身が書いた自画像だ。
そんな超人的な杏理がただの人間でいられるはずがない。彼女は二年前に神になったのだ。
「神殺し……つまり、俺の妹を殺そうってやつがそこにいるのか!?」
「その通り。その封筒の中に地図から切符まで入ってる。わたしに出来るのはそのぐらい、司祭くんに比べたら何もできないに等しいわ」
「そんなことないですよ」
野本さんが部屋を後にしようとしたので、俺は彼女を引き留めて聞いた。
「新しい神・杏理はこのことを知ってるのですか?」
「ええ。神はこのことを知って、大いにお怒りになられたわ。それで、その不埒な輩を成敗してくれると言われたそうです」
杏理をそんな危ないところに行かせるわけにはいかない。
「俺が行って、その真相を確かめてきます」
「それが最善でしょうね」
野本さんが去ったあと、書斎机に残された封筒と拳銃を俺はしばらく眺めていた。
封筒の中には確かに、龍ノ宮学園まで行くために必要な切符や情報が入っていた。
次に俺は拳銃を握った。思ったよりも重かった。
俺はこの手の銃器を持ったことはない。確かに親戚が反乱を起こしたときに間近でサブマシンガンを見たことはある。
が、本物の拳銃を実際に触ったのは初めてだ。
不思議なことだが、この武骨な拳銃から、俺は神である妹杏理の柔らかい手のひらを連想してしまった。
杏理は事あるごとに俺と手をつなごうとする。その感触。相反するはずなのに、その温かい触感を思い出したのだ。
拳銃を握りしめながら俺は誓った。
妹を必ず守ると。
いつもより早い時間に探偵事務所を閉じた俺は、自宅つまり三階建ての大神殿に一直線で帰ることにした。
大神殿に帰ってきたとき、すでに空は赤く染まっていた。
「司祭さま。お早いお帰りで」
珍しいことに大神殿の庭には、人だかりができていた。神に仕える者たちが、庭で右往左往しているその光景を見て、俺は悪い予感がした。
「どうかしたの」
「それが……」
俺たち兄妹の執事であり、また神に仕える身でもある、瀬戸が困ったような顔をする。
「神が失踪したのです」
「新しい神・杏理が失踪した!?」
その言葉を聞いても、俺はすぐには意味を解せなかった。
杏理なら普段、この時間帯はまだ学園にいるはずだ。
杏理自身が理事長でありながら、一生徒でもある都内有数の神学校に彼女は通っている。
「新しい神・杏理はこの時間は学園にいるんじゃないのか?」
「それが今朝学園から連絡がありました。学園の理事長であり、成績最優秀である新しい神・杏理さまが学園に来ていないとのことでした」
その連絡があってからずっと、神に仕える者たちは庭を探し回っているらしい。
確かに杏理は突然いなくなることが多く、学園に登校しないこともしばしばあった。
そんな時はたいてい、彼女は庭に出て植物を観察することで、自然や社会の状況を調べようとしていたのだ。そして長くても三時間すると、大神殿に戻り、神官たちに知ったことを伝えるのだった。
「こんな長時間姿を消すのは初めてです」
「もしかしたら、もう行ったのかもしれない……」
「もう行った?」
その時、大神殿の中から神に仕える者が急いでやってきた。その手には茶封筒が握られている。
「あ、司祭さま。廊下にこんなものが落ちていました。どうやら書置きのようです」
その書置きは杏理が書いたものに違いなかった。
内容は神殺し学園の不埒の者どもを成敗しに行く、というものだった。すぐに片づけて戻るので心配しないようにとも書かれていた。
が、『龍ノ宮』という地名を見た瞬間、先代の神から使えていた老神官瀬戸の顔が真っ青になった。
「龍ノ宮はただならぬ土地です。たとえ神であろうとも、安全とは言い切れません」
「それなら俺が行く」
探偵事務所で会ったことを話し、茶封筒と拳銃を見せた。
神官たちは最初心配していたが、拳銃を見るとこれなら安心という顔をした。
「わたしは大神殿を離れることができません。司祭さま、どうか神を神殺したちから守ってやってください」
俺は頷くと大神殿を出た。目指すは青森県にある龍ノ宮学園跡。