ep33
※
重く張りつめた空気が保健室を満たす。
「単刀直入に言います。俺、どうやら記憶喪失みたいです」
「───っ」
一瞬の沈黙、しかしすかさず静枝が口を開いた。
「いつから記憶がないの?」
「試験の日からです」
静枝はハァとため息を吐き、眉間を抑える。
「それを自覚したのはいつ?」
「はっきりした記憶があるのは四条宮たちと合流してからです」
虎太郎は少しだけ嘘をついた。マリィの存在を仄めかせば、即刻己の首が飛ぶからだ。
「それを知っているのは私たち以外にいるかしら?」
「あなたたちと西行だけだ」
「そう」
静枝は背もたれによりかかり、深く息を吐く。沢井も難しい顔をしながら腕を組んで黙っている。
「なぜ、私たちにそれを?貴方の親や家族には伝えないの?」
「母は忙しいようですし、どうやら呼衆たちにも嫌われてるようですしね」
虎太郎は苦笑する。あの日、家から帰ってみれば、待っていたのは使用人達のしかめた顔であった。声をかけようにも素っ気なく接され、酷い者には無視までされた。記憶を失い、拠り所がない彼にとって、その態度はかなり精神的に堪えた。
「他の人は信用できませんが、先生なら信頼に値すると思ったからです」
「……それは、どうして?」
「直感です。朝礼での姿を見て、そう思いました」
「………わかりました。このことはこちらを通して貴方の母親である龍美さんに伝えておきます。よく、話してくれましたね」
そう言うと、静枝は立ち上がり、そっと虎太郎を抱き締めた。
「な」
声を挙げたのは沢井である。
「これからは私たちが貴方を全力で支えます。困ったことが起きたら、なんでもすぐに相談しにきなさい。私たちは貴方の味方ですから。ね、沢井先生」
握りこぶしを作りながら何かブツブツと呟いていた沢井だが、静枝に話を降られると瞬時に表情を変えて、
「もちろんですとも。坊主、何かあったらすぐ言いに来い」
と顔を決めながらいい放つ。
「それで、色々と聞きたいことがあるんですけどいいですか?」
虎太郎は静枝の胸のなかで声を曇らせながら問うた。
「ええ、もちろん。何でも聞いてちょうだい。」
それから虎太郎は、自身のこと、先生のこと、先生のこと、あの日のこと、学校のこと、彼女たちが知るであろうものを隅々まで聞いた。
やがて日が暮れて
「そろそろいい時間ですし、今日はこの辺にして帰りましょうか」
「そうですね」
またあの家に帰るのか、と思うと虎太郎は自然と溜め息が出た。
「もしかして、家に帰りたくない?」
心配そうな顔をして静枝が尋ねてくる。
「もしそうなら、ホテルとかの宿泊先を手配するわ。もちろん、お金は私が払うから心配しないで。家への連絡も私がするから」
「さすがにそこまでしなくても」
沢井が止めに入るが
「私に何か先生らしいことをさせてください!」
静枝は止まらなかった。
「私は目の前にいる、救うことのできるこの子を見殺しになんてできない!」
あの事件で負った傷は、そうそうに癒えることはない。それが、心の傷であったとしても…。
「先生、大丈夫です」
虎太郎はキッパリと言い放った。
「でも、もし駄目そうになったらそのときはお願いします」
そして深々と頭を下げ
「帰りますね。さようなら」
部屋を出た。
※
これでいいか?
薄暗い廊下を歩きながら、心の中でそう呟く。
「上々です。情報も得ましたし、彼女たちにも取り入ることができました」
頭の中で、マリィの声が響く。
「やはり貴方と契約して正解でした」
そうかい。そりゃよかったな。
「今夜、貴方を私の仲間に紹介したいと思います。食事後、少ししたらお呼びしますのでお願いしますね」
そういうと、体から彼女の気配が消えた。
俺はポケットの中から飴を取り出して、口に放り込む。
「甘過ぎるなぁ」
朝礼での言動を見たときからそう思った。別に彼女の生き方を批判しているわけではない。だが、教師にしては純粋すぎる。それではいつか、きっと壊れてしまうだろう。それも、そう時が経たないうちに。
俺の知ったことではないが。
今の俺に他人を心配している余裕はない。自分のことで精いっぱいだ。現在、信用できるのは皮肉にも人外であるマリィとの契約による論証のみ。後は頼りになりそうもない。いや、頼りにしようにもおそらく契約違反で首が飛ぶ。奴は、学校に敵対している。目的はわからんが、奴は先生に取り入るように朝から俺に忙しく促してきたのだ。
「ガリィ、ゴリィ、ボリィ」
まだそれほど溶けていない飴を奥歯で噛み砕く。よく考えずに脊髄反射で契約を交わしてしまったことを今頃になって後悔した。
※
まさか、あの子までそんなことになってたなんて
手元の書類に目を通すが、内容は全くといっていいほど入ってこない。
「……せい、静枝先生」
「は、はい!なんでしょうか」
「もう21時ですよ。帰りましょうよ」
時計を見ると確かに長針は9を指していた。
「そうですね」
言葉が予めセットされていたかのように思考外から放たれる。もう私には考える力も残っていない。上の空のまま、帰り支度を整え、学校を去った。
駅に向かう途中にある自販機の明滅がやけに私の目を刺してくる。ちらり、と目を向けると新任当初によく飲んでいたコーヒーが目に入った。
「……今日は、寒いわね」
鞄に手を入れて、財布から手探りで100円玉を二枚取り出す。投入金額の表示が200になったのを確認し、コーヒーのボタンを押した。
ゴトン、と缶が落ちる音の少し後にお釣りが落ちてくる音が耳に入る。先にお釣りを取り出して、財布に入れてから、暖かいコーヒーを取り出した。
「あつっ」
コーヒーは思ったよりも熱くて、思わず落としそうになったけれども、しっかりと包み込むように持ち直す。じんわりと熱が手のひらに広がってくる。でも、暖かいのは手のひらだけで、暖を取るには物足りなかった。
─カコッ─
終電まで、まだ時間があるから公園のベンチに座りながらコーヒーを飲むことにした。静かな公園内にプルタブの開封音が響く。
「ズズ……」
やっぱりコーヒーは苦かった。あの頃は、これが大人としての嗜みだと思った。周りからの期待に背伸びをして応え、いつかそれが本当の高さになると爪先立ちで歩いてきた。
きっと、あの子もそうだったのでは?
先ほど彼が保健室で見せた結界、普段の成績からは想像もつかないほど精巧で強固なものだった。あえて、触れはしなかった。なぜなら、その力を行使することに後ろめたさを感じてはいなかったから。記憶を失う前の彼なら、躊躇したでしょうね。だからこそ、彼が記憶喪失であることの信憑性にも繋がりうる。そもそも、記憶喪失であることが真実なら問いただしても無意味ね。彼が知るよしもないことだもの。
問題は記憶喪失以前。なぜ彼がその力を隠していたのか。理由は、彼のみぞ知る、ね。でも、あのひねくれた性格からなら、なんとなく想像はつくわ。
武立龍美の息子としての重圧や評価。そして、決して良いとは言えない家庭環境。どれだけ努力しても、母と比べられ、決して彼本人としての評価は得られない。それならば、評価なんてされなくてもいいなんて思考に辿り着くのは明瞭。それに、頼れる家族も忙殺の日々から触れあうことも難しく、使用人たちからもおそらく疎ましく思われている。
まだ年端もいかない頃からこんな育ち方をしていたなら、人格が壊れてしまってもおかしくない。
それでも彼は、ひねくれながらも陰で努力を続けていたのでしょうね。他人に評価されないように、けれど必死に─
そしてなにより、西行くんの存在。彼がいなければ、きっと武立くんは本格的に駄目になっていた。今は険悪な雰囲気だけれど、きっといつか仲直りできるはずよね?
また一口、コーヒーを飲むと少しだけぬるくなっていた。
これはきっと贔屓に違いない。記憶を失っているのは平井くんだって同じ。それに、大きな悩みや辛い思いを抱えているのは彼だけではない。先日の事件で傷を負った子だって多い。
それでも、強がって生きてきたであろう彼が見せた弱さがどうしても目についてしまう。
それは、彼と自分を重ねているからだろうか─
それとも、あの日見せた弱さを彼が受け止めてくれたからだろうか─
コーヒーを飲み終わった頃には、終電の時間などとうに過ぎていた。




