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レイニー・ノスタルジック

作者: 世見人白洲

たまに書きたくなる恋愛小説です。ですが恋愛小説は全然読んだ事がありません(おい)

拙作では御座いますが、悶々としていただけたら幸いです。

 快晴であるにも関わらず、突如として空から零れ落ちた雨粒に追われた私は近場の軒下へと非難を果たす。


 サー、と音を鳴らす細かい雨音。


「狐の嫁入り……か」


 白昼夢のように降って沸いた天気雨は変哲もない日常をしばし忘れさせた。夢幻(ゆめまぼろし)の如く瞬く間に消え去ってしまう晴天の霹靂は、数年前の出来事を彷彿とさせた。





 とっぷりと夜の帳が下りた繁華街を歩く。


 ネオンに照らされた夜の街は高く聳え立つビルの山を明るく彩り、スーツを着たカラスが街行く渡り鳥を一時の止まり木へ誘わんと声を掛ける。


 その声の中に「ねぇ、ちょっと。ひょっとして今、暇してる? よかったらお茶しない?」なんて使い古された科白が聞こえて来た。


 ナンパである。


 テレビで放送されているような恋愛ドラマ宜しく、街行く女性の手を取って声を掛ける。今時そんな事をする奴がいるのかと驚く反面、私は彼等の事を凄い人間だと思う。


 私は、人間は慣れない事に対する突然の対処力が弱いと考えている。


 知人数人と食卓を囲んでいたとしよう。


 ある人が自分以外の人とおしゃべりに夢中になり暇を持て余した自分は卓上の料理に意識を割く事にした。それによって自分が『今は誰々が誰々に向かって話をしている。だから自分は今、会話の外に居る』と思い込んで居る限り、元から神経を尖らせでもしていないと名前無しに突然話を振られたとしてもよもや自分に話しかけているのだなんて事は考えもしないのではないだろうか。


 つまり肉体的接触も無しに声を掛けたところで、面識の無い相手であれば余程面と向かって『あなたに話しかけています』と言うシチュエーションを作らないとまさか見ず知らずの人間が自分に話しかけて来ているのだとは露にも思うまい。

 

 仮にだ。私が女性でこのようなナンパを受けたのであれば、突然体格の違う相手に手を掴まれたらまず手首の心配をする。次に警察に電話をかけて迷惑防止条例違反を唱え、手を引っ張られた事で手首を傷めていたら暴行罪で訴える事も視野に入れるかも知れない。そうなれば彼等は恋だ愛だと甘い言葉を唱える前に必死で頭を下げては被害届の提出を思い留まるよう懇願する事になるだろう。


 しかし彼等はどこまでもそれを自然に成し遂げる。


 高貴さのかけらも崇高さもない行為にも関わらず、手首を痛めさせる事なく肉体的接触を行うか武術の達人のような洗練された体捌きで進行方向を塞いで人の迷惑など微塵も考えずに暇をしているかなどと聞く。

 数多の経験に裏づけされた勘と言われる類のそれは、人間が生きる上で呼吸が必要なようにナンパな彼等には女性が絶対必需であり、感覚器官とでも言うべき何かによって心の隙間を的確に探知する。


 ところで、もうおわかりだと思うが私はナンパが嫌いである。


 否、私は彼等が羨ましいのだ。面と向かってそんなことが出来る精神を私が持ち合わせていないが故に羨み、そう成れない故にその行為を嫌う。

 ナンパな彼等は非常に柔軟な考えを持ち、動機は不純であれど相手を喜ばせる為の情報収集を怠らない。先程まで嫌そうに話を聞いていたにも関わらず、一瞬の内に篭絡された彼女達は馴れ馴れしくも肩に手を置かれていて尚、楽しそうな笑顔を浮かべては共にビルの闇へと消えていく。そんな男女の情景を見ていると、出会いの運命は偶然と言うなの必然である等と言う言葉に縋って時が来れば自ずと運命の相手はわかるものだと自身を納得させて何もしない私よりも彼等の方が何倍も人生を謳歌しているのだと嫌でも気付かされてしまうからだ。





 私は非常につまらない人間である。知りたくもなかったその事実に始めて気がついたのは高校生の時だった。


 学校では常に窓際の席を陣取り黒板を叩く教諭を尻目にいつも窓枠の向こうに広がる空を眺めていた私は、毒にも薬にもならないと教諭から言われた事すらある。失礼な事を言う奴だと思わないでもないが、なるほど、思い返せば納得だ。


 キンコンカンコンと鳴ったチャイムが学生で居られる終わりを告げる。

 学校と言うファンタジー世界で同級生一同は酒場で仲間を集める代わりに教室で仲間を集めては魔王城とは名ばかりのカラオケボックスへと足を運び、ペンでも剣でもなく、マイクを握る同級生達はカラオケボックスで激しい(シャウト)を繰り返しては汗を流し、私はアルバイトで汗を流す。


 彼等は学校と放課後の時間を目いっぱい使って友情と愛情を育み青春を謳歌していた。


 彼等と青春するよりもアルバイトが楽しかったからそうしていたのかと聞かれれば全くそんな事はない。友達を作るのに失敗して寂しさを孤高と言う虚飾で彩り平気を気取っていたのかと言われればそれもまた違う。


 よく知りもしない同じクラスの女の子から遊びに行こうと誘われた事はしばしばあった。だが何故だか、心はピクリとも動かなかった。そして私は、人は誰かと行動を共にするとき何を基準にそれを決定付けているのだろうかなんて事を考えた。


 教室内では誰が好きである云々、恋愛事情(切った張った)云々、と憶測が飛び交っては自身に関係のない事でもその相手によっては一喜一憂を繰り返す。

 恋に恋するお年頃の彼等、彼女等は未来の事など微塵も考えずに今を精一杯楽しむ事に心血を注いでいた。様々な初体験(初めて)を大切にする事なく、法を破ってはそれを悪びれもせずに一足先に大人になったのだと勘違いして声高に吹聴して回る。


 そんな関係に浸る者達に対し、私は友情や恋と言う物を理解出来ないで居た。


 そんな時、ある生徒が言った。「あの子狙ってたのになぁ」と。狩人(ハンター)か何かなのか? と問いただしたくなる言動だがある種、それは間違いでもないと目から鱗が落ちた。愛は奪い合いだ。数多の競争相手を蹴落とし、相手の心を奪い続けて最終的に婚姻届と言う誓約書にサインを書かせた者が勝者となる。


 だがそれは終わりなどではない。

 野球で喩えるならば五回裏、五対八のゲームと言った所だろうか。ここから始まる本当に厳しい戦いに躓く事となればコールド負けも視野に入ってくる。そんな状態だ。


 出会いは自らが求め、そして生涯を通して勝ち取り続ける為の努力なくして人の営みはありえないと言う事を嫌でも思い知らされた。





 高校を卒業した私は地元を遠く離れた大学へと進んだ。


 私はそこでも相も変わらずアルバイトに精を出した。親に頼らず授業料や生活費を稼ぐためだ。


 早いうちから大学に行くのだと決めてアルバイトをしていたおかげでそれなりの貯蓄もあり、大学生になって割りのいいアルバイトも増えた事で困ることもなかった。


 確固足る目的意識もなく人様の金で就職率を上げる為だけに大学へと通う学生は日々、サークルの友人達と夜の街に繰り出しては腰が抜けるまで大人の世界を堪能し、それでもまだ自宅へと帰ってから酒盛りをし始める。


 遊ぶ金はどこから出ているのか? などと聞くのは野暮と言うものだろう。それは私の知るところではないし、その必要もない。彼等には彼等のルールがあり、私は私の生活がある。そしてそれは交わることがなく、未来への不安からか現実の中に非日常を求めて夜の街を彷徨う彼等に愚か者と冷水(ひやみず)を浴びせる事しか出来ない私は水と油だった。


 あまり認知されていない学術を学んでいた私は数年間のモラトリアムとも言える学生生活を静かに送る。卒業論文作成の資料を求めるなどと言う体の良い言い訳を自分にしては、自分探しに全国各地を巡った。





 大学も後半年で卒業を控えた最後の夏期休講。その時期を利用して地方の片田舎に赴いた時の事である。


 無人駅で電車を降りてから数時間は歩いた頃だっただろうか。元より自然の多い場所ではあったが視界に映る光景は、現代からタイムスリップしたような錯覚すら覚える古い生活感のある風景へと変わっていた。


 大学のある生活圏内の街中とは違って見渡す限りの雄大な大自然が視界を埋め尽くし、コンクリートで舗装されていない地肌見えた地表がどこまでも続く。木造のバス停留所はボロボロで、壁に貼られた時刻表は三時間に一本程度のバスが走る事を告知しているが凡そ人の気配などはなく、利用者が居るとは到底思えない場所にひっそりと建っていた。


 道の脇に広がる畑に張られた水が太陽の光を反射してキラキラと輝いては照り返しによって蒸発した水分が白昼夢の如く陽炎を揺らめかせる。


「あっつ……」


 折角やってきた土地だ。どんな出来事がどこに転がっているかわからないのに鉄の塊(バス)に乗って移動するのは勿体無いと謎のオバケに取り憑かれた私は只管足を動かした。


 寂しさか、それともどこか心の片隅で求めていた懐郷的(ノスタルジック)な風景の熱に浮かされたからか、はたまた別の何なのか。額から滝のように流れる汗を乱暴に手の甲で拭っては心の向くまま突き動かされるように木陰を求めて彷徨い歩いた。


 ふと、汗とは違う雫がポツリ、ポツリ、と肌を打つ。


「雨?」


 空を見てもそこは雲一つない快晴が広がる。しかし針のように細い水滴が空を見上げた瞳を潤した。


 天気雨だ。


 いくつかの地方では『狐の嫁入り』と言われるこの現象は雨粒は雨雲によって落とされるのであると言う固定概念を破る事からしばしば『狐に化かされた』と言う感覚的なものの超常的表現で用いられている。


 雨と言うには少し頼りげない針のように細い雨粒。音もなく剥き出しの地面を少し濡らしていただけの雨は次第に強くなり、サー、と静かな雨音を鳴らし始める。


 体を濡らすには十分な量が空からは降って落ちた。


「結構降るな。バス停まで戻るか」


 二十歳(はたち)を超えていい歳と言ってしまえばそれまでだが、太陽光をリアルタイムで反射して煌めく世界の美しさに浮かれた私は光化学スモッグに汚染されていないと思われる天の恵みを両手を広げて受け止める。園児の如くはしゃぎ回って白雨を全身に浴び、その冷たさにハッと我に返ると停留所を求め来た道を戻った。


 着ている白シャツがぴったりと肌に吸い付いた頃、停留所まで戻る事が出来た。


 道すがら、軽く見ただけだったがやはり停留所はいつ崩れ落ちてもおかしくないような様相をしていた。碌に補修もされていないボロボロの建物。時刻表以外には壁際に長椅子と机があり、その机の上には表紙が痛んだ利用者ノートと使えるかもわからないペンが置いてあった。


「ふぅ」


 座れば足が折れそうな木造の長椅子に腰掛けた。


 扉などないオープンな停留所の屋根を少し強く降り出した雨が穿っては流れ落ちる。軒を滑り落ちた一滴一滴が群体となって水の(ヴェール)を作り出している。


「晴れてるのに、こんなに降るのか」


 肌を焼いていた熱は突然の雨によって奪われ、肌寒い季節ではなくても体温が急激に下がった事で体がブルリと震えた。


「はっ……くしゅっ!」


 鞄からタオルを取り出し体を拭いていた時だった。バシャリと何かが地に溜まった水を爆ぜさせる音が鼓膜を震わす。


「人? こんなところに?」


 人様の事を言えない身でありながらその音に意識を集中させていると、音はやはり水を跳ねさせながらこちらへ向かってきているようだった。


「まさか、熊とかじゃないだろうな……」


 足音から重量感はあまり感じられないが、そこは野生の動物など殆ど見た事のない人間の妄想だ。天気雨が降るように、世の中は何が起きても不思議ではない。


 どうせ猛獣だったら武器を持たない人間が出来る事など何もない。熊は時速五十から六十キロメートルで走り、そのタフネスは自動車すらも大破させる。走って逃げても勝算は薄く、対峙したところで振るわれる強烈な一撃は簡単に命を刈り取る。若干二十二年と言う短い生を終えて生命の輪廻に組み込まれるのだと言う諦めもあった私は鞄をギュッと抱きしめて長椅子の上で耳を澄ましながらその時を待つ事にした。


 少しすると停留所に一人の女性が駆け込んできた。猛獣でなかった事に少しだけホッとする。


 女性と言うには少し幼さが見て取れるその人は透き通るような白い肌をしていた。長い黒髪を雨で貼り付け着ている白色のワンピースは雨水で薄っすらと透けて水色の下着が見えている。


 そんな彼女のどこか現実離れした風貌に、私は思わず見惚れてしまった。


 彼女は言葉を発する事無く静かにこちら一瞥すると小さく会釈をした。私もそれに応じる。彼女は音もなく椅子の前に移動すると、少し間隔を開けて腰掛けた。


 すぐ近くに人がいると言うのにポツ、ポツ、と屋根を打つ雨音はお互いの呼吸の息遣いすら覆い隠していた。


 そこに居るのにそこに存在していないかのような希薄な存在感。瞬きをした間に消えてしまいそうな儚さを漂わせる彼女は、非日常を求めた私が作り出した妄想だったのではないかとすら思えた。


 それを確認するように少しだけ顔を横に向けた。


 彼女はそこに存在していた。ただ、ワンピースが透けている事など気にもかけていないのか胸を張ってピンと背筋を伸ばし、正面を向いていた。


 居ないのは、私の方なのかも知れない。そう思えた。


 水も滴るいい男とはよく言うが、彼女の濡れた黒髪はキラキラと輝いてなんとも言えない妖しさと艶めかしさを醸し出していた。ほっそりとした綺麗な横顔。ロータス効果を持っているのか、水を弾いているかとも思える程きめ細かい肌を伝って落ちた雫が、ポタリと地面を濡らす。停留所に少しだけ差し込んだ太陽光は彼女の体を照らし、その幻想的なまでのコントラストはそこの一角を切り抜き出した絵画の如く異質で、私は息を飲んだ。


 視線に気が付いた彼女は少しだけ顔をこちらに向けた。


 二つの鳶色をした瞳が私を射抜く。


 艶を帯びる前髪から落ちた雫が、長く細い睫毛にあたってピンと弾かれた。


「あの、何か?」


「あ、すみません。……不躾で申し訳ありませんが、寒くはありませんか?」


「少しだけ……寒いかも知れません」


 そう言った彼女はその白い肌を抱いて腕を擦った。


「よければ使ってください」


 (ザック)には何枚かのタオルが入っている。その中から一番肌触りがよく、吸水性の高いタオルを取り出すと「どうぞ」と差し出した。


 常に蹴落としあいが日常の都会の人間であれば会ったばかりの人間にタオルを差し出されても無意味な警戒をして受け取る事などしないだろう。私も断られるものと思っていた。


 だが彼女は軽く笑みを浮かべるとタオルを両手で受け取った。


「ありがとうございます」


「いえ……」


 田舎では古くからのご近所付き合いのある顔見知りしか居ないため鍵をかけるのはと言う事をしないらしい。もしかしたら自分と同じように外から来た人間かとも思ったがワンピースが透けていてもものともしない程に警戒心が薄いとも思える彼女はこの地域の人間なのかも知れない。しかしそれを聞くのは憚られた。無神経にも出身を聞くこともそうだが、何より彼女を知ってしまえば私の中の彼女の幻想は儚くも崩れ去り、現実が流入して来る。


 この静かな空間を壊す。それは避けたかった。


 ポンポンと軽く押し付けて体の水分を取り除いた彼女が「あの」と声を掛けてきた。


「はい?」


「タオル、ありがとうございます。洗濯してお返ししたいのですが」


「いえ……そちらのタオルは差し上げます」


「ですが」


 タオルのお礼を口実に以降も彼女と何かしらの接触を図ることも出来たのだろうが私はそんな事を考えもしなかった。きっとそれは、この白昼夢に浮かされた私が見た幻なのだと乙女のように考えていたからかも知れない。


 人は、勝手に他者へ理想を押し付け期待しては勝手に失望する生き物だ。彼女の申し出を受け入れてタオルのお返しを受けると言う事は、それが終わってしまえば目の前の彼女は本当の幻へと成り下がってしまう。だから私は咄嗟に物質的な繋がりではなく『タオルを渡した人が居た』のだと言う精神的な繋がりを無意識的に求めていた。


 幻想だけでは嫌だと言い、だからと言って現実になっても嫌だと言う。我ながら、なんと下劣な人間性をしているのだと呆れ果てる。


 彼女は少しだけ考える素振りを見せた後、再び口を開いた。


「わかりました。あ……雨、上がりましたね」


 彼女は再び正面を向いた。私もそれに釣られて視線を移すと、空には七色の光の橋が掛かっていた。


 天気雨に降られた先で不思議な女性に出会い、そして偶然にも空には虹が架かるなんてあまりにも出来すぎている。だからこそ、こんな不思議の連続に私の胸は躍った。


 やはり名前くらいは聞いておきたいと思い、視線を戻す。


「あの」


 そこにはただ、長椅子が在るだけだった。


 目の前に広がる光景に意識を取られた隙に彼女は姿を消していた。それは『狐の嫁入り』に相応しい程、現実に入り込んだ私の幻想だった。


「まさか、な」


 長椅子は濡れていなかった。少なくとも影が落ちる長椅子は、そう見えた。


 一人だけポツンと取り残された停留所を静寂が包み、山間を抜ける風がさわさわと畑から伸びる穂を揺らす。


 その風に煽られパタパタと壁際から音がした。


「利用者ノート、か」


 もしかしたら彼女がまたここを訪れたらこれを目にするかも知れないと言う淡い期待を抱いた私はそれを手に取った。


 パラパラと(ページ)(めく)る。中にはまだ全盛だった頃から使われた形跡が残っていた。


 昔はペンではなく筆が置いてあったのか、少しばかり霞んだ文字は達筆で、滑らかな筆跡で書かれていた。


『○○年××月△△日 晴。バスを待つ。鳥がピロピロと鳴いている』


『○○年××月△△日 雨。私もバスを待っています。今日は雨ですので、鳥は鳴いていません』


『○○年××月△△日 曇。バス停留所ですから、バスを待つのは当然でした。晴れていますが鳥は鳴きませんでした』


 云々。


 交換日記のような微笑ましい会話が綴られていた。


「今は時代が違うからなぁ……」


 パラパラとノートを捲る。頁の半分を少し過ぎたところで罫線は空白になっていた。


「やっぱり昔からあまり利用されていないんだな」


 最後にノートが利用された頁まで戻り、そこに言葉を綴った。


『○○年××月△△日 天気雨。バスを待つためではなく、(とき)を待つ』


 そう書き込むとペンを置いた。


「さて、宿に向かうか」


 誰かが読んでくれる事を期待しながら私は停留所を後にした。





 電波が安定しない携帯を仕舞った私は紙媒体の地図を片手に右往左往しながらだったが予約していた宿には日が山の向こうへと消える頃、到着する事が出来た。


 いつの頃から建っているのか、往年の貫禄が見て取れる武家屋敷のような佇まいの屋敷が並ぶ一角に宿はあった。築云十年であろう宿は他のお屋敷も相まって一見、民宿のようにも見えるがそこは田舎の広大な土地あってこそ。外門を開いて中に入ると綺麗に剪定された中庭が広がりその中を石畳が通っていた。

 

 文明の利器を用いて探したので外観はわかっていたのだがLEDによって移し出されただけの画像と、超高性能カメラである眼球で直に見る事と鼻で匂いを感じる事は全くの別物である。


 石畳の隙間に敷かれた砂利を弾かないように歩き、内門へと辿り着く。なかなかに大きな母屋は味があり、隠れたお宿と言った感じで、やはり私好みであった。


 ガラガラと引き戸を開けると入り口の両脇には鮭を咥えた木彫りの熊と鳶の剥製が睨みを利かしていた。戸が開く音を聞いたのか、衣擦れの音もさせぬ洗練された所作で奥から妙齢の女性が出てきた。


 その人に二週間程の宿泊を予約した者で事を伝える。


「予約した者ですが……」


「お待ちしておりました。ここで女将をさせて頂いております」


 綺麗に腰を折った女将さんに部屋へと案内された私は風呂と食事を堪能し、歩き疲れた事もあってその日は早々に床に就いた。





 その翌日の事だ。


 特に予定などなく放っておいても迫ってくる現実から逃げ出すようにこの土地に訪れていた私に目的などなかった。だが妙に、利用者ノートの事が気になっていた。


 ぶらりと宿の周辺を歩いて回る。自然と見事に調和した町並みは趣があり、車もあまり走っていない。


 車や携帯が普及している世界にどっぷり浸かっている人間からしたらどうやって生活しているのか非常に気になるところだが、昨晩宿で出てきた山菜の天麩羅盛り合わせを見る限り視線の先に常に広がる山から命を貰っているのだろう。


 そうして昼を少し過ぎる頃、私はまたしても停留所を訪れた。


「さて、ノートは……」


 パラパラとノートを捲る。


『○○年××月△△日 晴。私は不思議な出会いがありました』


 書き込みは今日だ。恐らく私が訪れる前に書き込まれたであろう内容に、私は昨日の彼女のことを思い出す。だがこれを書いたのが彼女とは限らない。


 なのに、胸はどうしようもなく高鳴った。


 私はすぐさまペンを握る。


『○○年××月△△日 晴。 数週間の小旅行でこの地を踏みましたが、私も出会いがありました』


 私はそれ以上、何を書いたらいいかわからなかった。いくら頭を捻っても気の利いた事も洒落た事も頭に浮かばずパタリとノートを閉じる。


「駄目だな」


 溜息を吐くと私は停留所を後にした。





 暖かい温泉に浸かりぐっすりと眠った私は中庭の木が風に吹かれてさわさわとさざめく音で目を覚ます。心地良い寝覚めの余韻を味わいながら宿の食堂で朝食を済ませると、今日もノートを見に行くことにした。


 楽しみだったからだろうか。特に寄り道する事もなく昼前にそこを訪れた私は昨日と変わらずそこに在るノートを手に取りパラパラと捲る。


 そこには綺麗な筆跡で新たな文字が書かれていた。


『○○年××月△△日 晴。 どんな人でしたか? よければお聞きしたいです』


 このノートを記入している相手がタオルを渡した彼女だとは限らない。疑いすぎかも知れないが前後に同じように出会いがあった人達が居るかもしれない。


 人は往々にして信じたい物を信じる傾向がある。だから私はそれらを疑い、疑い抜いた結果こうして捻くれた人間になってしまった。(いや)、そうではない。私と言う人間は元からこうなのだろう。面と向かって口を開けば反骨精神旺盛な私は他人を皮肉る事しか出来ない人間なのだ。


 その事が悔しかった。


 でも今は違う。顔が見えないからこそ、知らない事ばかりの相手だからこそ出来る事がある。


 だから一つ、文字だけで繋がる相手を化かしてしまおう。私の心を、化かしてしまおう。そう考えた。


『○○年××月△△日 晴。とても綺麗な人でした。空に架かる雲の如く、存在感はあるのに手を伸ばしても届かず手が届けば霞と消えてしまいそう。そんな印象の人です』


 とてもじゃないが面と向かっては絶対に言えない言葉を私は文字にした。


 このやり取りの相手があの時の彼女とは限らない。それだと言うのに、私は彼女で在って欲しいと言う願いを込めてそれを記した。





 まるで遠足が楽しみで眠れない子供のように緊張してなかなか寝付けなかった私も、気が付けば深い眠りに落ち贅沢にも昼過ぎまでぐっすりと眠りこけていた。


 簡単に身だしなみを整えると停留所へと足を向ける。


 相も変わらずそこに人の気配は感じられない。それだと言うのにそこにぽつりと置かれている利用者ノートだけは異様な存在感を発していた。


「そうあって欲しいと思っているだけか」


 我ながら現金な事だ、と思いながらノートを手に取り頁を捲る。


『○○年××月△△日 曇。どんな出会い方をされたんですか?』


 何故そんなことが気になるのだろうか? そう思ったのだがあの夢の如き一時を、心のどこかで誰かに聞いて欲しい。そして私の存在を肯定して欲しい。そう思っていたのだろう。


 私の手は自然とペンを走らせていた。


『平成○○年××月△△日 曇り。 狐の嫁入りと言う言葉を知っていますか? 晴れているのに降る雨の事です。突然ですが私はつまらない人間だと思っています。それは私が楽しもうとしていないからです。思い込みになってしまいますが、そんな枯れた私を潤すように降った不思議な雨に導かれて私はその人と出会いました。と言ってもあまり会話らしい会話はしていません。どこの誰かも知りません。その人は雨が止むと現れた虹を見ていたら姿を消してしまいました。まさに狐に化かされた、とでも言うのでしょうか。そんな非現実なのに、私の心にはそんな彼女が未だ、住み着いて離れないのです。だから狐は嫁に行ったのではなく、私が狐の元に婿に行ったのかも知れません』


 書いた後に激しく後悔をした。誰が読むかもわからない公の場に置かれたノート。それに堂々と独白とも言える恥ずかしい内容を書いてしまった。


「私は何を書いているんだ……初心な乙女か!」


 消そうにも使った物はペンだ。消すことは叶わない。だからと言って公共の物であるノートの頁を破る事も憚られた。


 既に私物化しているなんて事も忘れ頭を抱えるがいい案が出ることもなく、恥ずかしさをノートに挟み込んで閉じるとその場を立ち去った。





 宿に戻った私は直ぐに風呂に入った。湯船に恥ずかしい気持ちが解けて流れて言ってくれない物だろうかなどと現実逃避を繰り返す。火照った体を風呂のせいにして布団に潜り込み、その中で悶えのたうち気が付けば朝日が昇っていた。


「はぁ……なんであんなことを書いてしまったんだか……」


 名前も知らない、相手も明確ではない、ノートの中だけの相手なのにどうにも心がざわついて仕方がなかった。


 部屋の入り口に設置された鏡には心を表しているように、ぼさぼさに髪を爆発させた私が映っていた。それを整え終わる頃には多少気持ちも落ち着いていた。


 再び停留所へと赴いた私は緊張で震える手を必死に抑え付ける。


『○○年××月△△日 晴。素敵ですね。知っていますか? 虹は空に架かる橋とも言うんですよ』


 気味が悪いだとか、あれを最後に返事が来なくなる事を恐れていたがそんな事もなく相手は素敵だと言ってくれた。


 その言葉に私の心は浮き足立った。


 ハッと気が付く。


「これじゃあ本当に乙女じゃないか。相手が男だったらどうするんだ……」


 最悪を考えることで少しでも自分が受ける衝撃を少なくしようとしたのだが、その考えは予想に反しかなりの威力を持っていた。


「男だと考えるのはよそう……」


 そう気持ちを切り替えた。


 しかし、空に架かる橋……か。私が言い出した『出会い』を意図して繋ぐ『橋』と()けたのだとしたらなかなかにロマンチストなようだ。


 思わずそうだったらいいな、と笑いが零れる。


『○○年××月△△日 晴。橋ですか。その橋を渡ってまたあの人に会いたいですね。虹と言えば、虹の足元には宝があると言う話をご存知ですか? どんな宝物なのでしょうね』


 あの時見た虹の足元ではなかったがもし、虹の足元に宝があるのであればそれは私にとってどのような宝なのだろうか。


 文字だけで繋がる相手はどんな事を考えるのか、そればかりが気になった私はそれを聞いて見たくなった。





 緊張と胸の内で燻る火が落ち着いた事で寝過ごした私は宿の女将さんに軽く挨拶をすると宿を飛び出した。向かうのはいつもの如く停留所だ。いけない事をしているわけでもないのだが、どうにも落ち着かない。


 競歩とも言える速度で停留所へ向かった私は昼前に着く事が出来た。そこにはやはりポツンとノートが置いてあるだけだった。


「相手はいつ来てノートを書いているんだろうか。ひょっとしたら朝のバスを待つ間か? ……いや、詮索はしないでおこう」


 ちょっとした疑問が頭を過ぎるがそれはすべき事ではない。今でも十分に薄氷の上を綱渡りしている状態だ。これ以上何かを求めればきっと相手は煙のように消えてしまうだろう。


 卑怯な私は、それを自分から壊す勇気はなかった。


『○○年××月△△日 曇。 顔も知らないあなたへ。あなたは出会いを素敵と言い、私は架かった虹を橋と言いました。いつか、虹が引き合わせてくれるかも知れませんよ。それはそうと、宝物はきっとあなたが出会ったその人なのではないでしょうか。少なくともあなたがその時の出会いを宝物のように扱っていると、そう感じました』


 どうやら私の考えすぎなどではなく相手も相当なロマンチストなようだ。だがそれに関しては私も負けてはいない。何せ来たるべく時は自然と来ると言い続けてここまで来ている。


 それにしてもいざ言われて見ると恥ずかしい事この上ないが、私はまだこの気持ちを理解できていない。あの時重なった非日常に憧れただけの物なのか、それとも高校生の時に同級生達が騒いでいた恋心と言う物なのか。


 その答えを求め、私は導かれるようにペンを走らせた。


『○○年××月△△日 曇。そうですね。そうなった時、虹が運ぶのは出会いと幸福であって欲しいと思います』





 書いた後に調子に乗りすぎた事に気が付いても後の祭り。翌日、私は贅沢な願いを書いたノートを見るのが少し怖かった。


「はぁ……なんだか憂鬱だ」


 枯れた生活を送ってきた私にしては随分と贅沢な事を言っている。きっとそれは、今日が雨だからだろう。


 なんて言い訳をした。


『○○年××月△△日 雨。雨の日は少し気分が落ち込みます。ですが、雨が降った後には虹が架かります。差し込む太陽は虹を伝い、幸福も運んできてくれますよ』


「はは……やっぱりロマンチスト」


 いつもならただジッと待つだけだった私が虹に貰った少しの勇気を振り絞ってノートに記した一筆。それに帰ってきた返事。顔以外何もわからない相手。それなのにノートに書かれた文字は私の心を揺さぶり、鮮烈なまでにまざまざとあの時の彼女を思い出させる。


 これじゃあただのナンパ野郎じゃないかと自己を嫌悪をしてしまう。だがそんな自分すらも許せてしまう程、今の私の心は浮ついていた。


 これが、恋と言う奴か……あれは一目惚れと言ってもいいのだろう。


 私は、初めて恋をしたようだ。


 だがこの言葉を伝える事はない。伝える事は出来ない。


 だから、私はペンを握った。


『○○年××月△△日 雨。私はつまらない人間です。私は恋をしたことがありませんでした。しかし、こんな気持ちは初めてです。もう一度あの人に会いたい。会って彼女を知りたい。そして自分の気持ちを知りたい、そう思えるのです。ですがそれは叶わない願いでしょう。こんな事を考えている私にも、希望はあるのでしょうか』


 縋るような内容。みっともないと自嘲の笑みが出た。





 なんであんな事を書いてしまったのかとトボトボと歩いて帰ってきた私に女将さんは人情味溢れる慰めの言葉をかけてくれた。その温かさに触れ、少しだけ元気を取り戻した現金な私は嫌な事は眠って忘れてしまおうと簡単に風呂を済ませ床に就いた。


 恋は理屈ではない言うがそれを身を持って体験した結論は納得の物であった。一般的な恋愛とは違って少しばかり特殊な状況かも知れないがそれは些細な事だろう。


 そう気持ちを切り替えた私は今日も懲りずに停留所へと足を運んだ。


「さて……」


 私はノートを手に取る。


『○○年××月△△日 曇。ならば私もつまらない人間です。お聞きします。希望とは何なのでしょうか? それを知り得るのは自分だけではないでしょうか? 言います。私は出会いをあそこまで素敵に語れるあなたに会ってみたい。ですが、そうすれば今のこの関係は崩れるでしょう。私はそれが怖い。だから私とこのまま、恋をしましょう』


 何故相手がこの結論に至ったのか、わからない。


 私の話を聞いて、自分もつまらない人間だと言う事はこの相手も恋と言う物を知らないのだろう。しかし聞けば相手もこの環境が崩れるのを恐れている。


 私はこの文字の世界で生きる相手を通してあの時のよく知りもしない彼女を想い、そして相手は文字を通して私を想う気持ちを恋と呼ぶのだろう。


 ならば私のこの気持ちはきっと、文字の世界の相手に――恋をしているのだ。


「私は自分で思うより軟派だったみたいだ……」


 ペンは自然と走っていた。


『○○年××月△△日 曇。私で良ければ』


 カタン、とペンを置いた音がする。私が私でなくなったかのような、ふわふわとして足元が地に着いていないこの感覚は、その音をまるで他人事のように感じさせた。


 だが不思議と嫌な感覚ではなかった。


 晴れ晴れとした気持ちで宿へと戻った私は温泉に浸かる。宿の目玉でもあると言う露天風呂に吹き付けた夏の夜風は温まった体を冷ましたが、私の胸に宿る不思議な熱を冷ます事は出来なかったようだ。





 それからと言うもの顔も合わせる事もなく私達はただ、多くの文字だけを交わした。


『○○年××月△△日 晴。とても嬉しいです。文字の世界にあなたへ。私は朝が好きです』


『○○年××月△△日 晴。文字の世界の君へ。私は夕方が好きです』


『○○年××月△△日 曇。文字の世界のあなたへ。今日は朝ごはんを食べ過ぎてしまいました』


『○○年××月△△日 曇。文字の世界の君へ。宿で出る山菜が美味しくて私も食べすぎてしまいました』


 …………


 私達はお互いを知るための質問をしなかった。どちらかが詮索はやめようと言った訳ではない。それを行わなかったのは私達が似ていたからだろう。


 私達はお互いに相手の顔を知らない。その性別も、性格も、感情の高ぶりを知る為の声音を知らない。


 私達が行う言葉のリレーと言うより一人で向かう壁打ちに近いそれは、相手を知る為でなく相手に己を知ってもらう為に思えた。





 相手が男である可能性も忘れ、自分を話すと言う楽しい時間はあっと言う間に過ぎ去った。


 滞在期間はノートの残りに比例するが如く僅かとなりなんとなく、このノートの終わりが私達の恋の終わりなのだとそんな気がしていた。


 私は近いうちにこの地を去ると伝えていた。


『○○年××月△△日 雨。気にしないでください。私達の出会いもきっと、狐に化かされた不思議な出来事だったのです』


 惜しむことなく相手はこの関係は一時の夢幻であり、時が流れれば泡沫の如く消えるのだと言う。


 しかし、いつもとは少し違うブレた筆跡。雨がノートを穿ったとは思えない局所的な水滴によって作られた染みが点々と文字を滲ませている。


 それは、涙の跡だ。同じようにノートに染みを作ったからわかってしまった。


 ドラマなどではこんなに苦しいのなら好きにならなければ良かった、なんて言って捨てるのだろう。事実、それが言えたのならばそんなに楽なことはない。だがそれをすると言う事は今までの事をなかった過去にしてしまう。


 それこそ夏の白雨が齎した陽炎だったのだ、と。


 ……私はそれが出来なかった。


『○○年××月△△日 雨。私は文字の世界の君をよく知りません。でも私の中で生きる幻想は確かにここに在りました。だから言います。私はあなたが好きです。この気持ちは狐に化かされた物ではなく、私の真の気持ちです。だから、会いましょう。虹の足元で』


 記した文字によってノートは結を迎えた。最後に残されたページは裏面一枚。きっとここが埋まる事はない。


 その日、私は宿に帰ると何も考える事を拒否して眠りに就いた。





 翌日、私は荷物をまとめて宿を出た。


 フロントには女将さんの姿があり、掃除をしていた。


「お世話になりました」


「またのお越しをお待ちしております」


 女将さんは丁寧に腰を折る。ガラガラと音を立てる戸を閉め終わるその時まで、女将さんが顔を上げることはなかった。


「いい所だったな……さて、行くか」


 怖さはある。だが、それ以上に期待していた。


 私の気分とは反して空は晴れ渡り夏を彩る虫がジリジリと鳴き、空を自由に飛び回る鳥がピロピロと鳴く道を、一人ジャリ、ジャリ、と鳴らしながら地面を踏みしめ停留所へと赴いた。


 変わらずノートはそこにある。


 緊張でゴクリ、と喉が鳴った。


 私は震える手でノートを手に取る。


「……だよな」


 使い古されたボロボロの利用者ノート。その裏表紙に繋がる最後の一枚。いつもの時間に訪れ、いつもその時間に書かれていたそこに、文字は書かれていなかった。


 たった二週間ばかりの出来事。私達の一夏の恋は『狐の嫁入り』に相応しく心に怪火のみを残して幻の如く消えたのである。





 大学を出た私はその後、研究者も少なかったこともあり大学院へと進学を果たし、今では大学の助教授として講師をしている。


 普段はあの夏の幻を追うかのように、オワシスに湧く呼び水に誘われるが如く実態が掴めない伝承を求め各地を彷徨う。


 そしてまた、夏が来る。その度に私はこうして思い出すのだ。あれは本当に現実だったのだろうか、と。


 あれから数年。あの不思議な文字の世界に生きた相手は既に結婚しているか、それともこの世を去っているか、はたまたそんな物は元より存在していなかったのか。


 私は再びそれを確かめるためにあの地へと足を運んだ。


 政令指定都市となったそこは見事なまでに私の記憶を破壊し尽くし雄大な自然も、広い空も何もかもは街中とそう変わらない鉄とコンクリートが支配する世界へと変わり果てていた。


 世は全てこともなし。


 私達の生きている世界とは常に、破壊の先にあるのだろう。記憶が破壊されたところで私の心臓は鼓動を止める事もなくこうして生きている。


「無情……だな……」


 しかし、私の心はそうではなかった。現実からの逃げ場となっていた現状がこうして胸を穿ち、穴を開けた。


 その現実から逃げるように私は記憶の残滓を手繰り寄せ、二週間通いつめたあの道を辿る。


 あの時はなかった不自然な風が背後から轟と押し寄せる。それは都会で見られるビル風だ。油臭く、自然の中にあって不自然な鉄の臭いに私は顔を顰め、下を向いた。


 その頼りげのない後頭部に、ポツリ、と何かが落ちる。


 蝉が情けない奴だと小便を引っ掛けたのかと思い、上を向くと瞳にポツ、ポツ、と針のように細い雫が落ちた。


「雨……?」


 どこか雨宿りできる場所を探して私は道を歩く。しばらくすると、未だに手入れがされていない道に出た。そこは少しだけ見覚えがある。


 そう、停留所へと続く道だ。


 私はサー、と言う音に気がつき背後を振り返る。私が立っているところはまだ降っていないが、そこには静かに雨音を鳴らして迫る雨の境界線があった。


「狐に化かされてるのかな」


 追い立てられるように私は走った。すると視界の先に、崩れかけの建物が見えてきた。


「あれは……あれは……!」


 まだ、停留所はあった。


 私はそこに駆け込んだ。


 迫っていた雨脚は列車が通過するかのようにザー、ザー、と停留所の屋根を打つ。


「懐かしいな」


 たった二週間しか居なかった場所。それなのに私には故郷のような落ち着く感覚があった。


 そして、足が折れて椅子の体を成していない長椅子と、朽ち果てたテーブルの上にはあのノートが置いてあった。


 今尚屋根を打つこの雨に追い立てられたように、私はノートを手に取り頁を捲る。


 そこに書かれていた文字は私が当時見た達筆なやり取りの如く、霞れた残り香があった。


 そしてノートの裏表紙に繋がる最後の一枚。そこには――


『○○年××月△△日 晴。これを記す頃、あなたはこれを見る事はないのかも知れません。私は、あの言葉に直ぐに返事をする事が出来ませんでした。だから私はこの停留所(場所)(とき)を待ちます』


 そう書かれていた。


 書かれた日付は私がこの地を去った二日後。今よりも数年前になる。刻を待つと言っても限度がある。見ず知らずの相手に、そこまで時間を使うなんて事はないだろう。きっともう、忘れている頃だ。


「雨、早く止まないかな……」


 晴れていて尚強い雨脚は停留所の前に大きな水溜りを作ってもその表面を穿ち、ピチピチと跳ねる。


 その音に混じって、バシャリと大きな音が耳朶に響く。


「なんだ?」


 音は次第に大きくなる。


 何かが近づいてきていることに気が付いた私はノートを置くと壁際に寄ってその相手を静かに待った。


「前にもこんな事があったな……」


 まさかと言う諦めと、僅かな期待。


 そして、それはまたしても『狐の嫁入り』が運んできた幻だった。


「こんにちは。文字の世界のあなた」


 少しして停留所へと駆け込んできた相手はそう口を開いた。


 その相手は長い黒髪を白皙の肌に張り付け雨で濡れた白のワンピースからは下着が透けさせている。あの時と違うのは、まだ幼さが残っていた顔立はその面影をなくし、ただただ透明で、消えてしまいそうなほど美しく成長した彼女の姿がそこにあった。


「こんにちは。文字の世界の君」


 寒さで震える彼女に、今度はタオルではなく手を差し出す。


「さんざ待たしておいて、それですか?」


「すみません」


 私は彼女を抱き締めた。もう、この幻を手放さないために。


 気が付けば、雨音は既に消えていた。


「雨、上がりましたね」


 そうして向けた視線の先には、綺麗な七色の虹が架かっていた。

恋愛ってのは難しいですね。男女の機微もそうですが、何がきっかけになるかわからないスペクタクルが特に。


この作品、頭の中で無数のパズルピースが飛び交っていて、こういう話!と言う骨格はあるのですがどうにも知識と経験不足から来る出力能力の不足で満足の行くものとは遠いです……精進あるのみですね。


ただ、私の偏見ですが恋愛小説はかなり好き嫌いがハッキリとしてしまうジャンルだと思っています。なので勉強の為に読み始めても途中で投げ出し……頑張ります。オススメの小説があれば教えて頂けたら泣いて喜びます。


年明け三日目、今年も皆様に楽しんでいただけるよう、精進致します。宜しくお願い致します。

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[良い点] 読ませていただきました! 文学世界でのやりとりはすごく好きです(´ヮ`* 主人公の恋に対する変化、悩みつつ愛していく所 ヒロインも不思議な感じで、出会ったあの人なのか?から 二人とも出会…
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