8話 姉、そして影
マンションの前に着くと、街灯の下で少女が腕時計を眺めていた。手には大きな紙袋を持っている。
長い黒髪と眼鏡が印象的だ。身長は低めで高身長、ショートカットのご主人とは対照的な印象を受ける。なぜこんな時間に少女が? 疑問に思った瞬間、「冬香お姉ちゃん!」ご主人は嬉しそうに手を振り駆け寄る。
そうだ、あまりに久しぶりなので顔を忘れていた。彼女がご主人の姉君、萌音冬香だ。
ご主人より3つ上の25歳には到底見えない。どう見ても17歳くらいだろう。
「えらいわ春香! 時間を守れるようになったのね」
冬香は頬笑む。ご主人とは真逆の、知性を感じる大人びた笑い方だった。ようやく彼女は大人なのだなと認識する。
「えへん。私も大人になったんだよ」ご主人は鼻を高くした。姉の冬花の前だからだろうか、いつもよりずいぶんと子供っぽい。
「それもあるかも知れないけれど、多分貴方のおかげね」
冬香はそう言って私の頭を撫でる。この撫で方はご主人とよく似ている。
「この前まで子猫だったのに、すっかり貫禄が出ちゃって」
「ナハトは子供扱いすると怒るよー。引っ掻かれるかも」
「怒りはしない。大人だからな」からかい口調のご主人に対しそう返した。
やれやれ。ご主人も冬香もどうも私を子供扱いする。私としては彼女たちよりずっと年上だと思っているのだが。
「春香、ご飯はちゃんと食べてるの? 何か困ってたりしない?」
「だいじょーぶ。それでお姉ちゃん、どうしたの? いつも刑事の仕事で忙しいのに」
刑事、という言葉に非日常を感じる。この街は事件という言葉からはほど遠い。
「貴方が個展を開く事を耳にして、有給を取って休んだのよ。――こういう事は事前に言ってよね」
「あはは……最近忙しくて。でもありがとう! 家でお祝いしようよ!」
ご主人は私を抱え、冬花と並び歩き出し、エレベータに乗る。
「久しぶりにお姉ちゃんと飲みたいなぁ」
「フフッ、そうね。私もそう思って今日はこれを持ってきたの」
冬香は紙袋からビンを取り出す。ラベルには筆で書き殴った様な漢字に鶴のイラスト。
間違いない、日本酒だ。ご主人はワイン派なので滅多に飲まない。
「それ苦手。辛口だし」
「私はワインが苦手よ。……春香って全部私の反対よね」
冬花はため息をついた。
「貴方の身長が羨ましいわ」
「私だって背が高いのはコンプレックスだよぉ。お姉ちゃんに20センチあげたいくらい」
どうやら二人とも身長を気にしているらしい。彼女達はクスクスと笑い合った。仲の良い姉妹、微笑ましい光景だ。
そういえば、私にも猫の兄弟はいたのだろうか? 私はご主人以外の家族を知らない。
二人の会話を耳に入れながら、後でご主人に聞いてみようと思う。少しだけ、兄弟がいることが羨ましかったのだ。
離れた所で、彼女、萌音春香を見ていた。この暗闇だ、気づかれる事は無いだろう。
もう一人の女が、何か楽しそうに会話をしている。顔が似ている事から、おそらく姉妹だろう。妹だろうか? 整った顔立をしているが、笑顔はやはり凡庸の域を出ない。彼女では駄目だ。
春香は黒猫を抱いてエレベーターに入っていく。その表情は、幸せそうにほころんでいた。
あぁ素晴らしい。本当に素晴らしい笑顔だ。あの人の様に喜びを噛みしめる様に笑う人を、彼女以外に知らない。
そう賞賛する反面、真逆の事を思う自分がいる。
では、あんな笑顔を見せる彼女は、どんな風に泣くのだろう?。叫び声は?
身体は震えるだろうか?、あの桃色の頬は、どこまで青ざめて行くのだろう。そんな好奇心が心を占める。彼女の部屋に灯りが付いたの見届けた。
楽しみだ。楽しみでしょうが無い。空を見上げると見事な満月がそこにあった。まるで、自分と彼女を祝福している様だった。
上機嫌になり、月が照らす夜道に小さくステップを刻んだ。