5話 消えないわだかまり
翌朝、珍しくご主人は私より早く起きていて、身なりの整った黄色いドレス姿で荷支度をしていた。化粧もいつもとは違いしっかりとしている。鮮やかな赤い口紅が、彼女のイメージを変える。
「ご主人、一瞬別人に見えたぞ」
そう声を掛けると彼女は珍しくむっとした表情を見せる。
「私だってたまにはちゃんとするんだから、お姉ちゃんみたいな事言わないで。私の個展が決まってレセプションパーティをやることになったの」
「なるほど、以前言っていた件だな」
彼女は以前、画家はコネクションが大事と言っていた。今日のパーティーもその一環なのだろう。
「そ。今回大きなバックは持って行けないから、キミは連れて行けないよ?」
「かまわない。個展が開いたら是非見に行こう。散歩に出かけてくる」
ご主人はクスリと笑った。「うん、夜には帰ると思うから」
そう言い終えると彼女は飛び出していった。
あの嬉しそうな表情から察するにご主人の絵が正当な評価を獲得したのだろう。ご主人はいつも自信家の様な台詞を吐いているが、それはフェイクで、実はかなり繊細だったりする。いつもの言動はきっと自分を強く見せるためだろう。この推察は、私の人間研究の成果である。
マンションを出て、公園に着くと、昨日のホームレス風の男が同じ場所のベンチに座っており、その周りには沢山の猫たちがいた。よく見るとトラもいる。私はトラに話しかける。
「トラ、この男を知っているのか? この猫の集団は?」
「これは旦那、この人はここ最近、毎朝この公園でキャットフードをくれるんです」
「私は彼を昨日初めて見た……怪しくないのか?」
疑問をぶつけると、トラは招き猫の様に目を細めた。
「とんでもない。この人は野良猫の味方ですよ。きっと、同じ野良として良くしてくれてるんですよ」
「……そういうものなのか?」
私が懸念の声を口に出したところ、
「おや、また新しい猫か……」
男は私に気づき、私の前にキャットフードを差し出す。私は首を振る。キャットフードは確かに味は悪くも無いが、良くも無い。ご主人の料理を口にしてからほとんど食べていない。
それに、トラと違い私はまだこの男を警戒していた。
「――あぁ、そうか。お前は飼い猫か。じゃあこれはあげられないな」 男は乾いた笑みを見せた。
何故私が飼い猫だと分かるのかと思ったが、私の首にはご主人手作りの首輪が付いているからだとすぐに分かった。男はベンチに置いてあったワインを一口飲むと、服のポケットから小さな紙を取り出し眺めた。先ほどの笑みは、スッと消えていた。
私は考えた。キャットフードを受け取らないのは男にも、トラにも悪い気がした。
――その時、「いらないなら出て行きな、飼い猫さん。あんたはもっと美味い飯を食ってるはずだ」
野良猫の一人が、私を鋭く睨む。灰色の毛並みの猫だ。その口調からは露骨に嫌悪感がにじみ出ていた。他の野良猫達も同じ様な目付きで私を見ている。
――忘れていたな。飼い猫と野良猫は仲が悪いことを。
「やれやれ」 私は自嘲気味に呟いた。
トラが叫ぶ。
「みんなやめろ、この方は――」
「いいんだ、トラ。こちらこそすまない。私はキャットフードが苦手で」
「旦那がグルメなのは知っていますよ。あいつらの言葉は気にしないで下さい」
「……今日はこれで失礼するよ。また会おう」
そう言って私がこの場を去るとき、トラは心底申し訳なさそうな顔をしていた。
アスファルトを歩いていると、昨日見た恋愛映画を思い出した。
映画の途中、人間の男女は言い争いをしていたのだった。"つまらない理由"で。
良くあることなのだ。人間にとっても、猫にとっても。
そう自分に言い聞かせても心のわだかまりは、消えなかった。