4話 猫の学者
「はーい、お湯かけるよ-」
シャワーが身体に当たる瞬間、私は思わずギャッという悲鳴を上げた。自慢の黒毛が一瞬で水を吸収する瞬間は、いつまでも慣れない。――しかし、
「次はシャンプーね」
泡が身体を覆う。ご主人の細い指が身体を巡り、とても心地よい感触だった。この時間は、案外悪くないものだ。
「お湯加減はどうですか?」 わざと敬語で彼女は言う。
「ああ、気持ちがいいな……眠ってしまいそうだ。美容師になれるのでは無いか?」
「あはは、それもいいかも。職に困らないね」
その後、もう一度シャワーを浴び泡を落とす。
よし、もう十分汚れは取れただろう。私は浴室から出ようとすると、尻尾を握られた。ご主人とはいえ、尻尾はあまり触れられたくは無い。
「待って、私も入るからもう少し付き合ってよ」
そう言いながら彼女は黄色い風呂桶にお湯を貯めた。桶は私専用の浴槽に様変わりする。
「むぅ……」
……仕方が無い、他ならぬご主人の頼みだ。私はその中に入る。
ご主人は浴室を出て、Tシャツとショートパンツを脱ぎ、そのまま下着に移る。戻ってきた裸体の彼女を見て、私は思わず息を飲む。
普段見る事が無い彼女の白い身体は、美しかった。長い足に手まりの様な乳房。
芸術家である彼女自身が、まるで美術品であるようだ。
ご主人は私の視線に気がつくと、くすりと笑った。「ナハトのエッチ」
私は慌てて反論する。
「わ、私は助平では無いし、人間には欲情しない、そもそもご主人が残れと言ったじゃないか!」
「はいはい。今度からムッツリナハトと呼ぼうかな~」
ご主人は軽く受け流し浴槽に浸かる。私がムキになる様を楽しんでいるのだ。
このままでは実に不名誉なあだ名を付けられてしまう。私は話題を変えることにした。
「そういえば今日公園で見知らぬ人物がいたんだが、心当たりは無いか?」
「どんな人?」
「髪、髭もボサボサで、以前テレビで特集されてたホームレスという人種に似ていたな。ご主人が好きな銘柄のワインを飲んでいたよ」
ご主人は不思議そうに首をかしげる。
「会った事ないなぁ。それにあのワインは一応高級品だよ? ホームレスの人には買えないと思うけど……」
なるほど、ご主人も知らないのか。やはり最近ここに来た者なのだろうか。次の話題に変えることにする。
「海人少年は絵が上手くなったそうだね」
「そうだね、すごく上達が早い、才能あるよ」
「それは良かった。ご主人も教え甲斐があるな」
「……だけど少し気になる事が」
ご主人の瞳が水面の様に揺れる。
「私とは作風が真逆なの。あの子は、負を描いているの」
「負?」
「うん、悲しい事、辛いこと、それを美しいと思う信念があって描いているんだろうね。それって下手をすると飲み込まれちゃうの。心配だなぁ」そう言って彼女は口元までお湯に浸かった。
「そうか……」そこで会話は途切れた。いつも笑顔を絶やさない彼にも、そしてご主人にも辛い事があるのだろう。残念ながら猫である私には理解しづらい悩みだと思う。猫と人間では感情に少しのズレがあるのだ。それはご主人も例外では無い。それでも私は理解したい。そして、いつかご主人の悲しみをすべて取り払う。それが私の目標である。
「さて、そろそろあがろうよ、のぼせちゃった」
湯船から立ち上がるご主人に、私は言った。
「ご主人。このあと、人間の勉強をしたい」
彼女は嬉しそうに笑った。私の好きな顔だ。
「偉い。君は猫の学者さんだね」
「始まり始まり~」
ご主人はソファーに座りリモコンのスイッチを押す。
私の日課の一つが、こうして映画という物を見る事である。人間にとっては娯楽らしいが、私にとっては大切な研究である。
映画は人間の喜怒哀楽の全てが詰まっていると言ってもいい。とても参考になる資料だ。
「今日は恋愛物にしてみました」ご主人はワイングラスをゆっくり回している。ああいう風にグラスを回すと味が変わるらしい。
映像では、男女が楽しそうに料理を食べている。
ふと聞いてみた。「ご主人は気になる相手はいないのか?」
「うーん……いないねぇ、私、あまり男の人で知り合いがいないんだ。柊さんは素敵だと思うけど歳が離れてるし……」
柊とは例のアデールが恋する老人である。
「アデールが今の話を聞けば嫉妬するだろうな。ご主人に噛みつくかもしれない」
「アデールってあの上品そうなワンちゃん? ニャア! 可愛い! 今度抱きしめてこよ!」
酔いが回ってきたのか、彼女の頬は紅潮している。
ご主人は現在猫語しか分からないそうだ。それを本気で悔しがって、私が反対に教える事になっている。
「でも歳がさすがに離れすぎてるしねぇ。――ナハトは私の事、どう?」
「どうって……」
「異性としてだよ」
私は目を丸くする。あまりに衝撃的で映画の音声が聞き取れなかった。
「猫と人間じゃ――」
「あはは、冗談冗談。ナハト照れてる!」ご主人は私の頭を少し乱暴に撫でる。
……これは相当酔っているな。
「からかわないでくれ」 私は前足で手を払いのける。ご主人はまた笑った。その後はしばらく映画を見続ける。映画は終わり、エンドロールが流れ始めた。
「……面白かったね」
「ああ、良い映画だ。人間の恋は素晴らしいな」
「ねえナハト。君が、人間だったら良かったのにな」
「……ご主人?」私はご主人の顔を見る。彼女の瞳は閉じていた。
「それか、私が猫なら……」
その先の言葉は聞こえなかった。
「風邪を引いてしまうよ、ご主人」
私はブランケットを彼女に被せる。彼女は酒に弱いのでこういう時は多々あるので慣れてしまった。
「私が人間だったら、か」
映画の恋人が少し、羨ましく思えた。
その夜、夢を見た。私は夢では人間だった。人間の我が手には、折れた短剣が握られていた。
背後から熱と光を感じた。振り返ると、燃えさかる洋風の城の姿があった。
呆気に取られていると、急に身体に力が抜けた。何事だと思うと、腹部からは血液が流れ出ていた。血は止まらずに、血だまりが出来ていく。私は呼吸もままならないまま、倒れ込んだ。
視界がぼやけていく。私は、死ぬのだろうか。
「……呆気ないものね」
声が聞こえた。鮮やかな天女の様な、花魁の様な着物を羽織った女の姿がいつの間にか立っていた。
「だ、誰だ……」
かすれる声で、私は問う。女は答えずに、どこか楽しそうに呟いた。
「次の開演は、相当先になりそうね」
開演……?
「何の……事だ。」
「また会いましょう。素敵なナイトさん」
そう言って女は歩いて行った。
「待て!」
私が叫んだ瞬間、夢から覚めた。手を見つめると、見慣れていた猫の手だった。
額には汗を掻いていた。手で拭う。
「やれやれこの前見た、映画の夢か? ……まさかうなされるとは」
そして私は身体を丸くし、もう一度目を閉じた。