3話 ホームレスと、少年と。
夕暮れ時になり、スカイブルータウンはオレンジ色に染まる。そろそろあの少年も帰っただろう。そろそろ帰るとしよう。マンション近くの公園にたどり着いたとき、おや、と思った。
ベンチに見知らぬ男が座っていた。よくここを通る私が知らない人物は珍しい。
彼の風貌も珍しかった。白髪交じりの髪はボサボサ。髭も伸びきっている。手にはワインのビンが握られている。あのワインは……確かご主人が好きな銘柄だったはずだ。彼は夕日を眺めながらワインを一気にあおった。
以前テレビで見た、ホームレスという人種だろうか。しかしここはスカイブルータウン。決して煌びやかでは無いが、綺麗に整えられた街だ。
裕福ではあるが、慎ましくのんびりと暮らしたい。ご主人やアデールの飼い主の様に余裕のある人物にしか住めない街のはずだ。 私も野良猫は沢山見てきたが”人間の野良”は初めて見た。
最近ここに住んだ者かもしれない。後でご主人に聞いてみよう。それよりも、毎日の楽しみである太陽が海に沈む光景を窓から眺めなくては。私は急ぎ足でマンションへ向かった。
マンションにたどり着きそのまま階段を上る。ご主人と私の部屋は最上階の10階だ。
猫は高いところが好きである。ご主人も高い所が好きだ。
これもご主人が猫だった頃の、なごりの一つだろう。
人間はほとんどエレベーターを使うのですれ違う事は滅多に無い。(たまに子供達が私に触ろうと待ち構えている時はあるが。)
少し遠くから犬――恐らく小型犬の吠える声が聞こえた。アデールとは違い、ずいぶんと高い声だ。恐らく若い犬だろう。……少しやかましいな。やはり彼女は素敵な犬だと実感する。
この街の特徴の一つが、動物が沢山住んでいる事である。
我々猫やよく見る犬だけでは無く、カラフルな鳥や蛇、噂だと狐やワニなんかもいるらしい。
やれやれ。猫を食べる動物がいないか心配だ。
そんな事を考えている内に最上階までたどり着いた。
「ご主人。今帰った。開けてくれ」
ドアの前で私は大きな声で言う。
最も、他の人間にはにゃあとしか聞こえないだろう。すぐにガチャリ、という音がしてドアが開き部屋の灯りが目に入る。
「ナハト、おかえりなさい」
「ご主人、ただい……」
そう言いかけた瞬間、思考が停止する。
「あれ、ナハトが帰ってきたんですか?」
ドアを開けたご主人の後ろにはと海人少年がひょっこりと顔を覗かせていた。
「……むぅ、まだいたのか」
私がそう言うと、ご主人は笑った。
「海人君、そろそろ晩ご飯にしようと思うんだけど、食べてく?」
「ご主人、その少年だって遅くなると……」
私はとっさに少年を家に帰す口実を言ったが、当の少年は「いいんですか? じゃあお言葉に甘えて!」と子供らしい笑顔を見せた。……普段はもっと大人びているくせに。私は少し不機嫌になり、――ハッとした。急いで窓にかけ寄る。海を見ると、夕日はとっくに沈んでいた。
私はキッと少年を睨む。
少年は「あはは、ナハトがこっち見てますよ。遊んで欲しいんですかね?」と笑った。
――今ので確信した事がある。私はこの少年が嫌いだ。
「はい、今日はマグロのステーキにしてみましたー」
ご主人は綺麗に皿を並べる。元々猫だったと言うご主人は魚料理が大好物である。(ついでに言うと酒も好物)当然、現在猫である私はもちろん好物なので冷蔵庫の中は様々な種類の魚が保存してある。
この街に住んだのも、新鮮な魚が食べられるのが理由かもしれない。
「わぁ! 美味しそうですね先生!」海人少年は目を輝かせた。
私はいつもより離れた場所で食べる。少年が嫌いなのもあるが、猫と話せる事を秘密にしたいご主人の為、今はただのペットを偽るためだ。少年は幸せそうにマグロのステーキを
頬張る。ご主人はそんな様子をフフッと笑みを浮かべて見つめていた。
「どう? 美味しい?」
「はい、とっても!」
「それは良かった」ご主人は鼻を高くし、ワイングラスに口を付ける。
「……先生が僕のお姉さんだったら良かったのに」
海人少年はぽつりと呟く。本気で望む様な表情だった。
珍しいなと思った。この少年はいつも笑顔を絶やさないはずだ。ご主人は首を振る。
「私が姉だったら大変だよ。お姉ちゃんがいるんだけど、苦労かけてるなぁ。ナハトも大変でしょ?」
いきなり話を振られたのでとりあえずにゃあと鳴いておく。肯定でも否定でも無い、曖昧な返事だ。
「それでも僕の両親よりずっと良いです。あの人達はいつも仕事ばかりしていて、家にいませんから。ご飯だっていつもコンビニ弁当ですし」
ご主人は一瞬だけ寂しそうな表情をした。すぐに頬笑む。
「……そっか。私で良かったら、お姉ちゃんになってあげる」
「本当ですか!? やったぁ!」
海人少年は心底嬉しそうに笑った。彼女の台詞は優しさか、酔いからの言葉か、私には判断できなかった。
食事が終わった後、ご主人と私は、彼を玄関で見送る事にした。
「もう遅い時間だし、送ってくのに」
「いえ、そこまではさすがに悪いです。……先生、僕の絵は上達しているでしょうか?」
「うん。凄く上手くなってる。正直驚いたよ。私が教える事はもう無いのかも」
ご主人の言葉に、海人少年はパッと笑顔を見せた。
「今日は最高の日です。さようなら先生」
少年は手を振り、ドアがゆっくりと閉まる。ご主人は振り返していた手を止め、私の方を向く。そしてニヤリと笑った。
――嫌な予感がする。
「ナハト。君ちょっと磯臭いよ。港に行っていたからかな。これはお風呂に入らなきゃだね」
予感は的中した。私にだって嫌いな物はある。その一つが風呂だ。
「い、いや遠慮させて頂こう。そもそも猫は本来お湯になど浸からなくてもいいのであって、私がいたドイツでは水道代が高いらしく……」
「君が良くても、一緒に住んでる私がダメなの。ほら行くよ、洗ってあげる」
そう言ってご主人は私を抱え、浴槽へ歩き出す。
やれやれ、今日は厄日だな。
私は心の中で呟き、大きくため息を吐いたのだった。




